終話.動的疫病
3人は俺の部屋を出て行った。
農作業をするためだ。俺の看病に無駄に力を注いで貰っても困る。
食料がなければ皆餓死してしまう。
ベッドの上で横向きに腰掛ける。
そのまま立ち上がろうとするが、左足に上手く力が入らない。
周りを見渡すと、ベッドの横にハイキング用の杖が置いてあった。
それを手に取り、杖を突いて無理やり立ち上がってみる。
すぐにきつくなり、仕方なしにベッド近くの椅子までノロノロと移動する。
その1mの距離の移動ですら痛みが走る。回復まで時間がかかりそうだ。
椅子に腰かけて窓から外を見ると、3人の姿が見えた。
畑の中でせっせと作業の準備をしている。
気付かないうちに、畑は以前より広くなっていた。見たことのない葉っぱを付けている植物も植えてある。
3人とも帽子をかぶり、軍手を付けて長袖の服を着ている。
蟻対策というよりは、日差し対策と肌寒さによるものだろう。
以前のように、滴り光る汗とそれで濡れた綺麗な髪はあまり見られそうもない。
3人とも髪が綺麗で、実はそこが個人的に気に入っていたりする。
髪質も髪色も違うが、それぞれが見ていて目に良く、肌触りがいい。
開け放たれた窓からハエが侵入してくる。最近ハエが多い。
杖を軽く振ると、直撃させることができた。少し驚いてしまう。
ハエというのは動体視力が高く、棒を振っても簡単には当たらないものなのだ。
そのハエがテーブルの上に落ちて、もがき苦しむ。
その姿をボーっと見ながら、思考は巡りはじめる。
開け放たれた窓からは涼しい風が通り抜け、パンデミックを象徴させるような夏の季節が移り変わっていくことを肌で感じ取る。
パンデミックは終わる。
蟻の中で無毒化か感染していくのなら、遠くない未来にほとんどの蟻は無害になる。
それは人類にとっての安全圏が広がることを意味し、北にいる連中もそのうち東京などに戻ってくるのだろう。
もともと自然界には猛毒を持つ生物というのは多い。
突如発生した毒蟻はその数を減らし、いずれ同じように扱われるのかもしれない。
毒蛇や毒蜘蛛、致死率の高い毒を持つ生物は、昔から世界中にいたのだ。
蟻も数さえ減れば、その脅威は減っていくはずだ。
俺達にとっての問題はその後。
俺達には蟻の毒が効かないが、俺達に触れた人間は毒に感染してしまう。
それはつまり、普通の人間の集団の中では生きて行けないということだ。
見つかれば、まず研究対象となる。近しい者を殺したくもない。
今は政府が大都市圏で蟻の無毒化を進めている段階だと思う。
ここ西東京でも、これから数日は混乱が続き、蟻が減ったことを確認して北から団体さんが来るのだろうと思う。
それでも森に囲まれたキャンプ場は、例え軍であっても進出は遅れるだろうと思う。
猶予はある。
その段階になれば見つかっても、身体的接触や検査さえされなければ問題ない。
しかしその前に、もっと山に囲まれた田舎に逃げる必要があるだろう。
その後は別の山の中で再度サバイバル生活が始まる。
蟻の毒の危険の中を自由に動けた俺は、蟻が減ったら自由に動けなくなる。
自分の特殊性があだになって返ってきた。
それでも、死ぬよりはマシだと思える。
3人が死ぬよりもずっといい。
視界の中でもがき続けるハエは、羽をばたつかせて飛ぼうと試みるが、飛べない。
その右半身は羽がとれたようで、背中部分には何もなかった。
その体からは体液がにじみ出ている。
机の横に掛けてあった俺の服に手を伸ばし、そのポケットを漁る。
中からタバコを取り出して、中身を確認する。
最期の一箱の、最後の一本。火を点けて、その白い煙を胸一杯に吸い込む。
室内は禁煙だが、動けないし最期だから許してくれと思う。
これを吸い終われば街に行ってタバコを捜し歩くしかない。
その時は、別の銘柄で我慢するしかないかもしれない。
黒川が妊娠したと言っていた。
もちろん勘違いという線も濃いが、事実かもしれない。
今回が勘違いだとしても、3人とも妊娠する気満々だった。
「禁煙、するか」
いずれタバコを手に入れることが難しくなる。
なら、これを機会に禁煙すればいい。
妊婦にはタバコの煙は良くないと聞く。本当かどうかは知らないが。
禁煙に人の生活圏からの逃亡、そしてまさかの子供。
とても先は明るいように思えない。むしろ目の前は真っ暗になってしまいそうだ。
それでも、3人とならなんとかやっていけると思う。
彼女たちは俺が守る。
俺が馬鹿な行動をしても、彼女たちが俺を守ってくれる。
それだけで、真っ暗な未来は唐突に明るく見えてしまう。
俺が多少やる気を失っても、黒川が元気づけてくれるだろう。
俺が元気をなくしても、エリシュカが馬鹿なことをして笑わせてくれるだろう。
俺が選択に迷っても、桑水流が一緒に考えてくれるだろう。
それでも俺一人の方が楽だ。なんの責任もない人生は行き易い。
しかし楽だけでは人は生きて行けない。面白くない。
もう少し面白く生きたいのなら、少しだけでも責任を持つべきなのかもしれない。
吸い切ったタバコの火を消し、残った灰を携帯灰皿に突っ込む。
その動きだけで、8日の睡眠で固くなった体は少し悲鳴を上げる。
その途中で、もう一度ハエを眺める。
思いがけないことを思いつくのは一瞬だ。
もがくハエを見ていると唐突に、ある考えが俺の中によぎった。
その考えは唐突でぶっ飛んでいて、それでいて少し思考を巡らすと現実味があった。
視界の中の根拠に、思考の中の根拠が理由づけをしていく。
全てが推測で、それでいて全てが正しいように思える。
しかしその考えが正しいのなら。
「パンデミックは、終わらない」
口に出すと、現実味を帯びてくる。
それは推測、予測、体験に基づく根拠の薄い推論だが、確信的に間違いないと思えた。
一度推測を始めると、その根拠ばかりが浮き上がる。
複数の根拠で確信を得た俺は、それを確認しようと動こうとする。
3人にも、伝える必要があった。
根拠の薄い推論を人に言うことは憚られるが、今回ばかりはそうも言っていられない。
杖を突いてもう一度立ち上がる。今度は割と上手く立てた。
俺は8日間も寝ていたのだから、体の筋肉も少し固まっている。
俺は8日間も寝ていたのだから、体力も落ちている。
しかし頭だけは妙にすっきりしている。
その長い睡眠から目覚めた前、夢を見た気がする。
その夢は、記憶にはない既視感を感じさせるような夢だったと思う。
そのまま部屋の扉へとゆっくりと移動する。
それすら億劫で、嫌になってしまう。
扉を開けて部屋の外に出る。
扉を閉める前に、もう一度部屋の中を一瞥した。
風がカーテンを揺らすその風景は、いつも通りのものだ。
その風は少しの肌寒さを感じさせ、秋風という言葉がしっくりくる。
窓の先からは、3人が元気に動き回っている様子が見えた。
季節は秋、食欲だろうが読書だろうが、ただの季節でしかないはずなのに郷愁の念だけはそれなりに感じてしまう。
その中でただ一つ、テーブルの上で蠢くハエという異物があった。
そのハエはやがて力をなくしていき、最後に一つピクリと動くと、その動きを止めた。
生物の連続性の終わり。死ぬと言う現象。
しかしその連続性は、この個体に関しては本質的には途切れていないのかもしれない。
机の上で動きを止めたハエは、間違いなく死んだ。
死んだが、その吐き出した液体は、全ての始まり。
以前にもあったであろう、始まり。
そのハエの節足部は、赤く
そのハエの吐く液体は、緑
蠢く疫病は、世界を廻る
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。




