6.観察結果
次の日の朝、俺はまだ朝日が昇り切っていない時間に目を覚ました。
いつものように準備をし、パーカー付きのブルゾンを着た。長袖では暑くて仕方ないが、目立たなくいつでも顔を隠せるほうがいいだろう。
マスクとゴム手袋を着用し、家を出た。
観察対象の家の前に着いたのは朝の7時前だった。
隣の民家には今は誰も住んでいないようだったので、鍵の開いている裏口から入らせてもらった。2階の窓から、観察対象の家がよく見える。今日は ここで過ごさせてもらうか。
対象に動きが全くない。あまりにも暇だったので、対象の家を視界に入れながら、たまたま置いてあった漫画を読む。ちょうど続きが気になっていた やつの最新刊。シリーズ全巻あるようなので、1巻から読むことにする。
対象に動きはない。今日はとにかく時間をかけてでも対象の動向を確認するつもりだ。
20巻近く読み終えたのは、昼の11時前だった。
対象に動きはない。観察を続行する。違うシリーズの漫画があるので、読むことにする。
12時になり、あらかじめ準備しておいた牛乳とあんぱんで簡単な昼食をとる。
こういう張り込みの時は、牛乳とあんぱんと決まっているのだ。まぁ配給があんぱんだっただけの話だが。しかし甘い物がそこまで好きではないの で、次があったらお茶とおにぎりにしようと思った。
対象に動きはない。
1時を過ぎたあたりで、確信してきた。
実際にこの目で確認することにする。
フードを被り、対象の家の周りを歩く。リビングの窓の鍵があいている。不用心だな。
そこから家に侵入する。
1階に寝室はないようだ。人もいない。2階に移動する。
2階には、寝室があった。
階段の手前から二つ目の部屋で、母親と例の姉妹が仲睦まし気に寝息を立てていた。父親はいないようだった。
部屋の中に入る。母親の母性と、娘達の無邪気さ、その両者の愛を感じる絵画のような光景である。少し生活感が強すぎるが。
慎重に近づき、母親の頬を軽くたたく。反応はない。妹の方にも試してみる。
反応はない。
姉の方を軽くはたこうとした時、母親が急に動いた。
ビックリして軽く伸ばした手を引っ込める。
急に手を動かしたので、ベッドのヘッドボード付近に手を打ちつけてしまう。
指先が少し切れ、血がにじむ。
その指を口に含みながら数歩下がる。
母親はどう見ても寝ている。
どうやら長時間の睡眠中でも、寝相で動くことはあるみたいだ。
ビックリさせんな、と心の中で悪態をつく。
そういえば、一週間以上動かないのに水分とか大丈夫なのか? どうでもいいけど。
もう一度近寄り、姉の方の頬を軽く触る。
起きる気配はない。頬は柔らかい。
意味もなく唇も触ってみた。すごいカサカサだ。水分大丈夫か?
周囲を見回すと、女性特有の色や匂い、化粧品などがある。ここは母親の部屋みたいだ。
机の上には手帳のようなものがあった。パラパラと流し読みする。
「妹がまなみちゃんで、姉がまゆみちゃん、母親の方は真紀さんっていうのね」
田舎にいる親戚とは連絡がとれないだの、父親は遠くに単身赴任中だっただの、娘が可愛すぎるだのと書いてある。
印象的だった文章は、
「娘だけは私が守る、か」
もう一度親子の顔を見る。
何か言おうかと思ったが、言葉など何も出てこなかった。
そして俺は、全く目を覚ます様子のない親子に自分の考えに確信を得て、家を出た。
隣の家に向かい、侵入。親子が寝ている部屋の窓を直接見れる部屋に行き、漫画の続きを読むことにする。
結局俺は、夕方6時まで観察を続け、自宅に帰った。
脱いだ上着を乱暴にベッドの上に放り投げ、タバコつけて椅子に座る。
今日は他人の家で痕跡を残し過ぎる事を嫌がり、タバコを我慢していた。
十数時間ぶりのタバコの味に満足し、今日の観察結果について考える。
あの親子が感染したことは確定。疑う余地もないだろう。
感染源は俺。これもほぼ間違いないだろう。たまたま俺と触れた次の日に、なんてことは考えるに値しない。
一つ懸念があるとすれば、あの親子が俺と同じ状態になった可能性があるということだ。
つまり、長時間の睡眠から目覚めたら、それ以降の症状が現れないパターン。
これは、確認にはおそらく一週間近くかかるだろう。その間にあの親子が他の奴に見つかる可能性も高いと思う。住宅街には他にも数世帯が居住して いるようだった。この状況では、連絡も取りあっていることだろう。
つまるところ、今日の観察でわかったことは一つだけ。
俺と身体的接触した人間は、次に寝た時から長時間目覚めないという事だけ。なんか犯罪に使えそうな能力だな。
タバコの火を消し、立ち上がって体を伸ばす。
直近で、やることなどなくなってしまった。
「やることないし、あのキャンプ場にでも行くか」
自宅でダラダラするだけの日々にも飽きてしまった。それなら、明日からは体力や燃料があるうちにキャンプ場の生活基盤でも整えようと思う。不安 はあるが、キャンプ場暮らしがきつかったら帰ってくればいい。
あの親子については、一週間くらいしたら確認に戻ればいいだけの話だ。
明日からは肉体労働の毎日の予定だ。今日はもう寝てしまおう。
「おやすみ、っと」
俺しかいない部屋の暗闇へと、俺の声は空しく吸い込まれていった。
俺って最近独り言、多いかもな……。
…………
翌朝、車でキャンプ場へと向かう。
ガソリンはまだ大丈夫。燃費のいい車ではないが、燃料を節約していたおかげで割と余裕がある。。
キャンプ場の駐車場に車を止め、ログハウスまでは歩くことにする。運動不足ってわけでもないが、ガソリンは節約したい。
途中の管理所に寄って、隠してある鍵をとりに行く。
鍵をとったら、ひとまずログハウスに向かうか。今日は以前運び込んだ荷物の確認とかに時間をとられそうだ。
使い方すら知らない工具がたくさんある。
水や電気の経路なんかも確認した方がいい。やることが山積みだ。
そんなことを考えながら、管理所のドアを開けようと、ノブに手をかける。
「…………」
人の、気配がする。
具体的に言うと、少し人の寝息のような規則的な音が聞こえる。
ドアの前の地面に、前にはなかった足跡がある気がする。以前をよく覚えていないが。
ドアの窓から中を覗き込む。
少し大きめのバッグが、玄関近くに無造作に置いてある。
現状俺は、何一つ怪しいところなどない一般人のはずである。
誰かに見つかったところで堂々として入れいい。
とは考えたものの、なんとなく俺は慎重になっていた。
音を立てずにドアを開け、忍び足で建物に入り込む。
バッグの確認は後回しにする。
慎重に寝息の音に聞こえる方向に近づいていく。
「仮眠室」と書かれたドアの前で立ち止まる。
ここから聞こえる。確かに寝てるならやっぱり仮眠室だよな。
鍵はかかっていない。
ゆっくりとドアを開ける。
そこには女性が、上布団もかけずに寝ていた。
見たところ、というか制服を着ているので女子中高生である。
制服はやや着崩してあり、手袋などはつけたままだ。
長い距離をここまで歩いて、疲れ果ててすぐに寝ちゃいましたって感じだ。
髪はなんと金髪である。ギャルである。化粧とかはそこまで濃くはないが。
ゆるくウェーブのかかった長めの髪を、頭の後ろやや上でまとめてある。多分ポニテだ。ポニテにも種類があるらしいので、詳しいことは専門家に聞 かないとわからない。
多分、キャンプ場に近いところ(車で20分ぐらい)にある女子高の制服だと思う。
仕事の帰り道によく遭遇した、コンビニや飯屋でたむろってギャーギャー騒いでいた連中がこんな制服だった。
大方、実家が全滅したとか、喧嘩したとかでこんなとこに来てしまったとかだろう。じゃなきゃ「蟻」のたくさんいる山の中には来ない。
もしくは、ただの馬鹿か。
大穴は、俺と同じ耐性持ちってパターン。あり得ないと思うが。
少し、対応を迷う。
優しい大人の対応で諭し、ここを追い出すか。
勝手にいなくなるか、「蟻」にやられるまで放置するか。
ひとまず、バッグをあさってから決めることにした。
ドアをゆっくりと閉め、建物の入り口まで戻る。
女性のバッグだが、特に迷いもせずに開けた。
あるのは、服、下着、化粧道具、ゴム手袋その他。
このご時世で化粧道具を大事に持ち歩くあたり、頭の中が思いやられる。
いや、知りもしない女子高生に求めることでもないが。
黒川由紀。
高校2年生。
住所は俺の家から歩いて10分ぐらいのところ。
生徒手帳があったので、確認させてもらった。
やはり思っていた通りの学校に通っていたようだ。
携帯や財布などは入っていない。先ほどの仮眠室の中はよく見ていなかったので、そちらにあるのだろう。女子高生が携帯を持っていないはずがな い。
確認したところで、特に意味のない情報だけだった。
食料や水を持ち歩いていないので、すぐにでも町まで戻るだろう。
キャンプ場には化粧道具もないしな。
と、バッグの底に一枚の写真があるのを発見した。
おそらくあの女性の小さい頃の写真。
パパとママと愛犬のゴールデンレトリーバーと一緒で幸せです! みたいな写真だった。
ただ、ママと思われる女性とパパと思われる男性の顔が黒ペンで塗りつぶしてある。なんか怖いっつーの。
ってかこのゴールデンレトリーバーはちょっと可愛すぎないか……?
なんて考えていた時、俺は犬の写真に集中しすぎて、背後から近づいていた存在に気付かなかった。
「…………誰よ? あんた。ってか人の持ち物に何してんの?」
背後から急に声をかけられ、思考と動きが止まる。息まで止まりそうだった。
自分の焦りと狼狽を押し殺し、後ろを振り返った。
当然いうか、先程の女が廊下の真ん中で両手を組み、仁王立ちしながらこちらを睨みつけていた。
怒ってます! というオーラがにじみ溢れている。
「……起きたのか? 俺はこの辺に住んでるもんだ。知らない顔が仮眠室で寝ていたので、びっくりしたよ」
「……。で、そのバッグは?」
「これは……すまん。名前とか住所とか、確認させてもらった。勝手に開けたことは謝る」
適当に取り繕う。焦りで少し早口になっていたように感じる。まぁ、やってることを考えたら、変質者とかそれ系の人だからな。
「その下着とか、いったいなんのつもりよ?」
自分の周囲を見てみる。女性物の下着や服が転がっている。
バッグに入っていた下着などは横にポイしていたが、女性からしたら知らない男に下着を触られたのは一目瞭然。
「いや、俺は身分証とかをな……」
「変態!!!」
バチッと大きな音が鳴った。目の前に星が出現したように感じた。
一瞬で距離を詰められ、そして目に求めらぬスピードのビンタだった。
ゴム手袋はつけたままのビンタだったので、感触が気持ち悪かった。
殺してやろうかと思ったが、悪いのは俺なのでやり返さない。
ここは素直に謝っておく。
「悪い。ほんとにそういうつもりじゃなかったんだよ。」
「返して!!」
と、持っていたバッグと写真をひったくられた。落ちてる下着が先じゃね?
暴れられたり、大声をあげられるのも面倒なので、仕方なく両手をあげ、降参のポーズをとる。
「さっきも言ったが、俺はこの付近のものだ。悪いのは俺だが、この管理所は一応市の建物だ。勝手に入って寝てた自分も悪いだろ?」
自分のことを棚に上げ、相手の痛いところを突いてみる。
「それは……! そうだけど……」
猜疑心の塊が透けて見える。目が口ほどにものを言っている。
そのくらい目に敵意を感じた。
一応悪いところを認めるところは意外に素直だ。
こちらの方が明らかに悪いのにな。
「こっちも謝っている。悪気なんてなかったが、女性のものを勝手に触るのはまずかったよ。だから、ひとまずは水に流してくれないか?」
「……」
「いやマジで。ほんとに悪かったって」
そう言って数歩さがる。
すると、女はこちらを一度にらむと、警戒した表情のまま下着などをバッグに入れだした。
「とりあえず、俺は表にいる。終わったら出てきてくれ」
そう言い残し、建物から外へ出た。
後ろ手でドアをしめ、思わず長い溜息が出た。
面倒なことになったな……。