59.暴走車両
足の痛みは、とても我慢が続くようなものではなかった。
桑水流はこれを我慢したのかと思うと、彼女の事を尊敬できるほどに。
しかし今直面している問題は、それとは全く別のことだ。
軍人は銃口を俺に向けたまま接近し、ついにその距離は1m程度になる。
突然男の足が急に消えたように見える。咄嗟に左手で頭部を守る。
同時に、その腕と顔に衝撃が走る。
わけも分からず昏倒するが、自分が激しく蹴りを入れられたことだけは理解できた。
自分の肺の中の空気が全て吐き出され、腕は打撲したような局地的な痛みを訴える。
額からも、血が流れていた。そちらはあまり痛くはなかった。
地面に着いた手に、ハエの死骸が付着していた。ただ感触が気持ちが悪い。
見ると、軍人はコンバットブーツのようなものを履いていた。
それは随分堅そうで、その光景を視界に入れると痛みがさらに強くなって錯覚に陥る。
軍人は1人だ。
恐らくもう1人は俺が嗾けた3人の女の相手をしているのだろう。
殺したか、尋問中か、どちらにせよその末路は俺と同じものになりそうだった。
打てる手立ては思いつかない。
隙を見つけて逃げるなんて不可能だ。隙なんてないし、この足で逃げ切れるわけがない。
あるとすれば、軍人が何かに気をとられてその隙に懐の銃を撃つくらいだ。つまり運任せ。
銃の射撃に自信があるわけでもない。
「お前の他に、仲間はいるか」
「……いない」
軍人が低い声で質問してきた。嘘をついたら殺すという雰囲気を感じる。
全身の痛みを堪えて、震えるようになんとか声を出す。
実際に近くに仲間はいない。黒川達はキャンプ場だ。
近くに俺を助けるような仲間がいるかどうかを聞いたのだろうから、この回答で問題はないはずだ。
軍人は再度銃をこちらに向けると、少し俺の事を観察し始めた。
俺が嘘を言っているかどうか考えているのだろうか。
なんだかんだで、街では単独行動をする人が多い。嘘だとは断定し難いはずだ。
軍人はこういう時、何も言わずにサッと殺すと思っていた。
よく考えれば軍人も人で、少し前まではただの民間人だったはずだ。
命令もなしに簡単に人は殺さないのかもしれない。
銃で撃たれなくても、出血でそのうち死にそうではあったが。
軍人はそのまま無線機のようなものを取り出し、誰かと喋り始めた。
銃は向けられているため、その姿に隙は見当たらない。喋る内容もよく聞き取れない。
目の前の軍人に集中できない程、俺は自分の体の痛みに参っていた。
研究者の言っていたこと。
生きた感染者の血を接種させることで、蟻は毒を出さなくなると言う事。
本当だとしたら、時間を掛けて東京も安全になっていくのかもしれない。
それは局地的と言えども、このパンデミックは終わりに近づいているのかもしれない。
その時は、感染しながら生き続ける俺のような人間はどうするのだろうか。
既に感染している黒川と桑水流はどうにかしてやりたいとは思うが。
パンデミックは終わる。
これから安全になっていくだろうと言うのに、俺はその目前でリタイアとなりそうだった。
恐らくキャンプ場に籠っていれば、何もせずに毒を吐き出す蟻はいなくなる。
ここで逃げ切れれば、それこそ平和な毎日が待っているのだろう。
平和な毎日。
ここ最近の、キャンプ場での生活も十分平和な毎日だった気がする。
3人のデートに付き合って、釣りをして、食料を集めて。
最近は以前のオッサンのように外敵が来ることもなくなっていた。
考え事をしている間に、軍人は通信を終えたようだった。
本当は応急処置でもして待っていたかったが、動くなと言われてそれすらできない。
左足からは血が流れ出し、止まる様子がない。
軍人が俺に向けて正確に銃口を照準した。
殺される。
俺が研究者から聞いた話などに関して、少しは尋問があると思っていた。
よく考えれば、殺せばそんなものも必要なくなるのだろう。
「……殺すのか」
「……」
話しかけてみたが、軍人は何も答えなかった。
もはや話すらできないようだった。
余計な話をして獲物の前で舌なめずりするような3流でもないみたいだ。
ここまで来ると、自分の中に諦観のような感覚が押し寄せてくる。
一度死んだはずの人生だ。
それなりに幸せだったし、これで終わりでもしょうがない気がする。
しかし今回は死ぬ前に旨い物を食べることもできなかった。
どうせ殺すのなら、やり残しを消化する猶予を与えて欲しい。やり残しなんてないが。
絶対的に不利な状況で、俺より強く武器も所持している軍人に歯向うこともできない。
冷静な奴ほど、そうだと思う。そもそも方法が思いつかないのだ。
男の指に力が入ったように見えた。
俺は状況を冷静に分析した結果、その死を享受していた。
愛須唯に言われたように、ついに俺にも死刑執行だ。何人もの人を殺した末路だ。
あと少しで、銃声が響いて俺の頭は吹っ飛ぶのだろう。
俺はそのことを享受したはずだった。
唐突に、3人の顔が脳裏に浮かんだ。
俺が死ねば、黒川と桑水流も死ぬ。そうなれば、エリシュカは一人ぼっちだ。
俺にはやり残したことがあった。
一度思い浮かぶと、それは頭から離れなくなってしまう。
3人は俺の事が好きだと言っていた。既にそのことを疑うこと余地はない。
俺が死んだら、3人は泣くかもしれない。悲しむかもしれない。
気付くと、俺は自分の事より彼女たちの事ばかりを心配していた。
俺は彼女たちの責任をとると言った。
責任と言う言葉は嫌いだ。使えば、自分はそれをしないといけないような気になってしまう。
死ぬ間際だと言うのに彼女たちの事ばかり考えている。
あんなに可愛い3人が、死ぬことだけは嫌だった。それは俺にとっての最大の不幸だ。
どうにかして、彼女たちを救いたい。それには、自分が生き残るしかなかった。
銃口から弾が出る瞬間が来る。
軍人の指がトリガーを引いたその瞬間。
その瞬間を狙って、上半身を思いっきり横に動かした。
予備動作もせずに動いたためか、腰と左足が悲鳴を上げる。
その場に銃声が響いた。
軍人が眉を少し上げて驚いた風な表情をしている。
背後を見ると、建物の壁に銃痕が残っていた。
どうやら俺は、寸でのところで銃弾を避けたようだった。
しかし軍人は全く慌てていなかった。
俺が地面に伏してのろのろと上半身を上げるのを見て、ゆっくりと正確に再度銃口を俺に向けようと銃を両手でホールドした。
すぐにもう一度撃たれるのだろう。
もう一度撃たれたら、さっきと同じように避けてやろうと思う。
既に俺の体は満身創痍で、2回も3回もできるようなことではない。
それでも、なんとか避けてやろうと思う。
軍人の驚いた表情は割とダサかった。もう一度同じ顔をさせてやろうと思う。
「……下手くそだな」
「……黙れ」
イタチの最後っ屁というのは、こういうのを言うのだろう。
それでも軍人の表情が少し歪んだことに、小さな笑い声を漏らす。
もちろん大した意味があるわけではなかった。
軍人の持つ銃の銃口は、完全に俺に照準された。
体を動かそうと小さく予備動作をとろうとするが、それすらできなかった。左足の感覚がなくなっていた。
次は、避けられない。
それでも目はつぶらない。
最期まで足掻いてやろうと男の持つ銃を見つめる。
チャンスがあれば、逃げ切ってやろうと。
その時、唐突に軍人が銃口を少し下げた。
そのまま周囲を軽く見渡し始め、俺を油断なく視界に収めながら耳を澄まし始めた。
それは俺が何かをできるようなチャンスにもなっていなかったが、何かあったのかと自分も耳を澄ましてみる。
小さく聞こえてきたそれは、遠くない距離で走行していると思われる自動車の駆動音だった。
誰かが近くまで来ている。
確かに自動車自体珍しいほどではない。ここが大通りである以上、車だって通る。
よくよく考えれば、軍は隠密行動の最中のはずだ。
追いかけられて大通りまで来てしまっていたが、それが功を奏したかもしれない。
人前で人殺しをする隠密行動なんて、あり得ない。
それに、多数のビルに囲まれたこの場所なら誰かに見られていてもおかしくはないのだ。
俺の予想通り、軍人はどうするかを決めかね少し逡巡していた。
助かるかもしれない。
そう思えたのは一瞬だけ。
軍人はすぐにまたもや銃口を俺に向けてきた。
誰かに見つかる前に殺しておこうということだろうか。
再び体に力を入れるが、やはり上手く動いてくれるようには思えない。
しかし、どう考えても、自動車の駆動音はこちらに近づいていた。
というか既に大通りの先、視界の中で小さくその姿が見えている。
さらに言えば、その自動車は様子がおかしかった。
どれほどアクセルを踏んでいるのか、そのスピードが速すぎる。
街中だと言うのに目測で140km/h程度は出ていそうだった。
俺はポカンとその車を見つめる。
軍人もそのスピードに驚いたようで、その車を警戒して腰を落とす。
見覚えのある車だった。
というか、その車高や外見はわかりやすい。見間違えようがない。
まず間違いなく俺の愛車だった。
少年がロボットと友情をはぐくんで、ロボットが命令を無視してその少年を危機から助けるなんて映画がよくある。
俺はその映画を思い出していた。
愛車が俺を助けに来てくれた。毎週洗車した甲斐があった。
俺は集中できない頭でそんなことを考えていた。
しかし車が近づくと、否応なしにその運転手が見えてしまう。
あまり信じたくない光景だったが、それでも運転手が誰かすぐにわかってしまう。
俺は心の中で頭を抱えた。
運転手はエリシュカだった。
そして当然のように、後部座席に座る、他の2人の顔も見えていた。
自動車は高速で俺と軍人の居る場所に近づく。
軍人が自動車に向けて銃を構えた。
エリシュカ達が、殺されてしまう。
思いつきで足元に置いてあった植木鉢を投げようとするが、それでは重くて投げても間に合いそうにない。
咄嗟に植木鉢の中の土を握りしめ、軍人の顔面に向けて投げつける。
軍人は土がかかる前にそれに気づいて、片手で顔面を覆ってガードした。
銃口は車からは外れていた。
その短い時間で、車は歩道に乗り上げてそのまま突っ込んできた。甲高いブレーキ音がその場に響き渡る。
しかしその車はブレーキが遅かったのか、壁に寄りかかる俺と、車道に向けて横っ飛びをした軍人の間を通り過ぎて行った。
10m先でようやく停止して、そのドアが開かれ中の人が飛び出してくる。
「助けに来たのじゃ!」
エリシュカは地面に降り立つや否や、そう言い放った。
他の2人もすぐに車内から飛び出してきた。
その光景は、確かにヒーローみたいで凄くかっこいいとは思う。
それは普通、男の役だと言いたくなる程に。
それでも、俺は内心頭を抱えた。




