58.毒性遺伝
男の表情は読めない。
俺は男から見えない背後で銃をかまえている。だから当然だ。
男の呼吸の音は大きく、その吐息で命の危険に緊張していることが伝わってくる。
それでも男は命乞いなどをしてこない。
殺さないでくれ、などと言う懇願でどうにかなる段階はとうの昔に過ぎていた。
それは俺と男の関係という意味ではなく、この危険地帯の状況によるものだ。
男は恐らく研究者、それもこのパンデミックの状況に関わる研究者のはずだ。
だとしたら、北での事件や今回の不可解な救援物資についてもある程度の情報は持っているはずだ。
危険地帯は、その言葉の通り危険なのである。
中に居る人間よりも、外にいる人間にとって、その印象も強くなりがちだ。
だとすると、ここは危険な地域に住む少し危険な人物として尋問した方がいいだろう。
まず聞くことはこいつが何者かということだ。
「なあ」
「……?」
「お互い初めてだろ? 自己紹介してくれよ」
銃で後頭部を小突く。男はもはや何度目かわからない吐息を吐き出す。
当然俺は自己紹介しない。
なんだか最近悪役らしい振る舞いが板についてきた気がする。
「……し、城田敬太郎、医者、です」
男は俺の問いに姓名と職業を答えた。
話が早そうで助かる。頭が回らない奴が自己紹介をすると、どうでもいい情報を垂れ流したり逡巡を重ねて人をイラつかせる。
「そうか。俺は田中君だ、宜しくな」
「は、はい」
こちらは偽名だと暗に匂わせる。
それと、こいつは医者だと名乗った。
医者だと名乗れば相手が手を緩めると思っているのだろうか。
嘘を言っているような雰囲気はない。医者は大きく分けて2種類あることは知っているし、この男が臨床医という出立でもない。
「で、研究医の城田さんよ」
「は、はい」
「まずはこの街にいる目的、答えろ」
元からこの街にいたという線はなくはない。
しかし軍人とは仲間のような雰囲気だったし、白衣を着てビルに住む生き残りなんていない。
ここに何かの研究で軍と来たとすれば、最もわかりやすい。
「……ひ、人の蟻に対する影響の研究で、自衛隊に同行してます」
「……」
この男が北から来たことは確定だ。
自衛隊と言う表現を久しぶりに聞いた気がする。俺からすれば侵略してくる軍のようなものだ。他国からしたら日本の自衛隊は自衛隊とは呼べないのだ。
それより人の蟻に対する影響と言っていた。逆ではないのかと疑問に思う。
「具体的に説明しろ。北ではワクチンはできていないのか」
「あ、あ、その、ワクチンはできていません……」
男はあっさりと聞きたい情報の一つを暴露した。
予想はしていた。確信もしていた。放送が嘘であることもわかった。
北に行った人間は政府に嵌められ、死んだことが確定した。
「だろうな」
「は、はい? と、とにかく、ワクチンは不可能なんです。生ワクチンはとても無理で、トキソイドは一定の……」
「難しい話はいい。で、蟻への影響とは何だ」
男の話が小難しくなり専門用語も出てきたので仕方なく遮る。
聞いても意味はないし、時間も惜しい。
ただ、ワクチンが不可能と断言されたのは意外だった。理由でもあるのかもしれないが、聞いても理解できる自信がない。
男は少し顔を下げて黙り込む。
喋りたくない内容なのだろうか。重要度の高い内容なのだろうか。
危険地帯の人間にとって、ワクチンがない事より重要な情報は考え難い。
「ほら、言えよ」
「……う」
周囲を見渡すと、ちょうどナイフが落ちていたので拾い上げる。
そのナイフを男の首筋に押し当てる。
男は今、きっとナイフの冷たい感触を楽しんでいる事だろう。
ナイフと言っても、食事の際に使用するものだ。実際は切れ味など皆無だ。
ここまで引っ張っておいて、大したことのない内容だったらどうしようかと思う。
殺意くらいは感じるかもしれないが、殺しはしない。
「……さ、最新の研究で、蟻は」
「……」
「生きた感染者の血液を接種すると、その体内で毒素を無害にする事がわかったんです……」
……。
言われたことが、上手く理解できない。
「……すまん、もう一度言ってくれ」
「……あ、蟻は、生きた感染者の血液を接種すると、無害になるんです……」
「……」
脳内がその男の言葉を咀嚼し終えると、一瞬だけ思考が停止する。
その一瞬の後は、途端に思考が回りだした。
目の前にいるはずの男が、やけに遠く感じる。
その男が、言ってしまったと下を向いて震えている事すら、どうでもいいと感じる。
神山から聞いた北での出来事、政府の嘘の放送、救援物資。
感染しなかったエリシュカ、テント内での複数人の出血、蟻が血液にたかる光景。
横山の言葉、毒と血液の関係。
それら全てが、この男の回答で説明できていた。
嘘のような雰囲気は一切感じない。核心をついているような印象もある。
北での出来事を考えると、政府には蟻の無毒化により安全圏を広げる意図があると推測できた。
普通なら北海道だけでなく、東北も安全地帯にしたいと思うはずだ。
蟻の無毒化によってそれは可能かもしれない。
だとすると、コストパフォーマンスを考えると釣り合いが取れていないように思う。
対象が蟻一匹の足し算などとは思えない。
そんなゆっくり蟻を無害化しても大した意味はない。
「無毒化はその個体だけか……?」
「……一匹が無害になると、時間をかけて巣全体に……」
この回答で釣り合いはとれた。
蟻の巣単位で無害になると考えると、巣からさらに他の巣に飛び火することも期待できるかもしれない。
自然に口から息が漏れてしまう。
溜息とも違う、驚きと確信を得た時に出てしまう何か。
この男は重要な情報を持っていた。重要な人物と言っていい。
だとすると、先程の軍人はやっきになってこの男を探しているかもしれない。
すぐに逃げるべきだと一瞬考えてしまうが、それはできなかった。
重要な情報は、まだ引き出せるはずだ。
「……もう一度聞く。この場所に来た目的はなんだ」
「……それは」
「言えよ」
聞かなくても想像はついていた。
俺は反乱分子の抑制として人口の多い東京が狙われることは考えていた。
実際は、血を撒くための、人柱。
男は口をつぐむ。
自分に銃口を突きつけている男を殺すことが目的など、言えないのだろう。
そうだとしたら、殺されても文句は言えないと思う。
「質問を変える。あの怪しい救援物資は何だ」
「……」
背後からでも、男の顔から血の気が引いていくのがわかる。
あの物資も、その目的の前段階の何か。
例えば食料に蟻の毒が混入しているとか、そんなところだ。
男の沈黙は、俺の想像を確信に近い物に変えていく。
聞きたいことはたくさんあると思っていたが、その全てが脳内で雲散霧消してしまう。
少し時間をかけて考えたいとすら思う。
自然とナイフを持つ手は力を失い、だらりと垂れさがってしまう。
銃を持つ手だけは、なんとか男の後頭部に向け続ける。
青森付近は既に安全になりかけているのだろうか。
これから東京でも血が流れるとすると、いずれ時間を掛けて東京も局地的に安全地帯となるのだろうか。
その前にまた内乱のような形で東京は荒れるのだろうか。
キャンプ場に居れば巻き込まれずに問題はないと思うが。
「これから、軍が東京に来るのか」
「そ、それは知りません! それに、争わせる方が……あっ」
男が口を滑らせたような格好になる。
民衆同士を争わせるというのは神山の情報で予測していたが、軍を出さずに民衆同士を争わせる方がいいという何か理由でもあるのかもしれない。
「民衆同士を争わせる理由でも、あるのか」
「そ、それは」
男がまたもや言えないとでも言いたげな雰囲気になる。
もう何度目かも忘れたが、また何か情報が出てくるのだろうか。
ナイフを持つ手をもう一度振り上げ、男の首筋に突きつける。
銃はもう必要はないだろう。
そう考え、銃を懐にしまう。
殺意などはない。こちらの様子を見る事のできない男に対して、作業のように尋問を繰り返す。
「言えよ」
「も、もう勘弁してくれ……」
男が泣きそうな声を出す。
ここで勘弁したところで、こちらにメリットなどあるわけもない。
尋問を続行しようとナイフを持つ手に力を込める。
その時、視界の端に光を反射させる何かが映った。
その光源が何かと確認するために顔を上げると同時に、まずいと思った。
光源は怪しかった。顔を上げずに、気付かないフリで眼球の動きのみで確認すべきだった。
怪しいという根拠はない。
それでも、自分が間違った対処をしたという認識だけで、体は勝手に動いた。
無理な体勢から体を横っ飛びさせる。
この行動に意味はあるのか、それすら判然としない。
しかし、もしその光源が軍人だとしたら。
尋問の時間はそれほど経過してはいない。
それでも相手がプロならば、この男、城田を探し当てる方法を持っているかもしれない。
既にこの場所は補足され、俺は銃で狙われているかもしない。
そんな瞬時の判断での横っ飛びだったが、別に何も起こらなかった。
映画のように横っ飛びで銃弾を避ける事なんてなかった。
俺は何も起こらない状況で華麗に横っ飛びをしていた。
「な、何を……?」
城田が不思議そうに、床に転がる俺を見てきた。
顔を見られた上に、かっこ悪い上に、その城田の不思議そうな表情にムカついた。
危ないと思って咄嗟に動いたが、何も起きなかった。
城田を無視しつつ、一応周囲を気にしながらゆっくりと腰を上げる。
周囲を警戒して横っ飛びしたんです、とでも言い訳をするように。
何もなかったことに安堵すると同時に、自分の突然の奇行にしか見えない動きが少し恥ずかしくなってきた。
そう思ったところで。
窓の外から人の動く音が聞こえた。
瞬時に目をやると、銃を持った軍人がこの部屋に突入しようとしていた。
その迫力のある光景に、俺の思考は停止する。
それでも、これまで危険地帯で生き残ってきた経験のおかげだろうか。
俺の体は勝手に動いてくれた。
瞬時に立ち上がり、少し頭を低くして走り出す。
窓は案外固く、それに軍人は少し手間取っていた。
城田がいるせいか、軍人は室内に向けて銃を撃ってこなかった。
軍人が突入してきている場所とは反対側の裏口に走り、ドアを乱暴に開ける。
全速力でその場を離れる。
脳内に逃亡方法を考える思考と焦り、そして少しの恐怖が駆け巡る。
軍人の仲間に接触すること自体、やはり俺の選択ミスだった。
後悔する時間すらなく、とにかく道を適当に曲がって走り続ける。
走力にはそれなりに自信はあった。
城田を人質にする方法もあったかもしれないが、恐らく不可能だ。
蛇行することで、逃げ切れる可能性は少しはあると思っていた。
調子に乗っていたとは思わない。
ただ、今回は危ないとわかっていながらその橋を渡るしか選択できなかった。
事実、これまでにない有益な情報は手に入れていた。
いつの間にか俺は、手に持っていたナイフを手放していた。しかしそれを持っていたところでどうしようもない。
聞こえるのは俺の激しい息の音と、地面を蹴る音だけ。
しかしすぐに俺の耳には激しい銃声が一つ、響いた。
同時に、左足が吹っ飛んだような感覚を覚える。
俺は何故かわからないままその左足からバランスを崩した。
バランスを立て直そうとしたところで、左足の感覚がおかしいことに気付く。
そしてあっけなく、転倒した。
アスファルトの上を転がりながらその左足を見ると、激しい勢いで血液が流れ出していた。
その光景を視界に収めると同時に、激しい痛みが襲ってきた。
自分が銃で撃たれたと理解する。
「……!」
なんとか声を出すのを堪える。
その左足に走る激しい痛みは、腕をナイフで切られた時とは比べることのできないレベルのものだった。
しかし俺のその忍耐は意味がないようだった。
視線を上げると、隙のない姿勢で銃を構えた軍人が、俺のすぐ近くまで迫っていた。
距離はあったと思っていたが、いつの間にか詰められていた。
銃口はきっちりと俺に向いている。
そして俺は動けない。
(あ、これは死んだわ)
そう思った。
相手は軍人だ。そして俺は動けない。左足の感覚がない。武器は懐の銃のみ。
俺の中の冷静な部分が、君はもうすぐ死にますよと告げていた。
周囲を見渡すと、俺はいつの間にか街の大通りに出ていたようだった。
抵抗は無理だと理解させられたような感覚がある。
俺はその感覚通りに、抵抗の意思がないと表現するかのように相手を静かに見据えた。
軍人はそんな俺を見て、接近する速度を緩めて油断なくこちらに銃口を向け近づいてきた。
俺は激痛をこらえながら、それを見上げる事しかできない。
「動くな。何もするな」
軍人は短く、低い声でそう言った。
俺はその言葉に頷きそうになるのを、なんとか堪えた。




