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50.危険水域

 桑水流が触れと言ったから。どこをとは聞いていない。

 などとは言えるわけがない。

 やったわ。私白沼さんのこと怖くない。

 などと桑水流が言うはずもない。桑水流はそこまで単純馬鹿ではない。


 一応、桑水流の体の震えは収まっていた。

 行動の目的は成功したと言っていいのかもしれない。

 その代償に俺の株は暴落し、今や株式市場では投げ売りで誰も欲しがらない。


 桑水流は呆然としている。

 何が起こったのかわからない、といった様子だ。

 俺も言うべき言葉がなく、手を離すと逆に気まずい時間が訪れる気がするので、とりあえず手を忙しく動かし続けている。


「あの、何故胸を……?」

「……」


 桑水流が呆然としたまま、俺の手を振り払うこともなく聞いてきた。

 桑水流の胸を触った理由は、桑水流の怯えを取り除くためだ。それは確かだ。

 しかしそれを言うと、俺は適当な大義名分の元に女性の胸を触る変態になってしまう。

 それなら普通に胸が触りたくなったからとでも言った方がましだ。どっちもマトモな人間のすることではないが。


「なんとなくだな」

「……なんとなく、ですか」


 なんとなくで傷ついている女性の胸を触る、殺人鬼の変態が俺だ。

 俺の行動の馬鹿さは満貫どころの話ではなく、後少しで三倍満くらいにはなりそうだった。


 しかしようやく会話が出てきたので、忙しなく動いていた手を休ませるいいタイミングになった。

 桑水流の胸から手を離し、ひとまず手持無沙汰なので桑水流の差し出していた手に触れてみる。

 桑水流の手はもう震えていなかった。


「……白沼さん、私の胸好きですね」

「……」

「……私、真面目なんですよ」


 桑水流は小さな声でそう呟いた。

 その声に元気はなく、桑水流は下を向いてしまった。垂れ下がった髪で表情すら読めない。

 わかるのは、意気消沈していることだけだ。

 怒られたり、泣かれたり、幻滅されることは予想していた。

 しかしここまで元気を失った声を出されると、胸が痛くなる。

 流石に俺の心は申し訳なさでいっぱいになっていた。


 自分の手を桑水流の手から離す。

 行き場をなくした手は、以前のように桑水流の涙を拭くことすら叶わない。


「綾乃は真面目だな」

「……白沼さんがふざけているだけです」

「……悪かった」


 流石に謝った。

 ふざけていたわけではないが、ふざけた行動だった。


「白沼さんにとって、人を殺すことは大きな事ではないんですか」

「……」

「今まで、何人殺したのですか……」


 桑水流にとっては、殺人は大きな意味を持つ。

 それは普通の人間なら当たり前のことだ。

 俺にとっては大した意味がないわけではない。しかしその程度が違う。

 俺は人を殺すと、少し憂鬱になるくらいで終わってしまう。


「……9人だな」

「……え?」

「この騒動が始まってから、少なくとも9人殺した」


 俺が観察した家族の4人、ナイフの男、車で轢き殺したその仲間、オッサンたち3人。

 愛須唯は入れようか迷ったが、入れなかった。

 俺が殺したように言うのは、彼女も不本意だろうからだ。

 彼女を殺したのは、彼女自身の復讐心だ。彼女が決めたことを勝手に俺のせいにはできない。


 しかし思い出すと、俺はかなりの人数を殺していた。

 それなのに普通に生きて女の胸を平気で揉んでいること自体、普通ではなかった。


「……それは必要なこと……だったんですか」

「……」

「……そうなんですよね」

「……必ずしも、そうじゃないな」


 家族4人は俺の不用意さが招いたことだ。

 あの夫のことを含めて全てに俺の責任であるとは思わないが、それでも俺の責任は大きい。

 ババア2人も、殺さないで済む方法はあったのかもしれない。


「……なんで、平気なんですか……?」

「……」

「おかしいです。そんなに人を殺して」

「……そうだな、確かにおかしい」


 桑水流の下げた顔が、こちらの方を向いた。

 その今にも泣きそうな顔に、俺から打つ手立てはない。

 であれば、できることは俺の考えを素直に桑水流に伝える事くらいだ。


「最初は、そうだな。どうせ死ぬんだから、一緒だろって思ってたな」

「……」

「車で撥ねた奴とナイフの男は俺が生きるためで」

「……」

「ババア二人は、生きる価値がないと思える程にゴミだったからだ」


 オッサンは正直なところ、桑水流を撃ったからだ。

 桑水流が大量の血を流す姿を見て、俺はキレた。

 男と言うのは、群れの仲間が傷つけられるとこうなってしまうみたいだ。

 その時の心情を思い出し、少しだけ冷え切った気分になる。


 そう考えていて、思い出した。

 俺は人を殺した時、冷え切った気持ちでいたことが多かった。

 そんな時、3人を見て軽く持ち直せたことがあった。


 俺の最期の人としての正常な部分は、彼女たちによって保たれていたのかもしれない。

 彼女たちと一緒でなかったら、俺はどうしていただろうか。


 キャンプ場での生活を考えていたが、どうしても食料がなくなり奪うしか立ち行かなくなる時がきただろう。

 その時俺は恐らく、人を殺して奪っていただろう。

 間接的に、蟻を使って。俺ならやりかねない。


 現状俺は、少なくとも能動的に人を殺しに動いてはいない。

 オッサンたちも、キャンプ場に来ていなかったら殺していなかった。

 食料を求めて、なんてことは考えてもいない。


 群れに生きるのが人間として普通の状態であることを考えると、それは当たり前のことだろうが。

 ずっと一人でいて自分は正常だと叫んでも、傍から見たら狂った行動をしているものだ。


「綾乃たちがいなかったら、もっと殺してたかもな」

「……!」


 俺のふいに出た言葉に、桑水流が立ち上がる。

 その血気迫る表情に、俺は少し気おされてしまう。


「……どうしてそんなことを!」

「……」

「……もういいです」

「……」

「……そんなことを言うなら、私が、白沼さんを変えます」

「は?」


 桑水流は乱れて顔にかかった髪を少し乱暴に後ろに流し、俺を睨んだ。

 いつもの桑水流とは少し印象の違う姿、表情。

 いつもの少し気弱で協調性の高い桑水流からは想像もできない。


 桑水流は一つ深呼吸をすると、自分の頬をパチンと叩いた。

 赤くなった頬とその目は、今度は俺に真っ直ぐ向けられていた。


「もう人殺しなんてさせません」

「は?」

「そんな風に、冷たい表情はさせません」

「……」

「……私にだって、責任があります」


 俺はあえてオッサンを殺した理由は言わなかった。

 適当に嘘をついても簡単にわかりそうだったからだ。

 それでもやはり、桑水流は俺がオッサンを殺した理由を悟っていた。

 桑水流の言う責任とはそういう意味だろう。


「私のために殺したこと、あったんですよね」

「……そうだな」

「もうだめです」

「……」

「もしどうしても人を殺す必要があったら、私が……」


 桑水流はいつの間にか下げた手の中で握りこぶしを作っていた。

 その拳は少し震えていて、その想いの強さと、彼女の人間として殺人を忌避する心を表しているかのようだった。


 俺の思っていた以上に、女の想いというのは強かった。


 俺は正直、桑水流は俺の事を嫌いになったり、少し距離をおいたりすることを予想していた。

 協調性の高い桑水流なら上手く俺への忌避感を隠して普段通りの生活をして、ストレスを溜めていくなんてことまであるかと思っていた。


 そう言えば、エリシュカに人を殺したと打ち明けた時も同じような感じだった。

 エリシュカは俺に対して、もう人殺しはダメだと怒っていた。

 桑水流も同じように怒り、あまつさえ次は自分でやるなどと言い始めてしまった。


 俺の血液にすがらないと生きて行けないから、なんてことは考えられない。

 もしそうなら桑水流は演技をするだろうから。

 この桑水流の表情を見てそうは思えないから。


 桑水流に手を下させるわけにはいかない。

 それは死んでも嫌だった。桑水流が人を殺してまた泣いたり、泣くのを堪えているところを見たら、俺は自分を許せそうもない。


「悪かった」

「……」

「もう殺さない」

「うそです」

「ホントだって」


 桑水流もそう簡単に俺の言葉を信じるわけにはいかないだろう。

 俺の事を睨む目は少しだけ涙でぬれていて、その心なしか強く感じる眼光で俺はどうしても嘘を言えそうもなかった。


「こんな状況なら、いつかまた同じようなことが起きます。その時は、私が……」

「それはダメだ」

「私が……」

「そんな状況にはしない」

「……」

「そう、努力する」


 その時は俺がまた手を下す、とは言えなかった。

 だから俺に言えるのは、この程度だった。

 桑水流に手を下させるわけにはいかない。俺がまた人を殺すこともできない。

 ならば、そんな状況にならないように上手く立ち回るしかなかった。


「それに綾乃には、無理だろ」

「……」

「俺ももうしない。約束する」

「またうそです」

「ホントだって」


 そう言って俺は立ち上がり、桑水流を見下ろす。

 そうすると桑水流は、俺に視線を合わせないように小さく頭を下げた。

 桑水流の背は女性にしては少し高いが、それでも俺の肩まで程度なものだ。

 それ故俺の視界に移るのは、桑水流の頭のてっぺんだけだった。


 自然に、手が桑水流の頭に伸びる。

 どこかのイケメンのように、俺は自然に桑水流の頭を撫でることができた。

 少し遠回りになってしまったが、体と言うのは勝手に動いてしまうものだ。

 胸を触って重い話をしないとこうできないというのは、やはり俺は恋愛漫画の主人公にはなれないなと思う。


「どうやったら信じてくれる」

「……」

「……飴なら少しは」

「……わかりました。今回は、許してあげます」


 飴を探して自分の服の胸ポケットをゴソゴソとしていると、桑水流はそう言って俺の手を軽く振り払った。

 頭を撫でる場面ではなかったらしい。

 手を振り払われた俺は、何故か少しショックを受けていた。

 桑水流に振り払われたことよりも、自分が空気を読めていなかったことがショックだった。


「でも次からは、私達に話してください」

「……」

「言ってたはずです。手助けできる人がいいって」


 以前桑水流に言ったことだろう。

 手助けしてくれる奴なら、俺に頼っていいと。

 その言葉は既に形骸化し、関係の移り変わった俺達の間には意味のない言葉だった。


 それでも、桑水流は少しだけ冗談めかしてそう言った。

 俺の言葉、忘れていないですとでも言いたげに。


「白沼さんのダメなところ、たくさん知ってました、知りました」

「……そうかよ」

「そんな白沼さんがまだ好きだから、私も力になりたいんです」


 怯えきった時の桑水流から数えて、4回目の「好き」だ。

 今度こそ、まともな響きの言葉だった。

 今日の桑水流は少し積極的で、少しやけくそ気味なんじゃないかと思う。


「できれば、そうする」

「できれば、ですか」

「……」


 ここまで来ても曖昧な俺の言葉に、桑水流がまた押し黙る。

 少し視線をずらして、何考え事をしているようだった。

 それは体感で数分、実際は数十秒程度の時間だ。


 桑水流は一人で頷いて、何か自分の中で何かを納得させたようだった。


「もういいですよ。もうそんなに怒ったり悲しんだりしてません」

「……そうか」

「あ、でもやっぱりさっきの言葉、取り消します」

「は?」


 また怒らしたり、悲しまれたりしたのだろうか。

 またやってしまったかと後悔しそうになるが、そんな馬鹿な俺に桑水流は優しかった。


「私、本当はまだ天邪鬼な白沼さんに怒ってるんです」

「マジか」

「……胸、触りましたよね」


 そう言っていつものように少しだけ赤い顔で俺の事を睨む桑水流を見て、俺は少し安心した。

 安心したが、自分の内を見透かされたような気がした。

 天邪鬼な白沼さん、桑水流は時々そんなことを言う。

 そんなこと言われなくてもわかってるが、桑水流がそう表現した理由は何だろうか。

 以前はどうだっただろうか。よく思い出せない。


 それからの俺達の押し問答に重い雰囲気はなく、終始俺が謝るだけで済んだ。

 ひとまず俺たちの関係は、壊れることはなかった。

 それ以上に、桑水流の言葉遣いは少し、いつもより距離が近いように感じた。

 多少無礼なことを言っても互いに怒ったりはしない、その程度に。


 嫌われなくてよかった。

 まさか俺はそう考えてはいないだろう。それは自分でもよくわからなかった。

 結局俺が馬鹿なことをして、桑水流に怒られるだけの話し合いだったが。


 ただ本当は、俺は桑水流に一つだけ嘘を言った。

 もし桑水流や他の2人が手を下すような場面になってしまった時。

 その時だけは、俺の言ったことは嘘になるだろう。

 しかしそれは、人のために行動することは全て自分のための行動と同じであるように、俺の為という皮を被った3人の為の行動となるかもしれない。


 俺は以前エリシュカに怒られた時も少し嬉しいと思っていた。

 今桑水流にまた怒られて、彼女から目が離せなくなった。

 そう言えば、黒川に喫煙マナーを怒られて彼女を見直したこともあった。


 先に言うと、俺はMではない。

 怒られて嬉しいなんていつもは感じたりはしない。

 それでも、自分のことを本気で怒ったり心配してくれる人と言うのは、生まれて初めてだった。

 桑水流の母親も、こんな感じだった。


 俺はようやく彼女たちの想いに、本気で惹かれた気がしていた。

 それは少し、ほんの少しだけだが。

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