5.観察投殺
あの女の子がどうなったのか、確認する必要がある。
罪悪感よりも前に、そう考えた。
そもそも、俺から感染していないかもしれない。あの女の子は俺から感染しなかったかもしれない。
俺は感染しておらず、毒素を体内で駆逐しているのか。
それとも、俺の体は毒素と共存しているのか。
考えてもわかるわけない。
いや、女の子の動向を探れば、近似値ではあるが、結論はでるだろう。
これではまるで、擬似的に人体実験をしているみたいだ。
(悪気なかったし、仕方ないだろう)
悪魔的と思われるかもしれない。だが、本当に考えてもいなかった。
俺が悪いなら、感染者を増やした奴らはみんな悪だろう。
小走りで元来た道を引き返しながら、考える。
確か女の子は、公園を出て右に曲がった。
左右をキョロキョロとしながら速度を緩める。
女の子の脚だ。別れてから時間も経っていないし、そう遠くには行っていないだろう。
気付くと、右手に閑静な高級住宅街が見えた。
服装は、どうだったか。
子供の服なんてわからないが、裕福な家の子供と言われても違和感のない服装だった。
そう適当にあたりをつけて、高級住宅街を歩く。
人がいなくなり、カーテンで閉め切られたことがわかる家が多い。
こういう時は、外から見て「人がいません」という状態すると空き巣に入られると思うが、まぁ今は助かる。
人の住んでいそうな家を片っ端からのぞいていく。
運のいいことに、お目当ての家はすぐに見つかった。
女の子は、母親と思われる女性と、姉と思われる10歳くらいの女の子と遊んでいた。
子供がまだ小さいということもあり、やはり母親も若い。30歳くらいだろうか。なかなかの綺麗どころであり、随分と幸せそうな表情をしている。
まさに幸せを体現しているという感じの家庭である。表情に影も見られない。恐らくパパさんもまだ生きているのだろう。そして、どこかで仕事でもしているのだろう。商社マン的な。
そして、女の子とその姉、母親の肌は、触れ合っている。
危機感の薄い家庭である。それとともに、感染者が増えたことがわかった。
(まだ感染したとは決まってないだろ)
首を横に数回振り、余計な考えを打ち消す。
ひとまず、家はわかった。
今日明日にどこかへ引っ越すような様子でもない。
自家用車と思われる軽自動車のナンバーも念のため記憶しておく。
女の子に気付かれる前に、不審者と思われる前に、帰ることにする。
今の時間は正午だ。発症したかは、明日観察した方がいい。
家へと向かう道中、考える。
まず、女の子と俺が接触した際、誰かに見られたということはなかったと思う。
公園は、前方は見通しがよかったし、背後はコンクリートブロックで囲まれていた。
しかし一応、万一に備え、すぐにでも逃げることができるような準備が必要だ。
ここ最近、感染者と思われる人間には警察まで動員し、確認するようになっていた。
(まずは、ホームセンターだ)
今度は冗談や焦りではなく、真面目に買い物をすることになる。
逃げるとこは、田舎や山しか思いつかない。
人が死にまくっている昨今、数日間人の気配が感じられない家は、警察により捜査の手が入るようになっていた。さらに、生存情報や戸籍情報などを 改めるため、役所の人間が完全防護服着用で各家庭を回っていた。
何より、人との肉体的接触ができない場合、人のいるところは危ない。俺も、俺の周りの人間も。
既に一時的な避難場所に目星はつけていた。
山の中にある、いわゆる青年自然の家ってやつだ。
この近辺に、そこまで人里と離れていない場所に、一か所だけあったのだ。
人がどうしても近寄らない場所。それは山の中である。
山の中は「蟻」の最も好む場所として知られている。見えずらい落ち葉の下などに、一大コロニーを建設しまくっている。
もちろん奴らに、生存地域を除いて好まない場所などないのだが、それでも山の中は数が多い。
完全防護服だろうがなんだろうが、頭の上の木から落ちてきて、服の中に潜り込んでくる「蟻」を想像すると、山の中に入ろうなんて思えないのだ。
俺が発症しないなら、うってつけの避難場所だろう。
道具も色々と置いてありそうだし、ログハウスなんかもあったはずだ。
やや速足で自宅に戻り、すぐさま車に乗り込み発進。ガソリンはまだ満タンに近い。
エコドライブを心掛けながら、ホームセンターへと向かう。
ホームセンターに着いたら、一番大きな買い物かごとカートを入手。
すぐさま素人考えで必要になりそうなものを片っ端から買い物かごに放り込む。
どうやら電池のような消耗品はかなり売り切れでしまっているようだ。
逆に、工具や農具などは未だ多くの数が販売中である。
とにかく、片っ端から必要になりそうなものを放り込む。
金はまだまだある。ここで金に糸目はつけない。
押して歩くのが疲れるくらいに身重になったカートに、二往復分の物を買った。
店員さんには、「久しぶりにこーゆー輩が来たな。しかも購入量が強烈だぜ。ふふふ」 と言った表情で暗黒微笑された。
ぶっ殺してやろうかと思った。
その後、大型スーパーや電気屋、釣具屋、タバコ屋などを回り、ひとまず必要になりそうなものを揃えた。そしてその足で、そのまま目的地へと移動 した。
車で40分程度の距離に、目的地はあった。
車を降りて、まずは下見に入る。
入口付近には駐車場や管理所と思われる建物がある。
建物には誰もいないことだけを確認し、奥へと向かう。
奥は明らかに人気がなかった。
敷地の中央付近を流れる小さな小川の横に、立派なログハウスがある。その横には、まだ使われているような井戸もあった。
ログハウスの中に入って、軽く家探しをしてみる。
まず、電気は通っているようだった。いつまで使えるかわからないが、たちまちの心配はなくなった。水道は通っていない。井戸と川があるから問題 なし。
「備蓄品」と書かれた段ボールや、キッチン、人の住める環境に、いくつかの工具を見つけることができた。これで一か月は食料に困ることはなさそ うだ。
相変わらず人はいない。
一度外に出てみる。
ログハウスのほかは、小さなアスレチック場や屋外炊事場、トイレや集会所みたいなところがあった。敷地は思っていたより狭いみたいだ。
その他には。
急いで逃げ出したように物が散乱しているテントが複数あるだけだ。
「まさに、終末って感じだ。」
そう呟きながら、ログハウスやテントを見ていく。
手近なテントからは、異臭が漂っていた。
テントを開けると、ハエのような虫がたくさん飛び出してきた。
舌打ちをしながら、少しテントから遠ざかり、その中に目を凝らした。
そこには放置されて久しいと思われる、人の形をしていたのであろう、物体がいくつか転がっていた。
よく見ると、そのテントのほとんどに、虫が大好きな腐った何かがあることがわかる。テントの外から大量の虫が蠢いているのがわかる。
「衛生のために、焼却処分とかした方がいいのかもな。」
そう考えながら、ブラブラと散歩する。
敷地の地図を見つけたが、他にあるのは、山道の散歩コースくらいだった。
目的は下見と物品輸送であったが、半分の目的を一時間程度で終わらせることができた。
まだ日は高いが、さっさと物品輸送を終わらせてしまうことにする。
本拠地に構えるのはやはりあのログハウスだ。
どうせ住むならベッドで寝たいし、蟻に耐性があっても虫は嫌いだ。
ログハウスには鍵がかかっていなかったが、鍵自体はついていた。
車へ移動する途中で管理所でそれらしき鍵の束を見つけたので、持っていくことにする。
工具などをいちいち手で持っていくのは面倒くさいので、車で中に乗り入れる。ログハウスの横に物置があり、置けるものはそこに置く。あとは、死 体のなかったテントにつっこんでおいた。
さらに、頻繁に使いそうなものはログハウスの中に運び込む。
久しぶりの肉体労働に、体中からじっとりとした汗が流れる。
「これで、ここを使わないなんてことになったら悲惨だな。」
運び込むのに、大分時間を使ってしまった。作業が終了した時には、日は傾きかけていた。
ひとまず、物資は移動できた。今日は自宅に戻り、早めに寝てしまうことにする。
明日は、長時間監視をする必要があるかもしれないからな。
一度家に帰ったが、いきなり寝れるわけでもない。することがないので近くのスーパーまで歩いていき、売れ残りのアイスを購入した。
ほとんど売り切れていたが、練乳のかかったチョコバーなるものが一つだけ残っていた。
それを歩きながら食べる。明日にはこの町から離れる必要があるかもしれない。心なしか歩くスピードもゆっくりになる。感傷的になったわけでもな いが、疲れた体で早く動くこともない。
自宅付近まで歩いた時、一組のカップルが言い争いをしていた。
俺の住むマンションの入り口あたりで。
邪魔すぎて仕方ない。ただ、近寄りたくもない。ひとまず、ボーっと眺めながらアイスを食べてしまうことにする。
「なんで浮気をしたのよ」
「男は少ないんだから、ちょっとくらいいいだろ」
要約すると、そんな感じに言い争っている。
(このクソあっちい中、よくやるよ)
アイスを食べきった。よく見ると棒のところに「当たり」と書いてある。
もう一本くれるのか。在庫なんてないだろうに。
お店の人に聞いてみてもいいかもしれない。ただスーパーまで戻るのは面倒くさい。どうしようか。
そんなことを考えていたら、カップルの女の方が奇声をあげ暴れ始めていた。
男は女をなだめようとしていたが、面倒になったのか、すぐにスマホをポチり始めた。さらに怒る女。動じない男。それをボケッと見る俺。
アイスはもういいし、そろそろ通してもらうか、と考え始めた時、女はついにある行動をした。
足元にいた「蟻」を、ゴム手袋で掴み、男の顔に向かって投げた。
男はスマホを見ていたので反応が遅れ、手で払うことも避けることもできなかった。
男の顔には、緑色の毒素が付着していた。
女はすぐに走って逃げた。
男は呆然とし、すぐにハッとした表情をし、ゴム手袋で顔をぬぐった。
その手に付着したものを見て、男は大声をあげ女を追っていった。
俺はつまらさそうにその光景を眺めていたが、すぐにどうでもよくなり、マンションへと入っていった。
この光景、実は最近しばしば見られる。
「感染地域」の人々の倫理観は崩れかけている。
今のところ、「蟻」を使った人殺しは、明確な証拠なしでは逮捕されない。むしろ感染者が捕まり、隔離される。
先程は俺が見ていたため、目撃談というちょっとした証拠はあったが。
あの女は、今日明日の男の復讐の手さえ逃れてしまえば、逮捕もされない。永遠に逃げ切ることができる。逆にあの男はあと一日程度で発症し、行動 不能になり、女からのタレこみで見つかり、隔離される。
つまるところこの世界では、人は簡単に、裁かれることもなく、殺せるようになってしまった。
感情的になった時、すぐ近くに凶器がある。
その凶器は、使用者に人を殺した感覚など与えない。
地肌に投げつけるだけという非常に簡単な方法で人を殺せる。
(それを言ったら、俺は全身凶器なんだけどな)
生存地域と感染地域に分かれ、感染地域では人殺しの完全犯罪が簡単に成立してしまう。
感染地域は、徐々に人口を擦り減らし、そのストレスも遠くない未来限界を迎える。
これがこの世界の現状。
人々の倫理観など、ストレスの前では脆く儚いものだ。
(いずれにせよ、あの親子を観察することが先だな)
俺はいつも間にか暗くなっていた空を少しだけ見上げ、一人ため息をつき、家のドアを開けた。