45.冷静思考
すっかり元気のなくなって陰気臭い横山を置いて病院から出て、車の中でタバコを吸いながら街を見渡す。
人っ子一人人間がいない街の光景は既に見飽きてしまった。
北で待機をしていた何人かの内、戻ってきたのは一人。そしてその一人は感染済み。
どう考えても、北で何かあったとしか思えない。
それは暴動か、それとも政府の放送に関係した何かか。
しかし甲州街道に出ても人間を誰も見つけることができない現状では、北から多くの人間が逃げ出したような様子はない。
もしかしたらただの仲間割れなどの日本の情勢とは関係ない何かが要因なのかもしれない。
考えても仕方がないと頭を振って、エンジンをかけようとして手が止まる。
なんとなく、久しぶりの一人なのでゆっくりしたかった。
エリシュカの事は少し心配だが、あの様子では今日中に事態が進展するとは思えない。
どうせならスカッとする何かをしたかったが、周りを見ても何も思いつかない。
釣りや農作業など、いつもしていることはしたくなかった。
全く娯楽の浮かばない世界に軽く絶望しつつ、とりあえず本でも物色するかと近くの本屋に向かう。
近くの雑居ビルの3階付近に本屋が見える。
麻雀セットや将棋盤、チェス盤あたりなら割と好きだから近くにあればいいのだが、置いてありそうな店も見えないので仕方なく本屋へと向かう。
もしあったとしても3人とは勝負にならないかもしれないが、桑水流は将棋とかやってそうだった。完全に見た目だけで言っているが、黒川もお爺ちゃん子らしき発言をしていたから将棋ができるかもしれない。エリシュカは知らない。
どこかで見つけたら持って帰ろうと思う。
車を降りてドアが開けっ放しになったビルの中に入る。
緊急用と思われる階段を昇っていると2階部分に小さなバーがあった。
何となく中に入り家探しをしていると、以前飲んだ覚えのあるウィスキーを見つけた。
飲むことなどないかもしれないが、アルコールは消毒などにも使えそうなので持って行く事にする。
なんとなく封を開け、ストレートで一口飲んでみる。
貧血の体に熱い液体が回り、少しだけ思考を明るくさせてくれた。
2階には他に目ぼしい物を見つけることができず、目的地の3階に行く。
そこには中型規模くらいの本屋があった。それなりの品ぞろえを期待できる。
電気の止まった自動ドアを手動で無理やり開けて店内に入ると、奥の方からドサリと音が聞こえた。
誰かがいる。
今となっては貴重な人間だ。
持っているものはウィスキーの瓶と、残弾1発の拳銃のみ。
ショベルがないので武器としては少し心もとない。
しかしこちらからの突然の訪問であることを考えると、相手の敵意はそこまで大きくないかもしれない。
懐に手を入れて一応警戒しつつ奥に進むと、奥にいたらしき人間が動く音が聞こえる。
こちらが近づいている事に気付き、さらに奥に逃げたという感じだ。
わざわざ音が聞こえるように移動したことが気になる。
普通ならここまでは音を立てずに移動するはずだ。
なんとなく気になる。
ただ、奥に罠があるかもしれない。待ち構えているかもしれない。
少しの間逡巡するが、別に相手に声をかけても問題ないことを思い出す。
逆に声一つかけない方が怪しいに違いない。
「誰かいるのか」
俺の問いに返ってくる声はない。
その代わりに、バサリと何かが落ちたような音が聞こえた。
それは本が床に落ちた音のように聞こえた。
その相手からは罠だとか警戒心だとか、危機的な何かが全く感じ取れない。
これまでの反応から考えて、相手はこちらに怯えていると考えていい。
臆病な人間の反応だとしたら合点がいく。即席の演技だとは考え難い。
そう判断し、懐に手を入れたまま一気に距離を詰める。
角を曲がると、本棚でできた通路の先に一人の少女がいた。
(こんなところに、ガキが一人……)
見たところ10才程度だろうか。女の子がこちらを見て怯えたように床に尻餅をついていた。
最近女ばっかりと会うなと思うが、病気は何故か男性に多く発症しているため当たり前かと脳内で納得する。
相手には脅威などないことは明白なので、周囲を少し見渡してから懐から手を引き抜く。
もう一度女の子をよく見てみるが、眼鏡をかけて本屋にいる臆病な地味系の女、つまり文学少女といった形容が良く似合う。
相手にする気も失せていたが、これ以上怯えさせるつもりもない。
しかし何を言っても怯えさせてしまいそうだから、とりあえず要件だけを伝えることにする。
「ここにある本何冊か、勝手に持ってくな」
「……」
女の子は少し時間を空けて、ゆっくりと頷いた。
つまりはこの本屋の主ということだろうか。元店員の娘か何かだろうか。
すぐに女の子から興味がなくなり、本棚へと視線を走らせる。
見てから気付いたが、ここは漫画などが少ない、文学小説などが多いタイプの本屋だったみたいだ。
せっかくなので適当に本を物色する。
簡単な医学書や麻雀の教本、将棋の本がいくつか置いてあったので持って行く事にする。
小説などはもっと後でいい。実用的な本が欲しかった。
いくつかの本を手に取り脇に抱えて選別していると、先程の位置から動いていない少女から声がかかった。
「あの」
「……」
「本の代わりに、食べ物とか……」
「……持ってないな」
ひどく小さな震えた声だったが、軽く断った。
普通なら保護欲か何かを掻き立てられ、何かしらの施しを与えてしまうような声だ。
ただ、食料など持ってもいないし、持っていても渡す気はない。
知らない女に渡すより、黒川達3人の胃にでも入ってくれた方がマシだ。
俺の立場上、女の子に対して害を与えることはしようとは思わない。
例えば蟻の毒に関する実験などはできそうだが、やらない。
それでも、あまり関わろうとも思わない。
「……だったら、お話し相手とか……」
「……」
一つ気になるのは、女の子がどうやって今日まで生きてこられたか。
食料などは隠し持つことができるだろうが、精神健康上はそうもいかない。
10歳の少女がひと月も誰とも話さずに生きて行けるだろうか。まあどうでもいいことだが。
「……でしたら、お母さん、知りませんか」
「……?」
「帰ってこないんです。お母さん」
帰ってこないというのは、北からという意味だろうか。
だとしたら有益な情報があるかもしれない。
「いなくなったのは、いつだ」
「えと、一週間前くらいです。食べ物を少しだけ置いて」
お母さんとやらは北に言ったと考えてよさそうだ。
北という単語を連想し反射的に聞いてしまったが、よく考えれば有益な情報はなさそうだった。
片手間に話をしている間に、簡単に本の選別は終わってしまった。
実用書というのは小説とは違い、選別がすぐに終わってしまう。
「悪いが、何も知らないな」
すぐ横に置いてあった手ごろなバックに本を入れ、肩に掛けながら言った。
俺のその様子に、女の子は俺が帰ろうとしていることを察したらしかった。
尻餅から立ち上がり、こちらへとパタパタと寄ってきた。
「本、持ってくな」
「あの、食料とか、お話とか……」
「悪いな」
一応一言断って、本屋から出ようとする。少女が後ろからついて来ている。
軽く無視して階段を降り、助手席にバックを歩折り投げて車に乗り込む。
少女はまだついて来ていたが、車には乗り込んでこなかった。
ただ、運転席の窓付近に手を当てて名残惜しそうにしている。
この様子からすると、食料は既に尽きているのだろう。
精神的にも限界に近そうだ。
ついでに、このまま車を動かすと少し危険だった。
それでも俺にできることはないなと考えるが、なんとなく一つ案が浮かぶ。
(横山に引き渡して、どうなるか)
俺も一応大人である以上、小さな女の子は助けるべきという考えはある。
キャンプ場に持って行って、なんてことは思いもしないが、適当なコミュニティに放り込むくらいは簡単だ。
横山が受け入れるかは別だが、あいつは女の子に甘いタイプのジジイだ。
病院の食料の量次第だが、なんとなく大丈夫かと思う。
横山は元気がなくなっている感じだったから、ペット代わりに女の子を渡せば元気になるかもしれない。
下半身が元気にならないとは言えないが、その程度の良識は持っていると信じたい。
60超えたジジイの光源氏計画だ。面白そうじゃないか。
俺に害はないだろうし、暇潰しに病院まで連れて行ってもいい。
病院へは歩いてすぐだ。車にはなんとなく乗せたくなかったので、徒歩で案内することにした。
車から降りて少女に声をかける。
「人のいるとこ、行くか」
「え……」
「行きたくないなら別にいいが」
「い、行きます……」
この聞き方では、食料のない少女は肯定しかできない。
病院まで連れて行ったところで、横山達が迎え入れるという保証はない。
ただ、別にどうでもよかった。
こいつを放り込んで俺はどっかに行けばいい。
少しゆっくりと歩き出すと、少女は俺の後ろをついてきた。
そのことを確認し、少女から目を切って歩きながら思考にふける。
考えるのはエリシュカの事、北の事、3人との関係の事。
疫病には血液が関係していると言う。何故か男性の感染率が高いと言う。
エリシュカが女性だから、ということは関係しているのだろうか。
そもそも致死率100%の毒で男女差があることがおかしいのだ。
感染経路ははっきりしており、毒の存在が公になってからは男性も蟻への警戒心を強めていたはずだった。
何かのパターンで、女性が蟻の毒に触れても感染しないことがあるのだろうか。
俺の耐性については男性のものだ。関係ない気がした。
なんとなく、方法が思いついたら後ろをついて来ている少女で試してみたいという衝動に駆られる。
流石に鬼畜なので我慢する。
考え事をしていると、すぐに病院に着いた。
守衛の女性が片手を上げて挨拶してくるが、俺の後ろの少女を見つけて怪訝そうな表情をする。
「んー? その子誰だよ」
「横山の孫だ」
「あー、そうなんだ」
適当に嘘をつく。
驚くことに守衛の女は俺の嘘を簡単に信じてしまった。
確かに年齢的にはあり得るので、普通に言われると信じるもんなのかもしれない。
後ろを見ると、少女はわけがわからないという表情をしていた。
「横山のとこに連れて行く」
「はいどーぞ」
簡単に通してくれた。ガバガバな守りだ。
そのまま横山のところに向かう。
横山の部屋にノックして入ると、横山はさっきの体勢のままうなだれていた。
爺さんのうなだれている姿には哀愁を感じさせられる。
ペットを持ってきたので元気になれよと思う。
「おい」
「……! なんじゃ、またお主か……」
横山は俺の声に遅れて返事をする。しかしその言葉に力はない。
割と使える奴なので、このまま潰れてしまっては困る。
真面目に考えると少女を連れてきて元気になるとは思えなかったが。
「こいつ、お前の知り合いなんだってな」
「ん?」
適当にそれっぽい事を言って少女を前に出す。
横山はようやく少女に気が付いたようだった。
「……」
「……」
当たり前だが、横山は固まっていた。
知らない少女を知り合いだと紹介されても意味が分からないだろう。
もし受け入れ不可能だと言われたら、横山に丸投げして逃げてやろうと思う。
俺以上に暇そうだし、問題ないだろう。
俺は3人のために動いてて、いろいろと忙しいのだ。
「……ソフィア……?」
「……お父さん……?」
俺の思考をよそに、二人は何やら感動したようにゆっくりと距離を詰めていた。
「ソフィア!」
「お父さん!」
一気に距離を詰めた二人がガシッと力強く抱き合う。
奇跡の感動のご対面らしき何かだった。
固まった体をよそに、瞬時に脳内にいくつかの疑問が浮かぶ。
偶然過ぎるだろう、歳の差おかしいだろう、名前おかしいだろう。
お父さんというのが本当なら、日本人風な少女に付けられたこの名前は所謂キラキラネームというやつだろう。
きっと現代は60過ぎの医者がこの名前をつける時代なのだ。漢字は何なんだろうか。
歳の差はどう捉えればいいのだろうか。
確か息子が外国人の嫁を持っているとかなんとか言っていた気がするので、15程度に歳の離れたお兄さんがいるはずだ。
横山の奥さんは何歳だったのだろうか。
そこまで冷静に馬鹿らしくなって思考するが、彼らの表情を見て思うことがあった。
先ほどまで落ち込んでいた横山の表情は、晴れやかなものだった。
俺の見たことのない顔だった。
俺の表情だけが、その場の空気から浮いていた。
冷静に、冷静になり過ぎた自分を見て思う。
黒川、エリシュカ、桑水流のストレートな感情は、冷静に流された後どうなってしまうのか。
もし横山の感情を少女がスルーしていたらどうだっただろうか。
俺は笑うが、横山は悲しいだろう。
結局俺は黒川達のことを本気で考えていなかった。
相手の立場に立つなんて、当たり前の思考転換過ぎて忘れていた。
一生一緒にいるというのは、俺の考えているような血液を飲ませるのが面倒だ、なんて単純なものではない。
責任をとるというのは面倒を見るという単純なことではない。
頭ではわかっていても感情がわかっていなかった。
冷静過ぎると、感情はいつだって出遅れてしまう。
冷静で頭が良く、感情的な横山の表情は俺を素直に納得させるものがあった。
結局問題は、俺の有利な立場をどうにかするだけだ。
それさえ超えれば、あとは俺の感情の問題だ。
既に面と向かって俺に文句を言ってくる三人には既にそのような思考はないのかもしれない。
少し遅れてしまった自分がするべきことは、何だろうか。
複雑な思考も冷静な思考も必要はない場面はある。
俺が彼女たちを求めるだけで全てが丸く収まるのだ。
それでもどうすればいいのかわからないから、帰ったらとりあえず黒川を抱き締めてやろうと思った。
感情や思考を置いて、行動を起こすことで何かが変わるかもしれない。
それで気まずい雰囲気もどうかなってくれたら儲けものだ。
俺みたいに、恋愛だとかを馬鹿らしく見てしまう人間を好きになった3人は可哀そうだ。
せめて、可哀そうで終わらないように何かをしようと思う。
横山が抱き着いた娘の体を撫でまわし過ぎて、女の子に腕を払いのけられて、それでも幸せそうな二人を見ながらそう思った。