44.理解不足
鳥がチュンチュンと鳴いている音が聞こえる。
しかし、まだ目を開ける必要はない。
朝の惰眠を貪ることができるのは現代社会ではなかなか味わえない至高の時間だ。
窓から降り注ぐ陽光を掛布団で隠し、暗闇の中で何も考えずに眠りに戻る。
「……」
「おっはようなのじゃー!」
ドアが力任せにバタンと開かれる音が聞こえ、すぐにエリシュカの大声がその場に響いた。
何か引っかかるものがあるが、すぐにどうでもよくなる。
こんなに煩く起こされた朝は初めてだ。これは意地でも無視して寝続けないといけない。
「……」
「……おっはようなのじゃっ!」
自分の腰のあたり、布団の上にドスンと何か大きなものが圧し掛かった。
成人女性の体重は普通軽くても40kgはある。
いくら女性が軽いと言っても、いきなり圧し掛かられては息が詰まってしまう。
自分の肺から口に一気に空気が抜けたような苦しい感覚を覚える。
眠りかけていた意識が無理やり覚醒させられてしまう。
「……おはよう」
「うむ! おはよう!」
エリシュカが元気だ。いつも元気なのだが、今日はいつもと比べ物にならないくらいにおかしい。
何かいいことでもあったのだろうか。
エリシュカはやたらと嬉しそうな顔で俺に跨っていた。
「……今日、なんかあったか」
「むむむ、今日は一週間ぶりにわしが起きる日じゃろう!」
「……?」
そう言えばと、エリシュカが感染したことを思い出す。
しかし俺の記憶では、それは昨日のことだった。それなのにエリシュカは起きている。
つまりは、寝ぼけた頭では以下のどれかの可能性が考えられた。
1.エリシュカは感染してなかった
2.このエリシュカは幽霊、本物のエリシュカは死んだ
3.実は一週間経っていた
4.エリシュカにも毒が効かない
どう考えても俺の頭から一週間の記憶が抜けることは考え難い。3はない。
エリシュカが触れた蟻は確かに例の蟻だったと思う。1と4もないだろう。
つまり2だろうか。
エリシュカの足を眺めるが、別に足がなくて幽霊だというわけではなかった。
しかし、足があるからと言って幽霊ではないとは言えない。
目の前の存在を幽霊だと証明することは思った以上に難しいのだ。
「南無釈迦牟尼仏」
「何を言っとるのじゃ?」
お経を唱えても効果がないみたいだ。エリシュカはチェコの血が流れているからカトリックという線もある。
カトリックはアーメンとでも言っておけばいいのだろうか。
「……」
「むむむ、せっかく感動の再会ができると思っておったのに!」
エリシュカは不満そうに布団の上から俺の胸のあたりを叩く。
こちらとしては昨日の今日なので感動も何もない。
というか、2ではないのだろうか。
ゆっくりと覚醒してきた頭で考える。
やはりおかしい。幽霊とかは非現実的なのであり得ないだろう。寝ぼけた頭ならではの思考だ。
「……なんで起きてんの」
「ん? 何か変かや?」
「全然時間経ってねーよ」
「ほげ?」
確かにキャンプ場での生活では日付の感覚はおかしくなってしまう。桑水流が管理所のカレンダーにマークを付けていたりするが、日付を確認する方法はそれくらいだ。
それに、時計やカレンダーが手元になければ自分がどの程度寝たなんて普通わからないだろう。
エリシュカが勘違いしていることはわかったが、疑問はつきない。
考え得る全ての可能性を頭の中で簡単に洗うが、やはりエリシュカは今日起きないはずなのだ。
「……お前、本当にエリシュカか?」
「……見りゃわかるじゃろ」
なんとなく人生で一度は言ってみたかった言葉を言ってみるが、反応は芳しくない。
目の前の人間がエリシュカでないはずがない。
そう考えていると、エリシュカは布団を挟んで俺の上に身体を寝かせ、顔をずいと近づけてきた。
人の体の上で動くなと思う。実際やられたら骨がゴリゴリと当たって痛い。
しかしこれを言ったらエリシュカが怒る気がした。肋骨的な意味で。
ついでに、エリシュカがブラを着けていないことが見て取れた。
嬉しくない上に、着けていても意味がないからかと無駄に悲しい気持ちになってしまう。
「とりあえず、これでわしも白沼殿に触れるんじゃな」
「……いや、微妙だろ」
どうやらエリシュカは未だに自分が感染して一週間寝込んだ後だと錯覚しているようだった。
やたらと近い顔を布団でガードし、体をずらしてエリシュカを払い落とす。
小さい悲鳴と共に、エリシュカはベッドの横に落下した。
状況もわからないまま俺に触れてしまうよりマシだろう。
「あいたたた」
エリシュカが腰をさすりながら立ち上がる。どこかのお婆さんのような仕草だ。
しかし俺は、エリシュカの方を見ていなかった。
布団から起き上がり視界の晴れた俺の目に映ったのは、ドアを開けたままの恰好で立ち尽くす黒川だった。
その手には小さな何かが握られているようだった。
黒川から見たら、今の俺はどうだったのだろうか。
布団越しにエリシュカときゃっきゃうふふしているように見えたに違いない。
というか、無表情の黒川の睨みが俺に「何してんだ」と言っていた。
黒川に言うべき言葉が思い浮かばない。
「おはよう」
「……」
とりあえずと挨拶してみるが、やはり黒川は冷徹な睨みを利かせたまま無視してきた。
この嫉妬心は可愛いを通り越していた。
黒川は手に持った小さなものを俺に投げつけ、そのまま去って行った。
投げつけてきた物は小分け袋に入ったままの飴だった。
そして全てがハッカ味だった。つまり嫌がらせだ。
「……黒ちゃん、怒っとるの」
「……そうだな」
どうにかしないといけないと思うが、どうすればいいのかわからない。
女心は難しく、変な言葉で誤魔化すと逆効果だろう。
エリシュカもこの状況をよく思っていないのだろう。というか。
「お前なんで起きてんだよ」
「へ?」
改めて、さも当然のように起床しいつも通り元気なエリシュカを見つめた。
エリシュカは何故俺に見られているのかわからないような表情だ。
「お前が感染したの、昨日だぞ」
「ほ?」
間抜けなエリシュカの声が小さく響くが、俺にとっても意味不明だった。
……
普通に起床しているエリシュカを見て桑水流は当然驚き、事態を把握した黒川も理解不能だという表情をしていた。
喜んでいいのかもわからないという面をしていた。
俺にもわからない。
エリシュカが蟻の毒に触れたのは確実だ。何度も蟻を観察していた俺が断言できるほどに、見間違い様がなかった。
俺と同じ状況でもない。俺は一週間にわたる睡眠に確実に陥っていた。
それは、一週間も遅刻したと焦っていた俺の中の確かな記憶が証言していた。
エリシュカだけが特別に、というのは考え難い。
そう断定するのはただの思考停止だ。
確実に特別だと言える俺との関係性を考えても、エリシュカに何かをしたという覚えはない。
触れたこともなければ、血液で何かをした記憶もない。
つまり、この状況に俺は関係ないと言える。
発症しない状態の黒川と桑水流にも、エリシュカに何かをしたという様子はない。
俺の予測通り2人がただ発症を抑えている状況なら、エリシュカに触れると感染する。3人にはそう伝えていた。
蟻の方の問題という線はあり得る。
エリシュカに毒をかけた蟻が、雄とか雌とか、まだ小さいとかそんな理由で毒素が強くなかったとかだ。
考えても仕方がないが、一応頭には止めておく。
しかしそれ以上の考えが浮かばなかった。
何か、見落としはなかったか。そう考えても、今の俺には相変わらず情報が不足していた。
もしかしたら、横山に聞けば何かヒントがあるかもしれない。
医者である以上、この騒動の前にもある程度の情報は持っていただろう。感染症にも多少の知識はあるはずだ。
ついでに、北に向かった他の連中の情報も欲しかった。
「エリシュカ」
「な、なんじゃ」
エリシュカもようやく気付いた自分の異常事態の戸惑っている様子だった。
「一応聞くが、体に何か異常はあるか」
「……全くないのじゃ。いつも通りなのじゃ」
一応体温計を渡して体温を測らせる。しかし恐らく意味はないだろう。
エリシュカの状態がわからないだけに、迂闊な行動は危険だ。
俺の血液は当然飲ませない。今の状況だと逆に危険かもしれない。
「黒川と綾乃、俺にも一応触れたりするなよ。まだ感染していない可能性が高い」
「う、うむ。なんだかわけわからんのじゃ」
体温計が音を鳴らす。当然と言うか、平熱だった。
初期症状が全て出ていないというなら、命の危険があるとは考え難い。
そのことに少しだけほっとする。
「今日はいつも通り、全員ここで農作業でもしてろ」
「……白沼さんはどうするのですか?」
桑水流が聞いてきた。黒川は心配そうにエリシュカを見ている。
黒川のことも心配だったが、恋愛だとかは言っていられない状況だ。
「俺は病院に行く。少し調べものだな」
「……承知しました」
「わかったのじゃー」
黒川は相変わらず、少し気まずそうに軽く頷いただけだ。
反応が返ってくるだけ、まだ大した問題でもないのだろう。
俺は少し後ろ髪を引かれるような感触を味わいつつ、3人を残して駐車場へと向かった。
どの程度の情報が手に入るかわからないが、嫌な情報だけは勘弁だ。
増え続ける問題ごとは、少しだけ俺をイラつかせていた。
……
病院につくと、以前と同じ守衛の女が挨拶して簡単に通してくれた。
もはや顔なじみと言ってもいいくらいの関係だ。名前も知らないが。
そのまま病院内を意味もなく我が物顔で練り歩き、横山のいる部屋へと向かう。
部屋に入った俺を椅子から立って迎えた横山は、相当に不機嫌な面をしていた。
「不景気な面してんな」
「……お主こそ、人の事は言えとらん面じゃな」
互いに軽口を叩きつつ、横山の前の椅子に座る。
それを見て、横山も少し乱暴に椅子に腰を掛けた。
明らかに、いつもの横山とは様子が違う。いつもの様子を言えるような深い関係ではないが、そのくらいのことはわかる。
「なんかあったか」
「……」
横山はトントンと規則的に自分の太ももを指で叩いている。
少し待つと、横山がゆっくりと口を開いた。
「わしらとは別のもう一班が、少し前より青森に待機しておった」
「……やっぱりか」
「その中で一人だけ、今日の朝方帰ってきおった」
「……それで」
横山の表情が歪む。
「ちょうど先程、寝おった」
「……それは」
「感染しておった。何をやっても起きもせん」
一人だけが帰ってきて、そいつが感染していた。
つまり、北では何かがあったと見ていい。それは暴動か、他の何かか。
「結局何もわからんまま、一週間奴が起きるのを待つだけじゃ」
「……」
何もわからないからこそ、横山もイラついていたのだろう。
横山はまだワクチンの希望を捨てていない。
その希望の場所の北から戻ってきた奴が感染していたのだ。複雑なのもわかる。
「どうするつもりだ」
「……わしは、ひとまず北に行くのはやめる。奴が起きるのを待つ」
「それが懸命だろうな」
横山は腕を組んで、天井しか見えないはずの上を見上げる。
何となく、横山の希望が絶たれつつあることを感じ取った。
「あの放送は、なんだったのじゃろうな」
「知らねーよ」
もしかしたら、横山は泣いているのかもしれない。年甲斐もなく。
人が無理に上を見るのは、本当に悲しい時だと決まっている。
「……あんたは、この疫病についてどこまで知ってる」
「……それは、医学的な意味でじゃろうか」
「そうだ」
横山は上を見上げるのをやめ、俺の目を見てきた。
全然泣いていなかった。勘違いだった。
「医者や研究者の間だと、かなり前まではいくつかの情報が交換されておった」
「具体的には」
「医学的なものだと、大した情報はなかったの。人の血液に関係しておることくらいか」
「血液に?」
血液に関係しているというのは、俺の予想と同じだった。
俺の場合は自分の血液が重要だと知っているからだが。
「そうじゃ。具体的な情報ではないが、人の血液に何か大きく作用されるということじゃった」
「……」
「その中で、毒素がどういった動きを見せ、人を殺すのかは不明じゃ」
これはヒントになるのだろうか。
正直これだけでは何も思い浮かばない。ただ、記憶にとどめておく必要はありそうだった。
エリシュカの状態についてはやはり現状何を考えても仕方ないのかもしれない。
だとしたら、今は北の情報の方が今は大事だ。話を戻すことにする。
「話が逸れて悪かった。で、その感染した奴は寝る前に何か言ってたか」
「何も。何も言わぬまま寝おった」
「……」
「情報など、何もないと同然じゃ」
横山はそれきり、口をつぐんで眉間を抑え思考に埋没してしまった。
本人もこの一週間、ただ待ち焦がれるだけの一週間を苦しく思っているのだろう。
本当に、具体的な情報は何一つなかった。
北で何が起こったのか。
エリシュカの状態は何なのか。
考えても、答えどころか、答えを得る方法すら思い浮かばなかった。