43.事情聴衆
どんなに気まずい事態が発生したとしても、黒川と桑水流には毎日血液を飲ませなければならない。
黒川は俺が管理所に戻ってくると痛烈な表情でにらんできたが、お互い何も言わずにひとまず血を飲ませることにした。
そうして今、目の前で黒川が俺の腕にかじりつき血液を飲んでいる。
明らかに歯が深く俺の腕に刺さっている。つまり痛い。
「いてーよ。噛むな」
「……」
「なんか言えよ」
黒川は俺に歯形だけを残し、無言で去って行っこうとする。
仕方なく腕を引っ張り呼び止める。
「待てよ」
「……」
「黒川が怒ってる理由は、なんとなくわかってる」
「……私も、多分勘違いってことはわかってる」
勘違いというのは、俺と桑水流が恋仲だとかそういうのだろう。
それでも、一度女性が怒ったら簡単には収まらないのだ。
「前に俺の事好きだって言ってたよな」
「……うん」
「今、どの程度好きなんだ」
「……」
聞いてから少し後悔した。どの程度と聞かれても表現できないだろう。
エリシュカだったら両手を広げて「これくらい!」とか言いそうだが。
もしかしたらそもそも、女性に聞く内容ではないのかもしれない。
「白沼さんが思ってる以上に、好きだよ」
「……」
「だからこんなに怒ってるの。訳わかんないの」
黒川はそう言うと、俺の手を振りほどいてどこかへ行ってしまった。
残された俺は、腕についた歯形を見たがら考えていた。
今日一日で好き好き言われ過ぎて俺も訳が分からない。
命を救ったからと言って、これは俺にとって意味不明すぎた。
少なくとも俺はこんなに恋愛に積極的に関わるような人間ではない。
(俺の思っている以上に、か)
ありふれた言葉だ。
しかし言葉通りに捉えるなら、俺の思考を読んだような言葉である。
ただ、あのような態度は嫌いではなかった。
人に堂々と文句を言ったり不平不満を態度で示すことができるということは、少なくとも一方的な関係ではないからだ。
ちなみに歯形からは血が溢れていた。かなりの強さて噛んでいたのだろう。黒川は本格的に吸血鬼に近くなったようだ。
歯形を見ながら少し待つと、桑水流がやってきた。
流石に申し訳なさそうな表情をしている。
ということは、エリシュカが勝手に桑水流の愛を告白したことはまだ知らないのだろう。
後でちゃんと言うのだろうか。言わなかったら割と鬼畜な所業だと思う。
「……あの、さっきは」
「謝んなよ。別に悪いこととは思ってない」
卵を勝手に食べたのはどうかと思うが、外で寝た俺の横で寝たのは別に問題はなかった。
ただ、それが俺のことを好きだからだと思うと、少し距離を近づけすぎたと思う。
「あの、卵は何らかの形でいつか返えそうと思っています」
「いらねーよ」
「……黒川さんが怒ったのは、私が……」
「いいから、さっさと飲め」
そうして腕を伸ばすと、当然かもしれないが桑水流は俺の腕についた歯形に気が付いたようだった。
眉を顰めて俺の方を見上げる。
その目線を無視してさっさと飲めと促す。
桑水流はそのまま俺の血を飲むが、途中で何故か俺の腕を強めに噛んできた。
「いてーよ」
「……ご、ごめんさない」
俺の腕に新しく歯形がついた。赤くなっている。
血は出る程に噛まれてはいないが、痛いものは痛い。
桑水流は自分が何をしたのかを理解したのか、そのまま一度頭を下げると走ってどこかへ行ってしまった。
なんで2人から噛まれなければならないのだろうか。
俺の腕は噛めば出汁でも滲み出るのだろうか。
いつもは二人とも歯で噛んだりはしない。舐めるくらいだ。
一人部屋に残り、エリシュカの言葉を思い出し二人の歯形を見つめる。
桑水流も、というのは今の行動でなんとなくわかった。
言葉で聞かなくてもわかってしまった。
俺の体についた怒りと嫉妬の歯形は、消そうとしても消せないくらいに深い。
この状況は面倒だ。面倒だが、俺のせいだと歯形が言っていた。
本気にさせてしまった俺のせいだとエリシュカの言葉から感じ取った。
横にあったソファーに腰掛け、タバコに火をつける。
本当なら今日は、横山のところに行こうと思っていた。
横山の集団は10人くらいの人数だったが、昨日病院にいた人間は半分程度だった。
恐らく、車の関係で2班に分かれて北に向かっていた。
だとしたら、残りの1班から何か情報が得られるかもしれないと思ったからだ。
しかしこの状況で3人から離れすぎるのもまずい。
一番いい方法はわかっている。
俺がいつも通りに適当な嘘をついて、彼女たちと適当に恋人ごっこをすればいい。
立場がどうとかの感情論を差し引けば、一番楽だ。
多分だが、少なくとも現状より安定するはずだ。
しかし、その方法がとれないから困っている。
そこまで滅私奉公するような性格じゃないし、俺も嫌で彼女たちも嫌だろう。
だからと言って、納得させられる理由もない。
と言うか、何を言っても納得してくれないような気がしてきた。
このまま粘られて粘り勝ちされるのはムカつく。
答えの出ない問題を考えるのも飽きたので、彼女たちの様子を見に行くことにする。
建物を出ると、すぐに見つけることができた。
いつかのように、桑水流と黒川が畑で何やら作業をしている。
壊れた柵を補修しているのだろうか。
田舎のお婆ちゃんスタイルに戻ってしまっている。
桑水流は左腕をかばいながらの作業だが、いつも通りテキパキ動いている。
黒川はしかめっ面だ。近づかない方がいい。
エリシュカは鶏小屋で何かをしていた。
何をしているのかはわからない。実のある作業をしているのだろうと無理やり思い込む。
エリシュカは心を入れ替え、労働という言葉を覚えたのだと勝手に思い込む。
釣りや病院に行くと後からいろいろ言われそうなので、管理所周りで作業するしかない。
しかし、雰囲気は最悪に近く気まずい。
そして正直やる気も起きなかった。
(なんつーか、タイプじゃないな)
心から、そう思った。
……
しばらく鶏にエサをやったり漫画を読んで時間を潰していると、エリシュカがやってきた。
手に工具を持っているところを見ると、鶏小屋に関係して何か相談だろう。
「白沼殿ー」
「なんだ」
「釘がもうないのじゃ。どこかにないかやー」
釘と言えば、確かテントの中にいくつか置いていた。
現状他に使うあてもないし、問題ないだろう。
というか、暇だったのでちょうどいいと立ち上がる。
「テントにある。とってくる」
「わしも一緒に行くのじゃ」
エリシュカはそう言うと、歩き始めた俺の横にぴったり並んでついてきた。
歩きながら鼻歌を歌っているところを見ると、だいぶご機嫌なようだ。
先ほどの会話で気持ちスッキリしたのだろうか。俺は全くスッキリしていない。
もやもやしたままテントに入り、中を物色する。
テントの中はもはやだれが流したのかわからないくらいに血痕が残っている。
普通に見れば不気味な感じだ。
適当な工具箱を開け閉めしていると、ようやく使えそうな釘を見つけた。
エリシュカの方を振り返ると、別の工具を物色していた。
「あったぞ」
「お、あったのかや……のわあああ!」
手を滑らせたエリシュカが変な奇声を上げて工具をまき散らしてしまう。
アホな奇声に吹き出しそうになるが、手伝ってやらないといけない。
そのままエリシュカは慌てたように工具を拾い上げるが、屈んだときにお尻を背後の段ボール箱にぶち当ててしまった。
どこかのお笑い劇場のような感じに、2段に積み上げてていた段ボール箱がガラガラと崩れる。
そのままエリシュカの頭に段ボール箱が降り注いでしまうが、中は何も入っていない軽い箱なので問題はないはずだった。
「おい、大丈夫か」
「あいたたたた、痛いのじゃー」
段ボール箱を横にのけ、エリシュカに近寄る。
痛いと言っている割には、見た目怪我などはなさそうだった。
まさかここでドジッ子キャラを発揮するとは思っていなかった。
「怪我はないな。さっさと片付けるぞ」
「う、うむー。すまぬー」
エリシュカは服についた埃をパンパンと手で払うと、自分の体を眺めて怪我がないことを確認していた。
その光景を横目に、俺は崩れた段ボール箱を片付ける。
「……」
片付けていたが、背後のエリシュカの方から音がしない。
何かあったのかと振り返ると、エリシュカは自分のめくれた袖を見ていた。
「どうかしたか」
近寄ってエリシュカの腕を覗き込む。
エリシュカの服の袖がめくれ、彼女は素肌をさらしていた。
そして、そこには潰れた蟻がついていた。
足が赤く、緑色の液体を吐く例の蟻だ。
無表情のエリシュカがこちらを見上げて、言った。
「あ、感染したのじゃ」
「……」
エリシュカは割と普通な感じに言ってきた。混乱したり取り乱してはいない。ただ呆然としている。
当たり前だ。俺がどうにかすると言っている。
発症しなかった事例が2度も続いただけに、俺も既に発症を抑える方法には確信を持っていた。
だからこそ、俺はエリシュカのことより自分のことを考えていた。
ついにこの時が来てしまった。
明日からは3人から血をチューチュー吸われる生活が始まってしまう。
俺の貧血生活はさらに苦しいものとなるのは確定的で、俺はミイラのようになった自分の未来を想像した。
そこには希望はなく、ただ日々栄養のように命の水を吸われて干からびる自分の姿があった。
「マジかよ……」
「マジなのじゃ……」
二人して、そのまま突っ立って呆然としていた。
それは悲観的というより、2か月近く感染を回避していたエリシュカがここで、という意味で呆然と立っていた。
こんな形で感染するとは欠片も考えていなかった。
ドジッ子で感染。黒川と一緒だ。
「……とりあえず」
「……みんなに報告するかの」
二人して、腕を見つめて動けないまま口だけが回っていた。
……
「あ、わしも感染したのじゃ」
「え?」
「はい?」
管理所に帰ると、農作業をしていた2人にさっそくエリシュカが報告をした。
田舎のお婆ちゃんスタイルで道具を持ったままの2人が突っ立っていた。
既に感染では死なないとわかっているだけに、そこに悲観的な驚きはない。
ただ、いきなり報告されるといきなり過ぎて頭がついていかないものなのだろう。
「あ、明日から睡眠なのじゃ」
「……」
「……」
というか、エリシュカの報告の仕方もひどい。
もう少しマシな形で報告できないものなのだろうか。
「あ、でもこれでみんなに触れるのじゃ」
「……」
「……そうですね」
桑水流が何とか返事をしていた。
少しこちらに目をやっていたのは、俺の貧血具合を心配したのだろう。
それとやはりエリシュカは、誰にも触れることができない現状に嫌気は感じていたのだろう。
普通なら、恐らくエリシュカが一番人に触れあったりするタイプだ。
以前から抱き合う黒川と桑水流に羨望の眼差しを向けるなど、推測できそうな点はあった。
しかし先ほどまで恋愛だ何だと盛り上がっていただけに、この報告はその場の雰囲気を完全に払拭していた。
この状況で恋愛だとかを優先する奴はいない。
それでも、いきなり元のように話したりはできないのだ。
ある意味、さっきまでより気まずい雰囲気になっていた。
誰よりも、さっきまで不機嫌だった黒川が一番呆然としていた。
ここで恋愛の問題で不機嫌になれるほど黒川は馬鹿ではない。
だからと言って、いきなり不機嫌ではなくなれるほど素直でもないのだろう。
「あの、それではエリシュカにも……」
「そうだな。血を飲ませる」
「え、血なのかや?」
エリシュカは未だ精液だと思い込んでいるのだろうか。
しかし、ツッコミを入れる者はいない。
それくらい、その場の空気は混沌としていた。
そう言えば、エリシュカがこれから寝るなら俺は明日告白への回答をしなくていいのかもしれない。起きるのは早くて一週間後になるはずだ。
感染したことは最悪だが、タイミングは悪くない。
気楽にそう考えた。
というかドロドロの恋愛雰囲気に嫌気がさしていた俺としては、正直この雰囲気の変化は嬉しかった。
しかし俺とは違い、黒川はずっと無言で口を開けたまま突っ立っていた。
感染したエリシュカよりも、どう声をかけていいかわからなかった。