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41.毒物接種

 一度病院へ寄ってから、俺達はキャンプ場に帰ってきた。

 病院では横山に、北には行かないことを伝えただけだ。横山はそれに黙って頷くことで答えていた。

 恐らく、北には行かないという判断を自分の思考と照らし合わせていたのだろうと思う。


 放送の追加部分とワクチンについては、ひとまず保留するしかない。

 東京で放送を聞けたと言うことは、少なくとも二日は何も起こらないと考えていいはずだ。

 放送を聞いた人間が移動する時間がなければ、追加部分の意味がない。

 これからの二日はいつも通り、生活基盤の修復に精を出すのが一番だろう。

 もちろん、ラジオの情報だけは聞き逃さないようにするが。


 キャンプ場には、一週間くらい来ていなかった。

 以前来た時、俺は3人殺した。その場にいた名も知らぬ少女も既に死んでいるだろう。

 胸元には常に銃を隠している。既に残弾は一発だけだ。可能ならば、使う機会はない方がいいのだ。

 キャンプ場ではこれ以上、人の汚い部分の臭いを残したくはなかった。


 時間は既に夕方だ。

 陽が落ちる前に急いで鶏小屋を作ることにした。

 エリシュカと桑水流には畑の状態の確認と復旧を頼む。


 俺と黒川は軽トラに乗り込み、さっそく鶏小屋の製作に取り組む。

 何故か黒川は軽トラの荷台に乗り込み楽しそうな表情をしている。動く軽トラの荷台に乗るのが楽しいのはなんとなくわかる。

 設置場所はひとまず管理所のすぐ横にした。

 野生の獣に鶏が襲われるのを防ぐためだ。


「黒川、小屋を降ろすぞ」

「肉体労働反対ー!」


 黒川はそんなことを言いながら、普通に作業を始めていた。

 小屋はいくつかのパーツに分かれている。それを釘や器具で固定するものだった。

 小屋自体には止まり木などはないので、適当な木材を持ってきて代用する。

 多少不格好になっても問題ないだろう。


「これって何に使うの?」


 黒川がモンキーレンチを持って不思議そうに眺めていた。

 エリシュカが軽トラにいろいろ放り込んでいたから、恐らくそのうちの一つだろう。


「今は使わん。ほっとけ」

「えー、このシュッとしたフォルム、可愛いと思うんだけどなー」


 俺が作業している横で、黒川は完全に脱線していた。

 モンキーレンチが可愛いのが最近の若い女の思考回路なんだろうか。

 俺はモンキープライヤーの方がいいと思うが。


「いいからさっさと組み立てろよ」

「しっかたないなー」


 黒川は笑顔でそう言うと、俺の横に座って俺の釘打ちを眺めだした。

 時々不安定な木材を固定しようと手を伸ばすので、一応手伝っているつもりなのだろう。

 よく考えれば、若い女性に自分で考えて作業しろと言っても無理がある。


「あの土台を設置場所に移動しといてくれ」

「ん、あれを? 今回だけだぞー」


 くだらないことを言う割に、黒川は俺の指示に従いパッパと動く。

 金色の綺麗な髪が右へ左へと移動する光景は、なかなかに俺の目によく映った。

 最近気づいたが、汗を流しながら髪を風に靡かせ動き回る女性の姿というのは、なかなか見ていて絵になっている。

 しかし適当に指示を出しながら小屋の作成を進めるのは、意外に難しかった。


 その後やたらとテンションの高い黒川の相手をしながら、時間をかけて小屋を完成させた。

 黒川は完成した後、頬を伝う汗を拭いながらやり切った表情をしていた。

 俺は普通に疲れた表情をしていたと思う。

 完成した後に水を飲んだが、溶けそうだと思う程においしかった。

 労働の火照りと、太陽の熱気で息苦しい体に一時間ぶりの水だったからだろうか。


 小屋に鶏を放り込んで様子を少し見ていると、桑水流とエリシュカもやってきた。


「小屋、立派なものができたんですね」

「すごいのー。畑の方は小さいのは無事じゃったぞー」

「恐らくですが、今週中には小さい物なら食べられそうです」


 何故かふらふらしているエリシュカと桑水流が報告をする。

 ふらふらしているのは最近までまともに労働していなかったからだろう。

 ただ、なぜか桑水流の鶏への視線がやけに鋭かった。

 なんにせよ、作物の収穫が可能なのは嬉しい。

 鶏卵もいずれは採取できるだろう。


 その日3人はいつも通り保存食を食べて寝床についた。

 明日からは、マトモな食事にありつけることに期待しているのかもしれない。

 可能なら保存食は大事にとっておきたい。


 俺は寝る前に一人で、テントの方を一度見に行くことにした。

 テントはそこまで離れていない。歩いてもすぐについてしまう。


 以前テントで3人を殺した。その臭いがそこには、なんとなく残っていた。

 テント前の草むらにはかなりの量の血痕が残っている。

 血痕は既に乾ききっていた。時間も経っているし当然だろう。


 血痕の周りには何匹かの蟻がうろうろしている。

 ジュースをこぼした跡のように、血液をこぼしても蟻はたかる。

 テントの中の血痕にも、多くの蟻がたかっていた。俺の流したであろう血にもたかっている。見ていてあまりいい気分になる光景ではない。


 既に乾いた血痕は隠すことができない。そのうち、3人にも見られてしまうだろう。

 エリシュカには説明していたが、他の二人にも早い内に説明するべきかもしれない。

 いきなり見たらびっくりさせてしまう程の血痕だ。


 後片付けや意味のない隠蔽工作を少し考えていたが、できることはなかった。

 死人の血をすすり、それすら栄養としてしまう蟻は、どこでも生きることができるのだろう。


 乾いた血をすする蟻を少し眺めて、俺は管理所の方に戻った。


……


 その夜、早朝とも言える時間、俺は物音によって目を覚ました。

 以前エリシュカが夜這いしに来た時もこんな感じだった。外はまだ暗い。


 音は鶏小屋の方から聞こえた。今度はエリシュカの夜這いではなかった。

 もしかしたらイタチや狸が鶏を襲っているのかもしれない。

 そう考え、すぐにショベルを片手に音を立てずに鶏小屋に近づいた。

 一応侵入者という線もある。無理やり寝ぼけた脳を叩き起こし、臨戦態勢に入る。


 鶏小屋からは、何やらゴソゴソと音が聞こえていた。

 どちらかと言うと、人のような気配を感じる。

 食料を求めに来た奴だったらどうしようかと考えるが、とりあえず気付かれないように近づいた。


 そこにいたのは。桑水流だった。

 長く暗闇に溶けて先が見えなくなっているその髪に、思い当る人間は他にはいない。

 こちらに背を向け、何やらゴソゴソと何かをしている。


「綾乃?」

「!」


 桑水流があからさまに驚いた風に肩をびくつかせた。

 恐る恐ると言った風に、こちらを向いた。

 その手には恐らく今しがた鶏が産んだのであろう、卵が握られていた。

 もう片手にはペットボトルが握られている。


「何してんだ」


 そう言って近づくと、なんとなく意味がわかった。

 桑水流の持っていた卵は綺麗に割れていた。

 桑水流は口の中に何かを含んでいる。


 恐らく状況をそのまま飲み込むなら、桑水流が卵を盗み食いしたのだ。

 桑水流がやりそうにないことだけに、疑問に感じる。

 やったのがエリシュカならすぐに納得するのだが。


 そう言えば、桑水流は生卵が好きとか言っていたことを思い出す。

 まさかそのために盗み食いしているのだろうか。


「食ったのか」

「……はい。申し訳ありません……」

「……」

「……ま、毎日生卵を食べる習慣があったので、つい……」


 桑水流は口に含んだものをゴクリと嚥下した後、申し訳なさそうに白状した。

 桑水流が生卵に目がないことが判明した瞬間であった。正直驚いた。

 謝る前に飲み込むところが、まさに絶対に食べるという意思を感じさせる。

 さらに、桑水流家には毎日生卵を食べる習慣があることが判明した。どうでもいい。


 怒る前に気になることがあった。

 確か生卵の殻にはサルモネラ菌が繁殖しているはずだ。ペットボトルの水で洗ったのだろうが、殺菌はできていないだろう。


「ちょっと来い」

「え?」


 桑水流を小川まで引っ張っていく。


「市販されている生卵じゃないなら、危険だろ」

「あ……」


 桑水流は今気が付いたように目を大きく広げた。

 本当にこいつは時々抜けている。生卵を前にして目が曇ったのだろうか。


「サルモネラ菌はヤバイだろ」

「そ、そうですよね。どうすれば……」


 急に慌てたように桑水流の挙動は不審になった。

 最初からすんなと思うが、今は対処が先だ。小川の前に立ち、言い放つ。


「吐け」

「え?」

「胃の中のもの、吐け」


 他に対処方は思いつかない。

 ダメそうなら横山のとこに運ぶしかない。

 せっかくの卵だったが、致し方ない。口に入れば満足は得られただろう。


「ど、どうやって……?」

「口の中に手を突っ込むんだよ」


 ジェスチャーで示してやるが、桑水流は今まで無理やり吐くということをしたことがなかったのだろう、わからないという表情をする。


「とりあえずやってみろ」

「……はい」


 そう言って桑水流は口に手を入れるが、すぐに引っ込めてしまう。

 確かに、俺も初めてやった時は不快な恐怖心を感じたものだ。


「だ、だめです……怖くて……」

「いいからやれって」

「うう……」


 桑水流は手を口の中に入れるが、すぐにまた引っ込めてしまう。

 これでは埒が明からない。


「うう……し、白沼さん……」

「……わかった。やってやる」


 桑水流は泣きそうな表情でこちらを向く。仕方ないので桑水流の頭を片手で固定し、手を口に近づける。

 早くしないと危険かもしれないのだ。


「入れるぞ」

「ええ! そんな―」


 桑水流の抵抗を無視し、口に手を突っ込む。

 桑水流は最初俺の手を握って軽く抵抗していたが、すぐに手を離して俺の服の方を握りしめ、目を強くつぶった。


 人の口の中は、熱い。唇は柔らかく、その舌の感触には人の冷静さを奪ってしまうような何かを感じさせる。

 口の中に異物が入ると、人間は舌でそれが何かを確認する習性がある。

 桑水流の舌が少しだけ俺の手を這いまわり、緊張したように動かなくなる。


 ゆっくりと手を咥内の奥に侵入させていくと、やがて桑水流は首を大きく揺さぶった。

 すぐに手を離し、桑水流の首を川の方に向けてやる。


 桑水流は吐いた。

 割と可憐な印象の桑水流だったが、ぶち壊しだ。

 清楚だろうがなんだろうが、吐く時は誰でも喉を振るわせて胃の中の物を吐くのだ。

 人の吐く音や臭いを感じると、自分まで吐きそうになってしまう。


 あまりその姿を見たり音を聞いてやるのは酷なので、とりあえず上を見上げた。

 既に日本中は停電で夜中に明かりは少ない。


 そこにあるのは月明かりと星明りだけだ。

 東京では一切見る事のなかった満点の星空がそこには広がっていて、天の川銀河ですらはっきり認識できるくらいの眩しさがあった。


 夜の星空には、人を感傷的にさせる何かがある。

 落ちてきそうな程の光の粒たちは、夜中に深々と降り積もる雪を連想させる、

 夏の星空と、冬の夜中に降り積もる雪は似ている。


 感傷的とは言ったものの、自分が具体的に何を感じているかはわからないのだ。

 それでも誰しもが詩人になってしまうという夜空には、不可思議な何かを感じる。


 聞こえるのは、虫の鳴き声だ。

 虫の種類などはわからないが、それでもその醜い姿を想像できないほどの美しい音色だ。

 星空の美しさと虫の音色は人の理性を緩やかに破壊し、全ての人はその動きを止めてしまう。

 

 ただ、それに加えて聞こえるのは桑水流が吐く音だった。

 全てがぶち壊しであった。


……


 胃の中の物を全て吐き終えた桑水流は、吐き疲れたかのように地面にぺったりと腰を下ろしていた。

 小川の水で口をゆすいでいたが、それすら億劫そうに見えた。

 もしかしたら羞恥心などもあるかもしれない。

 迂闊に声をかけていいものなのかと少しだけ悩んでしまう。


 ただ、桑水流は涙が少し流れた跡のある顔で俺の方を向いて、何かを言いたげな表情をしていた。

 多少の保護欲を感じさせる表情であるが、それを無視して桑水流の横に座り込む。


「……」

「……」


 お互い話すことがない。

 卵を食べたことに突っ込めばいいのか、吐いたことは忘れるとでも言えばいいのか。

 どちらにせよ、疲れ切った風な桑水流に言う言葉ではなかった。


 黙ってなんとなく夜空を眺めていると、桑水流が突然肩を寄せてきた。

 その手は俺の腕にしっかりしがみつき、離そうとしない。


 俺としては全く甘い雰囲気の状況ではなかった。

 先ほどとのギャップで完全に混乱してしまう。吐いた後にムーディーにはなれない。

 流石に振り払うべきだろうか。


 ただ桑水流の表情をよく見ると、甘い雰囲気ではなく俺に抱き着いているようだった。

 少しだけ手は震え、恐怖心から逃げるように俺に抱き着いていた。

 それは吐く時の恐怖心だろうか。それとも細菌への恐怖だろうか。


 黙っていては、わからないのだ。

 しかし俺には、それを聞くには少し睡眠が足りていなかった。

 突然起こされて、沈黙の時間も長かった。夜空は眺めすぎると眠たくなる。


 桑水流を引きはがす気はしない。

 ついでに、部屋に戻って布団まで行く気がしない。

 その中で俺が選んだ妥協案は、その場で横になることだった。

 あまりの眠たさにドサッと体を草むらに倒した。


「きゃっ」


 抱き着いていた俺が倒れこんだことで、桑水流まで一緒に倒れこんでしまう。

 可愛い悲鳴は、むしろ俺の胸で顔を打った痛みから来たもののようだった。

 それすらどうでもいいほどに、俺は眠る気満々だった。


 桑水流は俺の胸の上に倒れこんでしまっている。

 重いとは思わない。むしろその温かさが布団の代わりになるくらいだ。

 真夏の夜であることを考えると、少し暑苦しいくらいだが。


「あの、寝てしまいましたか?」


 遠くから、桑水流の声が聞こえた気がした。

 返事はする必要がない。


 寝ている人間は、寝ていますとは言わない。

 そのことを理解したのか、桑水流は俺に体重を預けて体から力を抜いたようだった。


 草むらの撫でるような涼しさと、小川の涼やかなせせらぎ。

 桑水流のふわりとした温かさと、真夏の夜の蒸し暑さ。


 部屋に戻って眠るなどとは考えられず、俺は簡単に意識を手放した。

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