40.北上回避
胸を押さえて顔を伏してしまった桑水流を見ながらボケッと待っていること数分。
エリシュカと黒川はすぐに戻ってきた。
割と時間がかかっていたのは大きい方に行っていたのだろうと思ったが、どうやら違ったようだ。
二人とも、その手に大きな何かを抱えて走ってきた。
「鶏とったのじゃー!」
「鶏とったどー!」
「は?」
「え?」
二人は意気揚々に両手で暴れる鶏を押さえつけながら、掲げるようしてこちらに見せてきた。
この辺りで飼われていた鶏だろうか。
しかし鶏を見つけたから獲ってきたとか行動力がすごいなと感じる。
「……とりあえず鶏から手を離せ」
「離したら逃げてしまうのじゃー」
よく知らないが、鶏にもノミとかついているかもしれない。
嘴や爪で傷をつけられて、何らかの病気に感染する可能性もある。
エリシュカと黒川が鳥インフルエンザに感染する可能性はゼロではない。
ゲージの代わりになるものはないかと周囲を見渡すと、段ボールがあった。
これでいいか。
「この中に入れろ」
鶏は1mくらい飛ぶと聞いたことがあるが仕方ない。
二人は鶏を段ボールの中に放り込んだ。すぐに箱を閉じると、中から鶏が暴れる音が聞こえた。
貴重な食料だ。昔見たテレビ番組でも、節約の為に鶏の卵を食べる奴がいた。
卵を産ませるだけ産ませて、あとは解体して肉を食べる事が出来そうだ。
「どこにいた?」
「トイレの裏手に飼育所があったよ。2匹だけだったけど」
黒川がやってやったぜという面で自信気に答えた。
エリシュカも偉そうにふんぞり返っている。
ムカつく表情だが、最近おいしい物を食べていなかったので素直に嬉しかった。
しかしもし飼育するとして、当然俺は方法など何も知らない。
飼育場には小屋や柵は必要だろうし、エサは何を食べさせればいいのかわからない。
「黒川、案内しろ。エリシュカと桑水流は鶏見張っとけ」
「おけー!」
3人の返事を聞くと、俺は黒川と一緒に飼育所とやらに移動した。
そこには恐らく誰かの趣味で作ったのだろう、小さな鶏小屋があった。
面積は4㎡程度、屋根付きの小さな木製の小屋で、大きい網をつけて日光が入るようにしてある。
中に見えるのは、巣箱、水入れエサ入れ、それと鶏が大きく動けるように止まり木らしきものや棚がつけてある。
エサは黄色っぽいトウモロコシの粉らしきものだ。
このくらいの小屋なら、ホームセンターにあるかもしれない。トラックで運べる。
エサのストックはあるだろうが、それが尽きたら残飯でも食べさせるしかない。
昔は犬にも残飯を与えていたと言うし、問題はないだろう。
「このくらいの設備ならなんとかなるか……」
「ね、いいでしょ? うちで飼ってもいいよね?」
「ダメとは言ってねーよ」
黒川が迷子の子犬を拾ってきたみたいに懇願してきた。後々食べるつもりなのだが。
うちでは飼えません、捨ててらっしゃい、とは言わない。様式美より食欲だ。
まあそもそも、北に行くなら置いていくしかないが。
とりあえず黒川を引っ張って車まで戻る。
これからの方針について話したい。
車まで戻ると、暴れる段ボール相手に桑水流が悪戦苦闘していた。
エリシュカはその横で笑っている。気楽なもんだ。
「ちょっと集まれ」
軽く号令をかけると全員が近くに歩いてきた。
まるで学校の先生になったかのようだ。
少し真面目な雰囲気を出し、話を切り出した。
「さっき北から戻ってきた知り合いに会って、情報交換をした」
「知り合いじゃと?」
「ああ、現状はワクチンの配布はされていないみたいだ」
「え……」
単刀直入に言うと、エリシュカが絶句したように驚いている。
やはり唯一感染していないエリシュカからしたら、死活問題なのだ。
横山は近々配布されるだろうと言っていたが、そのソースはあくまで噂だ。
「当然安全地帯には移動できないままだ。で、これからどうするか」
「……」
「報道があった以上、俺は事の推移がどうなるかの情報は欲しい」
「……」
「ただ、むやみに北に行くのは安全上、避けたい」
これからの話になると、割とこいつらは俺任せになりがちだ。俺が年長である以上仕方ないのかもしれないが。
実際、俺の話を聞いて自分の意見を言おうとしていない気がする。
「……今はまだ宇都宮だから帰ろうとすればすぐに帰ることができる」
「……」
「何か言いたいことがある奴はいるか」
「……わ、わしはやっぱり、北に行きたいのじゃ」
「……」
「ただ、危険ならしょうがないのじゃ」
エリシュカはそうだろう。予想はできていた。
感染しても俺の血があるとはいえ、生存確率は100%とは言えない。
黒川達は考えていないようだが、俺の血の影響でワクチンの効果が変わってしまうことだってあり得る。
「だろうな。黒川は?」
「えと」
「先に言っとくが、俺の言うことを聞くとかはなしだ」
「……なら、やっぱり普通の生活に戻りたいな」
黒川はアクティブな方だが、女子学生である以上やはり文化的な生活に未練があるだろう。これは3人に共通しているはずだ。
服や化粧品、洗剤やシャンプー。
生活必需品はあるが、いつ尽きるかわからない。
俺はそれらがなくなったところでどうとでもなるが。
「あ、でもその時は白沼さんと一緒だよ」
「……」
「それに、時間があるなら待ってもいいかな」
俺が北に行く事に後ろ向きなのを察したのだろうか。どちらにせよ、黒川は症状が現れないから余裕もあるはずだ。
人を殺しまくった俺が言う言葉でもないが、俺は危険からは遠ざかるタイプだ。
そもそも、俺の耐性を考えると人とそこまで関係したくない。
3人と病院の連中、それくらいでちょうどいい。
「綾乃は」
「……私は、北に行くべきではないかと」
「理由は」
「……今ワクチンが接種できないとしたら、接種できるようになる時はまた放送があると思います」
正論だ。まぁ桑水流も発症しないから余裕がある。
だからこそ。
「ただ、エリシュカの意見は尊重したいと思います」
この場で最も意見の意思が強いのが、エリシュカなのだ。彼女を納得させることが肝要だ。
恐らく桑水流は俺の血液の限界も気にしている。既に貧血気味な俺に、さらに負担を掛けようとは思っていないだろう。
俺としてはいざとなればエリシュカにも血を飲ますつもりだ。
それもあって、エリシュカには感染してほしくないのだろう。
エリシュカは桑水流の言葉に、申し訳なさそうな表情を作る。
それに対し桑水流は、緩やかな笑みで返す。長い付き合いなのだなと感じさせる光景だ。
軽くため息をつく。思いつくのは保留案だけだった。
横山の情報から、すぐに北に行く意味はほとんど消えた。いずれ行く必要はあるかもしれないが。
つまり一度キャンプ場に戻り、ラジオや横山からの情報を待つ。それだけだ。
これが悪い案とは言えないが、積極策ではないのが微妙なところだ。
蟻の毒が無効化された場合、俺は身の振り方を考える必要が出てくる。だからこそ、本当のところはすぐにでも情報は欲しい。
積極策が取れない以上、エリシュカには言っておかなければならないことがあった。
彼女の意見を無視する代わりに、最終的に決断する俺がその責任をとる必要があった。
元からそうする気があっても言葉にしなければならないのは、義理のようなものだ。
「エリシュカ」
「な、なんじゃ」
「もしお前が感染しても、俺が責任を持って発症から防ぐつもりだ」
「……ほへ?」
「だから、今回は帰ろうと思う」
エリシュカは答えを予想していたかのように、少し顔を伏せた。
黒川はどっちでもいいという感じだった。
結局、宇都宮まで来てトンボ返りだ。
無駄な苦労だったと気が滅入りそうになるが、俺の目には鶏が暴れる段ボール箱が映った。
「鶏も見つけたことだしな」
そう言葉にすると、無駄ではないと思えた。
横山に会えたし、無駄なことなんてないのだ。ドライブは苦痛だったが。
少し楽になった表情で、エリシュカを見つめる。
「正直なところ、俺はワクチンの報道は怪しいと思っていた」
「?」
「ワクチンを今後すぐに接種できることはない。そう思っている」
確証がないため口にはしていなかったが、実際に口に出すとスッキリするものだ。
エリシュカは予想していただろうか。その反応からは計り知れない。
「わしらがはしゃいでいたからなのかや?」
「……ん?」
「わしだけが、感染していなかったからなのかや?」
「……」
俺が自分の冷静な意見を押し殺した理由、だろう。
情報の必要性もあるが、結局のところはしゃいでいたエリシュカ達を止めたくなかったからだ。
エリシュカが泣きそうな表情になってしまった。
ここでエリシュカにこんな顔をさせてしまったのは、俺が迷ったからだ。
俺が迷った原因は、俺の決断力のせいだ。間違ってもエリシュカのせいではない。
将来的なワクチンの是非は置いておいて、俺は腹を括らなくてはならなかった。
ワクチンができなかったら、一生3人と一緒に暮らしていくと。
それを彼女たちに伝えられるほど素直な人間ではないが。
「エリシュカ」
「なんじゃ」
泣きそうな表情は、いつだってどうにかしたいものだ。
「俺が迷っていた理由は、俺の感情的な問題だ」
「……」
「お前らのせいじゃない。変に気を遣わせて悪かったな」
これで許してくれと、飴を取り出した。
今回はストロベリー味だ。俺の謝罪の度合が計り知れるはずだ。
「……前から思ってたんじゃが」
「なんだよ」
「この飴、全部おいしくないのじゃ」
全部と言うことはハッカ味以外も、ということだろう。
内心少しショックを受けていると、エリシュカはその飴をひったくる様に受け取り、その小さな口に投げ入れた。
「責任、とってくれるんじゃろ」
「そうだな」
「3人の責任、とってくれるんじゃろ」
この発言は、意味深だった。妊娠した女が言いそうなセリフだった。
黒川と桑水流も真面目な表情でこちらを見ていた。
この場合は蟻の毒についてのはずなのだが。
「ああ、本当のワクチンができるまでな」
短く答えた。これでこの先ワクチンができるまで貧血は避けられない。
桑水流と黒川には以前言ったことがある。今更、という感じもする。
「そ、それじゃダメなのじゃ」
「は?」
「……なんでもないのじゃ。ワクチンのことはとりあえず忘れたのじゃー」
下手くそな口笛を吹きながらエリシュカはあからさまに誤魔化した。
突っ込みたいところだが、今はいいだろう。
「それじゃ、帰るか」
いろいろ面倒な葛藤があった。
ワクチンができたという報道は俺を惑わせた。
3人のことを、考えすぎたと思う。ワクチンの事はとりあえず保留でいい。
ラジオと横山情報で我慢だ。
「さっさと帰って、鶏小屋でも作るか」
せっかく鶏が手に入ったのだ。
まずはこの食欲を満たすことが第一だ。
そう言って俺は一人、車に乗りこんだ。
3人は少しだけ俺に聞こえないように何かを話し、すぐに車に乗り込んできた。
その表情は思っていたより暗くはない。
ワクチンの報道は微妙だと言ったのに、むしろ明るいくらいだ。
そのことが少し気になったが、まぁいいかとエンジンをかける。
車内には行きのような浮ついた雰囲気はなかった。
それでも悲観的な雰囲気の一切は感じられず、鶏の暴れる音が目立つくらいだ。
帰りの車内は誰も眠ることはなく、ただの雑談ばかりが聞こえていた。
行きとは違い、イラつくこともなくドライブができた。
ただ、雑談の中で発覚したエリシュカが実は免許を持っているという事実には、流石にキレそうになったが。
一応ペーパーみたいだから許した。
……
途中にあったキャンプ場から遠くない場所のホームセンターで、鶏小屋に使えそうなものやエサを見つけた。
燃料の入った軽トラも見つけたので、それに乗せて嫌がるエリシュカに無理やり運転させた。
俺の車は運転させたくないのだ。
この世の中、車に傷でもついたら直せない。
俺の車内には桑水流、エリシュカの方は黒川が乗っている。
キャンプ場までの短い距離のその途中、つけっぱなしにしていたラジオからまた例の放送が聞こえた。
その放送の怪しさは以前と変わらない。
桑水流は初めて聞いたはずだが、眉を寄せて変な顔をしていた。横で見ていると笑いそうになる。
途中までは惰性で聞いていた。内容は前回とほとんど同じだったが、細部が少しだけ異なっていた。
『日本国民の皆様に置かれましては、可能な限り青森付近に移動して頂きたいのです』
その言葉が、追加されていた。
桑水流と目を合わせる。
前回の放送は俺が桑水流に事細かに説明していた。その内容は全て記憶している。
怪しいと思っていた放送だが、ここにきてその疑念は破裂しそうなほどに膨らんだ。
現状ワクチンを配布していないのなら、この放送はありえない。
人が集まれば感染の危険が増す。
食料もなくなる。略奪も増える。暴動の可能性も増える。
政府の意図を推測する材料は少ないが、これは良くない意図がありそうな気がした。
わざわざこの一文を追加したということは、そこに確実に何らかの思惑がある。
その一文は多くの危険を生み出している。
蟻の毒の脅威に怯える人間の多くは、これで北に行くことを決心するだろう。
ストレートに意図を推測すると、これは迅速にワクチンを接種させるための措置だ。
人を一か所に集めて一気にワクチンを接種させる。
人を一か所に集めて、実際のところ政府は何がしたいのか。
「これは、あいつらには教えない」
「その方が、いいでしょうね……」
桑水流は俺の意図を理解し返答してきた。
桑水流はこういうところで頭が切れる。
土壇場で北に行かないことを選択できたことに安心した。
同時に、何か嫌なことが起こりそうな雰囲気を感じた。
青森では今後数日で、何かが起こるのか。
意味もなくバックミラーで青森方面に目をやってしまう。そこに映るのは車内と普通の街並みだけだ。
情報から遠ざかる俺には、その意図をすぐに知る方法はなかった。