35.脳内摩擦
桑水流は睡眠につく前に、一切緊張した様子がなかった。
それでもやはり一週間の睡眠というのは寂しいのだろうか。
寝る前に少し話すかと部屋に行ってみると、桑水流がなかなか話を止めようとせずに夜更かしをすることになってしまった。
それでも桑水流は俺を信頼したように病のことを口に出さなかった。
こういう信頼は裏切れないなと思う。
だからと言って、俺にできる事は血を飲ませる事だけだが。
エリシュカが途中で様子を見に来たが、そわそわした様子を見るとやはり心のどこかでまだ疑っているのだろう。
このタイミングで俺と桑水流が何かをすると。
何かで桑水流の発症を抑えると。らしいと言えばらしいが。
翌朝予想通り起床しなかった桑水流と黒川に血を飲ませると、俺は情報収集のために車に乗り込んだ。
昨日は何も食べなかった上に、貧血気味でいい感じはしない。
それでも、だからこそ調達に動かないといけない。
車に乗り込む時、エリシュカは何かを言いたそうにしていた。結局何も言わなかったが。
食料に関してはアテがあった。
キャンプ場のログハウスに一人なら一か月食べて行けるような食料を以前隠しておいた。
保存がきく物だったので大事に使いたかったが、今が使い時だろう。
もう一つ、例のオッサン共を見つけることができれば、多少の食料を確保できるかもしれない。
あいつらは性格は終わっていたが、だからこそそういう奴はいざという時の為に食料を隠し持っていることが多い。
直接手を下さなくとも、食料を盗むくらいはできるかもしれない。
ひとまず一度病院に行き情報を軽く集め、その後キャンプ場に行く。
拳銃は持っているし、当然ショベルも持っている。ある程度の問題が起きても対処できるだろうと考え、車を発進させた。
病院につくと、守衛所には以前と同じ女が立っていた。
こちらに気付くと、軽く警戒した後、自分が見たことのある人間だと認識したようだった。
警戒を解いたことに安心し、守衛所に近づく。
横山や相田よりこいつの方が外の情勢には詳しい気がする。
「ああ、あんたね。横山のじーさんになんか用?」
「いや、今日はあんたに用があって来た」
「……え?」
女はそう言うと、顔を赤らめモジモジしだした。
どこのラブコメだと心の中でツッコミを入れる。
確かに今は男が少なくなってしまった。女からしたら同年代の男は貴重なのだろう。
「ちょっと聞きたいんだが、この辺に他のコミュニティはあるか?」
「ん……。人が集まっているところ? あんまり聞かないねぇ」
俺の雰囲気に全くそういう色がないのを悟ったのか、女はすぐに持ち直して答えた。
回答は期待外れだが、確かに好き好んで集団を作ることは少ないのかもしれない。
「あ、でも駅近くのビルのあたりは人が多いって聞いたかな」
「そうか」
「どしたん? 人探し?」
「いや」
恐らくこの街には、俺達のような小規模な集まりが点在しているのだろう。
その単位は友達であったり、家族や仕事仲間といったところか。
「ここは人が多いようだが、やっぱり医者がいるからか?」
「うーん。確かにそれもあるけど、私はやっぱり一人だと寂しくて、人がいるところに来ちゃったって感じかな」
ここはそういう人間の集まりなのだろうか。
独りになって寂しい人間の受け皿って感じか。
「そんなもんか。じゃ、ちょっと駅の方に行ってみるか」
「用事そんだけ? ってか駅の方は危ないって聞くよ」
「危ない?」
「うん。食料の奪い合いがすごいとか」
食料の奪い合い、か。
駅は俺達の居たキャンプ場に比較的近かった。
それでいて危険だと噂が流れる程なら、当たりかもしれない。
奪い合いがあったということは、誰かが食料をため込んでる可能性も高い。
「ま、危険を感じたらすぐに逃げるさ」
「ふーん。ま、死なないように頑張ってねー」
軽い感じで言われた。
さっきまで顔を赤くしてたのはなんだったのだろうと思うが、そういえば病院に来た時は俺には桑水流の彼氏設定があった。
こいつもそれを思い出したのだろうか。
軽く礼を言うと、車を駅の方向に向けた。
一応駅周辺を探索する。この騒動が発生して以来、ほとんど行ったことがなかった場所だ。
走行中にふと思い出す。
先ほどの守衛の女の名前、聞き忘れていた。
数少ない人間の顔見知りなのだから、名前くらいは覚えていた方がよかったかもしれない。
……
この騒動が始まる前には大勢の人混みで賑わっていた駅前は、今は人の気配を感じることもなく、以前との差も相まって寂寥的な雰囲気を醸し出していた。
車から降りて軽く歩き回ってみるが、聞こえるのは風に流されるゴミのカサカサという音ぐらいだ。
荒廃した世界とはこういうものなのだと俺に突きつけているような光景に、少しだけ心が躍る。
何時間もいたら寂しさを感じるのだろうが、瞬間的にはむしろ人の興味をそそる。
歩いている途中でいくつかの音に驚き振り向くが、そこに居るのは放し飼い状態になった犬や猫、カラスばかりだ。
地面に近いところは蟻の恐怖で人がいない。
駅前には10階建てくらいのビルがある。恐らく人がいるならそこだ。
思考する前に体がビルを目指して歩き出そうとする。
しかしすぐにエリシュカの声が脳裏をよぎる。黒川や桑水流の顔が頭をよぎる。
(なにやってんだ)
冷静に考えるとやはり危険だ。俺が動けなくなった場合、桑水流や黒川まで累が及ぶ。
冷静に考えるとやはり必要だ。食料を手に入れることと、キャンプ場の安全を確保できる。
ここにいるのは例の奴らではないかもしれない。
食料も手に入れることができるかどうかは怪しい。
大体人と言うのは、冷静だと思っている時ほど頭に血が昇っている。
軽く深呼吸し一息つく。
持っていたタバコに火をつけると、少しは頭が冷えた気がした。
こういう時は隠れて移動しながら情報を集める方がいいのだろう。
時間もまだ十分にあるし、急ぐことはない。スニーキングミッションだ。
そういえばスニーキングの意味ってなんだろうか。
確か精液の動きがどうたらだった気がする。精液の動きが真のスニーキングミッションなのだろうか。
なんとなく精液の動きを意識しつつ人に見られないように建物の間を縫って歩く。
当然精液の動きなんて知らないが。
馬鹿な動きで探索をしたおかげか、途中の雑貨ビル付近で人の声を聞くことができた。
聞こえるのは雑貨ビルの3階付近からだろうか。若い女の声が聞こえる。俺が捜していた対象のそれではない。
外から聞こえるということはそれなりの大声で話しているのだろうか。
隣にもビルがあり、その3階付近から中を見る事が出来そうだ。
すぐに隣のビルに飛び込み、極力物音を立てないように上へと昇っていく。
3階は元々雀荘があったのだろう、麻雀卓や麻雀漫画が置いてあった。
時間があったら読みに来ることに決める。ついでに桑水流たちに麻雀を覚えさせようと思う。多分エリシュカが負けて怒る。
窓に設置してあるブラインドに小さく隙間を開けて対面のビルを覗き込む。こちらの場所の方が少しだけ高く、内部がよく見えた。
ただしその光景は、人に嫌悪感を催させるには十分な光景だった。
距離のせいで細部はよく見えないが、頭から血を流し倒れ伏す男が見える。
俺が聞いたと思われる声の主、若い女もいた。
丁度今、棒で殴られた。
殴った奴は、見たことのない女3人組だ、
年のころは40を過ぎたあたりだろうか。その全員が中々に太ましい体つきをしている。
特に意味もなく、デカい奴から順に、横綱、大関、小結とコードネームを脳内で決める。
殴ったのは大関だ。横綱は両手を組んで偉そうに立っている。
リンチのような光景にイラつきは増すが、俺が出て行っても意味はない。
見える範囲に食料は見えない。恐らく多少はあるのだろうが、確信はない。
今から出て行っても、間に合わない。
これがこの街の日常なのだろう。
残った食料を奪い合い、殺し合う。
キャンプ場の俺達のような生産的な活動は一切していないのだろう。
その代わりに、食料を持った人を探している。
先ほどまで俺が考えていた食料を奪うという考えが、ひどく汚らしいものに思えてくる。
だからと言って、俺だけでなく黒川たちが生きるためには必要なことは明白だった。
俺が逡巡して考えている間に、奴らは倒れ伏す二人からは興味をなくしたようだ。
そのまま建物の中を漁っている。食料を探しているのだろう。
そのまま動く気にもなれず、横綱達が右へ左へと移動しているのを眺める。
このまま奴らが去るまで待つことに決めた。
ちょうど手元には漫画があったので読むことにした。
しかし内容は頭に入らず、結局本を閉じて奴らを観察することで時間を潰した。
なんとなく、感覚が研ぎ澄まされているような気がする。
1時間もすると奴らは横綱を先頭に建物から出て行った。
その手には戦利品のように一つ、段ボールを抱えていた。恐らく食料だろう。
奴らが去っていったことを確認し、ビルから降り、先程まで奴らがいたビルの中に入る。
なんとなく不気味な雰囲気の感じられるビルの階段を昇っていく。
3階に行き、若い男女がいると思われる部屋に入った。
そこは以前は飲食店だったのだろう。
いくつかのテーブルが散乱し、その中央付近に彼らは倒れていた。
女の方はダメだ。
死んだかどうかはわからないが、出血量や微動だにしない様子は、既に手遅れだと感じられた。
男の方も同じだ。
出血量は女よりひどい。ただ、まだ少し動いていた。
「おい」
「……」
男がどう動いても対応できるように警戒しつつ、声をかけた。
ピクリと反応し、こちらの方を見た。
「大丈夫か」
「……」
かける言葉もなかったので、月並みな言葉を口に出した。
男は声を出すこともなく、フルフルと首を横に動かした。
先は長くないだろう。
「最期に言いたいことはあるか」
「……里香は……?」
ようやく男が口を開く。その喉は血で溢れているのだろう。
言葉と共に血液が口から出ている。
里香というのは若い女のことだろう。
チラリと見てみるが、微動だにしない。多分だが、死んでいる。
「……里香は……無事……?」
「……ああ。ただ、怪我してたから医者のとこに運んだ」
「……そっか」
男の口からはごぼごぼと血液が溢れだしている。
意味もなく、俺の口からは男を安心させるような嘘が出ていた。
死ぬ前に、聞くことがある。
「ここには食料とかないのか」
「……? 二階にあるだろ……」
胡乱気に男は口を開く。
食料は、奪われていなければ有効活用させてもらう。
「里香……」
男は最期に、目の前の空間に彼女がいるかのように手を伸ばした。
その手には何もつかむことはなく、力が抜けたように手が床に落ちる。
その眼に、既に光はなかった。
あっけないと言えばそうなのだろう。
男は死んだ。知っている奴でもないし、今日初めてみた奴だ。
こいつも食料を奪って生きてきた可能性も高い。
それでも、相手が既に死人であることは、その罪を全て償ったように悪人だとは思えなかった。
少しの憐みを男に向けるが、すぐに興味はなくなった。
知らない奴の死に目に立ち会っただけだ。
二階に降りると、そこはあまり荒らされてはいなかった。
隅から隅まで家探しすると、一つだけ保存食が入った段ボールを見つけることができた。
物置の奥に隠してあったのだ。侵入者に備えていたのだろう。
段ボールを持ってビルから出る。
心の中に、少しだけ暗いような感情が広がる。
悲しいわけではない。
ただなんとなく、黒川達に会いたいと思った。
こんな世界で唯一、彼女たちは俺をまともな人間のままにしていてくれるのかもしれない。
彼女たちがいなかったら、俺は先ほどの女3人を殺そうとしただろう。
若い男女も殺して食料を奪っていただろう。
この世界でまともなまま生きることができる奴は少ない。
倫理観の壊れた世界で、彼女たちは自分の最期の倫理観の砦だと思えた。
だからこそ、例のオッサン共が憎い。
奴らだけは、殺してもいいと考えていた。
もとより俺の倫理観など、壊れていたのかもしれない。
こんなくだらないことを考えてしまうのは全て貧血のせいだと頭の中で片づけると、俺は車に乗り込んだ。
向かうのはキャンプ場だ。
作物の様子を見たい。荒らされた形跡はないかも調べる必要がある。
途中のガソリンスタンドでは、今回満タン近く補給したことで、ついに燃料が尽きていた。
ハイオクなどは残っているようなので、そのうち違う車を探す必要がある。
キャンプ場への道をいつも通り運転し、いつもの駐車場近くに車を止めようとする。
そこに止まっていたのは、奴らの車だった。
奴らが逃げ出す時に運転していた車だった。
突然の情報に一瞬思考が停止するが、すぐに状況を見定めようと周囲を見渡す。
ショベルを手に持ち、隠し持った銃の感触を確かめる。
(好都合だ)
そう思う俺の顔は自分でもよくわからない程に、軽い笑みを浮かべていた。




