30.平和終焉
桑水流とエリシュカは、わざと俺に聞かないようにしているのだろうか。
そう思えるほどに、二人は黒川の生き続ける要因を俺に尋ねなかった。
エリシュカは、あれでもう聞いた気でいるのかもしれない。
まぁ正直、俺が要因を知っている風な口の聞き方をした覚えもある。いざとなれば俺が助けてくれる。だから聞かないという可能性もありうる。
桑水流は、母親のことがあるからだろう。
俺に聞いてしまったら、今の関係が崩れる。そう考えているのだろうか。
俺はそう考えている。一度説明してしまったら、桑水流は引くことができないだろう。
桑水流は聡く、空気をよく把握するタイプだ。
だからこそ、俺にもいつも通りに接していた。
だからか、俺は二人のその態度に安堵していた。
既に、黒川が目覚めてから数日が経過していた。
もはや、突然黒川が倒れることは考え難い。俺の血液を飲み続ける限り。
その日は、俺はいつも通りに釣りをしていた。
他3人は畑の作物の収穫をすると言っていた。ついに野菜を食べられると思うと涎が溢れてくる。
だとしたら、野菜がおいしく食べられるようにメインの魚もしっかりと捕獲したいところだ。
最近は一人で釣りをすることが多い。
一人の方が気楽だし、場所を自分の意思で選べるのでよく釣れるのだ。
結局釣りというのは、場所選びが最も大事なのだと最近わかり始めた。素人考えなのかもしれないが。
ついでに言うと、自分一人の時間が減ってきたというのもある。
釣果はそれなり。
両手にかかるバケツの重みが心地よい程度。多くもないが、食べる分には申し分ない量だ。
中途半端なその重みに満足しつつ、釣り場から管理所の方に歩いていく。
今日は桑水流が好きだと言っていた魚が釣れた。
名前も知らない魚なので食べても大丈夫なのかはわからないが、好きなら食べてくれるだろう。俺は食べないが。
そう考え歩いていると、ログハウス付近を通り過ぎたあたりで異変に気付く。
聞き覚えのない声のような音が、管理所の方から聞こえてきた。例えば誰かが口論をしているのだとしたら、しっくりくるような音だ。
脳裏に、以前殺したナイフを持った男がちらつく。
今管理所には、俺以外の3人がいるはずだ。
そして、聞き覚えのない声は男のもののように聞こえた。
そこまで考えたところで、足は勝手に動いていた。管理所に向け、全力疾走する。
しかし途中で、自分の中の冷静な思考が自分を呼び止める。
このまま突っ込んで行って、いいのだろうかと。
こういう時こそ冷静にならなければならない。しかし、3人に何かがあってからでは遅い。
足は止めずに、遊歩道から外れ森の中を走る。
何度も往復している道だ。遊歩道から多少外れたところで迷子になることはない。
思っていたよりも走り難い森を抜け、木々の間から管理所の方を盗み見る。
そこには、黒川達3人のほかに、もう3人の知らない顔があった。
一人は平均より少し大柄なオッサンだ。年は40過ぎくらいだろうか。遠目でもわかるくらいにビール腹が出ている。
他の二人は4,50代と思われるおばさんだ。その姿を形容するなら、恰幅の一言に尽きる。
黒川達は3人で固まりつつ、桑水流が少し前に出て話をしている。
オッサン共は、オッサンを先頭に腕を組み、偉そうに桑水流を見下ろしている。
見た感じ、その態度が気に食わない。
このキャンプ場の関係者だろうか。今更、管理人だとかそんなものは意味ないだろうに。
しかしよく見ると、黒川はショベルを持って警戒しているように腰を少し落としていた。
ババア二人も、手に棒のようなものを持っている。
ここで様子を見るという選択肢もあるだろう。乱闘になった背後をつく。
しかしここで乱闘に発展するのなら、黒川達が女の子3人というところで舐められてしまうことでそうなる可能性が高い。
俺が出て行って相手を牽制する方がいいだろう。
さらに言えば、直接会話をするのも俺の方がやりやすそうだ。
内容はよく聞こえないが、口論も激化しているように見える。
エリシュカが桑水流の後ろで怒っているような身振り手振りをしている。そのエリシュカを、桑水流が懸命に宥めている。
早い方がいいかもしれないと考え、木の影から足を出そうとした時。
男の後ろにいたババアが、腰を落とした。そぐにでも飛び掛かれるような体勢だ。
それを認識した時、思わず声を上げてしまう。
「なにしてんだ」
相手にギリギリ聞こえるくらいの声だ。
すぐに全員が俺の方を見てくる。全員が、軽く驚いたような表情だ。
口論している場所に歩いていくと、全員の表情がよく見えだした。
桑水流達はあからさまに安心したという表情をしている。
逆に、オッサンたちは歯噛みをしているような、やっかいだとでも言いたげな表情をしている。
黒川の横までに行くと、3人は俺の背後へと移動した。怖かったのだろう。それでもあからさますぎやしないか。
「ショベル、貸せ」
黒川にそう言うと、すぐに俺の手にショベルを渡してきた。
代わりに魚が入ったバケツを渡してやる。釣竿その他の道具は、ログハウス付近に置いてきている。
黒川から目を離し、オッサンの方を向き直る。
「なにしてんだ、おい」
自然と声は刺々しくなる。
ババアが持っていたのは、野球用のバットだった。凶器持参とは恐れ入る。
敵対心をその体から隠そうとしないババアをよそに、オッサンの方は会話をしてきた。案外こいつの方が話せるのかもしれないが、一切油断はしない。
「……いやな、食料を少し、分けてもらおうと思ってな」
オッサンがニヤニヤした気持ちの悪い表情のまま告げる。
理由は予想の範囲内のごく普通の回答だ。
オッサンは見たところバットなどの凶器は持っていない。それでも、後ろの奴が持っていたとしたら、交渉ではなく脅迫だ。
人数はこちらの方が多いが、いざ乱闘になるときつそうだ。
一応即否定はせずに、会話を続ける。
「具体的に言うと?」
「……見たところ、畑があるみたいだな」
「野菜か。で、一方的にそっちだけ食料を貰おうってのか?」
相手になめられない程度に、刺激しないような会話。案外神経を使う。
しかし、オッサンの表情はニヤついたままだ。少し嫌な予感がする。
「わしらは食い物を何も持っとらん」
ニヤついた表情が、気になる。
「断ると言ったら?」
「……」
オッサンの表情が変わらない。その代わりに、後ろのババアどもまで同じ表情をする。
「何もわかっておらんようだな。どうしたって、正義はわしらにある」
意味深にオッサンが告げる。その目線が、何故かエリシュカの方を向いていた。
その言葉の意味は分からない。
しかし、この後どうなるかはわかってきた。
今更食料を渡したところで、その結末は変わりそうにない。それに、桑水流達が一生懸命育てた作物を、気持ちの悪いオッサン共に渡そうとは思わなかった。
相手との距離は2メートル程度。
ショベルを使って先手必勝。しかし、その打ち返しが怖い。
俺の後ろの3人は喧嘩などに縁がなさそうだ。俺にだって経験はそんなにない。
俺のその迷いを見抜いたのか、オッサンが突然その懐に手を伸ばした。
その動きは素早い。素早い故に、凶器がそこにあることがすぐにわかり、それが喧嘩の合図だと教えてくれた。
相手より早く動き、ショベルを振り上げる。
ババア共は未だ反応し切れていない。狙うはオッサン。
しかし一瞬だけ、相手の手が懐より出てくる方が早かった。
以前一度見たことがあった為か、その手に持つものを一瞬で認識した。
(銃!?)
そう考えるや否や、振りかぶるショベルの軌道をオッサンの手に向けた。
自分の顔面に銃口が向く。
しかし自分の動きは止まらない。止められない。
相手の指が動く前に、その手にショベルを叩き付けた。
しかし叩き付けた瞬間に、その場に大きな音が響いた。
一拍遅れて、響いた音が銃声だと気付く。
男の表情は、苦い。銃は俺の足元の地面に落ちていた。即座に銃を蹴り飛ばす。
40代のオッサンにはなんとか若さ故の反射神経で勝ったようだ。
相手の表情を見ればわかる。後ろのババアも未だ動けていない。
その足が動き始める前に、咄嗟に蹴り飛ばした銃の方を向いてしまったオッサンの顔面にショベルを叩き付けた。
腕でガードされたが、手ごたえはあった。オッサンはたたらを踏む。
すぐにババア共が動き出す。1対3はまずい。
そう考えたところで、咄嗟にひらめくものがあった。
「俺は感染している」
短く、聞こえるような声で言ってやる。
オッサンとババアの足が止まる。
「触れたら、死ぬぜ。まだやるってんなら、死んでも殺してやる」
見たところ、相手には飛び道具はもうないだろう。
格闘するのなら、俺に触れたら負けだ。容易ではないだろう。
実際のことなのだが、口に出すことで牽制になる。
「……嘘だろう」
オッサンが告げる。その頬には大粒の汗が見える。
嘘ではない。だからこそ、俺の挙動はそれが本当だと告げている。
その時、俺の後ろからドサリと誰かが倒れる音がした。
同時に、悲鳴のような呻き声が聞こえる。
「桑ちゃん!」
すぐにエリシュカの叫び声が聞こえた。桑水流の身に何かがあった。
しかし、後ろは向けない。背を見せるわけにはいかない。
「……は、ははは。悪魔がいるから、こんなことになる!」
大粒の汗を流したまま、オッサンが声を上げる。相変わらず、その内容は意味不明だ。しかし、背後にいる桑水流の状態はよくないと悟った。
我慢しきれずに、チラリと背後に目をやる。
そこには、腕から大量の血を流す桑水流の姿があった。
頭の中で、何かが切れた音がする。
心の中が、強いと形容するには生ぬるいほどの殺意で溢れる。
殺すと決めたゴミ共の方を向き直ると、奴らは俺に背を向けていた。
感染者と格闘するのは危険だと踏んだのか、近くに止めてある車の方に走り出していた。
俺の動きが止まっていたのは体感で一瞬。
しかしその一瞬で、奴らは俺から10メートル近く距離を引き離していた。
追いかけようと体が動こうとするが、その車を見て急激に思考が回る。
奴らが車に乗り込むのは防げない。
車と喧嘩するなんて、不可能だ。無理に追いかけるとひき殺されるかもしれない。
後を追うのをやめ、奴らから視線を切らさないまま、いざと言う時に逃げ込めるように管理所の方に近づく。
しかし奴らは流石に大人の判断力なのだろうか。
こちらには見向きもせず、エンジンをかけた車をまっすぐにキャンプ場の出口へと走らせていた。
逃げられた。
そう思考すると、頭の中にあった熱いものが消え、代わりに冷え切った感情が溢れてきた。
すぐに、殺してやる。
そう冷たく思考した。口から言葉が出ていたかもしれない。それすら分からないほどに、自分の中の全てがその意見に肯定していた。
……
桑水流は、重症だった。
オッサンが放った銃弾が、腕に突き刺さっていた。
どこかへ一度跳弾したためか、運悪く弾が腕の中に残っているようだ。貫通していた方がマシだったかもしれない。
桑水流はあまりの痛みに、声すら出ていない。口を開いては閉じ、大粒の汗をかいている。
太い血管を傷つけているのか、桑水流の細い腕から緩やかな大量の出血が止まらない。
昔自動車学校で習った止血、最も危険な場合の止血方法を試す。布を巻き、その布に棒を差し入れ、捩じって圧迫する方法だ。
手袋をつけたままだとやり難かったが、なんとか止血に成功する。
黒川とエリシュカも懸命に手伝う。
出血はある程度止まったが、強く圧迫しているため、このまま放置するのはまずい。
最悪、筋肉や細胞が壊死してしまうかもしれない。
記憶だと、1時間に1回程度布を緩めないといけないはずだ。
いやそれ以上に、記憶の中のマニュアルでは病院に連れて行くのが一番重要だ。
病院でなくとも、医者には見せる必要がある。
医者には会いたくないと思っていた。
しかしこの状況では、そうも言っていられない。
一瞬逡巡するが、桑水流のつらそうな表情を見て、決めた。
街に行き、医者を探す。
「エリシュカ、黒川。すぐに出る準備をしろ」
「ど、どこにじゃ!」
桑水流の傍から離れないエリシュカが、こちらを向いて焦ったように口を開く。
その横の黒川も、真剣な表情でこちらを見つめている。
「街に行き、医者を探す」
そう告げると二人は、一瞬ポカンとした表情をしたが、その意味を理解してすぐさま行動に取り掛かった。
俺も車のキーを取りに管理所に向かう。
その途中、足元に拳銃が落ちているのを見つけた。先ほど蹴り飛ばしたものだ。
拾い上げ中身を観察してみると、まだ数発弾が残っているのがわかった。
顔をあげると、前方20メートル程先に猪がいるのが目に入った。
物音に驚いているのか、こちらを油断なく見つめていた。
(試し打ちは、必要だな)
セーフティと思われる場所が外れている事を確認し、猪の脳天に銃口を向ける。
指をトリガーにかける。
猪と目が合う。ひどく野性的な目だと感じる。その姿に、奴らの幻影を重ね合わせる。
(あいつらは)
その指に、力をこめた。
(殺す)