27.起床事故
ログハウスのカーテンの隙間から差し込む朝日が、黒川の顔を照らしている。
表情には特筆すべきものはなく、今すぐにでも起きてきそうな感じだ。一週間睡眠し続けているとは思えない。
今日は、黒川が目覚める可能性の高い日だ。
目覚めた時に、すぐに対応できるように、傍に居てやれるように、今日は黒川の部屋で待つことにした。今日中に起きなかったら知らん。
桑水流は、思いっきり泣いたからかわからないが、傍から見ていてそこまで痛々しいとは思えないくらいには回復している。
もう強がりもしていない。
俺に泣き顔を見られて、エリシュカに励まされて、意味のないことに気付いたのだと思う。
エリシュカは、自分以上に悲しむ桑水流がいるからか、割と元気だ。
常に桑水流と一緒にいて、明るい声で話しているのが聞こえてくるくらいに。
母親の死をどう受け止めたのかはよくわからない。
ただ、精神的にも頑張っているとは思う。
今日は2人で釣りに行かせた。
ここでまた黒川の状態を見せたら、母親のことを思い出してしまう。
それに、太陽の下で釣りでもしている方が精神衛生上いいに決まっている。
黒川の事は、任せてもらっている。
黒川が起きたら、二人は俺から呼びに行くか、それをしなくとも午後3時には戻ってくるように伝えてある。
今は、朝の8時だ。
起きるまでにはまだもう少し時間はありそうだ。
一応血を飲ませておいて、あとは本を読みながら暇潰しをする。
なんとなく、長いように感じる時間を過ごしながら、黒川のことを忘れるように本に没頭した。
……
本を読み終わる頃には、時刻は昼の1時近くになっていた。
それでも黒川は起きない。だんだんやきもきしてくる。
そう言えばこいつはタバコの煙があまり好きではないみたいだった。
ならばタバコの煙を吹きかけてやれば起き上がるかもしれない。
そう思い、タバコに火をつける。肺に思いっきり煙を吸い込み、黒川の顔面に向けて吐き出す。
「……」
一切起きる気配がない。
あまりにも暇なので、黒川の大胸筋付近を揉むことにした。
大胸筋矯正サポーターのようなものがやや邪魔だが、一度外すとつけるのが面倒なのだ。
無言で揉み続ける。
そう言えば、一週間も寝ていると体が凝り固まってしまう。俺も起きたては身体が痛くてきつかった。
そう考えると、やはり大胸筋だけはマッサージをしておいてあげたい。
しかしこの思考は危険だ。オッサン思考に近いものがある。
無言で揉み続けていると、いつの間にか瞼を開いていた黒川と目があった。
頭が黒川が起きたことを認識しきれず、しかし手は動き続ける。やっていることがやっていることだけに、喋る言葉がない。
黒川も寝ぼけているのか、こちらの方をぼけーっと見つめている。
そのまま無言で見つめ合いながら、時間は経過する。
そう言えば熱はなさそうだ。
今までの例からして、起きた日は問題ないのはなんとなくわかっている。
問題は明日以降だ。どうなるかっさっぱりだ。
そうこう考えていると、黒川は頭が覚醒しだしたのか、急に笑顔になる。
笑顔というか、満面の笑みというか、それでいて起き抜けのためか、ふにゃっとしている。
「白沼さんだー」
えへへと笑いながら言われると、なんとも言えない気分になる。
一瞬ドキッとさせられたのがムカついたので、寝ぼけている黒川の頭を起こしにかかる。
大胸筋から手を離す。
「もう昼だぞ。いつまで寝てんだ」
「んー? あれ?」
徐々に頭が働き始めているみたいだ。
目をこすり、しぱしぱと上手く開かない瞼に悪戦苦闘している。
ペットボトルに入った水を差しだす。
「あ、ありがとう……」
水を飲み始めた黒川は、体がうまく動かないのか肩を回したり腰をひねったりしている。
ずっと布団の上で寝ていたのだ。そりゃ体も痛くなる。
「うー、なんか体が痛いー」
「一週間ぶりに起きたんだから、そうなるわな」
「一週間?」
黒川があっ、と声をあげる。自分が毒に侵され寝ていたことを思い出したのだろうか。
それなら、普通なら自分が今日中に死ぬということをすぐに認識するはずだ。
取り乱すかと思ったが、黒川は俺の予想とは違った行動をする。
自分の布団を突然まくりあげ、なにやら自分の体を見つめている。俺からは布団で隠れて黒川の体全体が見えなくなる。
何をしているかわからないが、何やらゴソゴソとしているのはわかる。
すぐに黒川が布団から顔を出し、布団を元の状態にする。ちょうど眠っている状態から上半身だけを起こした感じだ。
「あの夜のこと、夢じゃなかったんだ……」
うっとりとした顔でそんなことを言う。
つまり、今の動きは自分の股とかを確認してたってことか。
もしかして体が痛いとかいうのもそっちか。
あまりにも平和な黒川の思考回路に、心配していた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
何より、この状況でうっとりとした表情をした黒川がアホっぽい。
「お前今日明日には死ぬからな」
「うん……えへへ」
危機感を煽ってみたが、黒川は全く我関せず。うっとりとした表情を崩さない。
自分の事なのに他人事だ。
「えへへ……」
「……」
「……あれ! でも熱とか斑点とかがない!」
1分程待っていたら、ようやく黒川が自分の体について気にしだした。
黒川にはこれから俺の血液について説明する。
既に俺の毒への耐性を知っているし、教えても問題ない。なにより、可能な限り血液を接種させたいので、事前に説明しておくと楽だと考えた。
「それはな、黒川」
「わかった! 愛の奇跡だね!」
そう言って黒川は俺の腕に抱き着いてきた。
感触は悪くないが、それよりも先にやることがある。
というか、こいつの想いは受け入れないって言ってあるはずなのだ。
ここは早い内に釘を打っておかないといけない。
「黒川」
「なになに?」
「一度抱いてやったからって、彼女面すんなよ」
言ってから気付いた。
このセリフはヤバイ。一体どこのチャラ男だ。
普通に釘を刺すつもりが、間違って心臓辺りに刺してしまった感触がある。
その後は当然というかなんというか、黒川の涙腺は崩壊した。
最近自然と口から出た言葉が、思った以上の効果を発揮することが多い。
まさに口は災いの元。
泣きべそをかく黒川に俺からキスをするまで、黒川は泣き止まなかった。
キスをした後の笑顔を見て、実は演技なんじゃないかと思った。
……
「白沼さんの血液を飲んだから、私はまだ元気ってことかー」
黒川がふむふむと首を上下させている。
俺が自分の血について知っていることは大体教えた。大した内容でもない。
黒川は俺が発症しないことを知っているため、俺の説明を簡単に受け入れてくれた。
「私、ホントに死ぬのかな?」
「わからん。可能性は高いな」
「そうかー」
黒川はあまりショックを受けていないようだ。
俺の記憶では、寝る前に泣いていたし、もっとやりたいことがあるとか言っていた気がする。
どういうことだろうか。
「つらくはないのか?」
「んー、白沼さんが私のこと心配してるみたいだから」
そう言って俺に抱き着いてくる。
軽く腕を振って離そうとするが、黒川の腕になかなか力が入っていて離すことができない。
「べたべたすんなって」
「あのね」
黒川は一呼吸置くと、俺から腕を離し、突然上着を脱ぎだした。
元気なうちにもう一度したいということだろうか。
「なんだよ」
「まだ元気なうちに、ね。それに前楽しいって言ってたよね?」
確かに、黒川との行為を楽しいの一言で片づけた記憶がある。
そう言えば、もし発症してしまえば斑点などが現れてしまう。綺麗な体であるうちに、ということだろうか。
「今はそんな気分じゃない。それにまだ話すことがある」
「それならね! ……い、一緒の布団の中で話そうよ!」
そう言うと上半身裸のまま俺の腕に抱き着き、離れなくなる。
表情は真っ赤だ。1度目だろうが2度目だろうがそういうのは関係ないのだろう。
「後にしろって」
そう言って黒川の手を無理やり解こうとした時。
がちゃりと。
部屋のドアが開いた。
見ると、目を真ん丸にした二人がドアのところで魚を上に向けて掲げたまま突っ立っていた。
俺に魚がたくさん獲れたと意気揚々に報告しに来たのだろう。
だから、予定よりかなり早く戻ってきたのだろう。
しかし、いかんせんタイミングが悪すぎた。
黒川が慌てて胸を隠す仕草が目の端に映るが、なんとなく全てが間抜けに見えた。
……
時が止まったのは体感で数分くらいだろうか。
まずは顔を真っ赤に染めたエリシュカが俺を責め始めた。
「なんちゅーことを……なんちゅーことをしてくれたんじゃ!」
「眠る黒ちゃんを襲ったのじゃろう!」
みたいな感じに。
俺は全てを無視し、エリシュカが掲げたままの魚を見つめている。
見たことのない魚だ。おいしいのだろうか。
黒川は俺から離れていそいそと無言で服を着直し、布団に包まって顔を隠した。
流石に恥ずかしいのはわかる。黒川が俺に迫っていたのは体勢からして丸わかりだった。
桑水流はしばらく停止していたが、ある可能性に気付いたのか声をあげた。
「……し、白沼さん!」
「なんだよ」
「感染! して、いるのでは……」
声の大きさが語尾に向けて段々と小さくなっていた。
赤かった顔が一気に青に染まったような気がした。確かに、俺は手袋をつけていなかったので、普通なら間違いなく感染しただろう。
しかし大丈夫なので大丈夫だと伝える。
「大丈夫だ」
「どこがですか! 黒川さん、あなた何てことを!」
意外なことに、桑水流はかなり怒っていた。俺まで怒鳴られた。
いや、怒っているのはわかるが、そのまま目には涙が溢れだした。
「え! だ、大丈夫だよ?」
黒川が慌てて取り繕うが、内容が間違っていなくとも説明が抜けていたら伝わらない。
むしろ、桑水流をさらに怒らしてしまう。
「あなたが! ……もう……いやぁ」
桑水流は感情の制御が出来なくなったのか、手に持つ魚を黒川に投げつけようとして、そのまま力が抜けたように地面にへたり込み、顔を両手で覆ってしまう。
横から見ていてわかるほど、かなりの量の涙が手の間から溢れている。
「だ、大丈夫なのかや?」
エリシュカも焦った風に俺に手を伸ばし、触れようとして手が止まる。感染者に触らないのは当たり前だ。
自分の手が俺に届く前に止まってしまったのを見て、俺が感染し死ぬことをまともに理解したのだろうか。エリシュカまで涙を流し始めた。
「い、嫌じゃ! そんのは嫌じゃ!!」
俺に触れたいのに近づくことを理性が拒否してしまう。
手の動きが、そう物語っていた。
「嫌なのじゃー!」
「うぅ……なんで! なんでなのよぉ……」
「大丈夫! 大丈夫だよ!」
3人が騒ぐ。
二人は泣き叫び、一人はそれを宥めようとして意味のない言葉を連呼している。
仕方ないと言ったらそうなのだが、事態を収拾するのに労力を使いそうでゲンナリする。
女3人寄ったら姦しい。しかし既に、姦しいどころの騒ぎではない。
しかしどさくさに紛れ、黒川が裸で俺に抱き着いている事案が保留されたことはよかったと思う。
俺は一人突っ立ったまま、そんなことをボケッと考えていた。