25.永逝帰省
桑水流の家に言った二日後、俺たちはもう一度桑水流の家に訪れていた。
今日は、母親が起きる可能性のある7日目だ。
桑水流とエリシュカは、いつ母親が起きてもいいように、母親と一緒の部屋で待機している。
俺は特にすることもなく、時間を持て余していた。
近所の家はあらかた家探ししている。
だからと言って、遠くに行こうとは思わない。母親の生死やその後の経過は俺にとって重要な情報だ。いつでも対応できる場所に居たい。
俺は家の1階で、窓を開けてタバコを吸っている。
黒川に対しては、例の日課を続けている。
毎日桑水流とエリシュカに隠れてログハウスに訪問するのは面倒だ。
しかし他に方法は思いつかないため、仕方なく毎日胸を揉み続けている。
黒川が起きたころにはFかGまで育っているかもしれない。
これが今の俺の日課だ。間違いない。
しかし、胸の形が崩れてしまったらどうしようかと迷ってしまうときもある。
そういう時は、迷いは敵だと自分に言い聞かせる。これが、黒川の命を救うとしたらなんだってやるべきだろう。
黒川はいつもつらそうに眉を顰めるが、耐えてくれよ、と言い聞かせている。聞こえてはいないだろうが。
それと接吻もしたな。息苦しくて困ったが。
あと血も飲ませてる。
くだらないことを考えていたら、時間は案外すぐに過ぎてしまうものだ。
昼前に、桑水流の母親は目を覚ました。
……
「体調は、どう?」
俺がエリシュカに呼ばれて部屋に入った時、桑水流が心配そうに母親に聞いていた。
母親は、ベッドの上で上半身だけを起こしていた。
その姿を見る限り、症状が見られない。知らないうちに、拳を握りしめてしまう。
「もう、大丈夫よ。綾乃こそどうなのよ?」
母親の声は、柔らかい。桑水流の事を心配している声は、母性のような何かを感じる。
俺の母親とは違う。こんな柔らかな声、聞いたことないと思った。
「私は大丈夫です! お母さんこそ、本当に何にもないの?」
「えぇ、ぴんぴんしてるわよ」
そう言って母親は腕を捲って見せる。顔色からして、高熱もなさそうだ。
「うそ……どうして……?」
桑水流は信じられないという表情をしている。エリシュカもだ。
いや、エリシュカが俺のことを強烈な目線で見つめてきている。
二日目に俺が言った言葉を思い出したのだろうか。
俺が何かしたのかと疑っているのだろうか。んなわけないか。
「それより、そちらの方は?」
母親が俺の方を見て言ってきた。少し放心していたため、反応が遅れる。
「こ、こちらは白沼路人さん。私達がお世話になってるの」
俺の代わりに桑水流が答えてしまう。声が少し震えている。それでもしっかり応対できるのはしっかり者だなと感心する。
俺も自己紹介をしなければならない。
「白沼です。こいつらを保護してます」
何も考えていなかったため、少し変な自己紹介をしてしまう。
元社会人としてどうなのだろうかと思う。
「あら! そうなの? 綾乃がついに男を連れてきたかと思っちゃった!」
「ち、違います!」
なんとなく、母親の方が若いんじゃないかという会話だ。
桑水流は顔を少し赤くする。最近こいつは赤面症なんじゃないのかと思い始めてきた。
俺も怪しまれない程度に質問することにする。
「あんた、本当に何にもないのか?」
「えぇ、おかげさまで。でも本当に私が1週間寝ていたなら、少し心配ねぇ」
母親は上品に笑う。こういう雰囲気は、桑水流やエリシュカの年齢では出せないものがあるなと感じる。
「桑水流、体温計の場所を教えろ」
「えっ?」
「体温を測る。むくみや嘔吐などはなさそうだが、一応だ」
「わ、わかりました」
そう言って桑水流は体温計のある場所を教えてくれた。
1階に降りて、体温家を探す。言われた通りの場所ですぐに見つけることができた。
ついでに、綺麗なコップを棚から取り出す。持っていた水をそのコップに入れる。
包帯の替えが少ないので、自分の指を手近なところにあった包丁で傷つける。
コップに、血を数滴垂らした。あとは撹拌して終わりだ。
これを、母親に飲ませる。
あの母親は今はまだ、例の女の子と同じ状態だ。
起床後に血を飲ませることで、比較する。
数滴では足りないかもしれないが、どの程度の量かはいまだ未知数で、わかっても多いとか少ないとかそんなものだろう。
既に、唾液は関係のなさそうなことがわかった。黒川には無駄に接吻してしまった。今度お詫びに接吻してやるか。
2階に上がり部屋に入ると、3人は楽しそうに話しこんでいた。
今現在、母親は明日あたりに発症する可能性が高い。というか、事例で言えばそのパターンしかない。
ここで喜びすぎると、あとがひどいことになりそうだ。くぎを刺す必要がある。
「体温計だ。熱を測ってくれ。あと、桑水流とエリシュカは近づきすぎるな」
空気を読まず、少しばかり冷たい口調で伝える。
二人はハッとしたような表情で、俺が母親を警戒していることを認識したようだ。
二人のテンションが、心なしか下がったように感じる。
「あら、頼もしい人なのね」
一瞬冷えようとした空気が、霧散する。
にこやかに言われると、こちらの緊張感も抜かれてしまいそうになる。
「それと、水だ。喉乾いてるだろ」
「あら、ありがとう」
母親はそう言うと、水を少しずつ飲みだした。
血を飲ませる事には成功した。
熱はすぐに測ることができた。平熱より少しだけ高いくらいか。37度もないので誤差の範囲だろう。
母親は水を飲み終わると、俺の意を汲み取ったように話し出した。
「綾乃、エリちゃん」
「なに? お母さん」
「なんじゃー」
二人は感じていないだろうが、この雰囲気は、俺の親父が遺言を伝えてきた時のそれに似ている。母親は、自分が感染していることを理解しているのだろう。
っていうかエリちゃんって呼ばれてんだな。
そう考えていると、急に母親は喋り始めた。
「多分ね、私はもう、感染しちゃってると思うの」
「今まだ元気なのは、多分二人と話すために神様が与えてくれた時間のようなものよ」
「二人のお嫁さん姿が見たかったけれど、無理みたい」
「二人は、死んじゃダメよ。私よりも長生きしなきゃダメ」
そんなことを喋りだす。まるで独奏だ。
桑水流もエリシュカも口を軽く開いたまま聞いている。
いきなり何を言い出しているのだろう、と考えていそうな感じだ。熱もないのに。
俺は何の感傷も抱かないが、いい母親というのはこんな感じなのだろうと思う。
(……俺が聞いていい話は、もうないかもな)
そう考え、一言言ってから部屋を出ようとする。
母親からしてみれば、ここで言わなければ死ぬ前ギリギリになってしまうかもしれないのだ。いろいろ話したいに違いない。
「俺は一階で待っておく。終わったら言ってくれ」
「あ、待って」
母親に呼び止められる。空気を読んだつもりだったのだが、ミスったか。
「綾乃とエリちゃんのこと、お願いしていいでしょうか」
「は?」
「多分二人とも、白沼さんのこと信頼してるのね。こんな頼りになりそうな人ですもの」
「いや、俺は……」
「ダメ?」
軽く首を傾げられる。
女の子がやったら可愛い仕草だが、おばさんがやっていい仕草ではない。
だが、割と板についた感じだった。気持ち悪いとかは思わなかった。
それにこれは、自分が死ぬ前に最愛に子を誰かに頼みたいと言う、母親らしさの溢れた綺麗なお願いだと感じた。
それに、見た目以上の想いの強さを感じる。
こういう時は、無駄に後悔を残さぬように、胸を張ってしっかり答えた方がいいのだろう。
「……任せてください」
母親の目を見て、はっきりと喋った。
もしこれでこの人が死ななかったら、この雰囲気どうするんだろうか。
あははー、とか笑って済ませそうな気がする。
というか、娘さんを下さい的な雰囲気を感じる。
ふとエリシュカと桑水流を見ると、変な光景を目にした。
エリシュカは、うんうんと頷いている。泣きそうな顔で。
桑水流は、とにかく信じられないものを見たかのような表情をしている。
そう言えば、桑水流には見捨てるとかいろいろ言った気がする。
もう、見捨てる気はない。それを直接伝える気もなかったが、今回ばかりはしょうがないだろう。
「じゃ、俺は下で待ってます」
「えぇ。ありがとうね」
最後に母親に礼を言われる。
軽く会釈で返し、部屋を出た。
……
母親は、8時頃に眠りについた。
それまで発症の兆候はなかった。俺の血液によるものだと確信する。
ひとまず黒川のところへ行き日課を済ませたいので、俺だけはここで帰ることにした。
二人にはいろいろと蟻などの注意点を伝え、一人で車に乗り込む。明日は早起きしてここまでくる必要がある。
エリシュカは元気のいい返事を返してくれた。もう完全に復調したといっていい。
しかし桑水流は、気の抜けたような返事を返してきた。
母親のことを考えていたのか。
俺の任せてくれという言葉の真意を考えていたのだろうか。
桑水流は聡い。だからこそ、考えすぎてしまうようなところがある。
本当は、桑水流が心から安心できるような言葉を言うのがいいのかもしれない。
しかし、俺は今まで嘘を吐きすぎた。
桑水流が俺の言葉をどの程度正面から受け止めてくれるのかがわからない。
さらに、俺自身がそういう言葉を本心から言うのが苦手だ。
嘘だと割り切ってしまえば楽なのだが。
考え事をしていると、すぐに時は過ぎる。
キャンプ場に到着した。
今日中に済ませないといけないことが二つある。
ますはそのうち一つ目を済ませる。
ログハウスへ行き、黒川の部屋に入る。
相変わらず、部屋に変化はない。黒川にも変化はない。
手早く血液を接種させる。慣れたものだ。
ペットボトルから水を飲ませ、軽く黒川の髪を撫でた後、ログハウスを後にした。
来たのは、ログハウス近くの小さな倉庫。
俺を刃物で襲った男が寝ている場所だ。
この男の始末をつけなければならない。
途中で拾ったショベルを持ち、臨戦態勢で倉庫の扉を開ける。
何度もショベルで頭を叩いたので、死んでいるかもしれないとは思っていた。
男は微動だにしない。
息すら、しない。完全に冷え切っていた。
体に入れていた力が、抜ける。
同時に、少し安心した。
他の3人に知られずに始末するなら、今しかない。
この手で直接、手を下す必要がなくなった。
もう手は下してしまっていた。だから、安心した。
蟻で人を殺すのとはわけが違う。この手に感触が残るのは、俺だってきつい。
虫が湧いていないのは、俺が男をここに閉じ込めてから死ぬまでに、タイムラグがあったからだろう。
長時間の睡眠中に、出血などが原因で死んだといったところか。
尋問や実験をすることも考えていたが、今更聞くことなどないし、実験はしたくはなかった。
桑水流やエリシュカ、黒川には見せられない。
森のどこかに埋葬することにした。
男の両足を脇に抱え、引きずる。
男の頭を地面で擦っているが、当然反応はない。
死んだ人間とは、なんとも不気味なものだ。
その顔には生気はなく、筋肉が固まってしまっているのか、ひどく持ち難い。
何より、冷たい表情が硬化しているのが、気味が悪かった。
(恨むなら、勝手にしろ)
心の中で、男に伝える。
幽霊などいない。死人の恨みなど、現世には届かない。
彼がいるのは常世か、常夜か。どちらにせよ、俺には関係のない場所だ。
それから俺は、2時間近くかけて男を森の深くまで運び、埋葬した。
疲れ切った俺は、なんとなく、心安らぐからだろうか。
黒川の眠るベッドの横で寝た。
俺自身、こんな感情を持っている自分に大きな驚きと、少しの充足感のようなものを覚える。
黒川や桑水流、エリシュカのためだったら、何をしても許される。
俺自身が俺を許してくれる。
そんな気がした。