20.思考光明
夏の夜中には、寝入るのが困難な程に暑い日がある。
今日は、まさに寝付くのが難しいような暑さだ。クーラーもないし、扇風機すらないのは現代人には非常に堪える。
人と肌を重ね合わせ眠る今日のような日には勿論のこと。
黒川が至近距離で俺の顔を見ている。
まるで蛇のように、どうすれば俺と接する面積を増やすことができるのか試しているかのように、黒川が俺にくっついている。
人肌は、熱い。うっとおしいから離れてくれと思う。
俺としては、布団の中から出て運動後のタバコを吸いたいところだが、その姿を客観的に見るといつかのドラマで見たようなひどい構図ができあがる ので我慢している。
ついでに、黒川が嬉しそうな顔で俺にくっついているので、我慢している。
「嬉しかったけど、痛かったなー」
笑顔のままの黒川が、そんなことを言う。俺を非難している感じでもなく、ただ甘えてたがっているだけ。
やけに胸を押し付けてくるため、その感触が気になってくる。
「そーいや、何カップなんだ?」
気になったので、聞く。大きいとは思うが、身長とかでカップ数が変わることとかあるのかもしれない。よく知らないが。
「あー、そーいうこと聞くー?」
「死にゆく貴様には答える義務があると思うが」
「なにそれー!」
人の生き死にすら話のタネにできるくらいがちょうどいい。このような人の命が軽い世の中では、特にそう思う。
「仕方ないなー。これはEなんです!」
そう言いながら俺の腕に押し付けてくる。
Eと言えば、Fカップ好きより少しお利口さんのやつだ。
Eなら昔揉んだことがあるなと思う。口には出さないが。
「ふーん」
賢者のように賢い今の俺には、誘惑など効きはしない。傾世元禳すら今の俺の前では意味をなさない。
興味なさそうな俺の返事に黒川は少しだけ眉を顰めるが、すぐに笑顔に戻る。
「意地悪ー」
「俺にそんなことを言っていいのか?」
「なんで?」
「俺は、寝ているお前に、いくらでもイタズラできる立場にある」
意味もなく己の優位を主張してみる。
そう言うと、黒川はハッとした顔をする。そんなこと、思いもしていなかったのだろう。
「イタズラ、するの?」
「どーだろうな」
「えーと……」
「?」
「どうせするなら、ね」
「ん?」
「起きた時、妊娠しちゃってるくらいしてくれると。嬉しいな」
恥ずかしそうに笑いながら、黒川は告げた。
あまりに恥ずかしいことを言っている黒川の頭を軽く叩く。
黒川は少しだけ考え事をしているような顔をし、すぐに俺に言ってきた。
「白沼さんがどう考えてるかは置いといて、私は、嬉しかったよ」
「まぁ俺も楽しかったな」
「楽しい……? でも、さっき言ってたこと、今なら少しはわかったかも」
「さっきって、どれだ?」
「こんな別れ方の方が、絶対にいいよね。こんな気持ちで死ねるのなら、生きててよかったと思うな」
さっきよりはマシな表情になっているので、それは確かだろう。
しかし、死を前にして憂いを断ち切れたかどうかでは、話が違ってくると思う。
「白沼さん、私の気持ちに答えてくれる気、なかったよね」
突然そんなことを言われる。
「……」
「聞きたくも、なかったんだよね」
「……そーだな」
「私の事、嫌いとかじゃ、ないんだよね」
「まぁな」
黒川がよくわからない、といった表情をする。
理由は、俺の中でもまとまっていない。わからなくて当然だと思う。
「だからね、これから、もっと一緒に居たいって思うの」
「……」
「だからね……」
黒川が、また泣き始めてしまう。
死に直面して、泣くなと言うのは難しい。まだ十代の、これから未来に希望しかないような人間には、なおさらだろう。
「これで、終わりなんだよね」
「……ああ。」
「やりたいこと、増えちゃったのに」
「悪かった」
「謝らなくて、いいよ……」
「そーか」
「ありがと……」
お礼を言われる。黒川が俺に感謝しているのが、声と体温で伝わってくる。
黒川は泣き声を我慢するように、鼻をすする。
少しの間、沈黙が流れる。
少しだけ、ほんの少しだけの力で黒川を抱きしめてやる。
黒川は、安心したように、目を閉じて体を寄せてくる。
黒川が、うつら、うつらと舟をこぎだした。
毎日朝は早く、夜も早い時間に寝ていた。
よい子の寝る時間は、とっくに過ぎていた。
それから黒川は泣き疲れたかのように、寝た。
…………
黒川が寝た後、俺はその体温を感じながら、考える。
多分だが、黒川を受け入れられないのは、俺が天邪鬼だからだ。
黒川はおそらく俺のことが好きだろう。
でも、その好きというのは、俺じゃなくても良かったと思う。
力も金もあり、毒に感染しないという絶対有利な状況で差し伸べた手が、力も金もない小さな女性を助けた。
そんな形で好きとか言われても、嬉しくはなかった。
まるで大人の男が、小さな女性を騙すかのような手段だ。
大人の俺には、少なくとも彼女たちを無償で助ける義務があった。
俺が自分勝手だから助けなかったならいいのだが、助けた以上、それは無償でなければならない。
対価も何も、求めるのも提供されるのも、気持ち悪くていらないと思った。
だからか、俺は彼女をどうしても救わないといけないと思う。
考えが、曖昧なままではあるが少しだけまとまった気がする。
俺がすることは、彼女を救う事。物事を単純化してしまえば、あとは余計なことは考えなくていい。
どうすれば彼女を救うことができるのか。
……不可能だろう。
致死率100%の毒の前では、俺は小さな障害にすらなり得ない。
例外は俺だけだった。
いや、だからこそ、俺こそが唯一の道になり得るかもしれない。
少なくとも、俺以外のことを考えても意味がない。
俺だけが発症しないのは何故か。
わからない。いくら考えても、どうしてもわからない。
例の親子が頭に浮かぶ。
以前、考えたことがあった。俺に接触したから、例の親子は俺と同じ状態になった可能性があると。
可能性は、薄いと思う。しかし、少なくとも確認はするべきだ。元々するつもりでもあった。
やることは決まった。例の親子が睡眠状態になってからちょうど明日で8日目だ。
ゆっくりと布団を抜け出す。
安らかに寝息を立てる黒川に服を着せる。
動かない人間に服を着せるのはなかなか難しい。ブラなんて、外したことはあるが付けたことはない。
ようやく黒川に服を着せると、俺は最後に黒川の顔を一瞥し、その場を離れた。
…………
管理所に戻ると、すぐに桑水流とエリシュカが俺を出迎え、質問攻めにしてきた。
「どこ行ってたのじゃー! 心配したのじゃぞー!」
「お顔を見れて、安心しました……。こんな時間に一体どこへ? それと、黒川さんは一緒ではなかったのですか?」
当然のようにまくしたてられる。
「行ってたのは、テント近くのログハウスだ。黒川は、蟻の毒に感染した。今はもうログハウスで寝ている」
一言で言い切る。
桑水流とエリシュカの顔が驚愕に染まる。
「蟻の毒に!?どうして!?」
「7時ごろに畑でこけた。その時に感染した。お前らには、心配をかけたくないのと、黒川が自分から離れる二人を見たくないと言っていたので言わなかった」
「そんな……」
「どうしてじゃ……」
どうしてって、今説明しただろと思う。
「では、黒川さんはログハウスで寝ていて、もう目覚めないということですか? ……遠くない未来に、死ぬと言うことですか?」
桑水流が少しだけ震えた声で言ってきた。
「本当の、ことなのじゃな?」
エリシュカが手に口を当てながら聞いてきた。
「全部、本当の事だ。……あぁ、それから、俺は今から街に行く」
そう言い残し、俺は駐車場に向かって歩き出す。心なしか、早歩きになっている。あの親子の確認が、黒川の生命線になり得るのだ。
冷静になれと自分に言い聞かせるが、冷静になったところでやることは変わらない。
駐車場につき、車のドアを乱暴にあけ、乗り込む。
気付くとエリシュカと桑水流が車までついて来ていた。
忘れていたと、桑水流にログハウスの鍵を投げ渡す。
「そのカギでログハウスに入れる。奥の部屋であいつは寝ている。間違っても、触ったりするなよ」
車のエンジンをかける。周囲をライトが照らす。
「どうしてですか!? 傍にいてあげないんですか!?」
「そうじゃ! どうしたんじゃいきなり!」
「俺が傍に居たって、意味はないだろ」
「なら……なら! 理由を教えてください! どうして今街へ行くのですか!?」
理由。正直に伝えたら、俺のことがバレる。
一瞬どう説明しようが迷うが、街に行く方が重要だと考え、アクセルを踏み込みながら、言った。
「私用だ」
車は動き出す。後ろで二人が何かを言っているが、エンジンの音で何一つ聞き取ることはできなかった。
…………
急いでいる時こそ、安全運転が必要だ。ついでにエコドライブだ。
車内で一人、タバコを吸いながら運転していると、冷静になってきた。
慌てて飛び出してきてしまったが、今からやることを整理しなければならない。
第一目的は例の親子の確認だ。
今から確認しに行ったところで、どう転んでもあの家族は寝ている。家にいなければ確認はできないが、その時はその時だと割り切る。
確認しに行くのは朝の8時頃がベストだと思う。
今行くのはまだ早い。
第一目的以外の目的は、現状は特にない。
親子の状態を確認してから、臨機応変に行動すべきだと考える。
誰かが親子を移送する可能性もあるし、発症せずに自分たちで移動する可能性すらあるのだ。考えすぎても意味はない。
では、今できる事はあるか。
早い内に以前観察していた隣の家に行きたい。観察時間は長い方がいい。
行く前に準備する物は……
腹ごしらえと、脳の休憩、つまり睡眠が浮かぶ。
結局、早朝にキャンプ場を出ても変わりはないのだ。
少し熱くなってしまった自分を気持ち悪く思う。
街の安全状態はどうだろうか。
俺が襲われる可能性は少ないと思う。
可能性があるとすれば、以前襲い掛かってきたナイフを持った男のようなパターン。
車は、乗り換える必要があるかもしれない。
そうこう考えていると、山のふもとのコンビニに到着する。
車を降り、駐車場に止めてあるいくつかの車を物色する。
運のいいことに、軽トラが一つ、鍵がついたままになっていた。
早速中に乗り込み、エンジンをかけてみる。
エンジンはかかった。ガソリンは残り2割程度。充分だ。
軽トラを降りて、自分の車の中に置いてあるショベルを取りに行く。
武器は、必要かもしれない。持っていく。
(食料は……)
コンビニに入り、中を物色する。大したものはない。
奥の店員専用の部屋に行くと、スナック菓子がいくつか置いてあった。
何故かせんべいだけ残っている。可哀そうに。俺が食べてあげよう。
その他には、缶コーヒーを一つだけ見つけた。
監視カメラのある部屋の机の上に置いてあった。怪しいが、今は構わない。
食料の準備もできたので、軽トラに乗り込み、移動することにした。
深夜の街を運転するのは気持ちいい。
以前はそうだった。
今となっては、昼間だろうが夜だろうが人が少ないので、いたって普通の光景だ。
例の家に到着する。
暴動に荒らされたような雰囲気はない。
全ての家は電気が落ちている。軽トラを路上に停める。
以前侵入した隣の家は、何も変わっていなかった。
俺が読んだ漫画がそのまま放置されている。
窓から、例の親子が寝ていると思われる部屋を覗く。暗闇で何も見えない。
そのまま、俺は床に座り込み、目を閉じた。
朝日が昇れば自分の視界を刺激するような場所で、眠る。
寝坊したら話にならない。
興奮して眠れないかもしれないと思ったが、体は疲れていたのか、いつの間にか俺は夢の中に旅立っていた。