12.減価焼却
翌朝、目が覚めたら目の前に美女のキス顔がドアップだった。
なんてことはなかった。
俺を起こすために、黒川が俺の皮膚に触れしまう可能性がある。
素手のビンタで起こされたりしたら、痛いし黒川は感染するしで踏んだり蹴ったりである。
だから彼女より早起きしておいた。流石に眠たい。
黒川はまだ起きなさそうだったので、最近癖になっている音を殺して歩く動作で管理所を出た。最近マジで癖になってんだ。
川の水で顔を洗い、タバコに火をつける。
最近、人が近くにいる時以外は、俺は蟻に対して無防備だ。
恐らく何度も毒に触れていると思う。
だからこそ、俺が感染しないことはほぼ確定している。
他の人は違う。だからこそ、最近他人の思考回路がわからなくなってきた。
今の俺は気楽だが、例えば蟻の脅威が俺を狙っている状態だったら、どの程度蟻の対策をしていただろうとか。
わからなくなってしまった。
タバコの火を消し、管理所横の灰皿に吸い殻を投げ入れた。
そのまま仮眠室へと向かう。
黒川も起きた時誰かがいた方がいいのだろう。
管理所に置いてあった山の草木について書いてある本を読んで待っていること1時間、ようやく黒川は目を覚ました。時刻は9時前。
パタンと本を閉じ、先にこちらから挨拶する。
「おはよう、黒川」
「え……あ……おはよう」
黒川はまだ寝ぼけているようだ。
「顔、洗って来いよ。朝飯用意しとく」
「……うん。わかった」
そう言い残すと、黒川はフラフラと出口の方へ歩いて行った。
俺の横を通り過ぎる時に、その小さな頭に麦わら帽子を乗せておいた。
「……ありがと」
心なしか、目の付近が赤い気がする。
黒川の謝意には答えず、俺は朝飯を用意するため車へと向かった。まだパンが残っていたと思う。賞味期限が心配だが。
車に戻って最後のお茶の缶を取り出し、パンの入った袋を見てみる。6つ全てのパンの賞味期限が昨日だった。1日くらいなら問題ないはず。夏場だ から、2日はちょっと怖い。
今日全部食べてしまうか。どうせ今日は釣りもできない。
今日は墓を作る必要がある。
場合によっては、死体を火葬もするだろう。
どうせ街に戻るんならついでに配給も受け取っておくか、そう考えつつ、お茶を半分まで飲み干しながら管理所に戻る。
昔部活で習った、缶を口から離して飲むやり方だ。
黒川は既に管理所で待っていた。
ベンチに後ろ向きで座っている黒川の麦わら帽子の上にパンを2つ置き、振り返った黒川の手に半分残ったお茶を渡した。
「あ……、ありがと」
「飲み物、今あるのはそれで最期だ」
そう言いつつ、パンの包装紙を破る。見た感じはまだ食べられそうだ。
「最後?」
「あぁ。パンは賞味期限が1日過ぎてるが、我慢しろ。普通に食べられる」
物は喩だというように、目の前でパンにかぶりつく。
普通に上手い。
黒川にはあんぱんを渡しておいた。俺のは全部甘すぎないやつだ。
黒川は、何故かお茶を鋭く凝視していたが、意を決したように口をつけ、一気に飲み干した。
そしてそのまま帽子の上にあるパンを食べだした。
黒川の方を見ると、いまだに顔は赤いままだった。泣きすぎだな。ほんと。
「今日はこれから山を下りる。そのまま黒川の家に行く。いいか?」
「うん」
黒川は手に持つパンを見つめながら、こちらを見ようとしない。
「んで、爺ちゃんの墓作って、納棺して、そんで……」
「……?」
そんで、何をしようか。
こいつと一緒に居る意味は、もうなくなるだろう。多分、お爺ちゃんの家に住処を移すだろうから。
つまりは、こいつとはそれで終わり……か。
(……だな。俺も久しぶりに、優雅な独り暮らし舞い戻る。そんで一件落着。)
こんなよく知りもしない25歳の男に、無理について行く事もない。
あるとすれば、暇なときに一緒に釣りに行く。そんな関係。
(それでいっか。気楽そうだし。)
黒川が不思議そうな顔をして、俺の顔を見ている。
いきなり黙り込んでしまった。当たり前か。
っていうか、お前やっぱ顔赤いぞ。
「とりあえず、さっさと準備しろ。墓を作るなんて初めてだ。時間がかかりそうだ」
「あ! うん。そうだね。ちょっと待ってて!」
黒川はそう言うと、口で「ササッ」とか言いながら空になった包装紙を持って管理所に駆け込んでいった。
「20秒待ってやる」
「はやーい! それ無理ー!」
今日も案外、黒川は元気だ。空元気かもしれないが。
…………
助手席に座る黒川のナビを聞きながら、目的地へと運転する。
俺が山にいき始めてから3日。その間で、また少し空き家のような家が増えたような気がする。
死んだか、引っ越したか、意を決して北に行ったか。そんなとこか。
目的地は、俺の自宅から徒歩で10分といったところか。随分と近いとこに住んでたみたいだ。一応ここも東京都だが、その中でも田舎の方だ。それ でも、地価はそれなりにする。
黒川の家は割と大きな和風の家だった。こいつの爺ちゃん、金持ちなのかも。
パッと見、外からは人気が感じられない。
中に入ると、遺体があるのだろう。
駐車場があったので車を止め、玄関の前に立つ。
「鍵」
「はいこれ」
(合って間もない男に、そんな簡単に家の鍵を渡すなよ。)
そう思いつつ、鍵を開け敷居を跨ぐ。
「黒川はここで待ってろ」
「え、なんで?」
「……爺ちゃんの状態を確認してくる」
「え? っあ! …………わかっ……た」
黒川は死体の損壊について考えていなかったようだ。
まぁ、そこまで頭が回るなら夏場に遺体を放置なんてしないか。
黒川の爺ちゃんが居ると思われる部屋の場所を聞き、建物の奥へと進む。
建物の中を少し進むと、少し臭いがしてきた。
件の部屋の前に立つ。障子が閉めてあるが、なんとなくここだという確信を持った。
幸いなことに、虫はそこまで湧いていなそうだ。
部屋に入る。
中央に置かれた敷布団の上に、遺体はあった。
大きな損壊はない。
しかし変色が激しい。例の斑点に加えて、腐敗性水泡も見られる。
これは……黒川には、見せられない。
そう判断し、手近にあった布で彼の皮膚を見えないようにし、黒川の元へと戻ることにする。黒川をあまり一人にしておきたくない。
勝手に部屋の方に来るかもしれない。
黒川は、家の入口でおとなしく待っていた。
「お爺ちゃんは……どうだった……?」
「……大きな損壊はない。ただ少し変色してる。……悪いが、遠目でしか見せてやれない」
「そっっ……か」
意外なことに、黒川は俺の指示に肯定した。てっきり、「見る」と言い出すと思っていた。
「見なくて、いいのか」
「白沼さんがそう言うなら、多分あたしが見たら取り乱しちゃうよ」
泣きそうな顔で言ってきた。
「でも、ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから、お爺ちゃんの手に触らせて」
「……」
「謝りたいの。独りにしちゃってゴメンって……」
「……」
「怖くなって、逃げてゴメンって……」
俺は昔、死んだ親父の体に触れた時のことを思い出す。
死んだら冷たくなる。知識としては知っていても、実際触るとその認識は大きく変わる。
温かいでもなく、適温でもなく、その辺にある無機物なんかより、ずっと冷たくなるのだ。
あの感覚は忘れられない。
五感で死を感じとるということ。
だから、触った方がいいのだろう。
俺が触ったのは、保冷剤で冷えた親父だった。
それでも黒川は、触っていた方がいい。今日、あの体は焼くのだから。
「……俺が許可することでもないだろ。ちゃんと火葬とかの準備、手伝えよ」
「うん。わかってる」
…………
予想通り、火葬場は開いていないようだった。
火葬なんてしたことないので、広い庭に落ち葉や木片、キッチンにあった油なんかを集める。火葬場のように上手く焼けるとは思えないが、正直その 辺は適当にやるしかない。
黒川がお爺ちゃんの手に触り泣いているのを見た後、本格的に準備を始める。
敷布団を庭まで引っ張って、黒川の爺ちゃんを木片などの上に乗せる。
周囲に飛び散ったり、燃え移ったりしないように工夫する。
思った通り、重労働だった。
黒川も無言で俺の指示に従う。
新聞紙に着火点のように火をつける。
油をいくらか垂らしたおかげか、すぐに大きく燃え上がる。
その火をしばらく眺めた後、二人で家に入る。
黒川が家の中の説明を始める。
この部屋でよくお爺ちゃんと将棋をしたとか、このキッチンでよく得意な煮物を作って、お爺ちゃんに褒められたとか。
内容にあまり興味はわかなかったが、黙って聞いた。
黒川は自分の部屋を案内している時、そのまま寝てしまった。
無防備なことだ。
俺は黒川を置いて庭に出る。火を見ておく必要があるからだ。
人の焼ける臭い、アレは人に嫌な感覚を想起させる。何かそういう成分でもあるのだろうか。
俺に特にすることはない。火を見つめるだけ。
タバコをつけては消し、思い出したようにまたつける。
全くの赤の他人の火葬だ。
自分の嫌な思い出を思い起こさせるだけの、つまらない火葬だ。
あまりにも暇だから、家の倉庫にあったスコップで墓を掘った。
…………
念には念を入れて、夕方まで焼いた。
途中途中に木片を突っ込んだおかげで火は消えなかった。
綺麗に焼けたとは言えない。
骨意外にも焼け残りがある。
木片などの燃えカスも含めて、箒で穴に落とす。
黒川も一緒に作業した。
暗くなる前に作業は終わり、そのまま俺も黒川の家に泊まった。
黒川は何も喋らなかったが、寝る前にありがとう、おやすみと伝えてきた。
これは、ただの詫びみたいなもんだ。