1.昏睡思考
華の土曜日の朝。
俺はこの時間、一週間で一番素晴らしい時間帯を過ごしているはずだ。
これでもいい大学に入って、いわゆるマッタリ企業に入社して、友達はそんなに多くないがそれなりにいて、趣味はフットサルとギターだ。
普通よりやや上の人生を送る予定の人間だが、親は死んだし彼女はいない。
人によっては割と孤独な感じのする人間かもしれないが、最近は仕事もうまくいくようになって調子がいい。
昨日は会社が終わり、趣味のフットサルの練習に参加し、飲み会(糞みたいなフィリピン的な2次会はパスしたが)でほろ酔い、一人暮らしのワン ルームに帰ってきて、パソコンをつけネットサーフィンして風呂に入って寝た。
会社に入ってからは二日酔いになったことがほとんどないし、気分もいいはずだ。
いつもこの時間帯だと、コーヒーを淹れてボーっとしながらニュースでもチェックしているはずだ。頭もそうしようとしている。はずだ。
しかしどういうわけか、体は動かない。
頭は起きて体を起こそうとしているが、一向に体の方が云とも寸とも言いやしない。
やる気がどうしようもなくなった鬱の人はこんな感じなのだろうか。俺は鬱になる気配なんてないタイプの人間なんだがなぁ。でも最近は普通の人が いきなり鬱って休職したりするって人事の奴に聞いたことがある気がする。
というかなんで俺はいきなりこんな感じなんだ?
仕方ないし、体動かんから寝るか。
大事な土曜日の朝が無駄になるが、惰眠をむさぼるのもたまにはいいだろう。次の月曜は祭日で休みだし時間はある。寝よう寝よう。
といった感じで俺は二度寝した。
まぁこんな感じで体が動かなくなったのは俺だけではなかったみたいなんだが。
そして夢を見た。
長い長い夢だ。
それは、生まれてから今までのことを走馬灯のように振り返るような夢だった。小学生の時や大学生の時の光景が走るように流れる。
たった一瞬で俺の半生を振り返った後、誰かの声が聞こえた気がした。
「幸せですか?」
誰かの声、問いが聞こえる。
「あなたは今、幸せですか?」
質問には回答しないといけない。
質問されたからには考えないといけない。
「俺は今幸せか?」
俺は、会社勤めでワンルームのマンションで一人暮らしをしていた。
会社はマッタリ企業。人間関係は普通で特に言及することがない。
趣味は充実。社会人になってもスポーツを続けることのできる環境。
マンションが線路に近いため、ギターをかき鳴らしても壁ドンされない防音性だ。
彼女はいない。会社に入って2年、影も形も存在しない。
ただ、気にしていない。むしろこの日々を崩されるようなら作らない方がいい。
友人はいる。ただ、休日に共にどこかへ行くほどの仲ではない。
……友人かどうかがやや怪しい。
家族はいない。両親は俺が就職した瞬間死んだ。
まさに俺が独り立ちしてからその責任を全うした感じで、わが一生に一片の(俺に対して)悔いなしだ。
遺産なんてなかったけど、そこまでは求めちゃいなかったし。
もともと幸せなんて考えない性質。
だから、夢はすべて叶っている。
子供のころ、みんながスポーツ選手だか医者だか言っている時、俺は何も思い浮かばなかった。
思い浮かばなかったから、「将来の夢」という作文には適当なことを書いた覚えがある。
結局、大したことを求めていなかった俺は、それなりである今に対して、どう考えているのか。
総合的に考えて、それなりに幸せである。
「それなりに」
質問にはさらりとそう答えた。
それはとりとめのない夢だからか、返答は返ってこなかった。
…………
目が覚める。
なにか夢を見た気がするが、忘れていた。
起きてスマホの画面を見たら、「Friday」と表示されてた。
しかもお昼の12時くらいだった。飲み会があったのが12日の金曜日で、スマホ曰く今日が19日らしい。
さすがに頭が混乱した。ただやけに頭はすっきりしていた。
「………………??」
そうだ、テレビをつけよう。多分スマホは壊れた。こいつはもうだめだ。
飲み会かその帰り道で落とした気もするし、っていうかこんな日付はおかしい。無断欠勤なら会社から連絡が来るはずだし、さすがに連絡が取れな かったら見に来る。
というか、一週間近く寝るなんてありえないだろう。
布団の中で少し考えると、冷静になってきた。
そうして布団から起きてトイレに行き、顔を洗ってコーヒーを作るためのお湯を沸かす。いつも通りの朝である。
冷静を装っているが、実は少し震えながらテレビの電源を入れた。スマホが正しかったら無断欠勤。もうどうしようもないが、怖いもんは怖い。俺社畜だし。
『…………います! テレビの前のみなさん、ご自宅より必ず出ないようにしてください! また、みなさんがお住まいの行政機関の指示には必ず従うように してください! 現在全国の各医療機関は大変混雑しております! むやみな外出は避けてください! それから……っと、ここより政府より記者会見の様子 が届いている模様です。テレビやラジオの電源は切らずに、そのまま…………』
「……は?」
思わず、火をつけ咥えかけていたタバコを落としそうになる。
どうやら、世間では何かが起こった模様。かなりやばそうな雰囲気である。テレビの端っこに19日という日付が見えるが、なんかあったんなら無断欠勤もなんとかなりそう。俺はそんなことを考えていた。
『パンデミック』
テレビから流れるその単語を聞くまでは。
いや、聞いても他人事だったかもしれない。平和なこの日本で、平和な日常を送るこの俺が、異常事態に巻き込まれるわけない。
たとえ巻き込まれたとしても、それは何とかなる範囲であって、そのうちどうにかなる。
この災厄の原因は後に判明するが、対処法は不明。緊急の中の緊急事態であり、この社会の常識、パラダイムが大きく移り変わる事態であった。ただその広がりはあまりにも速く、人類が対応するだけの時間はなかった。
21世紀初頭の7月のことである。
そこから数週間で人類は、窮地に立つことになる。
俺は俄にはそのことを理解できず、ただスマホを手に取り、会社に電話していた。
電話には、誰も出てくれなかった。