名前
夜が更けて、まあるい銀色の月の光が檻の中を照らした。
檻の周辺からは狼の声は聞こえず、ただ虫の音が聞こえる。
こおろぎか、鈴虫か。
生前のころから、風流など分からない人間だった。
俺はあれからずっと、彼女に思いをぶつけた。
彼女はそれを嫌な顔をせずに、ずっと「うん、うん」と相槌を打ってくれた。
相槌を打って頷いてその度に、彼女の身体から薄荷の匂いが漂う。
彼女のその匂いに、安心している俺がいる。
婚約者がいるのに、浮気していると思ってしまう。
それでも止まらない。
不安なこととかを、彼女に言うことが。
「森人さん。こんな俺でもよければ一緒に旅して欲しい」
「はい、喜んで。
あなたが故郷の方と結婚するまでの間、ずうっといますから」
「結婚してからもいてくれるじゃないの?」
「私がいては、奥様が妬いてしまいます」
「そんなことはさせないから、いてほしい。
その場限りじゃなくて、いて欲しいんだ」
「はい、あなたが望むのであれば」
「……森人さん、名前を教えてよ。
"森人さん"だと、他人行儀だから。
家族として、名前を教えて」
俺の問いに彼女は微笑み。
「……新しい主人を得た奴隷は、過去の名前を捨てるのです」
「元々使っていた名前は……?」
「故郷にいたころの名前は忘れました。
私は捨てられた身なので、覚えていないのです。
幼い頃から奴隷として在りましたから。
私の主人となってくれた方は、みな優しい方でした。
しかし、この国が変わり私は売られました。
売られあなたが殺した騎士が、私に名づけた名前は『魔石』でした。
もう、私は奴隷という一つの職業ではなく、モノです。
……あなたは、私にどのような名前をつけて頂けるのですか」
彼女の声は涙混じりだった。
奴隷という職業で人権を持つのではなく、モノとして見られる。
家族をモノとして見ることなど、俺には出来ない。
だから、俺の黒歴史ノートのヒロインの名前を付けることにした。
この世界でも生前の世界でも意味がなく、語呂がいいという理由だけで作った名前。
それでも、この名前には万感の意味がある。
黒歴史ノートにはその名前に意味を持たせた。
俺の中のその名前は、代名詞だ。
物事を表すのに、その代名詞を使うぐらいに意味がある。
「森人さん。
いや、あなたの名前は。
エルリネ。
――エルリネ・ティーア」
「…………、」
「俺の知っている名前の中で、とても意味を持つ名前だ。
正直に白状すれば名前に込められた意味などはない。
でも、長年好きであった名前である。
それを"エルリネ"、君に贈りたい。
受け取って、くれるかな……?」
「……そのような大事な名前を頂けるのですか……?」
「これ以外に君に贈れる名前はない」
断言する。
これ以外にエルリネ以上に合う名前はない。
黒歴史ノートに、他にも名前はある。
だが、全てイメージに合わない。
彼女にはこれしかない。
俺より身体が大きい彼女を、抱く力を強めて「エルリネ」と呼ぶ。
彼女は泣いていた。
俺に謝っていたときとは違う涙だ。
声を上げて泣いていた。
下唇を噛んで、眉尻を下げて泣いていた。
森人系なだけに、彼女の年齢は分からない。
でも、泣いている姿は見た目(人族の十七歳)相応に見えた。
名前を上げるだけで、喜んでくれるなんて。
「エルリネ、君はモノなんかじゃない。
君は魔族だけど立派な人間なんだ。
……その名前を捨てないように、一緒に行こう」
寿命的に彼女と共に生きられないだろう。
それでも、俺が生きている間は薄荷の匂いがする彼女と共に歩むのもアリかな、と思った。
『十全の理』に長寿を司る魔法陣は無い。
でも、人生はきっと長い。
死ぬまでに、長寿化はきっと出来るだろう。
エルリネは泣き疲れたのか、俺を抱いたまますぅすぅと寝息を立て始めた。
奴隷用の檻の中だけど、久しぶりに人に抱かれて、寝ることが出来るようだ。
姉さんとは違う。
歳の差もかなり離れている。
姉さんにはなかった薄荷の匂いも充満している。
姉さんの火属性たる体温の高さも感じない。
それでも、何故かとても姉さんと寝ているときのように安心出来た。
明日はエルリネが言っていたこととかを聞いてみよう。
とくに"魔石"という単語を。
瞼が下がる。
今日は久しぶりに寝れるようだ。
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ボクが、あなたの痛苦を癒やしたいのです。
古代の歌詞の碑文:血識騙る蒼くて青い海:-イニネス・メルクリエ-




