休養日のランナー
――朝。
秋のように薄寒くも、絶好の体力づくり日和。
風の強さと雲行き具合から、今日は。
「晴れるようだね、エルリネ」
「そうですね、ご主人様」
俺とエルリネの口から漏れるのは、白い息。
"日本"のように、排気ガスなどはなく、あるのは澄んだ空気。
これほどまでに。
「美味しいなぁ、空気って」
そう感じたことは、この世界で生を受けてから何度も思った。
何度吸っても飽きない、この空気は。
胸ポケットのパイソも大きな欠伸を一つ。
彼は変温動物で寒さに弱い筈なのに、普通に活動する。
きっと異世界だからトカゲでも、恒温動物なのかもしれない。
彼のつぶらな瞳は相変わらず「ご飯、まだ?」のよう。
胸ポケットの中の彼の頭を一撫で。
エレイシアのように、気持ちよさそうによがる彼。
「美味しい……ですか?」
「うん、美味しい。
エルリネの匂いもあるしね」
「…………、こんなところで言わないで下さい、ご主人様」
そう呟く彼女は、もっと強く濃く薄荷が匂った。
笹穂の耳は変わらずピコピコと。
――口ではそう言ってても、嬉しいらしいな。
ピコピコと上下に揺れる彼女の耳と彼女の頬は赤く染まっている。
……いやはやなんとも、可愛い子だなぁ。本当に。
「ご主人様、早く準備運動をしましょう」
「そうだね。……結局エレイシアは来ないか」
「そうですね。ただ、確かに難しかったとは思います」
「へぇ、なんで?」
「甘えさせる気はないのですが、私やご主人様のような筋肉の付き方をしていません。
良くも悪くも魔族らしい、身体付きしています」
「…………、」
「ご主人様のように鍛えれば伸びるものではなく、私の種族のように人に近いのではなく。
あの子は、歌に"特化"している子なので……、その、ええと」
なるほど、つまり彼女は。
「短所を潰すのではなくて、長所をひたすら伸ばした方がいいのか」
「……ご主人様は、どう考えて、どうされるのか"皆目検討もつきません"が、でも、出来ればみんなの特性に合わせて欲しいな。
と、愚考する次第です」
なまじ俺自身が何でも出来るような高火力高出力で弱点を潰すという荒業が出来うるチートを持っているから、彼女たちにもそれを強要していたようだ。
「いや、済まなかった。考えてみれば、俺だけが出来る芸当だな、これは」
「いえ、そういう訳ではないです。あの子はともかく私は明確に『奴隷』なので、ご主人様の命じるままに頑張りますけども、そのえっと」
「いやいや、折角の休養日だし、寝ていたいなら――」
厭味なんかではなく、ほんの好意だったが……、ぎゅっと服の端をエルリネに摘まれた。
「私は嫌なんかではないです。ご主人様と一緒にいたいんです。
だから、『一人で寝ておいで』なんて言わないで下さい」
かわいい生き物だ。
パイソも可愛いが、エルリネは超絶にかわいい。
涙混じりの声が中々にごくり。
「分かった分かった。じゃ、一緒に走ろっか」
「……はい」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
約五キロメートルをたったかと走る。
気分は皇居ランナー。
ただ、生前では皇居近くに住んだことはないので、そんなものをやった覚えはない。
体力が無いのが魔族という割には、エルリネは普通に体力があった。
目測で約二キロメートルほど走って、そろそろ折り返し地点だが、俺のペースに合わせて走っている。
人並み程度に息を切らせているが、それでも死にかけている訳でもなく。
いや、寧ろ俺が死にそうだ。
主にエルリネの跳ねる『胸』の所為で、だ。
この世界、あんまり気にしてなかったが"ブラジャー"がない。
母さんは、跳んだり跳ねたりする人ではなかったのでピンと来なかったが、エルリネが跳んだり跳ねたりするので、オトコのコには非常に辛い。
魔法的不思議技術で、垂れることはないのだろうが。
それでも少々不安になることもある。
幸い、その手のモノを彼女用に作っても、「流石、ご主人様」と関心されることはあっても、「うわードン引きだわー」となることはない、筈である。
なお、エルリネを助けたときにいた冒険者の女は革製の前当で擬似ブラジャーみたいなものを作っていた……ように見えた。
殆どうろ覚えだが、胸の形にそっていたと思う。
兎角、彼女の今後の見た目のためにも、作るべきである。
あとブラジャーしているとちょっとエロく見える。
ばばーんと見せるよりも、チラリと見せるほうがそそるという感覚。
……とにかく、近いうちに作るかブラジャー。
布でカップを作って、ヒモでベルト部と肩紐を作る。
ホックは前と後ろと…………、うん前にしよう。
きっと後ろにしたら素敵に面倒なことが起きそうだ。
そう軽く妄想しながらも、エルリネのほうは見ない。
エルリネの胸に目が行くからだ。
こういうときの豊乳はキツいものがある。
なまじ第二次性徴を迎えたと、自覚があるから殊更キツい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
"心頭滅却すれば火もまた涼し"の精神というよりも、"無私無想"の精神で残り三キロメートルほどを走り抜けた。
なお、どうでもいい話だが、この世界にはコルセットはあるようだ。
ブラジャーはないのにコルセットはある不思議。
普通、逆だと思うがこれについては考えないことにした。
まぁ、胸を強調するために腰を細くするためのコルセットで、全く胸には触らないのですが。
そんな邪念を、「懐かしいですね、ご主人様」エルリネが振り払う。
「ん、何が?」
ごめん、今、君のことを見れないや。
「一緒に追いかけっこして……、森の中で迷ったことを思い出します……」
段々と言葉尻が垂れ下がり、笹穂耳も垂れ下がる彼女。
……あぁそういえば、森人なのに森の中で迷ったな。このへっぽ娘。
正直、ないわーと思った。
前を走っている筈の彼女。
明確な目標地点が見えている筈なのに、迷うへっぽ娘。
それでも、まぁ。
「それがまた、エルリネの魅力なんだけどな」
慌てる彼女はやはり可愛い。
「さて、もうちょっとしたらみんなを起こして、朝食食べたら街に行こっか」
「はい、お伴します」
照れているような声はどこにもなく、あるのはいつもの"理解者"の声だけだった。