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ようやく受付の仕事をお役御免となり、渓一朗は貴矩叔父さんにもらったお駄賃を、離れに置いてある荷物に入れに行った。叔父さんは太っ腹で、お駄賃は一万円。渓一朗は侑人との憂鬱な出来事も吹き飛んで、鼻歌気分だった。精進落とし兼夕食のため、母屋に向かう。廊下の角を曲がろうとすると、その先で人の声がした。
「朱音、ちょっと」
「侑人? 何?」
朱音と侑人だ。渓一朗はどきっとした。
違う廊下から行こうと後退りすると、二人がこちらに向かって来る音がする。
……今、ここで見つかると立ち聞きしていたと思われるぞ。
とっさにすぐ近くの扉を開けると、掃除用具が入っていた。無理やり体を押し込み、どうにか扉を閉めた。間に合ったようだ。
……立ち止まるなよ!
渓一朗の心の願いも虚しく、すぐそばで朱音の声がする。
「別にもう怒ってないから。……ただ、ああいうことは止めて欲しいの。付き合っているわけでもないのに。それだけよ」
「……渓一朗とはいいのか?」
「渓一朗? ……ああ、さっきのこと? 何もないわ。本当よ」
扉の細い隙間からも、明らかに侑人が明るくなったのがわかった。
「じゃあ、広間で一緒の席に着いてくれるかい?」
「……いいわよ」
二人が遠ざかる気配がする。渓一朗はしばらくそこから出られないでいた。
◆◇◆ ◆◇◆
「よく抜けて来れたな」
「身代わりを置いてきたから」
朱音は肩をすくめると、大広間の隅に陣取った渓一朗の隣に座った。
大広間の中ほどの卓に、従兄妹の女子3人に囲まれて、侑人が笑顔で座っている。なるほど、と渓一朗は頷いた。
「萌々(もも)花たちを置いて来たのか。やるな」
萌々花、芳乃花の双子ともう一人の従兄妹、結加梨は子供のころから侑人にべったりで、親戚の集まりではいつもくっついて廻っていた。ギャル風の派手な茶髪に化粧。遊んでいそうな三人だが、ちやほやされて侑人もまんざらでもないらしい。
「おとなしく三人で取り合ってくれればいいのよ」
冷たい口調で言うと、朱音はコップにウーロン茶を注いだ。
「侑人ってさあ」
ウーロン茶をがぶりと飲むと、朱音は渓一朗の方を向いた。
「前は私たちよりひとつ上だからって、年上風吹かせて、威張っててヤなやつだったじゃない? 何で最近はやたら構ってくるのかしら? 迷惑だわ」
「それは……」
……アヤがキレイになったからじゃないか。とは、言えない。そして渓一朗は更に思った。ちょっとだけ侑人に同情する。ほんのちょっと、だが。
「だいたい侑人は中三なんだから、受験勉強でもしてろっていうのよね!」
「いや、侑人は大学までエスカレータ式のおぼっちゃま学校に行ってるんだろ。だから受験はないんじゃないかな」
「そうなんだ、ますます腹立つ」
侑人と一緒の席でムカつくことでもあったのか、朱音は興奮していて、頬がやや赤い。ウーロン茶入りのコップを持ち上げる時に、箸や箸置きをばらばら畳に落とした。渓一朗は慌てて朱音の持っているコップを取り上げた。
「これ、酒入ってるんじゃないだろうな?」
匂いを嗅いでみる。が、アルコール臭はない。
「お酒なんか入ってないわよ」
コップを取り返すと、朱音は真面目な顔になって声を落とした。
「ところで、渓一朗」
「ん?」
「さっきの話だけど」
「うん」
「ちょっとわかったことがあるの」
「うん」
「聞いてるの?」
「いや、ごめん。聞こえない」
今や大宴会場と化した母屋の大広間。その宴たけなわの中、内緒話が出来る環境ではなかった。今も、向かい側のテーブルから、どう見ても酔っぱらっている直樹おじさんが立ち上がった。
「オイ、渓一朗、聞いているか!?」
「はあ」
「この鴨居の写真見ろ。ばあちゃんのじいちゃんだぞ」
渓一朗と朱音は鴨居のセピア色の写真を見上げる。装飾過多な額の中には、立派な白ひげを左右にピンと跳ねさせた、坊主頭のお爺さんがいかめしい顔で写っていた。
「この弓之助じいさんはな、県下で二番目に早く電話を引いたんだぞ! その時代にはすっごく珍しい自家用車もあってな……ガソリンスタンドがなかったから、自分で作ったんだ」
「その話は、さっきから三回目です」
「おお、そうだったか」
おじさんは照れて、反対側のテーブルに座り、同じ話を始めた。
向こうの隅では、渓一朗の父親が大声で登山話を披露している。
「岩壁にぶら下がってたら、急に山の上で携帯が鳴ってよ。電波入る所と入らない所があるんだ……」
和義おじさんは、いつものように熊撃ちの話に沸いている。
「その時、突然、熊が立ち上がったんだ! いや、慌てたね。みんな鳥撃ち用の弾しか入れてねえし、それじゃ熊には効かねんだ……」
あまりに何度も聞くので、何匹も熊と遭遇しているのかと思いきや、実は一回出会ったことを別な脚色で話しているだけなのだ。
あれらの大声の輩に対抗するには、こちらもかなり大きめの声でしゃべらないと……。渓一朗はここで無理に話をすべきかどうか考えあぐねた。
「アヤねえちゃーん」
声を上げながら走ってくる小さいものがあった。
「来海ちゃん! 来てたのね!」
正座している朱音の胸に可愛らしい女の子がどーんと飛び込んで来た。ぷくぷくした可愛いほっぺを朱音の頬とすりすりする。二人のいつもの挨拶だった。
「おう、来海、久しぶり。いくつになったんだ?」
渓一朗も声を掛ける。
「ろくさい!」
小さな手でVサインを作り、さっさと朱音の膝に座り込む。もう、内緒話どころではない。
「じゃあね、来海ちゃん何が食べたい?」
「からあげと、からあげと、からあげ!」
「じゃあ、うめしそと、青のりと、みそのからあげね、よし」
朱音が小皿に取り分けていると、
「くーるみちゃん」
後ろから甘ったれたような声がする。……この声は……。
「……はーるーとー!」
来海ちゃんを膝に乗せたまま、朱音はギギギギ……と効果音を入れてもいいぐらい、ゆっくり振り向く。ギャッと声がした。
「あ……朱音ちゃん? どど、どうしたの?」
後ろで陽人が恐怖のあまり腰を抜かしていた。はははは、と笑って渓一朗は、陽人にウーロン茶の入ったコップを差し出す。
「お前の兄ちゃんが――」
朱音がギロリと音のしそうな目で睨んだので、渓一朗は途中で黙って下を向いた。だが、陽人にはわかったらしく
「なんでゆっちゃうの、ケイちゃん! 絶対誰にもゆわないでって言ったのに!」
泣き言を言い出した。
「それはこっちのセリフでしょ! 誰にも言わないって約束したのに!」
朱音は少し詰めて、陽人を席に座らせてあげた。端正な顔立ちだが、冷たい感じがする兄・侑人と違い、陽人は明るく愛嬌のある少年だった。
「ケイちゃんは口が堅いから大丈夫だよ。あと、他には誰にも言ってないよ!」
くるみちゃーんなどと言って、陽人は少女のほっぺにすりすりしている。来海は意に介さない様子で、一心不乱にからあげを食べていた。
朱音は反省の色がなさそうな陽人を睨んでいる。
「来海ちゃん、陽人兄ちゃんにチュウしてあげて!」
「えっ? わ、わわ」
狭い中に座っているので、陽人は避けようもなく、来海のからあげ油べったりのチュウをほっぺにお見舞いされた。
ぎゃははははは……と渓一朗は後ろにひっくりかえって笑った。
朱音は黙ってウーロン茶をガブリと飲む。
「もう、来海ちゃんたら、可愛いんだから!」
来海をぎゅっと抱き締め気を取り直した陽人は、にこにこしながらお手拭で油を拭い取った。
「ぼくたち、おばあちゃんちでしか会わないよねー。同じ関東圏内なのに」
「まあ、お前んちは横浜だし、来海は埼玉、オレとアヤは同じ東京とはいえ、東と西の端だからな」
渓一朗は肩をすくめる。
「ぼくはもっと来海ちゃんと会いたいのにー!」
「来海も」
にこっと可愛く微笑まれて、陽人は有頂天のようだった。
「だよね、だよねー!」
「まあ、二人とももう少し大きくなったら、会えない距離じゃないんだし、電車を乗り継いでだな……」
ふと視線を感じて顔を上げると、朱音がじっと渓一朗を見ていた。「ん?」とそちらを見ると、目を伏せ、ちょっと口をとがらせて海苔巻を箸でつまんでいる。何なんだ、一体?
結局、あれから朱音と話す時間はなく、最後には寝始める客もいて、お通夜という名の宴会はお開きになった。朱音たち女性陣は片付けに追われ、渓一朗たちは倒れている人々を布団に寝かせていくというハードな仕事が待っていた。といっても、客を左右に一人づつ担ぎ、一度に運べる父・高志がいたので、大事には至らなかったが。




