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『チャラリーラリ。チャラリラリラー』

早朝の清々しい空気を切り裂くような、場違いなチャルメラの音が鳴り響く。

「……はい?」

『あ、渓一朗? あんた、大変よ! おばあちゃんが危篤なのよ!』

「ええっ!?」

『本家のおじさんたちが一緒に行ったけど、あんたたちもすぐ向かって! 信大よ。間違って本家に行っても誰もいないから! すぐ近くでしょ?』

「すぐ、近くだけど……すぐには行けないっていうか……」

渓一朗は疲れてきた右手のつかんでいる岩の位置を変え、左のつま先をより深く岩の裂け目に入れ込み、左手のスマホを持ち直した。

『何言ってんの? 本家以外の親戚中で今、一番近くにいる二人でしょうが!』

「直線距離的にはな。けど高低差が――」

『じゃっ、頼んだわよ! 私も用意が出来次第、すぐ向かうから! お父さんによろしく!』

ガチャ。ツー、ツー、ツー。

渓一朗は切れた携帯電話を少し見つめ、ザイルとストラップが絡まないよう、慎重にベストの胸ポケットにしまい、きっちりボタンを留めた。

「誰だった? 何だって?」

のんびりした様子の渓一朗のオヤジ、石井高志の声が上から降ってくる。渓一朗は左右の手でそれぞれ岩を強くつかんで、上へ向かって怒鳴った。

「母さんだよ。ばあちゃんが危篤だって。すぐ信大へ行けって」

「そりゃあ大変だ。すぐ降りるぞ!」

「ちょっと待って。今そこまで行くから」

今まで登ってきた岩壁を、渓一朗はそっと見下ろす。さっきまで霧で真っ白だった視界が急に晴れて、深い渓谷が黒い口を開けていた。時折吹く突風に体を持って行かれたら、一溜りもない。あと僅かで父・高志のいる岩山の上に出られる。まず、そこまで登って、それから下山計画を立てなくては。

そんな渓一朗にはお構いなく、高志はクマのような巨体とは思えない軽やかさで鼻歌を歌いながら、ザイルを繰り出し、巨大な岩二つを支点にして下降準備を始めた。渓一朗がようやく岩の上に立つと、忽ちハーネスに下降用ロープとエイト環を取り付けられる。

「待て、待て!」

渓一朗が座り込んでスポーツドリンクを飲んでいる間にも、懸垂下降の準備は整い、高志はにこにこしながら待っている。

「少しは休ませろー!」

渓一朗の声は北アルプスの峰々に木魂した。


◆◇◆   ◆◇◆


「大体ですね、まだ中学生のお子さんを連れて頂上から一気に下山なんて、無謀でしょうが! 人間はエレベーターじゃないんです! 急降下にもほどがあります!」

女の人の怒鳴り声で目が覚めた。

「えー、頂上じゃなくて、途中のあの辺りからですね……」

「は? 何ですか!?」

「……すみません」

巨大なオヤジの小さな声がすぐ近くで聞こえる。白い天井に白い壁、ベージュのカーテン。どうやら病院のベッドに寝かされているみたいだ。……って、病院? 

渓一朗は、がばっと布団を跳ね除けた。

「ばあちゃんは?」

「隣だ」

オヤジがごつい指で差す方を見ると、本家のおじさんたちに囲まれた隙間から、ばあちゃんがベッドに寝かされているのが僅かに見える。

「オレたち、間に合ったのか?」

「ああ、まあな。山小屋の人たちから記録的速さだって言われたぞ!」

鼻高々のオヤジは、スキップを始めそうなキングコングさながらだった。だが小柄な看護婦さんにギロリと睨まれ、天井に届きそうな身体を縮込ませ、あわてて笑みを消す。

「石井渓一朗くんね。もう具合はいいの?」

小柄な看護婦さんが訊ねてくる。

「はい。大丈夫です」

ベッドを降りようと、靴を履いていると

「渓一朗、ばあちゃんが気付いた。呼んでいるぞ」

正司おじさんに言われて、枕元に走り寄った。渓一朗は、薄く目を開けたばあちゃんの手を握った。

「ばあちゃん。オレだよ」

「……ああ、待ってたよ、ケイちゃん。……あちらの私によろしく伝えておくれ。アヤちゃんにも」

「え? あちらの……?」

ばあちゃんは、遠くを見る目付きになった。

「……今から思えば、あの服は私の葬式だったんだね。最後に一目見たかったけど……家宝のことは頼んだよ」

「家宝?」

ばあちゃんはそれだけ言うと、薄く開いていた目を閉じた。一度呼吸が深くなって、そのまま眠るように息を引き取った。

「ご臨終です」

集まっていた親族が皆、ベッドを取り囲む。

「ばあちゃーん!」

謎の言葉を残して、死ぬなー!


◆◇◆   ◆◇◆


思い出していると、渓一朗はまた涙が出てきそうになった。

「渓一朗?」

急に声を掛けられ、ギクリとする。ギリギリ泣いてはいないつもりだが、涙が出ていたら困る。慌てて目を擦った。

「……朱音(あやね)……か?」

白壁に向かったまま、振り向かずに言う。

「うん。あの……ごめんね」

引き返そうする気配を感じ、渓一朗は振り返った。すると、片手で梯子につかまり、バランスを崩しそうな朱音がいた。

「危ない!」

朱音の手をつかんで、引き戻す。なんと彼女は梯子を登るのに、ノートパソコンを抱えていた。バランスを崩すわけだ。

「ほら、パソコン持ってやるから上がれ」

「ありがと」

朱音は吸い込まれそうな黒い瞳で渓一朗の顔を一瞬じっと見、そして六畳ほどの土蔵の二階へ上がってきた。

蔵の中は薄暗く、夏でも涼しい。明り取りからの光のみが、床にくっきり四角く浮かび上がっていた。


……気まずい。

まさか、あんなところを見られるなんて。絶対、アヤのやつ、泣いていたと思っているぞ。

渓一朗はどうしたらいいかわからず、膝を立てて座り、白壁に寄り掛かったまま、射し込む光にきらきら舞う埃をぼんやり見ていた。どこか遠くから蝉の合唱が他人事みたいに聞こえてくる。

朱音は生成りのワンピースの裾を払い、横座りした膝の上にパソコンを置いたまま、開ける様子もなかった。

「……最後に、おばあちゃんに会えたの?」

いつもの明るいくだけた調子ではなく、静かな優しい声だった。また涙が出そうになって、渓一朗は必死に平静を装った。

「……ああ。……アヤにもよろしくって言ってたぞ」

朱音は、ふふっと笑って「よろしく……か……」と言っている。

「アヤはばあちゃんに可愛がられてたからな」

「渓一朗ほどじゃないよ。他には? 何か言ってた?」

「いや、それが……」

渓一朗は、ばあちゃんの不思議な最後の言葉を告げた。途端に朱音はいつもの明るい調子に戻った。

「えーっ? 何、それ? 渓一朗、家宝のこと、なんか知ってるの?」

「知るかよ、家宝なんて。代々当主しか見れないってアレだろ」

「『望月家の有る有るの家宝』ね。ある、ある、って言い伝えだけで、誰も見たことが無いという」

「当主しか見れないって言ってるけど、本当はそんなもの無いって話だろ?」

「うーん、そうだけど……」

朱音はちらっと渓一朗を見た。

「おばあちゃんがそんな風に言ったなら、本当はあるのかな?」

「さあ、とにかくオレはちらっとも見たことないからな。頼むって言われても困るし」

「それに、他の言葉も変だよね。『あちらの私』とか。おばあちゃんって双子だったの?」

「いや、聞いたことないぞ」

「だよね。あと『私の葬式の服』なんて、ちょっとまるで未来の話をしているみたいじゃない?」

「確かにな」

渓一朗は頭の後ろで腕を組んだ。

「……正司おじさんにも色々訊かれて困ってるんだ。ばあちゃんは病院でオレが来るのをずっと待ってたんだとか、最後の言葉に心当たりがあるんだろうとか」

「でも無いんだ、心当たり」

「無いな」


その時、土蔵の中に怪音が鳴り響いた。

『チャラリーラリ、チャラリラリラー』

「な、何、これ?」

すごく近くでチャルメラを聞いて、朱音はびっくりして立ち上がった。パソコンが膝から滑り落ちる。

「悪りぃ。オレの携帯だ」

渓一朗は格子柄のインド綿ハーフパンツから、ゴツい耐水性のスマートフォンを取り出した。

「はい、ああオレ。うん、一緒。あーわかった。今行く」

カーキ色のスマホをしまうと、朱音を振り返った。

「オヤジたちが手伝えってさ。アヤのことも探してるぞ」

「うん、わかった」

朱音がパソコンを持って立ち上がったので、

「持ってやるよ」

渓一朗はさっとパソコンを取り上げた。片手にPCを持ったまま、サルが木から降りるようにするすると梯子を降りる。

朱音は生成りの麻のワンピースの裾を押さえながら、ゆっくり降りてきた。


二人で蔵を出た途端に、後ろから声を掛けられる。

「ちょっと、ケイちゃん、アヤちゃん! びっくりするじゃないの。そんなとこから出てきて!」

「亮子おばさん」

長男の正司おじさんの奥さんだ。うるさい人に見つかったなと渓一朗は肩をすくめた。

「この(しち)ノ蔵は、『閉じずの蔵』って言ってね、いつも扉を開けているのは、神隠しにあったご先祖様がいるからよ! ふざけて入っちゃいけません!」

「ごめんなさーい」

朱音は愛想笑いして、おばさんのご機嫌を取っている様子だ。渓一朗は軽く頭を下げるとさっさと歩きだす。後から追いついて、朱音は言った。

「ね、知ってた? 今の話?」

「古い家にはよくある話だよな」

「でもビックリ。そんなこと初めて聞いたわ。私たち、小さい頃からいつもあそこで遊んでたよね」

「はは、実はオレも今初めて聞いた」


この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません

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