1話その5
時が止まったような空白のあと、顔から血の気が引いた。
妹の驚いた表情と司の睨み(この反応ときたら!)が、横から割り込んだ俺の罪悪感を左右から攻め立てる。そしてこの局面で俺が取った行動は、一目散に逃亡することだった。謝るでもなく誤魔化すでもなく、背を向けて全力疾走することしか、出来ずにいた。
どくどくと心臓が波打つのに合わせて、足が赴くままに動かし続ける。
全力疾走が駆け足になり。
駆け足が早歩きになり。
そして早歩きのペースが落ち着くころには、俺は学校を抜け出して、あてもなく街をさまよっていた。
あの場ですぐに謝ってしまえばよかった、なんて今更になってほぞを噛む。恋路を応援したと思いきや手のひらを返すように邪魔をして、フォローも入れずに逃げてきた兄貴は、どんな顔をして妹に会えばいいというのだ?
しかも自分で食べてしまうなんて……シスコンも度を越してやいないか?
学生服のままだと悪目立ちするだろう、とか上履きのままだから汚れる、など脳裏をよぎるもの全てより優先されて、頭の中を占めるもの。もう考えないようにしたくても、こうして街を歩いていると、妹や司と過ごした記憶が浮かび上がって、それを許さない。
あれは小学生のころに発見した面白い雑貨屋で。
あれは中学生のときに背伸びしながら入ったレストランで。
洋服の買い物に付き合ったデパートも。
たまに遊びに行くゲーセンも。
どこもかしこも二人の影ばかりで、目を背けるたびに違う思い出がよみがえり、街中を巡っていく。
俺は時間の感覚もないまま、ひたすらに歩いた。
ふらふらとしているようで、それでも、最終的にはここへ向かうように誘われていたのかもしれない。だいぶ遠回りをしたせいだろうか、学校を出たのは昼だったのに、いつの間にか辺りは夕暮れの色に染まっている。
――たどり着いたのは、家の近所にある公園だ。
すでに遊んでいる子供たちの姿はなく、貸しきり状態である。ゆっくりと砂地を踏みしめて歩き、ベンチに身を委ねた。
「……馬鹿やろうだな、俺……」
全身が、心地よい疲労感に包まれている。口をついて出た言葉に、なぜか涙腺が緩んだ。
それを誤魔化すように、急いで目を閉じる。
まぶたの奥に、最後の影が浮かんだ。
12年ほど前のことだ。
そのころ俺と『美奈ちゃん』は、ほぼ毎日のようにこの公園で待ち合わせて、一緒に遊んでいた。
しかし、あるときから一週間ほど、彼女の姿を公園で見かけなくなった。その前日に虫を使ったイタズラをして『美奈ちゃん』を泣かせていた俺は、子供ながらに相当焦ったものだ。
もしかして、虫のイタズラをされるのが嫌になって、来なくなったのかな? と。
謝りに行くか、行かないか。行ったとしても、どう謝るか。
悶々と考えながら過ごしていた日々は、母さんが唐突に『美奈ちゃん』を家に連れてきたことで打ち砕かれた。
いきなり対面させられたのにも戸惑ったが、何より驚いたのは彼女の様子に、である。
目の下に大きな隈を作り、顔からは表情が抜け落ちたようで、光を失った瞳だけが悲しげに映った。
『美奈ちゃん』は、虫が苦手という弱点を除けばよく笑う女の子、という印象を持っていたので、あまりの劇的な変化にしばらく呆けていたように思う。
気が付くと俺は、しばらく『美奈ちゃん』と一緒に遊んできてね、という母さんの言葉に従っていた。
遊びに行ったのは当然ながら、この公園である。
ちょうど黄昏時で、二人揃って燃えるような夕日を浴びながら、無言のままブランコをこいでいた。
「ゴメンなさい」
そしてなんの前触れもなく、俺は開口一番で謝ったのだ。
彼女の尋常でない様子の原因が俺のイタズラだったら。懸念が胸を掠めて、ただ謝るしかなかった。
「ゴメンなさい」
堰を切って溢れた言葉は、しばらく繰り返される。他にどう言えばいいのかも分からず、己の誠意が命じるままに頭を下げたのだ。
「なんで純也くんがあやまるの?」
そのとき久々に聞いた『美奈ちゃん』の声は、このまま消えてしまうのではないかと心配するぐらい、か細かった。
「だって、僕のせいで美奈ちゃん……」
その続きは、音にならずに消える。
顔を上げて『美奈ちゃん』に相対すると、彼女は無表情のまま泣いていた。
いや、実際は目も潤んでいないのだが、俺には彼女の横顔が紅く照らされる一筋のラインが、涙を流しているように見えたのだ。
途方もないほど綺麗で、それ以上に悲しかった。
「ちがうよ。純也くんは悪くない」
紅い涙の線を振り払うように、『美奈ちゃん』は頭を振る。
「じゃあ、どうして……?」
「……お父さんとお母さん、死んじゃったの」
『美奈ちゃん』がこぼした言葉は、俺にも衝撃的だった。
全く、聞かされていなかったのだ。
たしかに両親が二人して黒い服を着て、慌しそうに家を空けることはあった。それでも考えの及ばなかった俺は、そのタイミングで、『美奈ちゃん』の口から事実を知ることになり、驚愕した。
両親も色々と考えた末に言わなかったのだろうが、当時の俺はなにも伝えてくれなかった両親を、少し恨んだ。
「そう、なんだ……」
震えた声で、気の利いた台詞も出ない。
「……うん、そうなの……」
『美奈ちゃん』は、ただ頷く。
彼女はじっと耐えるようにうつむいて、二人はまた沈黙に包まれた。
ただ、俺には『美奈ちゃん』が大声で泣き出しそうなのを、隠しているように思えて。
そのときが、初めてだった。
守りたい。
笑顔でいてほしい。
そんな風に、誰かのことを思ったのは。だから俺は――『美奈ちゃん』を抱きしめた。
「僕が守るから。美奈ちゃんのこと」
「絶対に守るから」
「いなくならないから」
そう、彼女に誓った。
「だから……」
今は泣いても、いいよ。
「……なにが泣いてもいいよ、だ。俺の方が泣いてたんだよな」
当時の影。未だに色あせることのない、俺たちが兄妹になる前の思い出。
あのときの誓いは、現在の自分を形成する原点だった。
まさかあれから家に帰った途端に、両親から『美奈ちゃん』が妹になることを告げられるとは思ってもみなかったが、誓いを果たすには好都合だと喜んだものだ。
しかしあのときの俺が本当に守りたかったものは――そのときから、手の届かないところに行ってしまったのかもしれない。
『純也くん』はシスコンの兄貴になって。『美奈ちゃん』は可愛い妹になって。
そして美奈が恋をしたのは、俺の親友だったのだ。
自然と、苦笑いが顔を覆った。
「ブランコでも、こぐか」
あのときみたいに。
大きくなった自分には小さく感じられる遊具は、腰掛けただけでギイと軋んだ。
持ち手の鎖は赤茶色に錆びており、懐古する心が締め付けられるようだった。
「帰りたくないな……」
しかしいつまでもここに居ることはできない。加えて、あのときの誓いを振り返ることは、バラバラだった心を一つの方向へ導いてもいて、言うほどの気持ちを秘めてはいなかった。
だから、口にしたのは最後の未練のようなものである。それに別れを告げるためにも、この黄昏が終わるまでは感傷に浸っていたいのだ。
家に戻ったら妹に謝るだろう。明日の学校で司にも謝らないといけない。そうしたら、世話焼きシスコン兄貴の通常営業になる。
ああ、そうだ。俺は妹を……
「あ……ここに居たんだ」
胸の中の独白を、一人の声が遮った。
この数時間が久しく感じられる音色は、何の抵抗もなく心へとしみ込んできて、俺は愛おしさで堪らなくなってしまう。
「お兄ちゃん、いきなり飛び出して行っちゃうから、心配したんだよ?」
本当に心配そうな表情でこちらへと近づいてくる妹の姿が、『美奈ちゃん』と重なる。
ふいに暖かいものが、頬を伝った。
「泣いてる……の?」
「っ……いや、光が反射してそう見えるだけだろ。それにもし俺が泣いてるんだったら、美奈があまりにも可愛いせいだしな」
自分では見えもしない筋をなぞる振りをして、流れていた涙を拭う。
「なにそれ。また新しい路線のシスコン発言だね」
妹は心配そうだった表情を残しつつも、おかしそうにくすくすと笑った。
守りたかった笑顔が、すぐそこにある。しかし妹をあのときのように抱きしめることは、二度と叶わないのだ。
目が赤くなっているかもしれないのは夕日が誤魔化してくれるのを期待して、俺は妹に正面から向き合った。
「さっきは、ごめんな。あんなことするつもりじゃなかったんだが……」
「ううん。全然気にしてない……っていったら嘘になるけど。元々、自分で言い出さないといけない事だったし」
今度からはお兄ちゃんを心配させないようにしないとね、と妹は舌を少し出して苦笑い。
俺はなんと答えれば良いのか分からずに、少し困った。そうだな、と苦し紛れに相槌を打うだけが精一杯で、会話を途切れさせてしまう。
静寂のままで数秒が流れて、今度は妹のほうが真剣な表情になっていた。
「私のほうこそ、ごめんね」
「ん? どうかしたか?」
謝られた理由を問い返す。
自分でも驚くほど優しげな声は、妹の表情を少し緩ませることに成功した。
「だって私が司さんのこと好きだって言ったせいで、お兄ちゃん悩んでるから」
「いや、いいんだ。いつも美奈のこと見ているくせに気が付かなかった俺も悪い。それに、いつかは知らないといけないことだからな」
強がってみせても、妹にはバレバレかもしれない。だが兄としては、あまり情けないところを察知されたくはないのだ。
司の奴も罪作りだな、とふざけた台詞をぼやくことで調子を取り戻そうとする俺を尻目に、妹は再び表情を引き締めた。
「――本当はね、お兄ちゃんに私以外にも目を向けてほしかったの」
告げられた言葉を、すぐには理解できなかった。
しかし美奈はこれ以上ないほど真剣な顔で、続ける。
「だってお兄ちゃん、いつも妹のことばっかり優先して、他には全然振り向かないから」
「もう少しシスコンが弱まれば良いかなって。そう思って告白したんだ」
取り繕った表情など、確実に崩れていた。
そして、この上なく情けない顔を晒していたに違いない。妹が考えていたことは、それだけ俺にとっては予想外で、衝撃をもたらしたのだ。
「美奈……」
「でも、失敗しちゃったね。逆にお兄ちゃんを縛るだけだったみたい」
妹は眉根を下げて、申し訳なさそうに呟く。
「だから、ごめんね」
それからまた、どちらとも口を開かずに時だけが流れる。俺はその間、なるべく心を整理しようと勤めた。
結局、守ろうとしていた妹は、俺のことを心配をしてくれていたというのか。
そしてそんな気持ちをおくびにも出さず、黙って守らせてくれていたのか。
俺たちが兄妹になってから、ずっと、ずっと――
妹には、敵わない、な。
「……少し、確認させてくれ」
それは、確認しなくても分かっているだろう、と心の中で呆れてしまうようなことである。
だが情けない兄貴である俺が踏み出すには、どうしても必要なことだった。
「司のことが好きなのは、嘘じゃないんだな?」
「もちろん、本当だよ」
少し馬鹿正直なところもあるぐらいの妹が、そんな嘘をつくはずがない。
「今日の様子見て分かったと思うが、競争相手多いし厳しいぞ?」
「確かに驚いたけど、覚悟はしてたから」
我の強い娘ではないが、心に芯は通っているから、簡単に諦めもしないだろう。
「本当に本当なんだな?」
「うん、本当に本当に本当。誓ってもいい」
俺も相当に諦めが悪いらしい。
念を押すように呟いて、ようやく先ほどの決心の続きを終わらせられた。
「そうか……分かった」
あのとき誓った『美奈ちゃん』は、確かにもういない。それでも俺は、妹を守りたいと心の底から思っている。
だからこれは、二度目の誓いだ。言葉には乗せないけれど、過去との密やかな決別だった。
「美奈、頑張れよ」
ありがと。頑張るよ。
そう満面の笑みをくれた妹に、俺は兄貴の顔を返せたと思うから。
――司が、妹を守ってくれるように。二人一緒に、笑顔で暮らしていけるように。
とりあえず導入となる1話はこれで終了になります。
次からはようやく本題に入っていく段取りですので、のろのろとした更新速度でも、どうか見捨てずに頂ければ幸いです。
ご意見やご感想など、お待ちしております。