恋を始める物語
ファイト!
金曜日、今日も帰れそうにない。その性格が災いしてか、頼まれると断れない。恋人もなく、大学の親しかった友人たちは、俺の忙しさに、気を遣ってか、飲みの誘いも少なくなった。
気付けば、三十路。実家に帰れば、「孫はまだか。」「いい人はいないのか。」と、口うるさく言われ、肩身の狭い思いをするばかり。
分かってる。分かっているんだ。恋愛や家庭を持つことが全てじゃない。そう騙すように、自分に言い聞かせる。頭に”退職”の文字が、横切る時も、一度や二度ではない。
「あら、佐々木くん、まだ残っていたの?」
営業課長の三島洋子(32歳)。少しお酒を飲んでいるのか、顔が赤い。入社してから、バリバリのキャリアウーマン。日中、自分の席にいることは少ない。夜は、取引先の接待で、大忙しだ。
「あっ、課長。お疲れ様です。今日も、接待ですか?」
「えぇ、四葉商事の部長さんに気に入られちゃってね。佐々木くんは、プレゼンの資料?」
「はい。月曜日に使う資料ですね。」
「どれどれ?」
課長が後ろから、モニターを覗き込む。
「田島工業さんか。あそこの課長、毎日、飲みに誘ってくるのよねぇ。」
課長、いい匂いです。俺のいる商品開発部が、営業部の課長と面識を持つことは少ない。だが、部屋が同じという事。俺が毎日、残業していて、課長が会社に戻ってくる時間に、まだ残っているため、課長から声を掛けてもらえた事が切欠で、週の何日かは、こうして、顔を合わせては、交流を持てている。
「それは大変ですね。でも、三島課長みたいな女性だったら、僕も毎日、誘いますよ。」
「あら、それは飲みのお誘いかしら?」
「えっ、いや、そういうわけじゃ。」
「何、違うの?」
「違うというか、違わないというか。」
俺は、恥ずかしくなって、手が止まる。それを見ている課長は、悪戯っぽく微笑む。
「ごめんね。佐々木くんの反応が面白くって、少しからかいたくなっただけよ。」
「そ、そうですよね。」
ほのかに香る香水と、アルコールのせいで、桃色に染まる課長の頬に、見惚れてしまう。
「あんまり女性を見つめるものじゃないわよ。」
「す、すみません。あまりに綺麗でつい。」
「あー、佐々木くん、セクハラよ。」
「あっ、す、すみません。そんなつもりは、、、」
ふふふ、と笑う課長は、さらに可愛く思えた。
「じゃぁ、私は帰るわね。佐々木くんも、あんまり無理しちゃダメよ。もし、上長に言いにくかったら、私に言いなさい。代わりに、開発部の課長に言ってあげるから。他部署の事だから、本当はダメだけど、頑張ってる佐々木くんを見てるとね、、、」
課長は、続けて何かを言おうとしたみたいだったが、口を閉じる。俺もそれ以上は、追及しなかった。
「それじゃ、本当に行くわね。」
課長は、部屋を出て行った。
「課長、いい匂いだったなぁ。」
と、コーヒーを口に含んだその時、
「佐々木くん、来週の水曜日、私、早上がりだから、時間あるわよ。」
ドアから、ひょいっと、課長の顔だけが出てきた。
「ぶっ、は、はい。」
盛大にコーヒーを吹いた。
「待ってるわね。」
と、ウィンクして、帰っていった。
「えっ、マジか、、、」
仕事どころではなかった。木曜日は祝日だ。これって、そういう事なのか?マジ?
「誘えってことだよなぁ。マジか、、、」
バリバリにやってきた課長の性格から、決断が遅いと怒られるかも。そう思い、スマホを手に取り、すぐにメッセージを打ち込むが、親指がビビッて、送信を押せない。
「くぅ、断られたら、どうしよう。押せねぇ。」
佐々木浩平、30歳。男を見せろ。今まで、そんなだから、恋人の一人も出来なかったんだろ。今が、そのチャンスだ。
「今まで、神様を拝んだこともないけど、お願いします。」
神に祈りを捧げたまま、親指をそっと落とした。すぐに既読が浮かび上がり、
-遅い-
間髪入れず、返信が帰ってきた。文末にニッコリ笑った絵文字が、少し緊張を和らげてくれた。
-すみません。-
絵文字も何もないシンプルなメッセージ。送ったあとに、ダサいと後悔してしまう。
-じゃぁ、水曜日。期待してるわね-
最後の投げキッスの絵文字が、俺の人生、まだ捨てたもんじゃないなと、思わせてくれるには十分だった。
Fin




