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神の将棋  作者: 啓察
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第一話 降臨


「30秒――」

記録係の乾いた声が対局室全体に響いた。

時刻は既に日付をまたいでいる。そうした中でも必死に次の手を考えるのが、将棋のプロ棋士である。プライドとプライドのぶつかり合い、負けたくない意志だけがプロの舞台にまで引っ張ってくれた。

(考えろ、考えろ、まだやれるはず、手はあるはずなんだ…)

「20秒――」

(まだだ、この僕がこんな所で負けてはいられない。こんな所で負けてたまるか)

「10秒――、1」

(いや、大丈夫。僕ならやれる。見える)

「2、3、4、5」

(……あぁ、なるほどな)

「6、7、8、」

(…ダメか)

「9――」

「負けました。」

泣き崩れるようにその場で腰を丸めた。

「至極君、顔を上げてくれ」

対局相手、畑八段の暖かい声が聞こえた。至極は畑八段の声に応じ、初めて目を合わせた。先程までは顔をこわばらせ、盤に向き合っていたにもかかわらず、対局が終わると人が変わったかのように朗らかな顔立ちに戻っていた。

「至極君は攻めが鋭いね。若さが溢れる攻めの棋風だ。まるで私の若い頃と闘っているように感じたよ」

「…そうですかね。無理攻めだけになっちゃって、すいません」

畑八段は60歳を超えているベテラン棋士、かつてはB級1組まで登りつめた努力の人だった。だが、最近では年齢に逆らえず、体調の悪化による成績の低迷が長く続いている。そのため、C級2組まで順位を落としてしまった。

「ごめんね、至極君。最近また体の調子が悪くてさ、感想戦はできそうにない。夜も遅い、ここで終わろう」

「はい…。」

畑八段は横に置かれたお茶を1口すすり対局場を後にした。

(はぁ、僕も帰るか…。)

畑八段に続くように、至極啓(しごくけい)四段が将棋会館を出ていった。対局中は極度にまで集中していため気が付かなかったが、外は土砂降りで辺りは真っ暗であった。

(傘…)

啓は傘を持参していなかった。貸してもらう宛てもなく、買う気も起こらなかった。負けた自分は雨に打たれて帰る方が望ましい、と振り切っていた。啓は最寄り駅、千駄ヶ谷駅までひたすらに走った。美しく揃えた髪型も、新調したスーツも靴も、自信に満ち溢れていたはずの顔も雨で崩れて消えていった。この1敗は啓にとって大きな損失であり、プロ入りから初めての3連敗を意味している。高校生三年生、18歳でのプロ入りを果たし若さと美貌からメディア、プロ棋士から1目置かれていた啓にとっては屈辱だった。プロ入り後、思うように勝ち切ることができず白星、黒星、白星、黒星、黒星、そして今回の黒星。メディアは二局目以降付いてこなくなった。何とか取れた2つの白星はまぐれと言ってもおかしくなかった。2つとも相手のポカだったのだ。


千駄ヶ谷駅にて――

啓は思わず改札前で立ちすくんだ。

12時をすぎているにも関わらず、大勢の人がいた。仕事帰りだろう、全員が疲れげっそりしている。業界は違えど、身体的、精神的苦痛は共通するものがあった。18歳と言う若さ、体力があるはずなのだが、実家の静岡に帰るまでの気力がない。静岡の高校に通いながら、プロ棋士をしているため一人暮らしはできなかった。帰る他ない。

啓は学業と将棋、どちらも捨てきれず両立できると確信していた当時の自分を憎んだ。

(家族に見せる顔が無いな…)

啓は父から将棋を教わった。必然のことだった。父、至極巌(しごくいわお)はプロ棋士だったのだ。3歳離れた妹、真央(まお)と一緒に幼い頃から将棋の指導を受けた。父が遅咲きだったこともあり、早いうちから育て、プロとして活躍してほしいという思いの現れだろう。指導は厳しかった、だが啓にも真央にも才能があった。だから耐え抜き、啓は小学生4年生で奨励会、真央も遅れはしたが研修会に入った。その後、啓は18歳でプロ入り、真央は15歳で女流棋士になることができた。

至極一家は将棋に取り憑かれた家だった。

(3連敗か…)

啓は畑八段を侮っていた。畑八段はかつて強かったと言っても今はお世辞にも強いとは言えない。事前準備もしなかった。その程度でも勝てると思っていた。だが結果は惨敗。素晴らしい受けでボロボロにされた。夢であったプロ棋士を侮り、惨敗。自分が許せなかった―。

それは父も同じであろう。

(……帰りたくない、いや帰れない。父にも顔向けできないし、真央には励まされる未来が見える。)

強い啓を見たい人は多くいる。強さを望んだ自分がいる。着地点は一緒なのに勝つことができない。

(今日は近くのホテルで泊まろう。学校は休めばいい)

そう考えた啓は改札から離れ、ホテルを探そうとスマホを見た。その時、足元にできていた水溜まりに反射した自分が見えた。苛立ちを覚えた。情けない自分が許せない。弱い自分が許せない。完璧主義な啓は顔を力いっぱい蹴飛ばした。

「痛ったい!突然何?」

(……は?なんだ、誰だ?女の声?)

周りを見渡しても人はもういない。啓が乗ろうと考えていた最終電車に呑み込まている。

(幻聴か……疲れすぎてるな。早くホテル探さないと)

「ねぇ?無視は酷くない?啓」

啓は思わず応えた。

「啓?誰だ!どこにいる」

啓は見えない刺客とでも闘っているかのように怒鳴った。

「さっきから踏んでんの。啓。至極啓」

(……!)

足元を覗き込むと、水溜まりが蠢いている。

(きも!)

啓はすぐに避けた。見たことない現象だった。

(風?いや風で波打っているはずがない、波紋状に広がっていないし動いている。)

「あぁ、やっと気づいてくれた啓君」

啓はまだ理解が追いつかない。

(水溜まり辺りから声が聞こえる、どういうことだ?)

「どういうことだ?なぜ名前を知っている?そして、何処に潜んでやがる?」

「いや、この中だって」

水溜まりが生きているかのようにバシャバシャ音を立てて動いている。

「だ・か・ら何処に潜んでいる?」

啓は疲れから、情緒が不安定だ。

「だ・か・らここだって、目の前にいるじゃん」

「は?」

「まぁ、いいわ。最初はそんなもんよね。受け入れ難いと思うわ。」

(脳の使いすぎだろうか。パニックだ。受け入れ難い?何を受け入れろと言っているんだ。)

「啓君!目の前の水溜まりを手で掬いなさい!」

「何を言っているんだ?何のために?」

「いいから掬いなさい!啓君!」

(この世界は狂ってる。俺が3連敗したのも狂ってるし、水溜まりに声を掛けられてるのが1番狂ってる!)

「わかった。掬ってやる」

「やったぁ!」

啓は両手で動く水を掬いあげた。手の中で動く感覚が気持ち悪さが残るが堪えた。

「掬ったぞ」

啓の声に応じて手から声が聞こえた。

「ありがとう!啓君!掬ってくれて」

(この世界は狂ってる!3連敗以上に狂ってる!)

「どういう原理だ?なぜ水から声が聞こえる?」

「私、ヴァルナっていう言わゆる神なんだけど…」

(…神?なんだあまりにも狂いすぎていないか世界?)

「…そうか、神か」

「ヴァルナって言うんだけどさ。なんというか立ち話もなんだし、啓君ずぶ濡れだし、先ホテル探さない?」

「わかった…。神」

「ヴァルナって言うんだけどさ。駅近のホテル空いてると思うよ。ここら辺終電逃す人多いし」

「いこうか…。神」

「ヴァルナって言うんだけどさ――――」



こうして、天才プロ棋士、至極啓の元にヴァルナ神が降臨した。

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