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第十章:揺らぐ王都、忍び寄る影

ルシアがカフェの扉を開け放つと、朝の光が差し込み、磨かれた木の床を金色に照らした。

昨夜の襲撃から一夜が明け、街は静けさを取り戻しているように見えたが、空気の底にはまだ、どこか張りつめた緊張が残っている。

通りを行き交う人々は笑顔を浮かべながらも、ルシアの視線は、なにかを探るように周囲を確かめていた。


「……今朝は、静かに見えるけど」


ルシアはカウンター越しに窓の外を眺め呟く。

濡羽色の髪が肩先で揺れ、知的な瞳が鋭く通りを射抜いた。


「表向きは、な」


セリオが低い声で応じる。

彼は剣の柄に自然と手を添え、周囲に潜む気配を探っている。


昨夜、夜影団の一部が街の片隅で動いたことは確かだった。

正体は掴めないまま追撃を振り切ったが、その背後に「誰かの意志」があることは明らかだ。


ルシアの胸中に、ひとつの確信が芽生えていた。

──これは単なる盗賊団や無法者ではない。もっと大きな、王都全体を巻き込む策の一端。


「セリオ。王宮の方は?」


「王子殿下が表立って動いた様子はない。ただ、近衛の布陣が昨夜から不自然に増えてる」


「……殿下自身が、危機を察知している?」


そう口にしたとき、扉の鈴が鳴った。

入ってきたのは、王宮からの伝令だった。

清潔な軍装に身を包んだ若い兵が深く頭を下げ、厳しい表情で告げる。


「ルシア様。殿下よりご伝言を賜っております。『元公爵令嬢たる貴殿が、市井の動乱に軽挙妄動することは許されぬ。王都の治安維持のため、しばし静観されたし』と」


淡々とした伝言。その裏に漂うのは、殿下自身が何かを掴んでいるのではないか、という不気味な気配だった。


「静観……ですって?」


ルシアは眉を寄せる。

第一王子である彼が、これほど大きな揺らぎを前に動かないというのは、不自然だった。


彼女の胸中で、かつての記憶が蘇る。

かつて婚約者であった頃の彼は、決して温厚でも誠実でもなく、どこか狡猾さを秘めた人物だった。 そして、彼にとって私は、自らの潔癖な世界から排斥した「汚点」のはず。私が街で支持を集め、真実の光を放つたび、殿下自身の過去の判断が誤りだったと証明されてしまう。


ルシアは鼻で笑った。


「公的な大義名分を持ち出すなんて、相変わらず王族の傲慢さが透けて見えるわ。『静観せよ』ではなく、『私の盤面を乱すな』と言いたいのでしょう」


「ああ。だが、それを俺たちに共有する気はないらしい」セリオが低い声で応じる。


ルシアの中に、わずかな苛立ちが渦巻く。

追放された身とはいえ、彼女はこの国を愛している。

そして、もう二度と同じ轍を踏むつもりはなかった。


同じ頃。王都の離宮の一角。豪奢な絨毯が敷かれた静謐な広間に、一人の男が立っていた。


整った顔立ちに冷徹な光を宿す瞳。

威厳を示す濃紺の官服を纏い、その姿は誰から見ても王族派の高官と映っただろう。

だが、その実、彼は宮廷の影に潜り込み、糸を操る者だった。


窓辺に立ち、男は遠く王城の尖塔を眺める。

昨夜の動乱は計算通りだった。

夜影団の手勢をわずかに動かすだけで、王都の空気は容易く揺らぐ。

街に走った不安の波は、民衆の耳と心を通じて、やがて王宮にまで届く。


「……王子も、聖女も。駒は整いつつある」


低く吐き捨てる声。


背後の闇から、黒装束の影が一人が膝をついた。

夜影団の忍びだ。

声は掠れ、敬意を滲ませる。


「報告いたします。昨夜の接触にて、対象──ルシア殿の力量を確認。想定以上の影響力を持っております」


男の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。

それは温かさを欠いた、冷たい笑みだった。


「やはり、ただの令嬢ではなかったか」


彼にとって、ルシアは王国にとって無害なはずの追放者に過ぎなかった。

だが、夜影団の報告によれば、彼女は周囲の人間を惹きつける力を持っている。

聖女の持つ「魅了」が外的な力ならば、ルシアのそれは存在そのものが人の心を動かす内的な輝きだった。


「……障壁となる、か」


男は瞼を細めた。

自らが築こうとしている計画──王族派と貴族派の均衡を崩し、国を掌中に収めるための盤上において、ルシアの存在は予期せぬ一手だった。

彼女が人々の支持を集めれば、いかに完璧に整えた布石も揺らぎかねない。


「ならば、見逃す理由はないな」


夜影団の忍びが、問う。


「次なる指示を、あのお方より」


「……監視を強めろ。だが、まだ直接の刃は振るうな」


「承知」


影が消え、広間には男だけが残された。

彼は胸に手を置き、冷ややかに思索する。


ルシア。

かつて王子の婚約者として光を浴び、そして退けられた女。

だがその運命の断絶が、逆に彼女を強くした。

人の縁を集め、街の人々に笑顔を与え、聖女すら退けた。


「……まるで、この国そのものの意思を体現するかのようだ」


その存在は危険だ。

だが同時に、興味深くもあった。


一方、ルシアのカフェでは。

昼下がりの光の中、彼女は常連客たちに笑顔を向けていた。

昨日の騒乱を知らぬ市井の人々は、彼女の微笑みに安心を覚え、再び平穏を取り戻したかのように振る舞う。


「ルシアさん、昨日の夜はすごい音がしましたけど……」


年配の女性が恐る恐る尋ねる。


「ええ。ちょっとした騒ぎがあったみたい。でも、もう心配しないで。街は守られているから」


柔らかな声で答えるルシアの姿に、人々は胸を撫で下ろす。


その光景を見守りながら、セリオはふっと呟いた。


「……あの男が動いているなら、ここで油断はできないな」


ルシアは一瞬だけ彼を見やり、瞳に強い意志を宿した。


「ええ。──でも、私たちが立ち止まる理由もないわ」



 *


王子イグナスは離宮の書斎で、巻物を広げていた。若く清潔感のある顔立ちだが、どこか癖のある瞳の奥に、思索の色が滲む。

先日の騒動、聖女マリアベルの暴走。そしてルシアが見せた光──王子の胸中は揺れていた。


「……どうして、あの娘が」


小さく呟く。

婚約者だったはずの少女を追放した過去の記憶と、街を救った彼女の姿が重なり、心に違和感を生む。

臣下たちはその表情を見て言葉を控え、ただ彼の動向を見守る。王子自身も、誰に頼ることなく答えを探すしかなかった。


その夜、王都の裏通りでは、夜影団の影が再び動いた。

黒装束に身を包んだ隊列が街を巡る。光の届かぬ路地を縫うように、任務を遂行するその姿は、単なる手勢以上の威圧感を放った。


「主の意図はまだ明らかにならぬ。だが、少女の動向を注視せよ」


隊列の先頭に立つ者の声は低く、しかし確かな統率力を示す。

敬称を忘れず、彼らはただ「あの方の指示」として動く。

ルシアの存在は、彼らにとって単なる命令以上の緊張感を伴う対象だった。


街の明かりが揺れる中、ルシアの行動範囲に目を凝らす影。

彼女の力は、単に魔力に限らず、人々の心を動かす――それが、計画を進める上で潜在的な危険となる。

男は、直接手を下さずとも、確実に世界の歯車を回すため、夜影団を駒として使う。


ルシアはオーブリエ・カフェで静かな午後を過ごしていた。

窓際の席で、本を広げる彼女の黒髪は光を受けて艶やかに光り、知的な瞳は頁を追う手と共に輝きを増す。

セリオは隣で、長身だが鍛え上げられた体つきと緑の瞳で、周囲の様子に注意を払う。

穏やかな時間。しかしその背後には、影の視線が近づいていた。


扉が開く。

背後の気配にルシアは瞬時に顔を上げる。

薄暗い路地に潜む影――夜影団の偵察者。

瞬間、彼女は立ち上がり、剣を持たずとも身構える。


「……セリオ、準備して」


低く告げる声に、緊張と冷静さが共存する。


影は一瞬立ち止まり、そして消える。だがその気配は、ルシアに確実に伝わった。

夜影団は確かに動いている。そして、背後に指示する男──彼女がまだ直接見ぬ存在──の意思が絡む。


その頃、王都の外れにある古びた屋敷。

敗北した聖女マリアベルは、警戒と疲弊の入り混じった瞳で窓の外を見つめていた。

胸元の開いたドレスは以前のような魅惑を保つが、内面は苛立ちと焦燥で揺れている。

彼女は完全に孤立したわけではなかった。黒幕の影響下で、潜伏と情報保持を任される存在となったのだ。


マリアベルはため息をつき、魔力を手元で整える。

外の夜空に浮かぶ月光は、彼女の背筋を照らすが、それは決して希望ではない。

彼女の目的はただ一つ──次の機会を窺い、ルシアの動きを監視すること。


王都の各所で、男の意図は確実に浸透していた。

夜影団が監視を強め、王子の動向も微妙に操作されつつある。

街は静かに、しかし確実に揺らぎ始めていた。


ルシアは街を歩きながらも、静かさを感じ取る。

小さな子どもたち、商人、常連客……その全てが、ほんの少しだが不安の色を帯びている。

その感覚を研ぎ澄ませ、彼女は決意を固める。


「……ここで立ち止まるわけにはいかない。セリオ、行こう」


セリオは無言で頷き、彼女の横を歩く。

二人の影は、街に溶け込みながらも、確実に夜影団の存在を意識している。


その瞳の奥には、青き炎が灯っていた。

計画を阻む障壁としての自覚と、自らの信念を守る覚悟。


男は影の中で、策を練る。

直接手を下さずとも、全ては彼の意志通りに動く。

しかし、目の前に立ちはだかるルシア――彼女こそが、自らの野望に唯一の干渉者であることを、男は痛感していた。


「……面白い。彼女は、計画に干渉する」


その言葉が、王都の夜を貫き、影の糸はより密に編まれていく。

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