ビーフシチュー
明日は更新をお休みします
ポテトサラダを平らげたリヒトは、ケバブに手を付けた。私のビーフシチューも残り僅かである。
「あのさ……アメテュストさんがいなくなった日のこと、聞いてもいい?」
「……突然ね」
困惑する私に、リヒトは述べる。
「オレ、クロエ様の話でしか知らないんだよね。軽々しく聞けるようなことじゃないから、今まで聞いてなかったんだけど……あ、もちろん今も話したくないならいいんだけどさ」
「アンタも当事者なんだし、話さない理由はないけれども……」
リヒトの視線に促されて、私は記憶の扉をゆっくり開いていく。話さない理由なんてないと言ってしまったけれど、本当は思い出したくもない。
「あの日は私の誕生日だった」
扉の隙間から、過去の断片が零れ出てくる。
「それで、エマが好物のビーフシチューを作ってくれていたの」
最後の一口は懐かしい味ではなく、苦い味がした。咀嚼する度に、あの日のことが掘り起こされていく。
「その日は仕事が長引いて。急いで帰ったんだけれど……家は、不気味なくらい静かだった」
いつの間にか、私の意識は過去に向けられていた。
それは、ルミエルを卒業してから初めての誕生日のことだった。
『ただいま』
仕事から帰ってきた私は違和感を覚えた。リビングルームから聞こえてくる騒がしい声が、今日は聞こえてこなかったからだ。
すると、顔を曇らせたトパースが駆け寄ってきた。
いつもは「姉ちゃんおかえり」だったのに。その日は違う言葉だったのだ。
『ねぇ、父様は?』
私はさらに首を傾げた。今朝、エマは『夕飯までには帰ってくるらしいよ』と言っていた。もう日が沈んでいる。しかも日没が遅い夏のことだ。だから、父様に何かがあって帰ってこれないに違いなかった。
『父様、仕事あるって言ってた?』
『……ううん』
私は首を横に振る。父様が仕事で家に帰れなくなった時、どれだけ忙しくても私かエマに連絡が入る。しかし、私には入っていない。トパースは、兄ちゃんにも連絡が入っていないんだって、と深刻そうな顔で言った。
『エマは今、何してるの?』
『兄ちゃんは料理作ってるよ』
厨房の方から良い匂いがした。これはビーフシチュー……私の好物の匂いだ。
私が夕飯を知ったところで、トッタッタッ、と走ってくる音が聞こえた。
『あ、姉さんお帰りなさい! 父様から連絡来てる?』
足音の正体は、お玉を片手に持ったエマだった。
『今日は姉さんの誕生日でしょ? だから姉さんが好きなビーフシチューを作ったの!』
まだ何も知らないのだろう。エマは屈託のない笑顔でそう言った。
嬉しいと、どう伝えれば良いかという困惑が半々。頑張って私の好きな物を作ってくれるような心優しい弟が悲しむ顔は見たくなかった。
『えぇと……ちょっと待ってて。確認してみるから。それでももうすぐ帰ってくるはずよ。ビーフシチュー楽しみにしてるから、エマは準備してらっしゃい』
『うん!』
私は適当に誤魔化して、エマを厨房に戻すことに成功した。トパースは怪訝そうな顔で私を見る。
『嘘ついてどうすんだよ』
『万が一……父様が仕事に夢中で、連絡し忘れてるってこともあるかもしれない。国軍魔法司令部に連絡してみるわ』
私はパネホを取り出して、機械音と共に画面を操作した。
呼び出し音を聞くこと三コール。無言の時間は、緊張と不安に包まれていて、無限にも感じられる。ようやく電話が繋がった。
『えーはい。国軍魔法司令部ですー』
『……クロエ様っていらっしゃいますか?』
『いますよーって、その声はフィー?』
——よりにもよって……
思わず舌打ちしそうになった。なぜなら、この世で五本指に入るくらい嫌いな、学生時代の同級生が出てきたからだった。そういえば、父様と同じ部署に配属されていた。
『そう』
『久しぶり。覚えてる? オレオレ、リヒ……
『それは今度聞いてあげるから。クロエ様を呼んで頂戴』
オレオレを断ち切った私の不機嫌さに気付いたのか、『クロエ様に聞きたいことは?』と急に真面目になって聞いてくる。
『父様がそっちに居ないか聞きたいの。まだ帰ってきてなくて』
しかし、返答はしばらく帰ってこなかった。
『オレは今日会ってないんだけど……名前ってアメテュスト・アムールで合ってるよね?』
『えぇ、そうだけど……』
何故そんな当たり前のことを聞くのか。わたしが疑問に思っていると、パネホの向こう側で『アメテュスト様を今日見かけた人はいますか?』というリヒトの声が聞こえた。私の頭は嫌な予感を察知して、パネホを支える両手が微かに震える。
『マジで超言いにくいんだけどさ……』
口調こそふざけていても、恐る恐る、というような感じだった。遠慮という言葉を知らないリヒトらしくない。
『アメテュストさん、今日仕事場に来てないってよ』
思わずパネホを落としかける。背筋は凍り、衝撃とショックが全身に広がった。
——そんなはずがない。
『職場で見た人は誰も居ないって』
——父様は仕事に行ったんでしょ?
『クロエ様が言うには、昨日休暇届を出してたって』
パニックに陥った私の耳に、リヒトの声は入らない。そんなはずない、という声も喉で突っかかり、パネホを持つ手は強まった。
『だから多分……』
もう聞きたくない。
無意識に、現実から逃げるようにして私は電話を切っていた。
青ざめていく私の様子を見ていたトパースは、息を呑む。トパースも頭で状況を理解してしまったのか、震える声で聞いた。『で……なんだって?』
私は画面が暗くなったパネホを見つめた後、必死になって単語を並べた。
『そもそも、父様は今日、仕事場に来てない、だって』
エマが『ほら、準備出来たよ』と呼ぶ声が聞こえる。
その声は、私とトパースの心に酷く突き刺さった。
リビングに行くと、エマが嬉々とした様子で皿を並べていた。ビーフシチューの他にも、クラッカーやサラダ、それに店で買ったと勘違いする程の出来栄えの、エマお手製のケーキがあった。
『今日は結構上手くできたんだよね』
弟が作ってくれたご馳走。普段なら私だって有頂天になる。けれども今は、初夏だというのに現実との温度差で凍え死にそうになった。
——何て教えれば。
父様がいなくなったと伝えれば、この笑顔は一瞬にして崩れ落ちるだろう。そんなの私だって耐えられない。
必死に頭を回す。何でこういう時に限って、頭はこんなに働いてくれないんだろう。現実から逃避したい? そんなのトパースだって同じだ。私はアムール家の長女よ。一番上がしっかりしなくてどうするの。
『姉さん。父様ももうすぐ帰ってくるんでしょ?』
何も知らないその笑顔が、あまりにも眩しくて苦しい。
けれどもなかなか口は開いてくれなくて。先に動いたのは、トパースの方だった。
『兄ちゃん……』
震えた声だった。私はトパースを見て、
『私が言うわ』
と言ったのに、トパースは『まかせろ』と口を動かした。声にはなっていなくて、頼りない言葉だった。
『二人とも、どうしたの?』
きょとん、として首を傾げるエマ。トパースは顔をぐっと歪めて、『兄ちゃん、ちょっと聞いて』と肩を掴んだ。誕生日だとは思えないテンションの私達に、エマも流石にただならぬ空気を感じたようだ。
『父様に、何かが……?』
トパースは深く頷いて、口を開いた。『ちょっと、違う……けど』
『父様さ、今日仕事に行ってないんだって』
綺麗なエメラルドグリーンの瞳から、すっと光が消えた。
ぱく、ぱくと口を動かしたが……言葉は出てこない。
『つまり、父様は俺らに黙ってどっかに行っちゃったってこと……』
言葉を発するトパースも、またそれを黙って聞いているエマと私も。ぐさり、と心に傷を付けていく。
『多分、帰ってこない……』
その一言は、トドメとして十分すぎた。
『……父様が』
エマは俯いて、そう呟いた。明らかにさっきと様子が違う。
『エマ……?』
私の問いかけにも応じず、エマの肩はカタカタと震える。目元は影で見えないけれども、焦点が合っていないことは分かった。
トパースは肩を強く揺さぶってみる。
『に、にいちゃ……』
しかし、ばしん、と音を立てて手は振り払われた。ばっと顔を上げて、誰かに向かって言う。
『父様が、そんなことする訳ない! ……僕達を置いて……僕達を置いてだなんて!』
目には宝石のように煌めく大粒の涙。それを拭うことなく、エマは廊下へと駆けていく。
『おい、姉ちゃん! 兄ちゃん追っかけるよ!』
少し遅れて、トパースも出発する。
『私は遅いから。先に走ってなさい!』
声を張り上げる。
キィィィイ、と門が開く音がした。
——もうエマが出て行って……
夜の町は、一人で歩くには危ない。
——早く見つけて鎮めないといけないと。
私も荷物を置いて屋敷の外へと走って出る。
——ああ。
外に行ってもご馳走の匂いが漂っている。
——なんで、父様。なんで帰ってこないのですか?
今日は私の誕生日だというのに。問いに対する答えは返ってこない。
ただただ、ビーフシチューの匂いが窒息するような苦しみを与えていた。
明日は更新をお休みします