序章
その日は確か、父様が仕事に出かけるのがいつもより早かった。
『あれ、父様。もう行くんですか?』
初夏の慣れない暑さにより目が覚めた僕は、リビングでせかせかと支度をする父様に目を擦りながら聞いた。
『うん。ちょっと仕事が入ったみたいでね。皆にもそう伝えておいておくれ』
父様は魔法使いで、魔法機関の偉い人をやっているらしい。だから、早朝や深夜に仕事が入ることも珍しくない。僕はそう納得したのだった。
だが、よくよく考えてみればいくつかおかしい点があった。父様が荷物を詰めているのは、いつも仕事に行く時に使うバッグではなかった。つい最近、二週間ほど長期の仕事に行った時に使っていたもので……とても、通常の仕事に必要な荷物の量だとは思えなかった。
支度を終えたのか、父様は廊下の方へと足を進めた。初夏でも早朝の廊下は薄暗かった。
『今日の帰りは……』
僕もその後ろに着いて行く。
『夕飯までには帰るつもり。もし帰ってこなかったら、先に食べていなさい』
父様はローブと帽子を身に付ける。暑そうだ。でもそれ以上に、アメジストの目と髪によく合っていてかっこいい。
僕は頷いて、『今日は僕が作るんです』と言った。その日は姉さんの誕生日だったから、姉さんの好きな物を作ろうとしていたのだ。
父様は足を止めてこちらを見て間を置いた後、
『……そう。楽しみにしていよう』
と微笑んで言った。だけど、目はどこか遠くを見ていて、とても楽しみにしているようには感じられなかった。
何か気に沿わぬことでもあっただろうか? 僕はそう思ったけれど、父様は気にせず前に向き直り、『フィーももう十九歳かぁ』と呟いた。
『エマも今年で十五歳でしょ?』
僕は小さく頷いた。
『時間ってものは怖いねぇ。残酷なまでに進むのが早い。私が老いぼれになる日もそう遠くないのかな』
『そんなことないですよ』
老いぼれと言うが、父様はまだ四十代だった。残した功績は数知れず、魔法界でも名は知れ渡っていて、老いなどとは程遠いように僕には感じられた。
でも父様は僕の言葉に答えず、再びどこか遠くを見つめていた。
それから玄関まで、無言の時が続いた。道中には階段もあったから、距離はかなり長い。
扉を開けようとする父様に、僕は声を掛けた。
『行ってらっしゃい、父様』
普段なら庭まで行って見送るのだが、今日はまだパジャマだから家の中まで。
手を振ると、父様も振り返って小さく手を振った。
『じゃあ、行ってくるよ』
僕が近づくと、頭をぽんぽん、と撫でられる。
『フィーとトパースをよろしくね』
昔はよく頭を撫でてもらっていたけれど、十歳を超えたあたりからはなくなっていたから、僕は驚いた。嬉しいと思うのと同時に、どうしたんだろうと疑問に思った。
『もちろんです!』
しかし、単純だった僕は素直に返事をした。
父様も満足そうに微笑んで扉を開けて出ていく。僕も扉が閉まるまで、その前で行くのをじっと眺めていた。
父様のためにも、姉さんのためにも、トパースのためにも。絶対美味しいのを作ってあげよう!
僕はそう決意して、自室に全速力で戻る。そして姉さんに貰ったレシピ本を開き、みんなが喜ぶ顔を想像して幸せな気分に包まれた。
……しかし、その日、父様が帰ってくることはなかった。
その次の日も、またその次の日も。次の月も、次の年も。
なぜ帰ってこないのか。父様はどうしているのか。それすら分からないまま、父様は帰ってこない。
それから僕達はずっと、父様――アメテュスト・アムールを探し続けている。