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短編小説『喫茶らんぷらいと』

作者: UrushioN

雨の日は、外に出ることにしている。


私がこういうことを言うと、大抵みんな不思議がる。雨が好きなの?って、首を傾げてくすくすと笑うのだ。きっと不思議ちゃんアピールをする子なんだって、思われているんだと思う。ちょっと違う人間なんですよって風を吹かせている人みたいに、私は見えているんだろう。


大抵その次には、どうして雨が好きなの?と聞かれる。私はいつも、返答に困る。雨の音が好きだと言われればそう。

なら、雨の匂いが好き?それもそう、嫌いじゃないし、むしろ大好き。

でも一番は多分、雨が連れてきてくれる雰囲気がまるごと好きなんだと思う。雨の日はいつもよりほんの少しだけ静かになる。私は傘をさして、街を歩く。視界はほんの少し狭まって、人の声はいつもより遠くに聞こえる。風もちょっぴり冷たかったりして、地面を歩くとぴちゃぴちゃと音がする。

まるで、いつもの世界より少しだけずれてしまった異世界に迷い込んでしまったみたいに。

雨は私にそう感じさせてくれる。

だから、私は雨の日が好き。

雨の日は外を歩く。なんの目的もなく、道も決めずに、ただ心のままに。


いつもは1時間くらいあてもなく歩いたら、帰路に着く。

けれどこの日だけは、少し違った。

そう、ほんの少しだけ。


雨の音に身を委ねながら歩いていた私は、路地の真ん中で足を止めた。気づけばだいぶ細い路地を歩いていたみたいだ。無機質な漆喰の壁に挟まれたその場所は、私が訪れたことのない場所だった。

雨が降る度に散歩しているものだから、近所のことは大抵知っているつもりだ。あたりを観察するように後ろを振り返ると、少し離れた向こう側に、見覚えのあるのれんが見えた。どうやら商店街の裏路地に、入り込んでしまったらしい。

 

「まだ来てないところがあったなんて」


せっかくだからとら私はその路地を進むことにした。するとツン、とした匂いが鼻先をかすめる。その匂いは少し酸っぱくて、けれど吸い込むとかすかに甘い香りがした。


「いい匂い」


視線を上げると、路地の左手に、お店があるのが目に入った。かわいらしいコーヒーの看板を見るに、喫茶店らしい。深緑色のつたに覆われているその外観は、目立たないながらもまるで秘密基地のような、不思議な雰囲気を醸し出している。


「喫茶らんぷらいと……。かわいい名前」


何かの魔法に手を引かれるように、私はその喫茶店に吸い込まれていった。


店の扉を開けると、路地までただよっていたあの香りいっぱいに包まれた。私は思わず目を閉じて大きく息を吸う。

なんて心地の良い匂いなんだろう。


「いらっしゃいませ。」

不意に前方から降ってきた声に、私はすぐさま目を開けた。


男の人がやわらかな笑顔で私に微笑んでいた。

癖のある黒髪に細い銀縁のメガネを身につけた男の人は、右手にグラス、左手にふきんを持っている。

ここの店主さんだろうか。

ベスト付きのクラシックなスーツから伸びた手はすらりと長く、その静かな佇まいはこの喫茶店の不思議な雰囲気を象徴しているかのようだった。


「何か飲むかい?」

「は、はい!」

「カウンター席にどうぞ」


優雅な手つきでカウンター席を示す男の人を見ていると、急にさっきまでの自分の行動が恥ずかしく思えてきた。少し顔をうつむけていそいそと席に着く。緊張してしまった私は、あたりに一人もお客さんの姿がいないのを見て、店主に話しかけてしまった。

 

「あの、開店前にお邪魔しちゃいましたか?」


店主はふわりと視線をあげると、口角を上げた。


「心配しなくていいよ。ここはいつでも開いてるんだ。」

「いつでも?」

「そう。でも、僕の気まぐれなんだ。気まぐれにお店を開けて、気まぐれにコーヒーを淹れる。だから君がここを見つけて、珈琲の匂いがした時なら、それは開店のサインだ。」

「そうなんですね」

店主はうんと頷くと私の前にメニューを差し出す。

表一枚だけの小ぶりでシンプルなメニューだ。メニューあるのはコーヒーと、シナモンロールだけだった。

 

「どうしてシナモンロールなんですか?」

「ぼくが好きだから。」

 

店主はふふ、と笑う。 

「じゃあ、コーヒーと、シナモンロールをひとつ。あ、あとコーヒーは少し甘めにできますか?」

「もちろん。ミルクをたっぷり入れておくね」

 

物腰や語り口調が柔らかく、親しみがあるのにどこか静謐な雰囲気がある。私はこの店主はとても不思議な人だなと思った。彼は確かにここにいるはずなのに、カウンターを隔ててまるでどこか別の世界にいるみたいだ。


「今日は何か用事があってここへ来たの?」

店主はコーヒーを用意しながら私に話しかけた。

「あ、いえ。今日は大学がお休みなのでなんにもなくて。ただあてもなく来たって感じです」

「この店に似ているね。」

「気まぐれ、ってところですか?」

「そう。でもその気まぐれにも意味がある。むしろそこがいちばんの共通点かもしれない。」


店主が付け加えたその言葉の意味を、私はすぐに把握することができなかった。

とっさに問いかけようと息を吸ったちょうどその時に、目の前にコーヒーが差し出される。

コーヒーから立ち上る湯気が頬にふわりと触れて、空中でほどけていく。


「はい、当店自慢のシナモンロールもお楽しみあれ」


わあ、と私は思わず声を出してしまった。

薄水色のかわいらしいお皿の上に乗ったシナモンロールはとてもおいしそうだ。焼き目のついた表面にはたっぷりのアイシングがかかり、バターの芳醇な香りが鼻をくすぐる。コーヒーのほろ苦い香りと、シナモンロールの甘い香りが溶けあって、それは私の中にあったもやもやを一瞬で忘れさせてくれる。


「では、いただきます」

少し喉が渇いていた私は、先にコーヒーを飲むことにした。熱いものは苦手だけど、熱々のものを飲むのは好きだ。

カップに指をかけて、右手を添えながら持ち上げる。そうして近づいてくるコーヒーの香りをいっぱいに吸い込んで、いざ口をつけようとしたその時。


「え……」


私は思わずコーヒーを口元から離した。目に映った光景が信じられなかったからだ。

思わず店主に視線を送ると、彼はすべてを理解しているような様子でカウンターに肘をついてこちらを見ていた。


「何か見えた、でしょ?」

「……はい」


店主の言葉の通りだった。コーヒーの中に映っているのは、私の顔じゃない。

何度瞬きしても、コーヒーの表面を揺らしてみても、それはまるで張り付いたように、消えることはない。


「どうして、れいなが。」


そこにあるのは、友人のれいなの姿だった。

いや、友人だった、という方が正しいだろうか。

彼女は明るいレースのワンピースに身を包んで、誰かと笑い合っている。

そう、私ではない誰かと。

この光景は幻じゃない。私ははっきりと理解していた。これは私が実際に見た景色。まったく同じものだ。


「言ったでしょ。ここと君は似ている。ここに来たのには意味があるって。」

店主はそういうと、ふっと笑った。

「ここにはね、不思議と何かを失った人がやってくるんだ。まあ、そもそも何も失っていない人なんていないのかもしれないんだけどね。」

「魔法を使ったんですか?」


恥ずかしげもなく魔法という言葉を使うなんて、普段の私からしたら考えられないことだったけれど、コーヒーの中のれいなの姿を見た後ではそんなことなど気にも留まらなかった。


「魔法? 残念だけどそんなものは使えない。ここはいつもよりほんの少しだけ、自分が自分であれる場所なんだ。君がコーヒーカップに見たものは君が自分で見せたんだ。君が失って、君が見るべきものなんだ。」


店主の話に、私は一切の抵抗を抱かなかった。

彼の言うことが真実であると、この胸はとっくに理解していたからだ。

私が失ったもの――れいな。

れいなとの友情こそ私が失ったもので、私の心を曇らせ続けているものだった。


「その友達は、どんな子だったんだい。良かったら、僕に聞かせてよ。」


戸惑う私に、店主はゆったりとした口調でしかしはっきりと口にした。


「そう重く考えなくていいよ。僕はあわいにいる存在なんだ。君が通り過ぎていく存在なんだ。ほら、目を覚ませば忘れてしまう夢って、あるだろう? でも、心だけがちゃんと覚えてる、そんな場所が、ここなんだよ。」


寄り添うような、穏やかな店主の問いかけに、私はコーヒーカップを置いた。そして浸るように目を閉じる。



「あー、私、授業は楽なやつ取ることに決めたんだよね」


高校の頃からの親友だった私とれいなは、志望校を同じ大学に定めて、同じ文学部に進学した。

私たちは本が好きで、歴史、心理学、考古学、わたしたちの知識を深めてくれるものなら何でも好きだった。

そんな私たちにとって、同じ授業を受けるのは当たり前の習慣になっていた。

科目登録の時は決まってカフェに行って、あれこれ話しながらシラバスを眺めていく。

しかしある日、その習慣は唐突に終わりを告げた。


「楽なのとか、ゆうなはあんま取りたくないでしょ?」

「……ううん、楽なのでも全然大丈夫だよ? 一緒に取ろう? れいなは何がいいの?」

「うーん……、あのさ」


あの時のれいなの顔、はっきり思い出せる。言い出しづらそうに、けれどはっきり浮かんだ嫌悪の顔は、忘れられない。


「何でも一緒にするのはやめない? 私たち、そろそろお互いで成長しなきゃじゃん? いつまでも一緒じゃ、良くないと思うんだよね」


それが私と距離を置きたい合図だということは、痛いほど分かった。どうして遠ざかりたいのか、その理由は分からないのに。


れいなと会う回数が減っていった。

私は初め、少しだけ期待した。れいなは一人になりたいだけなんだって。私と離れたいんじゃないって、私はどうしても思いたかった。


コーヒーに映った景色が、再び濃くなっていく。


大学のキャンパスで、何度も目にした。れいなが知らない子と楽しそうに笑っている姿を。その友達は私とは違って、少し派手で、おしゃれで。男の子が混ざっていることもあった。

私の中のれいなはどんどん変わっていって、私は、ひとりになった――



「その子のこと、憎んでいるかい?」

「憎んでは…… いないと思います。ただ、どうしてれいなが離れていったのか、分からなくて。私に、魅力がなかったからかな、とか、そんなことばかり考えてしまうんです」


ふふっと店主は笑った。


「もしかしたら、距離を置いたのは君の方なのかもしれない。」

「え?」

「あくまでもそのれいなという子にとって、だよ。君の何気ない行動が、その子にとっては遠ざかっていくもののように見えたのかもしれない。」


意図を図りかねる私に、店主は言葉を続ける。


「話し方や態度から察するに、君はとても思慮深い。そして、責任や約束を重視するタイプでしょ。授業の成績も、かなりいい方なんじゃないかい。」

「それは……悪くは、ないと思います」

れいなよりは。

その言葉が頭に浮かんだときに、ハッとした。今まで気づかなかった記憶の断片が、パズルピースのように寄り集まって、私に答えを伝えようとしてくる。


「やっぱりゆうなはすごいね。」

「ゆうなならできるでしょ。」


少し悲しげなれいなの声。


「私ね、ここでバイトしようかなと思って、そしたら就活の時にもきっと役立つと思うし――」

「留学とかしたいなあ、とも思ってるんだよね。たくさんの人と話せたらすごくワクワクするし、きっと楽しいよ――」

「れいなもやろうよ!」


そして無邪気な、何も知らないわたしの声。

あの時、れいなはどんな顔をしていただろう。

本当に彼女は、笑っていただろうか。


「君はとてもまっすぐな人間だ。雨を楽しめるくらい思慮深くて、将来のこともしっかり考えながら色んなことに興味を示して、全力になれる。その子にとって、君は眩しすぎたのかもしれない。」

「……私、いろんなことに挑戦しようとしてたんです。授業も、勉強も、知らない世界に踏み出してみたくて。れいなは、きっとそれを見て……」

「君には届かない、と思ってしまったのかもしれないね。」


店主は言った。その表情はどこか諦めているようにも思える。


「人はね、自分の弱さから逃げたくなる生き物だ。目の前に輝く、自分の先を行く存在がいると余計にね。焦る自分が苦しくなる。自分がどこか足りないもののような気がして、楽になろうとするんだ。」


れいなは離れていったんだ、私はそうとしか考えていなかった。

彼女が変わってしまったって。

裏切られたような気持ちになって、自分の悲しいという感情ばかりに目を向けていた。

けれどれいなは、自分を守ろうとしていたのかもしれない。


まるで私の感情を読んだかのように、店主は言った。


「どっちが悪いって話じゃないさ。人間がすれ違うのは驚くほど簡単だし、分かりあうことはとても難しい。ただ、今この瞬間、二人の向かう方向がほんの少しずれただけ。」


店主は両手の人差し指を伸ばして反対の方向にすっと動かして、それからくるっと回すと、今度は指をくっつけた。


「二人の道はさらに遠ざかっていくかもしれないし、また寄り集まることだって、あるかもしれない。」


「そうですね」

「その子に、もう一度話しかけてみるかい?」


私はコーヒーを見つめた。


「もう、連絡はしないと思います。少なくとも、しばらくは。でも、」


コーヒーにもう、れいなの姿は映っていない。

道が違っただけ。失ったわけではないと、もう知っているから。

自分を責めることも、れいなを責めることもしなくていいと、分かったから。


「でも今は、ちょっとだけ願える気がします。あの子が今も、笑っていられますようにって」


店主は私の言葉に驚かなかった。最初から最後まで、全て分かっているみたいに、ただにっこりと笑った。


「その気持ちがあれば大丈夫だ。」


私はコーヒーを飲む。温かくて、優しいミルクの味が口いっぱいに広がって、体をあっためていく。


「では、そろそろ行きます」


店主自慢のシナモンロールも食べ終えた私は、傘を持って立ち上がった。


「うん。来てくれてありがとうね。」

店主は右手をあげて私に手を振る。去り際にひとつ言葉を残して。


「君が世界に絶望してこちら側に来ないことを、陰ながら祈っているよ。」


私は傘をさす。

まだ雨は降っている。

店主の最後の言葉の意味を理解することはできなかった。あの喫茶店で、何かが解決したわけではない。私とれいなの間に変化があったわけではない。


けれど――


心の中にはひとつ、あかりが灯った気がした。

まだ小さい、名前のない光だ。

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