プロローグ
「佐々田、お前《《あれ》》明日までだからな?」
「……えっと、なんでしたっけ……?」
俺は、さも今初めて訊かれたかのような表情と声色で、机の傍らに立ってこちらを見下ろす担任に、そう答えた。
「おまっ……昨日も帰りに連絡しただろう!? 部活動の入部届だよ! あとお前だけだぞ!?」
「ああ……すみません。明日までには……。」
なぜこの担任がこんなにも感情的になるのか、まったく理解できない。期日は明日までなのだし、俺に落ち度があるとは思えない。ただ、あわよくばすっとぼけようとしただけではないか。
「んん……遅れずに出すんだぞ。お前、部活動紹介とか行かなかったのか?」
「ああ……一昨日の……。いや、行きましたよ。」
「ならもう提出できるだろう? まだ迷ってるのか?」
「まあ、そうですね……。」
迷っている以外に、未だに提出できない理由などないだろう。答えの分かりきった質問で俺の帰宅を遅延させないでもらいたいものだ。
「……ま、なんでも良いからさ。とりあえず入んなきゃダメなルールだから。入ったあとに幽霊部員でもなんでもすりゃいいんだ。……明日だからな、忘れんなよー。」
「……はーい。」
やっと話し終えて教室を後にする担任の背中に、俺は不満げな返事を小声で投げつけた。それが今の俺にできる最大限の抵抗だった。
◇
深旭高等学校。
今現在俺がいるのは、4階建て校舎の4階、1年B組の教室だ。学年ごとにAクラスからFクラスの6クラスがあり、各クラスの男女比も統一されている。
入学したときは疑問に思っていた。なぜ階の高さ順と学年順が逆なのか。つまり、事務室や職員室、また移動教室等で使う部屋のある1階を除いて、2階が3年生、3階が2年生の教室となっているのだ。
生徒が使えるようなエレベーターも無いため、毎日幾段もの階を登り降りしなければならず、その負担が最も大きいのが、我ら1年生というわけだ。
なにが年功序列か。若者の軟骨の柔らかさたるや、角砂糖のように脆く削れやすいというに。……というのは全く科学的根拠のない自論である。
ちょうど窓際の俺の席から見えるあれは、野球部だろう。その日の授業が終わるやいなや、すぐさま部活に勤しんでいるようで、なんとも素晴らしい精神性である。
「……はぁ。」
いつもならば即座に教室を出て帰路についている時間だが、俺は自分の机で一枚のプリントとにらめっこをして、さらにはため息まで零す始末だ。
「部活動紹介……あ。」
思い出した。
もともと部活動に対して消極的な俺が、万一、入部申請の提出を白ばっくれることができなかった場合に入るための部活のことを。
一昨日、本校の体育館で行われた『部活動紹介』では、各部活の部長が代表となって、1年生の前でスピーチをした。
あの人——よく見知った……いや、本当によく目にしていただけで、まともに喋ったこともないのだが、よく見て知っていた顔が、そこにはあった。
たしか『部員は少なく……』なんてことも言っていたはず。俺にとって部員数は最重要項目だ。少なければ少ないほど余計なコミュニケーションの機会が減るのだから。
「……見に行ってみるか。」
『生物研究部』。目星をつけていたその部活に、挨拶ついでの見学をしに行こうじゃあないか。
俺はそう決意すると、机の上に置かれたプリントに、ついに筆をのせた。
『佐々田夏瑪』
名前だけが書かれた紙をカバンにいれると、俺は教室から出て、1階にある『生物室』へ向かった。