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20.07.27

作者: 霽
掲載日:2020/08/02


 私が目覚めた時にはすでに、それは大きく損なわれていた。

 硬く半透明であった藍色の石は、すでに色彩を失い、灰色のただの石に変わっていた。中身が抜けたように軽く、歪なガラス玉のようだった。

 この石の何かが損なわれたこと、この変化が私にどのような影響を及ぼすのか、私にはまだ明確にはわからない。でも確実に、私のメトロノームみたいに一定した生活リズムに、少しずつ乱れが生じており、その乱れは時間の経過に伴い激しく乱れ、私をより一層混乱させるのだと予感させた。

 私はコーヒーを煎れて自室のソファーに腰をかけ、コーヒーを一口啜り、瞳を閉じて意識に集中した。そしてこの石と私を巡る過去をさかのぼり、この石が損なわれてしまった原因を探し求めた。





 世界の終わりみたいに真っ白な庭から、地割れのような音がして、私はガウンのまま庭へ出た。

 地面の雪の層は一直線に割れて、その割れ目に藍色の石がひっそりと挟まっていた。あたりの雪は石の反射した日光を受けて青く照らされていた。

 私は雪の割れ目に近づいて層を観察したが、割れ目は地層にまでは到達していないようだった。あの地割れのような音はいったいどこからでたんだろう?

 そして、谷底のように深い青さに魅せられて、両手で石を取った。石は見た目よりも重く、重力の影響を余計に受けているようだった。持ち上げた石を私の胸まで抱き寄せて、手のひらで転がした。そして、その色の深さを確認した。この石の深さには幾重にも重なる半透明な寒色の層によって成り立っているようだった。

 その石に意識を集中するほど、私と世界の間には一枚の膜が隔てられたかのように、視覚と聴覚を通じて感じた。物の輪郭は曖昧で雪と家の境界線が不明瞭になり、音は反響し、箱の中にいるように静かな振動を持ち返ってくる。アイスクリームが溶け合うように、私の意識はその中へ吸い込まれていくような感覚に陥った。

 すると、誰もいないはずの家の中から物音が聞こえた。私は石をポケットへ入れ、窓越しの家のリビングに視線を移した。

 家の中では、幼い頃に亡くなった妹がリビング中をくるくると、回っていた。妹の名前はサナといい、12才の時に山へ一人で遊びに行き、そのまま行方不明になった。しばらくして山中の湖で、サナの小さな焦げ茶色の長靴が発見された。どうしてあの日、私は一緒についていってあげなかったんだろう?私は記憶を遡ろうとしたけど、うまく思い出せなかった。

 そのサナは今、家のリビング中をあの日と同じベージュのワンピースと片足だけ長靴を履き、その裾を持ち上げながらくるくると回転しながら、口を開けて楽しそうに笑ってた。ワンピースからはみ出た小さな手足は、陶器のように滑らかで雪のように真っ白だった。すぐに砕けて溶けて消えてしまいそうで、私は怖かった。

 急いで家の中に戻ると、サナはまだリビングに立っていた。サナの長靴の履いていない方の足には泥や葉っぱがくっついて黒く汚れていて、その足をじっと見つめていた。

 私はなんて声をかけたらいいのか分からなくて、とりあえず「大丈夫?」と聞いた。


 「ぜんぜん大丈夫だよ。お姉ちゃんは?」


 何が大丈夫なのか質問した私自身わからないけど、私は安心して妹を抱きしめた。彼女は私の胸の中に実在していた。

 「お姉ちゃんも大丈夫だよ」と言うと、サナは私の顔をぼんやりと見つめた。

 そして「足を洗ってらっしゃい」と言うと、サナは頷いて長靴の履いている方の足を重たそうにしながらのろのろとお風呂場へ歩いていった。彼女が歩いた後には、黒い泥や葉っぱが彼女の足を象って床に張り付いていた。その汚れは私自分の心にもそのような汚れがついているように感じさせ、私は罪悪感の混じった悲しい気持ちになった。

 今思えばサナがいることも、片足だけ汚れていることも、お風呂場の場所を知っていることも不思議なことばかりであるけれど、この時はそれが変だとも思わず、自然な流れで過ぎていった。

 私は台所でコップを二つ出して、両方にたっぷりのミルクを注いでそれを電子レンジで温めた。最後に砂糖を入れてトレイに乗せてリビングまで持っていくと、サナは片足に長靴を履いたままでソファにこじんまりと座っていた。

 

 その日のことはそれ以上思い出せない。私は忘れてしまったのかしら?

 私は本当にそれを体験したのか、今ではそれすら曖昧で、私の記憶はシャッフルされたトランプのようにバラバラに配列されているようだった。それでも私はカードをめくり、バラバラになった記憶の中から、私を取り巻く世界の痕跡を辿ることしかできない。

 




 石はどうして損なわれてしまったのか。おそらく石はただの意識下の存在で、且つ意識世界のシンボルであったのだけど、私が意識世界の奥へ入りすぎ、シンボルとしての役割が必要なくなったのだと思う。つまり、石の存在がなくとも私は意識世界に入り込んでいる可能性がある。つまり、私にはすでに現実と妄想の区別がつかなくなっているようで、私には抗う術もわからない。私はすでにもう引きもどることの出来ないところまで来てしまったようだった。


 「けど後悔はしてないんでしょ?」

 サナは私に尋ねた。

 

 私は頷いた。

 そうかもしれない。むしろ望んでいたのかもしれない。私がいなくても現実世界の人たちは大丈夫なのかな?


 「私がいなくなった時だって、それなりにみんな生きてきた。だから大丈夫だよ。それに、こういう世界で生きたかったんでしょ?」


 私は頷いた。

 机の上には冷めたコーヒーが一つと温かいミルクが二つ。私は一人で寂しかった。


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