タンポポ生物の初恋
ある科学雑誌によると「タンポポの軽い種子は、ふわふわした冠毛の表面のすぐ上にできた渦輪を利用して空中に浮いていることが明らかになった」そうです。そんな形の動物(植物では面白くない)が生きている世界はどんなものだろうと考えたのがこの短編です。
彼の前には横倒しにした巨大な円筒のような渦が縦に重なっていた。温かい上昇気流と冷たい下降気流という互いに逆の方向へ流れる風の境界面に生じるチューブ渦だ。彼らの種族はこれを近寄ってはいけないという意味を込めて「世界の壁」と呼んでいる。
(さて、行くか)
彼はしっぽの先に付いているブレード円盤を背中側に傾けて世界の壁に接近していった。
彼らの姿はタンポポの種に似ている。あるいはヘリコプターのメインローターのブレードの枚数を百枚近くまで増やして回転を止め、多数のスリットが付いた二重円盤にしたようなものと言ってもいい。ローターが回転しないのならキャビンが逆回転しないようにするためのテールローターもテールブームもいらないが、姿勢を安定させるためにローターマストを思い切り長くしたという形だ。スリットの付いた二重円盤に下から風が吹き付けると円盤の上に渦が発生し、それによって揚力が生じるのだ。ヘリコプターのような回転する翼形断面のブレードには遠く及ばないが、安定した上昇気流が存在しているなら渦による揚力でも高度を維持することができる。
ブレード円盤の中心部から堅く細長いしっぽが下に向かって伸びて、その先の膨らんだ部分に内蔵、その下に白鳥のような、あるいはヘビのような長い首と頭が付いている。柔軟な首は大気の底から風に乗って舞い上がってくる空中プランクトンを捕まえるのに都合がいい。彼らの姿は大きな上昇気流の中で漂いながら生きていくための進化の結果だった。
彼らは上昇気流の中に浮かんでいる母親の育児嚢の中で育ち、自分のブレード円盤で浮かぶことができる大きさに育ったところで育児嚢を出る。プランクトンを食べて成長し、老いた者は一部の地球人男性のようにブレードが抜けていくために自分の体重を支えられなくなって大気の底へと落ちていく。彼らの種族にとっては巨大な上昇気流の内部こそが世界そのものなのだった。
しかし、ごく一部の男たちは世界の壁の外側に下降気流が存在する事を知っていた。彼が母親に促されて育児嚢から出た後、自分の養育者にすると決めた「じいさん」もその一人だ。他の子供たちも同じだが、特に選んだわけではない。育児嚢の中ではたたんでいたブレード円盤を展開して失った高度を取り戻していった所にいたのがじいさんだったというだけだ。
彼らは個人名を持っていない。彼らの種族の場合、男の子を養育するのが男たちの義務なのだが、一人か二人の面倒しか見ないし、養育者同士が会話するということもほとんどない。つまり4人以上の集団を作らないのでじいさん・おっさん・兄さんというような大ざっぱな呼称で充分なのである。ちなみにブレードが抜け始める年代になった男たちが「じいさん」、養育者の下から独り立ちしたばかりで男の子の面倒を見ていないのが「兄さん」だ。そして面倒を見られる側の子どもたちは基本的に「チビ」と呼ばれる。二人の男の子を養育している場合でも「大チビ」「小チビ」である。彼らは一夫一婦制ではないから父と子の関係が曖昧になる。自分の子である可能性がゼロではないから「おまえなんか知らん」とは言えない。選ばれてしまったらしょうがないから面倒を見るというのが基本的なスタンスになっている。もちろん、子どもたちを世話するのが好きだという変わり者もいることはいるが。
彼は上昇気流の中を滑るように横切ってチューブ渦の壁に近づいていった。
(いい渦はどこだ)
今回狙うのは太いチューブ渦だ。その上半分では引き込むような方向へ風が吹いているので、うまく入り込むことさえできれば一気に下降気流の中に放り出される。ただし、そのすぐ上には別の渦が存在することになるわけで、互いに逆方向へ流れるチューブ渦の境界部分では小さいが強い渦が発生している。彼らのブレードは大きくしなって風圧を受け流すのは得意だが、小さい半径で曲げるような荷重には耐えられない。小さな渦にブレードを入れてしまうと、そこに引き込まれて強引に曲げられたブレードが先端からパキパキと折られていく事になる。これはブレードが短くなる事によってその剛性が曲げようとする力を上回るようになるまで続く。実際、彼の上側のブレード円盤には半分ほどの長さになってしまったブレードが2本ある。
どうも安定した太いチューブ渦が見当たらない。が、この渦は脈動している場合が多い。観察していれば太くなったり細くなったりしているのが見つかるから、それが太くなるタイミングで飛び込めばいい。ただし、タイミングを間違えるとやはりブレードを折られてしまう。
脈動する渦を見つけたら、そのすぐ近くで待機して渦が太くなったタイミングで呪文を唱え始める。
「大気の底に棲まうものどもよ・・・」
この呪文に意味はない。だいたい呪文を唱え終わるタイミングで渦が太くなるような長さの文章にしたというだけだ。地球人ならカウントダウンする所だろうが、彼らは数とか時間とかの概念を持っていない。そんな条件下でタイミングを計るために彼が独自に編み出したのがこの呪文だった。
「願わくは我に安らかな死っ」
最後の「を与えよ」の部分を唱え切る前に渦が膨らんできたので思い切って飛び込むと、すぐに下降気流の中に放り出される。姿勢が斜めになっているが、これは放っておけば安定する。
姿勢が安定してからしばらくの間はブレード円盤の下のしっぽの周囲に渦ができていたのだが、それがみるみる弱くなっていく。下向きに吹いている風とほぼ同じ速度で降下している状態だ。困ったことにブレード円盤の上であれ下であれ発生する渦が弱くなると、彼らは横移動が困難になってしまう。上昇気流の中にいる時とは逆の方向へブレード円盤をいっぱいに傾けてもじりじりとしか進めない。ほとんど無風の中で、すぐそこに見える反対側のチューブ渦の壁が上に向かってすっ飛んでいくようだ。その壁の向こうにはおそらく彼らの世界と同じような上昇気流が存在しているはずだ。彼はその未知の世界にたどり着くために努力と工夫を重ねてきたのだが、まだ一度も成功したことがないのだった。
勢いが残っているうちは少しは前進できていたのだが、しだいに垂直降下に近くなっていく。もやも少し濃くなって気温も上がってきているようだ。
(だめか!)
今回も下降気流を半分も横切れずに諦めざるを得なくなった。少しくらい大きなチューブ渦を使ったくらいでは下降気流を渡りきれないようだ。彼はブレード円盤を大きく背中側に傾けた。彼らの腹側には排泄管があるので通常は進行方向に背中を向けてからブレード円盤を操作する。そうしないと自分の排泄物が頭の上から降ってくるということになりかねないからだ。しかし、今はそんな暇はない。ぐずぐずしていると大気の底まで墜落してしまいそうなので、頭だけを腹側に向けてとにかく世界の壁まで戻る。
鳥のように翼をたたんで下降気流よりも速く飛べれば舵を切ることもできるし、ブレード円盤を蝶のように羽ばたかせて積極的に飛ぶという方向への進化もあり得るかもしれないが、今の彼には無理な話だ。彼らの体は飛ぶのではなく、安定した上昇気流の中に浮かぶようにできているのだから。
チューブ渦までたどり着ければブレード円盤を水平に戻すだけで渦に引き込まれる。ブレードが大きくしなって構造限界を超えてしまったブレードが1本折れる感触があった。
乱流に叩かれていた頭が振られなくなれば、そこが上昇気流だ。首をいっぱいに伸ばすと遠心力によってチューブ渦から抜け出す事ができる。
ほとんど横倒しの体勢でチューブ渦から放り出された彼は、冷静に姿勢が安定するまで待ってからブレードの状態を確認した。背中側の2本はだいぶ前に折ったのだが、今回は腹側だ。3本とも中間辺りで折れている。
「これで少しはバランスがよくなったな」
自分自身嘘だとわかっていることを口にしてみる。ブレード円盤に隙間ができるとその分揚力が減る。こんな事を続けていれば、そのうちにブレードの抜け落ちた年寄りのように大気の底へ墜ちていくことになるだろう。それでも、ただ老いて墜ちていくのよりはマシだ、というのが彼の考え方だった。
(なぜ下降気流の中では無風状態になってしまうんだろう? 風さえ吹いていれば動き回れるのに・・・)
上昇気流の中では風による揚力と重力が打ち消し合っている。だからブレード円盤を少し操作するだけで揚力の働く方向を斜めにして横方向へ滑っていくことができるのであって、風と重力の働く方向が同じになる下降気流の中ではブレード円盤の下に発生する渦もごく弱くなってしまうのだ。彼はまだ自分がやろうとしていることがほとんど不可能である事を知らない。いつものように下降気流を渡りきるためのアイデアを考えながら上昇気流に乗って高度を稼ぐのだった。
彼は母親の育児嚢の中にいた頃から好奇心の強い子だった。育児嚢から首を伸ばしすぎて、それによる乱流で揚力を減らされた母親に強引に育児嚢に押し込まれることもしょっちゅうだった。責任感の強い母親でなければ繁殖期を待たずに育児嚢から引っ張り出されていたかもしれない。そして、そんな彼の背中を押してしまったのが余計な知識の豊富な「じいさん」だった。
「世界の中心にある強い上昇気流に飛び込むと、はるか高空まで一気に持ち上げられてしまうから気を付けろ」
「ほんとに?」
じゃあ実際にそこへ飛び込んでみよう、と考えてしまうような子どもと持っている知識をすべて伝えてしまいたい年寄りというのはある意味で最悪のペアだった。
「世界の壁であるチューブ渦の重なりの向こうには下降気流がある。それに捕まると大気の底へ真っ逆さまだぞ」
「ほんとに?」
じいさんはそこへ行ってはいけないというつもりで教えていたのだろうが、しばらくの間姿を消して、大気の底の方から上昇気流に乗って帰って来た子どもは興奮した様子でじいさんに報告するのだった。
「すごいんだよ! 下向きの風に乗るとね、風がなくなっちゃうんだ! 上も下もわかんなくなっちゃってんのにすごい勢いで降下してくんだ! そいでね、怖くなったから上昇気流に戻ろうとしたんだけど、渦の中でひっくり返されちゃうんだよ! ぐるんぐるん回されちゃって、上も下もどっちがどっちだかわかんなくなっちゃっうんだ」
「じゃあ、どうやって戻ってきたんだ?」
「え? ええと・・・・・・わかんない。ぐるんぐるん回されてて・・・いつの間にか壁を抜けてた」
まったく役に立たない。
「いいか。大気の底では大気が精液のように濃くなっている」
「なんでそういうことがわかるの?」
「・・・昔、そこまで墜ちて、また戻ってきた男がいたんだよ。いいから聞きなさい。底では風がひどく弱くなっていたのだが、風が吹いていなくても体が沈む事はなかったんだそうだ」
「どうして?」
「濃くなった大気が風の代わりに体を支えてくれたらしい。いいからちゃんと聞きなさい。そこまで墜ちると大量にいるプランクトンに体中を囓られるんだそうだ」
「それおかしいよ。プランクトンて食べるものでしょ。なんで男をかじるのさ」
「わしらの体はこの高度で生きていくようにできている。だから大気の底ではまともに生きられない。プランクトンは逆に大気の底で生きていくようにできとるんじゃろう。ここまで吹き上げられてきたプランクトンは大気が薄すぎて元気をなくしているんじゃろうな」
「・・・・・・ねえ、そこまで墜ちた男はどうやって戻って来たの? 風が吹いてないんでしょ」
「大きなうねりに持ち上げられた所にらせん渦の上昇気流があったのでそれに乗ったという話だったよ。上昇していくにつれてプランクトンが元気をなくして離れていったんだそうだ」
「ふうん・・・・・・」
じいさんはその男が上昇していった所にいたのは見知らぬ男たちだったという話はしないでおいた。この子は大気の底まで墜ちれば他の上昇気流に潜り込めることもあるとわかったら、体中を囓られることになってもそこへ行こうとしかねないという判断だ。だてに長生きはしていない。しかし、子どもの頃から勘がよかった彼の方もじいさんがまだ何か隠し事をしているのになんとなく気が付いていた。そのせいで彼は同じ繁殖期に育児嚢を出た男の子たちの中で最初に独立することになる。そうしていくら無茶な遊びをしても文句を言われない立場を獲得したのだった。
「おーい、じいさーん。のんびりしてっと繁殖期が終わっちまうぞー」
「いこーよー」
子どもを連れたおっさんに声をかけられた。大きさから判断して男の子にとっては最初の繁殖期だろう。これから繁殖期にやるべき事とやってはいけない事を学ぶのだ。
念のために言っておくと彼は「じいさん」と呼ばれるほど老いてはいない。ブレードが3枚折れているので「じいさん」なのだ。強い乱流に巻き込まれてブレードが折れるのと年を取ってブレードが根元から抜けていくのとはまるで違う事なのだが、彼らにとってはたいした違いではないのだろう。面倒なので反論はしない。
彼らが向かっている方に向きを変えると、いつもは少人数で広い範囲に散っている子連れの男たちが女たちの群に向かって終結し始めているのが見えた。女たちはすでに何段か重なった群れを形成している。
女たちは繁殖期以外は同じ高度で間隔の空いた平面的な群れを作っている。その辺りは気流に乗って上昇してくるプランクトンが多めの領域で、それをを平等に捕らえるためだ。女たちは我が子を育児嚢で育てなければならない。自分自身と我が子の体重を支えるためには少なくとも男たちの1.5倍以上の面積のブレード円盤が必要になるし、育児嚢の中の子どもにもプランクトンを食べさせなくてはならないのだ。そんな女たちが、プランクトンを捕らえるのには不都合な密集した群れを形成するようになると繁殖期だ。それを見た男たちは一斉に女たちの群れの下に集合することになっている。
男たちは女のように大きくなる必要もないから大量のプランクトンを食べる事も無いが、それでも女たちのように大きな群れを作ってしまうと食い物の奪い合いになりかねないので少人数のグループに分かれて生きている。しかし、そのままでは繁殖に都合が悪い。というわけで、定期的に男たちと女たちが集合する必要があるのだ。
(繁殖期ねえ・・・)
彼は繁殖そのものに興味がなかった。理由は2つ。第1に下降気流を渡りきる方法を試すのにはじゃまになるだけの子どもの面倒など見たくないということ。第2に自分を選んだ男の子が自分の子である保証はないということ。彼は繁殖期の度に、女の群の外側に浮かんでいる子を宿すのにはまだブレード円盤の大きさが充分でない女の子たちの下で精泡を放出することにしている。精泡はプランクトンよりも栄養がある。立派な大人の女になってくれるなら精泡も無駄にはなるまい。地球人で言うなら妻帯を拒否する誇り高い修行僧タイプというところだろう。
彼が女たちの群れの下にたどり着くとすぐに3人の子どもが育児嚢を出た。女たちの下に占位した男たちの前を落下していった子どもたちはそれぞれブレードを展開して風を捉える。たまに育児嚢から出ようとしない子もいて、母親に首根っこをくわえられて引きずり出される事もある。子どもたちにしてみれば、いつまでも育児嚢の中にいて母親が捕まえたプランクトンを口移しで受け取っていた方が楽なのだろうが、母親の方もさっさと重荷を下ろしてしまわないと次の子を宿せないのだ。また、ブレード円盤が充分に成長していないのに身ごもってしまって、まだ未熟な子どもを引きずり出さざるを得なくなる母親が現れる事もある。ブレード円盤が小さすぎると子どもを抱えたままで高度を維持することができないのだ。その場合、放り出された未熟児はブレードを展開する事もできないまま大気の底へ墜ちていくしかない。悲しいことだが、女たちは自分の体重だけを支えられればいいというわけにはいかないのだ。だからこそ男たちはプランクトンの豊かなエリアを女たちに譲る。そして女たちも自分の下に入り込んでプランクトンを横取りしようとするような男には死角になる真上から体当たりをかます。大きく重い女にまともにのしかかられたらブレードが何本も折れて墜落することにもなりかねない。女たちにとって食べるということはそれほど大事なことなのだった。
一方、男たちは繁殖期以外は女たちのじゃまにならないエリアでふわふわと漂っている。急いで成長する必要はないし、大人になったら精泡を作るのに必要なだけの食事をするだけでいいのだ。
彼はそんな男たちの中でも変わり者で、積極的に広い範囲を飛び回るタイプだった。思い切って上昇気流の中心部に飛び込んで大気が薄くて呼吸が苦しくなる高度まで舞い上がってみたり、そこから世界の壁に沿って巨大ならせんを描くように降下してみたりということもよくやってきた。また、チューブ渦にブレードを差し込んでしまって、大きく傾いたりひっくり返されたりするのは彼らにとっては恐怖以外の何ものでもないのだが、彼はその恐怖すら楽しんでしまうのだった。恐怖という感情を危険を回避するためのものだと考えれば、生き残る能力が不足しているとも言える。そんな彼が世界の壁を抜ける方法を見つけ出し、下降気流の先に別のチューブ渦がある事まで発見してしまうのは時間の問題だった。
子どもたちが一通り育児嚢から出たのを確認した男たちは排泄管を伸ばして女たちの下に集まっていく。それは粘りけの強い精液に大気を吹き込んで作った精泡を風に乗せて放出するためだ。上方で待ち構えている女たちは精泡を口で捕らえて、その味が気に入れば自分の育児嚢の奥にある生殖孔に押し込む事で受精が完了する。味が気に入らないとか、ブレード円盤の大きさがまだ足りないとか、あるいはすでに育児嚢に子どもがいる女たちは精泡を飲み込んでしまう。栄養豊かな精泡を無駄にしないシステムである。そして大事なことはこのプロセスは下にいる男たちからはブレード円盤の陰で進行することになるので、どの女が自分の精泡を生殖孔に押し込んだのかがよくわからない。つまり何回か先の繁殖期が来た時、女たちの育児嚢から出てきた子どもが誰の子かわからないということだ。自分の子である可能性がゼロではないので懐かれたら育ての親になるしかないという巧妙なシステムである。
育児嚢から出てきたのが女の子だった場合は女たちの群に加わる。そこには生みの親がいて親子関係も明らかなので、母親は自分の娘に育児嚢の中で次の子が育つまでの時間を使って充分な教育を施す事ができる。どうにも男たちが一方的に不利な繁殖システムのようだが、こうして男たちを繁殖に参加させないと女たちの負担が大きくなりすぎるのだった。
精泡を真っ先に捕らえられる位置にいるのは育児嚢を空にしたばかりの女たちだ。それに被さるように占位するのはすでに育児嚢に子どもがいる女たちだ。彼女らにとっては精泡は栄養豊かな食べ物ということになる。そして、まだ子を宿せるほどブレード円盤が大きくなっていない女の子たちは精泡がほとんど流れてこない周辺部に追いやられる。
男たちは、より確実に自分の子孫を残すために女たちの群の中心部の真下に集まりたがる。そして、そこは同時に独り立ちした子どもたちが風に乗って上昇してくる場所でもある。男の子はそこで自分がついていく男を選び、選ばれた男は責任を持ってプランクトンの上手な捕らえ方やうまく風に乗るためのブレードの操作などを教えなくてはならない。
育児嚢から出たのが女の子だった場合は女たちの群に加わる。そこには親子関係が明らかな生みの親がいるので、母親は育児嚢の中で次の子が育つまでの時間を使って自分の娘に充分な教育を施す事ができる。どうにも男の方が一方的に不利な繁殖システムのようだが、こうして男たちを繁殖に参加させないと女たちの負担が大きくなりすぎるのだった。
精泡を真っ先に捕らえられる位置にいるのは育児嚢を空にしたばかりの女たちだ。それに被さるようにすでに育児嚢に子どもがいる女たちが占位する。彼女らにとっては精泡はプランクトンよりも栄養豊かな食べ物ということになる。そして、まだ子どもを宿せるほどブレード円盤が大きくなっていない女たちは精泡がほとんど流れてこない周辺部に追いやられる。
男たちはより確実に自分の子孫を残すために女たちの群の中心部の真下ギリギリまで間隔を詰めて集まりたがる。そしてそこは育児嚢から出た子どもたちが風に乗って上昇してくる場所でもある。子どもたちはそこで自分がついていく男を選び、選ばれた男は責任を持ってプランクトンの上手な捕らえ方やうまく風に乗るためのブレードの操作などを教えなくてはならない。
しかし、子どもを連れていたのでは急上昇したり世界の壁を抜けたりというような無茶ができないのがわかっている彼は、いつも男たちの集団のできるだけ外側にいるようにしてきた。その上にいるのはブレード円盤がまだ充分な大きさになっていない女の子たちだ。そんなところへ精泡を放っても食べられて終わりである。しかし、それは同時に子育ての義務が生じないということでもある。彼は自由に遊んでいられるなら子孫を残せなくてもいいという考え方だったのだ。その戦略はおおむねうまくいっていた。失敗したのは何回か前の繁殖期の1回だけだ。
その時も彼はいつもポジションで精泡を放出しようとしていた。
「ひゃあああ~」
間抜けな悲鳴の方に顔を向けると、彼の下方を誰かが斜めに滑り降りていった。右へ左へと蛇行しながら降下していく。ブレード円盤は大きくない。
(子どもだ!)
ブレードが一部展開していないために円盤に大きな隙間が2つできている。それでは揚力が足りない。彼はほとんど反射的にブレード円盤を傾けて後を追った。
彼が追いついた頃にはその子も少しは落ち着いたらしく、ブレード円盤を水平にしていた。正解だ。それなら最大の揚力が得られる。それでも高度を維持するのにはまだ足りない。
ブレードの半分ほどを立てて風を抜き、揚力を減らしてその子の横に並ぶ。
「チビ、聞こえるか」
その子が顔を向けたところで声をかける。
「たすける?」
妙な言い回しだが、助けて欲しいということなんだろう。じいさんの話では受け答えができるなら未熟児ではない、ということだった。
「そのままでいろ」
子どもの腹側に回り込んでブレードの状態を確認する。ブレードの先端が変形して引っかかっているようだ。
「ようし。今から絡まっているブレードを外す。いいか、絶対に、う・ご・く・な!」
「・・・わかったー」
首をいっぱいに伸ばした体勢でその子の腹側から接近していく。これは本来タブーとされている危険行為だ。ブレード円盤が接近しすぎるとその上の渦同士が干渉して引き寄せ合う力が発生する場合があって、うっかりするとブレードが絡まってしまう。彼を養育してくれたじいさんはいたずら好きだったので、絡まる寸前まで引き寄せられることもよくあった。また、下から接近されると揚力を発生した直後の渦で包み込まれる事になる。この乱流の中にブレード円盤を置いてもほとんど揚力は発生しない。つまり相手の揚力を奪うことになる。だから子どもたちはことあるごとに他の誰かに接近しすぎないようにと教えられる。よく見えないブレード円盤の上方には特に注意するように、と。
ブレードの細かい振動からすぐ近くにチビの渦がある事を感じながら首を伸ばして、絡まっているブレードの一枚をくわえて振り回す。すると意外に簡単に外れた。
(よし、いける)
先端がくしゃくしゃになったブレードはどうしようもないが、絡まっている所をすべて外せば充分な揚力を得られるだろう。
(こういうのは普通育児嚢の中にいる段階で母親が手入れするもののはずなんだが)
「あの・・・風が斜め。もやも濃い・・・」
「わかってる。大丈夫だ」
実はあまり大丈夫ではない。もやが濃くなって上昇気流がらせんを描くようになるというのは大気の底が近づいているということなのだ。だが、彼には大気の底に墜ちるまでには絡んでいるブレードを外してしまえるという自信があった。実際絡まっているブレードを一枚外すごとにチビの揚力が増えていくので立てていたブレードを何本かずつ戻して揚力を合わせている。
絡まっていたブレードを半分ほど外した所で降下は止まり、そこから先は高度を回復しながら外していく状態になった。そして絡まっていたブレードをすべて外し、一緒に元の高度まで戻ってみると繁殖期は終わっていた。女たちの群はゆるく広がった形に戻っているし、男たちもどこかへ行ってしまっている。そしてチビは女たちの方に向かおうとしない。ということはこのチビは男の子・・・。
(しまった!)
彼は重大なミスを犯したことに気が付いた。彼はチビの養育者になってしまったのだ。しかし、なってしまったものはどうしようもない。下降気流を渡るのはしばらくの間諦めるしかないだろう。下降気流の中で横移動する方法も思いつかないことだし。
養育すると言ってもたいしたことをするわけではない。
最初に教えるのは上手なプランクトンの捕らえ方だ。プランクトンは風に乗って上昇してくるのを追いかけるよりも、その未来位置を予測してそこに開けた口を置いておく方が楽で確実なのだが、こういうのは育児嚢の中で説明を聞いただけでは理解しにくいし、子どもたちは身が軽いからついついプランクトンを追いかけてしまうのだ。
第2に暇さえあればブレード円盤の隙間から上方を見るということを習慣にさせる必要がある。彼自身何度もじいさんに注意されたことだが、プランクトンを追いかけているうちに女たちの下に入り込んでしまう場合があるのだ。
その他にも少しだけ移動したい時にはブレード円盤の角度はそのままにして一部のブレードをほんのわずかな時間だけ立てることで姿勢を変えることができるとか、実際にブレード円盤に風を受けて浮かんでみなければわからないことは多い。
養育を始めて最初の繁殖期を迎える頃にはチビがかなりの食いしん坊だということがわかった。とにかく暇さえあればプランクトンを追いかけているのだ。
「あんまり食うと太るぞ」
注意しても「うん」と返事するだけで食べるのをやめない。
(俺が子どもの頃もこんなに食っていたか?)
彼自身が子どもの頃はブレード円盤を操作して遊ぶのが面白くて空腹を感じた時だけプランクトンを捕らえていたような気がする。
(・・・まあいいか)
たくさん食べるということはそれだけ成長が速いということで、成長が速ければ彼の元から独立していくのも早いだろう。そうすればまた好きなだけ下降気流の中に飛び込めるようになるはずだ。
ところが、それから何回か繁殖期が過ぎて、彼よりも少し小さいくらいまで成長してもチビはまだ彼にまとわりついていた。普通はブレード円盤が大人の男のそれに近い大きさにまで成長すると養育者の元から独立したくなるはずなのにチビはそうしようとしない。教えるべきことはとっくに教え終わっているので、機会があるごとに「独り立ちしてもいいんだぞ」とか「他の男に付いていってもいいんだぞ」と言うのだが、チビは「うん」と返事するだけしてまたついてくるのだ。
(こいつ、どっかおかしいんじゃないだろうか)
とは思うのだが、男の義務である養育を放棄することもできない。結局のところ妥協点は、ついてきたければ勝手についてくればいい、だった。食いしん坊のチビのためにプランクトンの多そうなエリアで漂うのをやめて自分が行きたいと思う所へ行くことにしたのだ。
まずは強い上昇気流がある世界の中心へ向かう。腹側へ頭を向けてみるとチビもあわてて追いかけてきている。かまわずに中心流の中に入り込むとブレードが上にしなってしまうような強い風で押し上げられる。ちゃんと斜め下につけているチビはここでもプランクトンに首を伸ばしている。
(この加速度を楽しまないのかよ、おまえは!)
自分についてくるくせに自分が楽しいと思うことを楽しまないチビには軽い怒りすら覚える。
上昇速度が低下する頃にはブレードの先端が霜でキラキラして大気も薄くなる。寒いし、首を動かすとじゃりじゃりするし、頭が少しぼーっとする感じもある。
頭を下に向けると、だいぶ離れた所にチビがよたよたと浮いていた。そこまでしか上昇できなかったようだ。
(だーから、食い過ぎなんだよ、おまえはよ)
ブレード円盤に対して体重が重すぎて揚力が不足しているわけだ。彼はブレードを立てて揚力を減らし、チビを迎えに行った。
チビと同高度まで降りていくと、チビは素早く反転して背中側を向けた。腹側のブレードの先端が一部潰れたままなのを見られたくないらしい。彼らの種族にとってブレード円盤が整った形になっているということは格好良さの評価基準になる。さらに女ならブレード円盤がより大きい方が好まれる。男の場合は・・・精泡の味だろうか。
「ここは寒いよ。高度を下げようよ」
チビはそう言って近くに漂ってきたプランクトンに首を伸ばした。
(この食いしんぼが!)
そこで彼は気が付いた。
(壁を抜けてしまえばいいんじゃないか?)
彼が壁を抜けてしまえば置いて行かれたチビは独り立ちせざるを得なくなるはずだ。チビは充分に成長したし、教えるべきことは全て教えた。養育者としての義務は果たしたといえるだろう。
何も言わずに世界の壁に向かうと、それに気が付いたチビが追いかけてくる。
壁の前で方向を変え、チューブ渦の太い所を探しながらゆっくり滑っていく。
「チビ、このチューブ渦に近づき過ぎると巻き込まれるからな。俺はあえて壁を抜けて向こう側へ行くが、おまえはついてくるなよ」
「・・・うん」
チビはプランクトンを食べる合間に返事をしてくる。
彼はもう何も言う気になれずに横滑りしてチューブ渦にブレードを差し込んだ。すぐに渦に引き込まれて下降気流の中に放り出される。しばらく降下してから上昇気流に戻ればそこにはチビはいないという計算だった・・・のだが。
「うわわーっ」
ブレード円盤の上から間抜けな声が聞こえてきた。
「あのバカ!」
彼を追って壁を抜けてしまったようだ。
(ダメだと言っただろうがよ!)
話をちゃんと聞いていなかったんだろう。しかし、放っておくわけにもいかない。彼は首をめいっぱい横に伸ばした。それでも上にいるチビはブレード円盤の隙間からちらっと見えるだけだ。
{チビ-っ。ブレードを立てろー!」
チビはブレード円盤の面積の割に体重がある。風が抜けるようにすれば彼に追いついてこられるはずだ。
チビがよたよたと追いついてきた所でブレードを戻させる。
「ようし、俺の真似をしてブレード円盤を思いっきり傾けろ。そしてチューブ渦に巻き込まれそうになったらすぐに戻すんだ」
壁側をいっぱいに上げて少しずつ壁に寄っていく。チビがちゃんとついてきているのを確認してからブレードをチューブ渦に差し込む。
「ひえーっ」
壁を抜けた途端に声がするので頭を向けるとチビがひっくり返っていた。チューブ渦を抜けて上昇気流の中に戻る時にもたつくと、まずブレードの先端が、続いて胴がチューブ渦に跳ね上げられてひっくり返されてしまうのだ。
チビにとってはブレード円盤が下に頭が上に向くというのは初めての経験だっただろう。彼らの体型は頭が下になった状態で安定するようにできているから放っておけばそのうちに安定姿勢に戻るというのにあわてて立て直そうとして余計に高度を失っている。
高度を合わせながらアクロバットを演じているチビを見守っていた彼ははっとした。チビの太めの腹に長い襞がある!
「お、おまえ、女だったのかぁ?」
それを聞いたチビはあわてて背中を向けたが、完全に手遅れだ。
子ども時代の彼らのしっぽの付け根には排泄管を収納するための襞がある。男は成長してもそのままだが、女の場合は成長するにつれて排泄管用とは別に首の方へ長く伸びる育児嚢の襞が形成されるのだ。チビが頑なに腹側を彼に見せようとしなかったのは潰れたブレードを見られたくなかったのではなく、女だとバレるのを恐れていたということだったのかもしれない。
「でも、なんで・・・」
子どもは母親の育児嚢の中にいるうちに、男の子なら男たちの中から養育者を選ぶように、女の子なら女たちの群れに加わるように教えられるはずだ。
(もしかして・・・そういう母親だった?)
絡まったブレードをほどいてやることもしなかったくらいだし。そんな母親のいる群れに加わるくらいなら男を養育者に選ぶ・・・か?
(いやいや、今は考える時じゃない)
「チビ。おまえが女だとわかったから俺がおまえを養育する必要はなくなった。もうおまえにはつきあわない。女たちの群れに加わるなり一人で生きていくなり好きにしろ」
それだけ言うと反転して緩降下に入る。真っ直ぐ女たちの群に向かっているということはチビにもわかるだろう。女たちの所までついてくるなら女たちに引き取ってもらう。それが嫌ならどこへでも行けばいい。いずれにしろチビにつきあうのはこれまでだ。
しばらく後ろについていたチビがすーっと横に並んだ。
「・・・母さんはまだブレード円盤が小さかったのに子を宿してしまったんだって。他の人からしょっちゅう言われてた。『その子をどうするの?』『育てられるの?』って。だから俺が育児嚢から出て行けば母さんももっと大きくなれると思って・・・」
「そうか」
(それで男を養育者に選んだのか。迷惑な。・・・あっ、もしかして俺の精泡で? ということはチビは俺の子ども?)
そうだとしてもこれ以上つきまとわないで欲しかった。
「あー・・・チビはもう大きくなったんだから養育してもらう必要もあるまい」
「そう・・・かなあ・・・」
「それから『俺』なんて言うなよ。おまえは女なんだから」
「じゃ何て言うの?」
「えっ・・・それは・・・大婆様でもに聞いてくれ。女の名乗り方なんかわからん」
この「大婆様」というのも「じいさん」や「おっさん」と同じようなもので「女たちのリーダー」というような意味になる。
覚悟を決めたのか、チビは女たちの群れの中までついてきた。
女たちはとにかく大きい。ブレード円盤の直径が二回り以上も大きい女たちが集団で「なんだ、こいつは?」という視線を向けてくる。それはチューブ渦に飛び込むのよりもはるかに怖い。上方に回り込む女はいないようだからいきなり体当たりを食らうことはあるまいが。
目的の大婆様は群れの中心辺りにいた。
「繁殖期でもないのに珍しいね。何か用かい?」
「大婆様、こいつ女だったんだ」
「ほう・・・長い首?」
「はい、確かに育児嚢があります」
チビの後ろに回り込んでいた女が応える。それを聞いたチビはあわてて反転するが、それでは大婆様に腹側を見せてしまうことになるのだった。
「そのブレード・・・もしかして、まだらしっぽの子かい?」
「・・・・・・」
チビは何も言わなかった。「違う」と言わないということはつまりそういうことなんだろう。
「わかった。あんたはしばらくの間あたしの側にいなさい。いろいろ教えておかないといけないことがあるから」
それだけ言うと大婆様は彼の方に顔を向けた。
「それから・・・ええと・・・男の人。ありがとう。この子を育ててくれて」
「いえ、いいんです」
話は終わったと判断した彼はゆっくりと女たちの群れを出て中心流の方に向かった。
それから何回目かの繁殖期がまたやってきた。いまだに下降気流を渡れずにいる彼は今回も繁殖に参加する振りをするために女たちの所へ向かった。
いつものように成長期の女の子たちの下に占位しようとしていると大人の女が一人、彼の正面に降下してきた。
「久しぶりね、折れたブレード」
「は?」
「私よ」
くるりと反転すると絡まっていた痕が残るブレードが見えた。
「チビか!」
「もうチビじゃないわ」
もう一度反転して言い返してくる。確かにブレード円盤はもうどの男よりも大きい。立派な大人の女だ。
「私の名前はささくれブレード。大婆様がつけてくれたわ。そしてあなたにも。折れたブレードというのがあなたの名前よ」
「名前?」
そんなものは・・・物理的な重荷にはなるまいが、男にとって必要なものではない。
「ねえ、あなたの精泡をちょうだい」
「え? な・・・」
「あなたの子を宿したいの。女の方から申し出ても問題はないと大婆様は言ったわ。だから精泡をちょうだい」
そう言うとチビ、もとい、ささくれブレードは上昇しかけたが、彼を見下ろす位置で停止した。
「それからね、もう世界の壁には近づかないで。生まれてくるのが男の子だったらあなたに養育してもらうんだから」
この先、彼らの種族は長い時間をかけて男たちにも名前を普及させ、同時に家族単位の小さな群を形成するようになっていく。その最初のカップルが彼らなのだった。