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衝動の天使達 2 ─戦いの原則─  作者: 水色奈月
Chapter #8
41/206

Part 8-5 Provocation 挑発

271 164rd East-St. Boogie Down NYC, NY. 12:50

12:50 ニューヨーク州 ニューヨーク市 ブロンクス 東164番通り271番地



 ニューヨークのセントラルパークの北のエリア──サウス・ブロンクスのメトロ駅メルローズで下りたシリウス・ランディと情報第3課主任のニコル・アルタウスは路駐車ばかり道の両側に連なる住宅街を歩いていた。



 ブギー・ダウンの俗称をもつブロンクス、この行政地区は30年前ならばニューヨークで最も危険なエリアだった。白人の男女が足を踏み入れようものなら黒人系移民に取り囲まれた。だが今ではイースト・ニューヨークの方が殺人件数発生率でもブロンクスを抜き去っている。様変わりしたブロンクスには黒人系移民と拮抗してヒスパニックが多く暮らしていた。だがそれでもマンハッタン中心区域に比べれば危険なエリアは残っている。



「シリウス、そのロシア大使館職員をどうするつもりだ?」



 尋ねながらニコルは用心深い視線を通りの左右に振り続けていた。多くの建物の外階段には座り込むなと警告の貼り紙がしてある。それでも所々に居座るのはギャングスタの遣い走り(パシリ)か、麻薬中毒者(ジャンキー)だった。その者達が通り過ぎる2人にまとわりつくような視線を向けてくる。だがそんな警告と蔑視べっしを気にするでもなくシリウスは先を急いでいた。



「今日こそはどうしてマリーの身辺を嗅ぎまわっているのか白状させようと思ってね」



 簡単に話す中央情報局の肩書きを隠し持つ女をどうして社長がルナ不在とはいえ副社長代理という重要なポストにつけているのか、ニコルは一瞬理解に苦しんだ。その黙っている彼の先を読みシリウスが補足しわずかに視線を振り彼がさらに何か言い出すかと顔色をうかがったのをニコルは気づかぬを装った。



「1等武官だから白状しない──とあなたは言いたいんでしょ」



 それもあったが、彼は電車で移動中にメール連絡で部下にニコラフ・チェレンコフの概歴がいれきを調べさせると、男はベルリンの壁があったころからKGBの尉官を勤めロシア連邦保安庁(FSB)にも籍をもつ諜報畑のベテランだという事がわかった。



 そのベテランが足跡をつかませさせているということの不自然さが苛立ちの原因だった。



 同じ諜報畑のシリウスの見立てはまた違ったものなのだろうが、年齢的にニコラフの方が経験も知識も高いはずだった。だが切れ者のシリウスがそのことに気づいてないはずはない。ではなぜふところに飛び込むのだと彼は思った。



「仮にだが、目的がチーフ──マリー以外だったら薮蛇やぶへびの可能性も出てくるぞ」



「他の工作員を使わず、みずからがワシントンD.C.から出てくるのは重要な事で確実性を取りたいからでしょう。よしんばNDCに関わっていなくても、いずれにしても火種の元を見ておくべきでしょうね」



 どうしてNDCの重要ポストに勤める女はこうも強情なのだと彼は眉根をしかめた。強情なだけでなく危険に自分からずかずかと入って行く。NDCの対テロ情報収集アイ-ウォーカー112名の中に特殊部隊コマンドやスパイを気取った者がいないことがせめてもの救いだとニコルは思った。



 シリウス達はホームレス保護施設の前を抜けフェンスで囲まれたグラウンドのある交差点を左に折れ東164番通りに出た。狭い裏通りは両側に路駐車が並び車がかろうじて離合できる余裕しかなかった。シリウスが歩く右の歩道をニコルも彼女に任せ横に並んで歩き続けていた。闇雲に歩いているわけではないようだった。いきなり彼女がファーのえりを回したコートの内側に手を差し入れセルラー(:携帯電話の俗称)を取り出し空で覚えている番号をタップし通話アイコンに触れた。



「ジャレッド、通りに来たわ。どこにいるの?────わかったわ」



 彼女が携帯電話をしまうとニコルが尋ねた。



「そのロシア人はどこにいるって?」



「220ヤード(:約200m)先の交差点右にスペイン人の経営する小さなスーパーがあるからその横にって」



 まるで気軽なショッピングにでも行くような口振りだと彼は思った。だが彼女が1年前、軽い口振りでアサルトライフルで武装した男を病院で素手で倒して同じような口調でまぐれで倒したなどとしらを切ったのをニコルはよく覚えていた。ジャレッドという男がシリウスの手先であることは容易に想像できたが、彼はその男が現場にいながら、どうしてシリウスは自分を連れて来たのだと思った。吐かせるとか彼女が言っていたことを思い出し、荒事になった場合の手駒が必要だとはわかったが、本社にはまだスターズの兵士たちが残っているはずだった。社長がニュージャージーに連れて行ったのはベテランばかりの6ユニットのはずだった。経験は浅いがまだ10ユニット──中隊の数の人員が待機している。鉄火場になるなら戦場前線(FOE)から退いた自分よりよほど頼りになるだろう。



 通りに数軒ある店はどれもがポルトガル語の看板を出している。この辺りはスペイン系移民のエリアのようだった。アフリカ系移民よりも血の気が多いので油断ならないとニコルが所々にたむろしてるヒスパニックへ視線を振っていると交差点右側に見えてきた煉瓦れんが色のアパートメントの1階にあるフードストア角の壁際にいる男が顔を振り向け彼女に目配せしたことに彼は気がついた。その男はヒスパニックの若者がするような格好をしているが顔つきはアメリカ人に間違いなかった。男の目つきが油断ならないものだとニコルは気づいた。



「状況は?」



 シリウスが尋ねると男はストアの角から顔をのぞかせ交差した通り右側の方を見ながら彼女に説明した。



「1時間前から5軒先のドミニカ・レストランにいます。店に後からヒスパニックのギャングスタの連中が4人入って行きました」



 シリウスがジャレッドと呼ぶ男の脇から顔を出し同じ方をのぞき込んだ。



「1時間? ただの打ち合わせにしては長いわね。あなたそのギャングスタの連中知ってるの?」



「ええ、2人は別グループをしめてるリーダー格の者です」



 ニコルがのぞこうとしたらいきなりシリウスとジャレッドが柱の陰に身を退いたので彼は出しかけた顔を慌てて戻した。だが店から出てくる数人のヒスパニックの男らが目にとまった。ジャレッドが着ているジャンパーからセルラーを2つ取り出しその1つを柱からわずかに突き出した。そうして残ったもう1つに視線を落とすとシリウスものぞき込んだ。角から突き出したカメラの画像がのぞき込む1台に映し出されていた。



 歩道に出たヒスパニックの男ら4の中央に場違いな暗い焦げ茶色のコートを着てグレーのハンチングを被った男がいた。ニコルはその男がニコラフ・チェレンコフ──ロシア大使館の一等武官なのだと思った。男らは別れヒスパニックのギャングスタの連中がフードストアの方へ、ニコラフが通りの北側へ歩き始めてジャレッドはすぐにセルラーを引っ込めジャンパーのポケットに仕舞いながらシリウスの顔をうかがった。



「あなたはギャングスタが別れたらそのリーダー格の奴から依頼された内容を聞き出して。私達はニコラフを追うわ」



 交差点に背を向け話しているジャレッドの背後にギャングスタの男らが来ると2人が信号を無視して横断歩道を渡り西に歩き去り、2人が同じように南へと歩き始めてジャレッドはきびすを返しその南へ歩く男らの後を追い始めた。シリウスはすぐにニコルへ行くわよと声をかけドミニカ・レストランの方へ歩き出し、ニコルは小走りで彼女の横へ追いついた。



 30ヤード(:約27m)先をニコラフは足早に歩いていた。



「ニコル、カップルを装ってちょうだい」



 そうささやきシリウスは彼の腕に自分の腕を回した。通りは裏通りでなく道幅も余裕がありまばらだが歩行者もいた。ヒスパニックばかりで紛れ込むには難しいとニコルは思ったがただ男女が肩を並べただけで歩いているよりはましだろうか。



「どこへ向かってるんだ、あの外交官? ブロンクスの用は済んでるんだろう」



 ニコルが小声でシリウスに問うと次の交差点でニコラフは右に折れて姿が見えなくなった。ニコルが歩調を上げようとするのをシリウスが引き止めゆっくりと歩き続けた。



「駆けながら交差点を曲がりバッタリ出会ったらどうするの? 相手が待ちかまえていたら取りつくろうこともできないわ」



 なるほどとニコルは納得した。なんのかんのと言ってもシリウスは中央情報局職(CIA)員であり、自分は元GSG9(:ドイツ国境警備隊の一つ)の兵士に過ぎない。



 交差点で緑のテントにS&Pミニマーケットと書かれた店を曲がると同じ距離を歩くニコラフの後ろ姿が見えた。ニコルはその姿が無防備に見えたが違っていた。200ヤードほど歩くとニコラフはまた次の交差点で右に折れた。同じブロックを回り込んでいると彼は即座に気がついた。



「ニコル、それとなく何かのお店を探すように顔を横へ向けて背後を見てくれない? ついてくる車か場違いな歩行者の確認をして」



 シリウスにそう言われニコルは顔を横へ向けて背後に流し目を送り視野の隅で様子を探った。



 走ってる車はなかったが、20ヤードほど後ろにトレンチを羽織った女が逆側の歩道を歩いて来ているのが見えた。ヒスパニックには見えなかった。



「1人、オフホワイトのトレンチを着たショート・ブロンドの女がいる」



 顔を振り戻しシリウスにそう告げ2人はニコラフの曲がった右へと向きを変えた。



「フェズ(:FBIの俗称)かしら? そうじゃないわね。あいつらは単独で尾行したりしない。おそらくニコラフの配下の者だわ。私達がニコラフを追い2度同じ方へ曲がったのを見られてるから距離をおいての尾行に意味がないわ。ニコル、私がニコラフに追いつき捕らえるからついてくる女を阻止して」



 言うなりいきなりシリウスが足早の歩調になりそこから小走りで駆けだした。ニコルは立ち止まり振り向くとトレンチの女が一瞬顔色を変えたのを彼は眼にした。女がコートの内側に手を差し入れ大股の歩調からいきなり駆けて車道を斜めに渡り彼の方へ駆けだしていた。



 くそう! 女相手だとやりにくい! そう思ったもののニコルは覚悟を決めた。相手がロシアの諜報員ならどんな訓練を積んでるかわかったものではなかった。そのショート・ブロンドの女は彼よりも上背うわぜいがあり引いたあごで唇を固く結び上目遣いで彼へ急激に近づいてきた。相手がハンドガンを出すのかとニコルもコートと上着の間から腰の方へ右手を差し入れクイックドロウホルスターに入れたH&KーVP9LEのグリップに手をかけた。



 だが4ヤード(:3.7m)の近場まできたきつい目つきの女が引き抜いたのはダガーだった。女はその勢いのまま彼に踏み込みながら一度腰の後ろに下げたナイフを振り上げ彼の胸を狙ってきた。至近距離のクロース・コンバット(:白兵戦)で拳銃を引き抜き構える余裕はなかった。彼は即座に女の方へ左足で踏み込み左手の手刀で女の振り出してきた右腕の手首を外側へ弾きながら外套がいとうの中から引き抜いた右腕のひじを女の顔へ振り上げた。女が彼のひじ先を左手の平でつかみ顔の横へそららし、弾かれた右手のダガーを彼の脇腹わきばらめがけ振り戻してきた。その刃物を持つ右腕をニコルは左手ではばみ彼は女の顔めがけ右手の拳を打ち込んだ。



 刹那、女は顔を横へ傾け左肘ひじこぶしを外へ打ち流し彼の拳をかわした。そうしてほぼ同時に彼の股間へ右(ひざ)を振り上げてきた。そのひざをニコルは咄嗟とっさに身体をひねり上げた左足の太腿ふとももで阻止した直後、女は回し振り上げたダガーを彼の首目掛け叩き込んできた。その手首を左手で外側からつかみ、彼はさらに踏み込み逆手にした右手で女の右(ひじ)先をつかみ女が振り出してきたナイフの勢いそのままでひじを中心に向きを強引に変え切っ先が女の首めがけ飛び込むように両腕を押し出した。



 その返し手にも動揺の表情も見せずに女がいきなり彼の右顔面に左(ひじ)を打ち込んできた。だがニコルの返し技の方が一歩先んじていた。折り曲げられた己の右手に握るダガーナイフの切っ先が喉に到達する寸前、女が飛び跳ねるように彼から離れ刃物を腰の後ろに引くと再び彼へと飛び込みながらニコルの左の肋骨ろっこつの下側へ真っ直ぐにナイフを突き出した。



 だがニコルの方が先んじていた。



 引き抜いたハンドガンを女の左足の甲へとわずかに向けて引き金を絞った。



 2人の間で乾いた爆轟が広がり、履いているパンプスの上から撃ち抜かれた女が突きだそうとしたナイフを止め一瞬だけ唖然とした表情を浮かべロシア語で短い悪態を吐くと、かまわずにさらに踏み込みナイフを短く引き彼の胸板の中央めがけ突き出した。



 2度目の発砲音が広がり今度は女の右足の甲が撃ち抜かれた。その瞬間、女は前に突っ伏し両(ひざ)を落とした。それでも女は曲げた腰のコートの内側に右手を差し込みハンドガンを引き抜こうとした。その腕がコートから出かり女の動きがいきなり止まった。



 額にVP9の銃口が押しつけられていた。



 ニコルはにらみあげる女の目を見下ろし左手で拳銃を奪うとVP9をホルスターに戻しながらきびすを返し女から奪ったハンドガンを見て驚いた。6P03スチェッキンだった。マシンピストルと撃ち合いになればかなり分が悪くなるところだった。



 彼は粗暴なロシア女を置き去りにしてシリウスの元に駆けていた。よもや彼女が負けるとは思わなかったがシリウスがどんな手でニコラフを従わせているか不安でならなかった。











 髪の毛を右手でつかみ相手の顔を路駐車のドアミラーへ強かにぶつけ、男のハンチングと壊れたドアミラーが落ちた。



 それでもロシア大使館一等武官は血だらけになった顔を振り向け女CIAへ両手を振り上げつかみかかった。



 その眉間にシリウスは相手から奪った拳銃の銃握じゅうはを叩きつけた。目を寄せ朦朧もうろうとなった男の顔を見下ろしシリウスはもう一度右(ひじ)を引くとスライドを握りしめた拳銃の銃握をニコラフの顔にお見舞いした。路駐車のサイドウインドにもたれかかったロシア人の鼻が折れ閉め忘れた蛇口から水が落ちるように2つの鼻孔から鮮血がほとばしった。



「さあ! お遊びは終わりよ! なんのためにマリア・ガーランドの身辺調査をしに来てるのか白状なさいな!」



 あえぐニコラフ・チェレンコフは不敵な笑みを浮かべた。刹那、シリウスはそれを冷ややかに見下ろしもう1度右(ひじ)を引くと彼の顔面めがけ拳銃を殴りつけた。



 ニコラフのイワン鼻が完全に形をくず鼻梁びりょうがぱっくりと裂けていた。それを見ながら今度、シリウスは冷静な押し殺した口調で一等武官に言い聞かせた。



「言わないなら、まずお前の左目を殴りつけ潰す。それでも言わないなら次に右目を潰す。まだ口を閉じるつもりなら額を殴り割り裂けた頭蓋骨の隙間から脳へ1発ずつ弾丸を押し込んでその気にさせてやるわ。心配はいらない。脳は痛みを感じないらしいから楽しむといいわ──」



 シリウスが片側の口角を持ち上げるのをニコラフは見つめてなお、不敵な笑みを浮かべてCIA諜報員をあざけった。唇を固く引き結ぶと彼女は素早く握りしめた拳銃を頭の後ろへ振り上げた。そうして力任せに男の左目へめがけ打ち下ろした。



 ニコラフが短い悲鳴をあげ血のあふれ出た眼孔を片手で押さえた。その苦しむ男にシリウスは脅しかけた。



「いい? 目ならもう1つあるわ。まだね──」



 隻眼せきがんにらみつけニコラフは彼女に言い放った。



「あの女の次は──お前だ──ロシアは持てるすべてのアセット(:資産。諜報員の俗称)を使いお前もぼろ布のようにしてやる! 喜べ──指をすべて折り、両目を潰し、喉から叫べるように切り開いてやる」



 シリウスはわずかな間、血の涙をあふれさす男をにらみつけて顔を近づけるとささやいた。





「ご注文をうけたまわりました。フルコース1人前」





 顔を離した直後、彼女はまた右手を振りかぶり打ち込む右目に狙いを定めた。その手首をつかまれいきなり怒鳴られた。



「やり過ぎだ、シリウス! 殺してしまうぞ」



「放してニコル! 悪意の芽を摘み取らないと! こいつはマリーを殺すつもりなのよ!」



「この手の奴は暴力では口を割らないのを、君自身理解してるはずだ。殺したらチーフに仕組まれた罠がわからなくなる」



 そう言われ彼女はやっとニコラフの喉を押さえ込んでいた左手の指を開いた。その途端に一等武官が挑発した。



足掻あがくがいい、ヤンキーどもめ──」



 いきなりシリウスは右足を引きニコラフ・チェレンコフの鳩尾みぞおちに蹴り込んだ。男が体を折り激しくうめくとシリウスはニコルに振り向き尋ねた。



「で、どうするの、ニコル?」



「近場に、君達CIAの自由に使えるアジトはあるか?」





「コイツを拉致らちするのね」







 シリウス・ランディの瞳が輝いているのを見てニコル・アルタウスは半ばヤケになり外交官をと腹をくくった。











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