Part 23-5 WTF 嘘だろ
GCT(/Grand Central Terminal) 89 East 42nd Street (at Park Avenue), Manhattan 14:08
14:08マンハッタン区東42番ストリート89番地 グランドセントラルステーション
イーモン・ボスロイド31歳はグランドセントラル北に隣接するメットライフビルの管理事務所に勤める気軽な男だ。
彼はいつもマンハッタン北東部のスパニッシュハーレムにある116番ストリート駅からグランドセントラルまでサブウェイを利用し通勤している。
今日は夜勤シフトの最終日が明け、3日の休みになる。街に出ていつもと違う店で食事しぶらぶらとしてからいつものプラットホームへ向かった。
9番線に入るレキシントンアヴェニュー線の車輌をホームの端で待っていると、見下ろしていた線路の上に黒いタールの様な3フィートあまりの円形の何かが広がりその面が揺らぎ出した。
何だありゃ!?
彼がその円形の黒い面を見つめていると中央から乳白色の野球ボールほどの何かが浮き出てきた。それには蟹とも昆虫とも思える長い節足が8本あり黒い円形の外へ足を出し一度その円盤に触れそうなほど球体が下がると、バネを弾いた様な勢いでイーモンの胸ぐらに飛びついた。
驚いた彼は前にバランスを崩し、その得体の知れぬものをひき剥がそうともがきながらプラットホームから足を踏み外し線路へと落ちた。
落ちたイーモンは弾みで鋼鉄の線路に額をぶつけうめき仰向けになり、その得体の知れない生き物を引き離そうと足や球体を両手でつかんだ。
その刹那、彼は電車のライトに気づき慌ててプラットホーム下の窪地に転がりこんだ。そうして思い出した様に胸ぐらの変な生き物を剥がそうとした。
だがひき剥がすどころか理解できない事が起きていた。
生き物の足をつかんでいる自分の指の皮膚とその足の表面がまるでチューインガムの様に張りついている。その癒着した面がさらに広がりつつあり彼は喚きパニックになった。
その胸の上の球体がゆっくりと彼の顔に近づいてくる。
イーモンはその乳白色の球から顔を背けたが、節足の足が肩にかかりそれが曲がると球体が彼の右頬に触れてしまった。
その瞬間、イーモンは右頬が痺れ顔の感覚があやふやになりだした。
見下ろすすぐそばで球体がゆっくりと彼の頬に入り込んでゆくのをイーモン・ボスロイドはどうする事もできないでいた。
マンハッタンのミッドタウンにある王冠の宝石と喩えられる大聖堂の様な神殿──建築から115年、幾度とない改装をへて60線あまりのサブウェイが地下に集まり乗客が乗り降りする26のプラットホームと地上商業施設とでニューヨーク最大の駅グランドセントラルターミナルを構成している。
1日25万人以上がこの駅を通る人々で賑やかなターミナルのすべての路線ホームにはエスカレーターを利用する。
ホームは階層化されもっとも深い路線に下りるには2段の4列合わせ240フィート(:約73m)にもなるエスカレーターを使わねば行き来できない。
その9番線の入るプラットホームで乗客が路線に落ちたと管理事務所に連絡が入ったのは同じプラットホーム反対側に到着した10番線の車輌から下りた多数の客が目撃し直後、その9番線にも車輌が入り助け出せず1階コンコース中央の案内ブースへ駆け込み知らせたからだった。
管理事務所はすぐに9番線の車輌を運行停止にし駅員の作業要員3人と駅の警備にあたっている巡回警官へ無線で知らせ9番線のプラットホームへと向かわせた。
9と10番線のプラットホームは多く併設されたプラットホームの一番東側のホームで歩けば10分近くかかる。
そこで4人は2つのエスカレーターを乗客をすり抜け駆け下りプラットホームを走ると、その人が落ちた場所に20人近くの人だかりが出来ていた。
作業員2人がすぐにホーム端に片手をつき、握ったマグライトで電車とホームの隙間にレンズを押し当て下を照らし出した。
「おい! 大丈夫か!?」
1人が声をかけた直後、ホーム下から斜めに突き出た大人の片足が激しく痙攣しているのが見えた。
「ダメだ! 発作を起こしている。運転手に言って車輌をゆっくりとホームの外まで下がらせろ」
手をついて見下ろしている作業員が中腰で見ていた同僚へ頼んだ。その作業員が先頭車の方へ掛けて行くと、数分し運行センターから許可が下りて電車がゆっくりと後退し始めた。
連結した車輌すべてがホームの外に出るまでさらに数分かかり、先頭車輌が通過すると身体を逃がしていた作業員2人が線路へと飛び下りた。
彼らがまず驚いたのはそこにいるのが6歳ぐらいの女の子で、ホーム下に大人の衣類が散らばっている事だった。衣類には下着まであり、いたるところに血の染みができている。
痙攣していたのは確かに大人の足だった。
親子が落ちたのか?
1人がホーム下左右へライトを振り向けもう1人落ちていないか探し始めた。
その合間に女の子が両手を差し出したので作業員の1人が抱きかかえ、ホーム上へ手渡そうとし、ホーム上の作業員が受け取ろうとした。だがしがみついた女の子が離れずその作業員が苦笑いを浮かべた寸秒、彼は女の子が頭と背に回した腕の力が尋常でない事に気づいた。
いきなり首の左にその子が噛みつき作業員は声を上げた。
「こいつ噛みついた! 離してくれ! 引き離してくれ!」
大人の不明者を探していた作業員が振り返ると同僚の抱いた女の子が顔を横に大きく振り切った。刹那、同僚の首から多量の鮮血が吹き出し、ライトを握っている作業員は眼を丸くし唖然となった。
彼がホーム上の悲鳴に我に返ると、しがみついた女の子が今度は同僚の肩に服の上から喰いつきその同僚が鮮血を噴きながら両膝を線路へと落とした。
マグライトを振り上げ同僚に噛みついている女の子を殴りつけようとした一瞬、女の子が振り向いた。その瞳が暗い赤一色でその悍ましさにアルミニウムの筒を振り上げたまま固まってしまった作業員は女の子が飛び移ってくるのを避けきれなかった。
9・11以降、グランドセントラルや他の大きな駅には必ず数人の警察官が警備に回る。
殆どが緊急時対処のため2名以上で行動していた。
警備の途中で同僚の巡査がトイレに行き、黒人巡査のラトランド・ウッドフォードがその同僚を待っているとホームから転落した乗客救援の知らせが入った。
彼はトイレの同僚も無線を聞いたはずだと、改札で駅作業員達と落ち合い、そのプラットホームへと走った。
そうして現場へ着くと、人だかりがありすぐに車輌がホームから移動され、乗客が落ちたと思われる場所に作業員が2人下りた。
すぐに女の子が1人見つかり見ていた野次馬から安堵の声が聞こえた瞬間だった。
女の子を抱いた作業員が噛まれたと喚き首から鮮血を噴き出させ、その女の子がもう1人の線路上の作業員へ飛びついた。
2人目も喚き引き離そうとするが頬から顎にかけ喰いちぎられ倒れた。
覗き込んでいた野次馬達が退きラトランドも数歩下がった。
相手は子供だ。
しかも素手だ。
銃を使うわけにはいかない!
ホームの下から骨を噛み砕く音が続けざまに聞こえ、ラトランドはホルスターからグロックを引き抜いた。
「おい、ラッド! どうした!?」
駆けてくる同僚の声に彼は振り向けなかった。眼を離せば、今にもあの女の子がホームへと上がって来そうな気がしていた。その合間にも喰いちぎり咀嚼する音が続いている。
ラトランドは女の子がゾンビなのかと思い始めた。
喰われた2人ももうじき生き肉を求めプラットホームに上がってくる。
同僚が横に来て彼へ尋ねた。
「ラトランド、何を警戒してるんだ?」
「駅員がホームから落ちた女の子に喰われた──ゾンビ────ゾンビなのかも」
「はぁ? お前、大丈夫か?」
同僚が横顔を見つめているのをラトランドは気づいていた。だがホームの端から眼が離せない。
いきなりホームの端に女の片手のひらが音を立て載せられた。その指が妙に血の気のない蝋細工の様な色だと巡査は思った。
遠巻きに見ている野次馬達から息を呑む音が聞こえてくる。直後、もう一つ手のひらが載せられ金髪のウルフヘアが見えだし大人の白人女性の俯いた顔が見え両肩に続き素肌の胸が見えてきた。
違う!
作業員に喰いついていたのは5歳ぐらいの女の子だった。
ホームに上がって来ようとしてるのはどう見ても20歳代の若い女性。
だが乳房が見えラトランドが一糸纏わぬ腹を眼にした直後、全裸の女が這い上がると、両手を左右についたまま2人の警察官へゆっくりと顔を上げた。
その下顎がまるで蛇の様に大きく開いた。
ラトランドが驚いた瞬間、その女が大柄な同僚に飛びつき顔に喰らいついていた。
ラトランドはグロックの銃口を同僚を喰らう女の横腹に向け引き金を引ききった。銃声が耳に届くよりも逃げ惑う野次馬らの罵声や悲鳴と靴音が妙にリアルだとラトランドが思った刹那、女が顔を彼に振り向けた。
その口のまわりを染める血が幾筋も流れ顎から滴っているのを眼にし、彼は左手で胸のマイクをつかみスイッチを押し込み所轄本部へと救援を求めながら女の顔に3発のパラベラムを撃ち込んでいた。
ミッドタウン南分署警邏課管理部門へグランドセントラル警備パトロールからその無線連絡が入った最中、続けざまの銃声が聞こえ受理台の女性担当官は主任へその旨を即座に伝えた。
今、市内で何が起きてるのか。他の分署の多くの警官がここ数時間で殉職しそれが尾を曳いていた。
その上、グランドセントラルで騒ぎとなると他の分署から応援は望むべくもなく、管轄区の緊急サービススクワッドー1はウォール街近くの猛獣騒動で半数以上が壊滅したと連絡があった。彼は職務権限を最大限に行使することに即断した。
「緊急サービスユニット本部に連絡しアッパータウンのESSー2に出動要請。うちの巡査を12人先に様子を見に行かせろ。あぁリンダ、巡査らにアーマードベストとカービンを要員してゆけと言っておけ」
「キャップ、容疑者情報はどうしますか? 重装備だとしつこく聞かれます」
警部補は一瞬思案し彼女に指示した。
「薬物中毒者と思われると伝えておけ。用心するだろ」
ハドソン川地下のリンカーントンネル──そのマンハッタン側出入り口先にあるループ傍のミッドタウン南分署からグランドセントラルまで緊急車輌が駆けつけても6、7分かかる。ミッドタウン南部のパトロールに出ていた17号車と23号車の4人の巡査が先に指示のあった駅に到着した。
彼ら2台は逆方向の西へ向かう東42番ストリートを避け上階外周のPAバイアダクトにPC(:パトロールカー)を乗り入れた。そうしてバイアダクトを4分の1周し隣接するメットライフビルトとの間の屋内駐車場へ乗り入れ分署へ臨場を連絡し車から下りた。
4人はトランクからヘルメットやアーマー・ベスト、弾帯とM4A1を取り出し装備すると揃って駅内に入り階段を駆け下り1階のコンコースへ出ると一番のヴェテラン──ジェイラス・ヘスキーが中央にある案内サーヴィス所で現場を尋ねた。
「ミッドタウン南分署のものです。人が暴れてると連絡があり駆けつけました。どの辺りですか?」
「え!? あ! 9番、10番線のプラットホームです。今、駅員に案内させます」
尋ねた巡査は受け付けから離れるとコンコースを見まわした。
乗客は普通に歩いており、混乱の兆候すら見られない。大した事件ではなさそうだと彼は内心安堵した。
ウォール街北側と市庁舎公園で騒ぎがあり中でもウォール街北側では多くの警官が殉職していた。自分の分署は大丈夫だと同僚と声を掛け合った。
駅員の1人が駆けて来て、焦った顔でついて来てくれというのでその小走りに急ぐ駅員について4人はエレベーターへと向かった。
通路に出て幾つかの曲がり角を折れるたびに通路に乗客がな見えなくなった。
ジェイラス・ヘスキーは胸騒ぎがした。
グランドセントラルで人が歩いていないのを見るのは初めてだった。
問題のプラットホームへ出る階段で駅員は立ち止まり指さした。
「この下です」
駅員は下りるつもりはなさそうだ。
ジェイラスは4人の先頭に立ちカービンのストックを肩付けしバレルガードを振り上げレシーバーをセレクターをセーフティからセミに切り替え人さし指をトリガーの横に伸ばした。
そうしてゆっくりと階段を下り始める。
4段下りた時点でプラットホームに倒れている人の下半身が見え彼は一度足を止めた。
上半身を屈めるとその倒れているのが女性で腰から上の上半身がなく引き伸ばした様な血だまりに腸が乱れ広がっていた。
くそう! ジャンキーじゃないのか!?
無線で薬中だと言ってたよな!
ジャンキーでもこんな酷い事はしない。
ジェイラスは少しでも早く容疑者を視認しようと姿勢を屈めたまま足をゆっくりと1歩下ろした。
プラットホームの先が僅かに見えるだけでそこにも別な人が仰向けに倒れておりその中年の男ははだけた服の合間から見える腹の横半分がない。
銃器や刃物じゃない。
まるで肉食獣に襲われた様だとジェイラスは思い、彼は息を呑みセレクターをフルに切り替えた。
ゆっくりと足を交互に下ろし1段下りる都度に見える死体が増えてゆく。そのどれもが酷い有り様だった。
くそったれ。ライオンかグリズリーが暴れていたんじゃないか。
プラットホームが50ヤードも見えると死体の数が15体もあった。
だが獣がいない。
肉食獣はどこにいるんだと彼はプラットホームにコンバットブーツを下ろした。少しでも早く対処しようと照門と照星を合わせ続けた。不思議と息が乱れない。浅く静かに鼻で息をしながらホーム外の線路上にも眼を向け流し動くものを探した。
あった!
60ヤード先の遺体に重なったブロンドショートヘアの女性の遺体が──他の遺体と違い服は乱れておらず五体満足でコートを広げ仰向けに倒れたサラリーマンの男の腹に頭を載せ、その頭が小刻みに動いていた。
"w...w...W..T..F"
(:そんな──まさか────嘘だろ)
その暗い臙脂色の身体に密着したレザー服の女がゆっくりと後頭部を上げてゆく。
振り向いた女の口に覆い被さっていた男の腸がぶら下がっているのを眼にした瞬間、警告もせずにジェイラス・ヘスキーはトリガーを引き絞った。
路肩にレンコ・ベアキャット装甲バンを寄せ止めると女は吊り上げた眼でボヤいた。
「くそったれ、捜すのに手間取った! もっと騒動が起きてると思ったのに! 飛ばしに飛ばして来てみれば!」
女はそう吐き捨て無線機を切るとドアをいきなり開き足をアスファルトに下ろした。後続の追い越そうとした乗用車が急ブレーキをかけたので女は黒の戦闘服姿で振り向き睨みつけるその運転手へ右手を上げ中指を立ててみせた。
そうして女は助手席の方へ大股で歩くと乱暴にドアを開き座席に載せていた武器を次々に負い革で首に下げ、助手席のフロアに転がした満載のコンバットバッグとホースのない消火器2本をつかみ足でドアを蹴り閉じた。
5挺ものM4A1カービンとベネリM4スーペル90ショットガンを身体の周りにぶら下げ、胸前にイスラエル製のロケット弾発射機マタドールを吊り下げたフリッツヘルメットの女が歩道を横切りはじめると行き交っていた歩行者全員が慌てて立ち止まり道を開いた。
「ここグランドセントラルステーションよね!」
歩行者の前列にいる中年女性が頷いたので彼女はウインクして礼を告げた。
「ありがと!」
赤毛のポニーテールをフリッツヘルメットの後ろで揺らしながらタリア・メイブリックはグランドセントラル駅の正面玄関へとザクザクと歩いて入った。




