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夢を見た春の日 - Which,fake,and my love

作者: 藤樹 翠

また短編を書きました。

一応坂の上の魔女からの続きになっています。

短編はいつかまとめて本にする予定。

舞台の上で、一つの光に照らされた人。

真っ黒な服に、キラキラとした飾りをつけて、綺麗に磨かれた革靴を履いて、誰かは踊っていた。

短く揃えた黒髪に、女の人にしてはやけに高い身長が、どうしてもその人をそのまま見せてはくれない。

なんて酷いのだろう。表面的なものしか知らない人に、ここまで魅せられてしまうなんて。


「それは、君の本物なのかな?」


誰かが言った。

それを言った人の顔は覚えていない。ただ、確かにそれを言った人はいたし、言われてショックを受けたのを覚えている。

本物とはなんだろう。

ものには偽物と本物がある。本物とはそれの一番最初のことだ。

全てはそれから生まれたし、それ以外の全てはそれではない。そういうものが本物なのだ。

偽物はコピー。本物の全てを真似て、どこを触っても、食べてしまってもわからないけれど、それは確かに偽物だと言われる。

本物と同じ用途だけを真似て作られたそっくりのコピーが、いわゆる偽物だ。

目の前に真っ白なものが二つある。

それは真っ白でなくても、本当はいい。なんでもいいのだ。亀でもウサギでも、好きなあの子でも、黒髪のあの人でも。

これは選択肢の話だ。

そのどちらかを選ばなければならないとしたら、どうやって選ぶのだろう。

例えば黒髪のあの人が、そっくりそのままに造られたコピーがあったとしても、恐らくはどっちがどっちかなんてわからない。

わかるほど知らない。仕草も顔も、声も話した時間も覚えているけれど、それでその人を理解できたとは言えない。

全く同じものが二つ、横に並んでいる。

片一方は本物。それはおそらく神様に作られた。

片一方は偽物。それもおそらく神様に作られた。

違いは作られた時間だけ。どちらが先で、どちらかは後。

どちらも同じ動きをして、同じ状況なら同じ行動をして、同じ声で、仕草で笑いかける。

どちらを選ぶのか。

決めるのは人だ。

決める人が、本物であればいい。



「伝言が好きなんだ」


夏の終わり。

少し掠れた声だった。

改装された古い洋館のテラスで、その人は言った。

まだ高校生とは思えない大人びた雰囲気をまとったその人は、何かにつけてこの洋館訪れていた。

短く切りそろえられた黒髪は、あまり器用な人が切ったわけではないように見えた。後ろ髪が少し、風に引かれて流れていた。

手にしていたコンビニの袋が、バサバサと音を立てる。中に入っているのは、新作のスナック菓子だろう。食べもしないくせに、いつも新作が出ると買っていたのを覚えている。


「伝言ですか?」


聞き返す言葉は、少しそっけない。

距離を感じるからやめてほしいと言われても直せない話し方も、取り繕うことをしない表情も。必要がないから変わらない。

本当はこの話なんてどうでもよかった。机の上に置いてある買ってきたばかりの小説が気になってもいたし、台所から匂っている鼻をくすぐるいい匂いも気になっていた。しかしそれらを心に残しておきながら、その人の隣から立ち上がろうとはしなかった。

理由は、わからない。

理由なんてないのかもしれない。そんなものがなくても、必要のない話を聞くことがただ心地よかったから。


「人から人へ、ずっと言葉を伝えたい。そうして繋いで、繋がれた先でまた誰かと会える」


それはとても素敵なことだと、その人は言った。


「いいことを伝えるなら?」


「ちゃんと伝えなくてはね」


「悪いことを伝えるなら?」


「伝え方を考えなくてはね」


伝え方が変わっても、伝わる言葉は変わらない。伝わった言葉の意味にはなんの変化もない。

なら、どちらにせよ悪いことを伝えられた人は悲しむのだろう。人を悲しませるために言葉を伝えるのなら、それはあまり素敵なこととは言えない気がした。

言葉は伝わってしまえば元には戻せない。口から出た言葉を肺に戻すことはできない。忘れてしまった過去を覗くことができないように、常に一方通行の道で繋がっているのだ。


「それでも伝わらないよりもいいと思わないかい?」


「それは、どうでしょうか」


知らないほうがいいことも、世の中にはきっとある。

何でも知らないといけないなんて世界は、きっと生き辛い。息が詰まって苦しくて、何も選べなくなってしまう。


「なら、君に伝言を頼もうかな」


その人は立ち上がって言った。腰に手を当てて、痛くもないだろうにのびをして、肩を回してみせる。


「『ガラスの靴をもう一度』。地元のファンがそう言っていたと」


「それは誰に伝えるんですか?」


「誰でもいいよ。君が伝えるべきだと思った人に、そのまま言えばいい」


そんな曖昧な伝言があるのだろうか。

伝言ゲームというのは基本的に内容が変わってしまう。誰でもいい伝言が正しく伝わっていく確率は、ほとんどゼロに近いと思えた。


「伝わらなかったら、どうするんですか?」


「それでもいいさ。海に流すメッセージボトルが誰に伝わるかなんて、わからないだろう?」


少しだけはにかんで、手を振った。

振り返ることもなく、その人は長い坂を下りていく。見送ることはしなかった。その必要はないのだろうと思ったから。

姿が見えなくなってから、その人の名前を知らないことを思い出した。


「まぁ…いいか」


聞かないことは、おそらく知らなくていいことなのだ。誰か町の人に尋ねればすぐにわかるだろうが、そんなことをする必要もない。名前を知っていようが知らなかろうが、どちらにせよこの問答にはなんの変化もないのだから。

その日を境にして、黒髪のあの人を町で見ることはなくなった。

噂によれば、大学生を追いかけて遠くに行ったらしい。



あれから、時間が経った。


「こんな感じでいいですかね?」


ハサミを手にした美容師が、鏡を頭の後ろから見せて問いかける。


「はい。ありがとうございます」


チラチラと顔を動かして切りそろえられた髪型を確認する。大丈夫だ。

記憶の中と齟齬はない。

もしも何かが気に食わなかったなら、文句でもいうか伸びるまで待つかしなければならなかったところだ。

いや、それは違うかもしれない。

今もあの頃も、自分の在り方に何の変化もない。だからこの髪型にも、美容院の店員に払うお金も、短くなった髪の毛の間を通り抜ける風も、特別興味を引くものではないのだ。

ただこの髪型にしたのにはおそらく明確な理由があって、なんとなくだとか、気分だとかではない何かでできているはずなのだ。


「ありがとうございましたー」


店員が明るい声を出して客を店から送り出す。髪の毛を切りたくて来たのだから礼を言うとしたらこちらの方なのだが、あまりこちらが礼を言うことはない。

文化の崩壊でもなく、そうあるべきと大勢が求めたからなのだろう。

道路を走る車が自然のものとは異なる動きの風を起こして、そうする必要がもうないのに髪の毛を抑える。

分厚い雲が山の向こうに見える。

住宅街の上に飛び交う電線の隙間から見える空は、切り取られた色紙のようにはっきりとした陣形を組まれており、人間が空に飛び立つのを阻止していた。


「先輩!?」


聴き慣れない高い声。

今年から同じ部活に入って来た新入生の一人だ。住んでいる場所が近いものだから、クラスメイトと比べて格段に会う頻度が高い。


「今日も早いね。ランニング?」


少し長い髪の毛。自分も切る前はそれくらいの長さがあっただろう。

少しの感傷。それはすぐに無くなるものだ。消えて無くなる頃に、この髪型は本物になるはずだ。


「はい。体力づくりも必要かなって…えへへ。…じゃなくて!先輩、髪切ったんですか?」


恥ずかしそうにしたり慌てたりと忙しい人だった。好意的に接してくれるのは嬉しいが、あまりこの性格にはついていけない。

中学の頃の体操服らしきジャージを着ていて、苗字の刺繍からほつれた糸が飛び出ていた。


「まぁね。ちょっとした気分転換」


髪の毛を一房つまんでいじってみせる。


「私は長い方が好きでしたけど…あ、いえいえ。似合ってますよ」


そういう見え透いたお世辞は口にするものじゃない。自分の好みを他人に押し付けるのは悪だが、それが自分の中にあることを隠すのも間違いだろう。


「…そう?ありがと」


最後の部分だけを切り取って、上部だけの礼を述べた。


「これはみんなには内緒ね。学校にはカツラを被って行くから」


「え、なんでですか?」


「秘密」


唇に人差し指を立てて、ぽかんと立ち尽くしている後輩をその場に置いていく。

本当は秘密なんてない。

この髪型にすることには理由があった。

それは誰かに言うことではないのだ。そう、もしあの後輩があの人のことを知っていたとしても、自分とはなんの関係もないことなのだ。

あの夏の思い出を、終わらせたかった。

今でも時々思い出す。

日の当たったテラス。

ガラス越しに聞こえる蝉の鳴き声。

太陽の当たる場所にいた黒い髪のあの人。

それに答える自分。

あの人が自分の家に来ていたのはそれほど長い期間ではなかった。

あの人は町では有名人だったし、よく目立っていた。そんなことには興味がなさそうな学校の生徒たちもあの人の舞台をよく見に行っていたし、まだ小さかったあの頃の自分もそれに混ざっていた。

そんな人が目の前にいることが、少し不思議だった。

この洋館には思い出があるから、とあの人は言っていた。それが何かなんて知らない。

高校を卒業するよりも早く、あの人はこの町を出て行った。自分の知らない人と一緒に。

知らないことだらけだった。それに何か思うことはないけれど、ただあの人の思い出話くらいは聞いておいても良かったかもしれないと、少し思った。



「先輩、おはようございます」


家を出てすぐに、見慣れた後ろ姿を見つけて声をかける。ごく小さい動作で、通り過ぎていた後ろ姿は振り返った。


「おはよう。今日は朝練に出ないの?」


動かない表情。いつものことだ。何を話していても、それこそ恋の話を振っていても、おおよそそれらしい年齢のような恥ずかしさを見せようとはしない。

初めて会った時のように、いつでも心がこもっていないような話し方をしていた。


「私は練習するところがありませんから」


冗談だとわかっている。朝練なんてものは、少なくとも知る限り存在していない。

学校の演劇部は人気があった。

そう、昔の話。

過去に何度も公演を行っていた時代があったようで、町長から表彰状が出ていたらしい。

人数の割に今でも部室は大きく、その頃の用具がたくさん残っている。

少し古くなった写真の中で、知らない有名人が賞状を受け取っていた。


「そう」


短い返事。

少しくらい笑ってくれると、ありがたかったのだけれど。


「これ、変かな?」


頭を指差して、小さい声で呟いた。


「いいえ。少なくともカツラだとはわかりませんよ」


そんなものを被るなら切らなければいいと思わずにはいられない。

風に流れる髪の毛は綺麗だった。

耳が見えないのに何を言っても聴こえていて、染めてもいないのに明るく見えた。


「そう。よかった」


安心したような声を出していても、表情には何の変化もない。

つい、固まっているのかもしれない頬をつねってみたくなる。


「…何?」


「あぁ、いえ。行きましょう、遅れちゃいますよ」


慌てて手を離し、通学路を駆けていく。

早くこの場から離れたかった。

昨日の姿を思い出してしまうのだ。切り落とされた髪の毛は、まるで落とされた首のように一つの線を作っていた。

そう、似合うとか似合わないとか、好きとか嫌いとかではなくて。

あの姿は、どこか痛々しい。

知らなかった傷を、さらけ出したかのようだった。

いや、あの人は何も変わらない。変わったのは自分だ。最初の場所が見えなくなるくらいに曲がってしまって、みっともなく追いかけてきたからなのだ。それを否定したくはない。

肯定できるほど、強くもないのだけれど。



少し、前のことだ。

高校に入学した時の頃。

桜はまだ少しだけ残っていて、早めに咲き始めたと言ってもまだ春に楽しめる陽気だった。

高校の周りには桜の木なんてなくて、写真を撮る場所に困っていた。校門のすぐ横に生えている木は杉ばかりで、花粉症の生徒がくしゃみをしていた。

入学式は思っていたよりもすぐに終わった。

髪の毛の禿げ上がった校長の挨拶は右から左に流れて、知らない来賓者の挨拶が行われる。

山向こうからやってきた自分は、中学の頃の知り合いが数人いる程度の環境に慣れずにいた。それは周りの人も同じなのだと思う。ただ、その時は緊張が先走って思考に余裕が無くなっていた。

だから、入学式が気怠くて良かったと思う。

気が抜けない場所だったら、立ち上がる度にガタガタと鳴るパイプ椅子の音さえも気になってしまうから。

入学式が終わって、少しだけ猫背になった自分の前には、新入生を待ち受けていた在校生がいた。

部活の勧誘だった。

あちこちから元気な声と、目立つユニフォームを着た生徒がチラシを押し付けてくる。

入学式の二日後には部活紹介の日が設けられていたはずだが、これを止める教師はいなかった。

手ぶらだった両手に大量の紙束がのしかかって、ますます猫背になっていった。

体育館から伸びる渡り廊下の階段を降りて、両脇に群がる部室らしき通りを抜けていく。

どこかの部活には入るだろう。

ただ、今のこの時は家に帰りたいという気持ちの方が強かった。

明るい高校生活が待っていると、本気で信じているわけではない。そういうものはそれ相応の努力をしなければ手に入らない。

勧誘の群れから離れると、校舎の白い壁が喧騒をど忘れしたように静かになって、周りには何もなくなってしまう。寂しいわけではない。おそらくは、少し拍子抜けしたのだ。

その中で、僅かに響いている靴音に、気をとられるはずなんてなくて。

そのまま立ち去ろうとした瞬間に、理由もなく立ち止まってしまった。

先ほどの音が聞こえていたわけではない。勧誘の声も遠くではあるが聞こえていて、この音はほとんどかき消されている。

それでも、少しだけ開かれた、体育館の横の部室よりはるかに大きい部屋の中を覗いてしまった。

何かの用具倉庫のようだった。

木や石の絵が描かれた木製のパネルに、鉄パイプや衣装が入り口に固まって置かれていた。そのほとんどにホコリが積もっていて、パネルはよほど古いのか表面が白くなっていた。

その奥で、クルクルと回る影。

舞台のステージのように一番高い場所は、そこだけが窓からの光に照らされていて、その中心に、その人はいた。

舞台の上で、一つの光に照らされた人。

真っ黒な服に、少しシワのついたスカートに、薄汚れた上靴を履いて、誰かは踊っていた。

長い黒髪が動く度に揺れて、まるで雲の間から一条の光が差し込むように、雨粒を光のプリズムに変えるように踊っていた。


「綺麗な人…」


目の前の光景に、自分が部屋の前で棒立ちになっていることも忘れていた。

自分の呟きが聞こえたのか、その人は一瞬だけこちらを見たような気がした。気のせいかもしれないけれど、太陽の光に当てられてもなお輝かない沈むような黒い瞳が、こちらを視界に入れたのだ。

数十秒だったのか、五分だったのか。

その人が踊り終わるまで、自分は棒立ちになっているのを他の生徒に見られているのも構わず、そこから動かなかった。

そう、見惚れていたのだと思う。

ただこれは恋ではないと、その時点で理解していた。



頭の中に、声が聞こえる。

これは夢だ。

頭の中で、自分が考えていること。考えておきたいこと。そういうものが眠っている間に呼び起こされる。

自分はこうあるべきだと、こうなるべきなのだと告げているように、起きていても眠っていても、それは自分の前にいた。

その声が全てを、最後の言葉を言う前に、いつも目を覚ます。

水色のカーテン越しの朝日がベッドの白い水玉を染めている。

冬用の布団よりずっと薄く心許ないそれをめくって体を起こす。


「…私は偽物だ」


それが夢の続き。いつもつきまとう答えだった。

顔を洗うために毎朝自分の顔を見なければならないことが苦痛だった。

なぜ髪を切ったのだと少し前の自分を問い詰めたくなる。

後輩にも前の方が良かったと言われた。自分でもそう思う。

酷い話だ。皆が思っているのに、自分さえもそう思っているのに、それに逆らってまでこんな苦しい思いをしている。


「しっかりしろ、憧れになるんだろう。偽物でもいいって、決めたんだろ」


鏡の向こうの自分に言い聞かせる。頬を叩いて気合いを入れる。こんなことをしないと、もう何もできなくなっていた。

部活の部員は自分と後輩の二人しかいない。

そのただ一人にも、こんな演技をしなければ、まともに話すこともできなくなっていた。

あの人はこんな風に悩むことなんてなかったんだろう。当たり前だ、あの人は本物だった。

自分みたいに誰かの真似をした偽物じゃない。

髪型を真似て、話し方も真似をして。

それでもあの人になんてなれない。わかっていることだ。

憧れとは遠いものだ。

見た目がそっくりで、話し方も似ていて、立ち振る舞いも似ているけれど。

その根底にある思考回路だけは同じではないのだから。

真似をしたいと思っている間は、本物になんてなれないのだ。記憶の中にいるあの人が、自分を責めてくるようだった。

そんなのではダメだと。

偽物なんて何の価値もないのだと。


「わからないよな…」


偽物に、本物の考えなんてわからない。

わかるほど知らない。

自分の記憶はそれほど多くないから、当然といえば当然だ。それでも憧れから、自分の中に芽生えた疼きから逃れられなかったのだ。

こうなりたいと、ああなりたいと思ってしまったのだ。

自分もあの人のように輝きたいのだと。

鏡にはまだみっともない顔が写っている。

他人のような、自分のような曖昧な顔。他人の真似をした自分の顔にも見えるし、自分ではない他人の顔のようにも見える。

どちらにせよ、こんな顔は長く見てはいられない。

カツラを被って、それらを隠してしまう。記憶の中の自分が少しだけ戻ってきて、安心に似た不安で心を満たす。

空っぽの体に満たした不安で外面を色付ける。これでいつも通りだ。


「大丈夫…あの子を不安にさせるわけにはいかないもの」


朝食を軽く食べ、歯磨きをして、制服に着替えて家を出る。

決められた一連の動作をする内に、心の中にあった不安は何処かに行っていた。


「先輩!」


元気のいい声がする。

家から少し歩いた先。いつも後ろから声をかけてくることを知っていて、立ち止まったりはしない。

長い髪の毛が、正しく言えば偽物の髪の毛が揺れる。

嬉しそうな顔を見るたびに、不思議な気持ちが沸き起こる。

嬉しさ、ではないだろう。そして、悲しくもない。もちろん愛おしいわけでもなかった。

そして、いつくかの感情を当てはめてから、一番それらしいものを見つけた。


「罪悪感だ…」



平々凡々に、その日の授業は終わった。

入学式の日に見た時のような気持ちはもう無くなっている。そういう目新しさのようなものはすぐに失われていく。

それでも、毎日のように部室に顔を出す。それは義務感ではない。

義務感で人に会うのは良くないと思う。

有り体に言えばしんどくなってしまうからだ。

自分の歩いている先で、道端に偶然四葉のクローバーがあったら、幸せになるだろうけれど。

広大なあぜ道からたった一つの四葉のクローバーを探すのは辛いだけだ。見つけた時の達成感は、すぐに萎れてしまう。

それこそ、本にでも挟んで置かないといけない。それでは意味がないことを、今更になって知った。

自分がしたいことはしたい、したくないことはするべきではない。基本的なことだ。だが環境はそれを許してくれない。

したくないことをさせられるし、したいことはダメだと言われることもある。

したいことと、しておくべきことは別のことだ。

だから、部室に行くことは。

おそらくしたいことなのだ。そう信じていないと、もう二度と来れなくなってしまう。


「先輩?」


上級生の教室は部室の目の前なので、大概はあちらの方が先に部屋にいる。

演劇部は大きい部屋をもらっている割に、部員は自分を合わせても二人しかいない。先輩は勧誘をしなかったらしい。

その上の先輩は、すでに存在していなかった。

夕方の斜光が部屋を照らしている。

部屋に舞っている埃がキラキラと瞬く。

冬の日に雪が降ったら、こんな風に見えるのだろうか。もっと綺麗に見えるのかもしれない。この町には雪があまり降らないから、覚えていなかった。


「先輩、まだ来てないんですか?」


静まり返る部屋に、小さな自分の声が響く。


「あら」


部屋の隅に置かれた、皮のソファに、すっかり見慣れた顔があった。

両手を上にあげて、布団も被らずに眠っている。これでは起きた時手が痺れてしまうだろう。

部屋で寝ているというのは初めて見た。それほど今朝見た時は眠そうではなかったように思う。

寝返りをうったのか、カツラが少しずれてしまっていた。

流石にそれを直すわけにはいかず、両手を下げるだけにして、向かい側に座る。


「………」


しばらく眺めて、規則正しく呼吸をするそれから目をそらす。お茶でも淹れて待っていることにしよう。もしかしたら匂いにつられて起きるかもしれないから。

ポットの電源を入れて、お湯が沸くのを待つ。夕日に似たオレンジの電源ボタンが、まだまだだと告げてくる。

棚からお気に入りの茶葉を出して、二人分をティーストレーナーに入れる。ヨーロッパ風に作られたパッケージには、日本語で『厳選された本物の味わい』と書かれていた。


「偽物も本物も、私にはわからないけどねぇ」


そんなものに多分意味はないのだと思う。これは商品を売るための文句に過ぎないからだ。それでも、本物に惹かれる人は多い。

ありふれた本物。おそらく世界のほとんどは本物でできている。


「ん…」


カタカタと揺れるポットから、ストレーナーに湯を注ぐ。茶葉がダメになってしまわないように優しく入れると、心なしか美味しく感じるのだ。


「飲みますか?」


ソファの前のテーブルに紅茶を入れたカップを置くと、少しだけ頷いて湯気に顔を曇らせた。

なんだか小動物みたいで愛らしい。

いつもはクールぶっているものだから、寝起きの柔らかい雰囲気は新鮮だった。


「火傷しますよ」


「大丈夫…熱い方が好きだから」


好き嫌いと火傷することは直接的には関係ない。やはり寝ぼけているらしかった。


「いつもこの紅茶を飲んでいますよね。好きなんですか、これ」


「どうかな…多分本当はなんでもいいんだと思う。でもなんとなく後ろめたさを感じて、あればかり買ってしまう」


「本物だからですか?」


「そうかもな」


目を細めて、先輩は苦笑した。そんな顔をしないで欲しかった。そんな顔をさせるために、この質問をしたわけではないのだ。


「いつまで付けてるんですか、それ」


少しだけズレたカツラを指差して、責めるように言った。

そんな顔をする理由を知っている。いつまでも秘密みたいに隠して、自分を偽物の皮で守っているからだ。この学校で、誰もそのことを問い詰めたりはしないだろう。まさかカツラを被っているだなんて思っていないからだ。そのことを知らないからだ。

しかし、自分はそれを知っている。知っているから、問い詰めるだけの権利があるはずなのだ。


「なんで切ったのに、わざわざそんなものを被っているのか、わからなかったんです。意味がわからなかった。次の公演の時に役があるからと思ったけど、次の公演なんて半年も後って知りました。半年も経ったら髪を切っても伸びてしまうから、今切った意味がないんです。気分で切ったって言われたら何も言えないですけど、それだとやっぱりカツラをかぶる必要なんてない」


行動に矛盾があることは不思議ではない。生きている間でそんなものはありふれている。一つの決められたロジックだけで生きているのは、夢物語のキャラクターだけだ。


「恥ずかしいんだ。切って見たけど、誰かに言われたらなんとも言えないし」


逃げるような口調だった。なんとなく腹が立ってしまって、自分の中で一番言ってはいけないことを、つい口にしてしまう。


「嘘です。先輩はそんな人じゃない」


「そんな人って何よ!」


先輩は震える声で、ヒステリーを起こしたように言葉を荒げた。口調も、元に戻ってしまっている。


「私って何…最近わからなくなってくる。私はあの人になりたいのに、あの人に近づきたいのに、それをする度に自分が自分でしかないってわかってしまうの。自分の中に自分しかないって見えてしまうの。でもそれじゃダメだって誰かが責めてくる。一旦始めてしまったら、その道に歩き始めてしまったらもう戻れないって言われてしまって、本当は戻れるはずだって信じたいのに、ズルズルとおかしい方向へ歩いてしまう。自分が欲しかったものに手を伸ばしていたはずなのに、いつの間にか妥協して、諦めかけて、それでもみっともなくしがみついていたいから、切れ端だけをまだ抱えている…!」


崩れ落ちる滝のように、言葉を叩きつけた。言っていることの大半に意味なんてない。ただ必要だったのだろうと思う。始めた地点から終わりまでがずっと一直線なんてことはないように、言葉と言葉が繋がっていないように感じても、先輩の中では同じことなのだ。

うずくまって、膝を抱えている。もう冬なんてずっと遠くに行って、すぐ隣に夏があるというのに、寒くて縮こまる子供のような体勢をとっていた。


「すっごくさ、欲しいものがあったの」


俯いた顔は膝に隠れて見えないけれど、その消えそうな言葉は耳に届いた。

悲しいような、諦めたいような口調だった。


「でも、それを手に入れられないことは初めから知っていたの。手に入るものなんかじゃないって、最初から知っていたの」


目の前に真っ白なものが二つあった。

そのどちらかを選ばなければならなかった。

でも、その二つのどちらにも手を伸ばすことができなかった。選ぶことを知らなかったわけではない。その二つの白いものを選ぶまでにも、色々なものを選んだきたはずだから。

しかし、その二つの白いものだけには手を伸ばせなかった。

理由は、すぐにわかった。

自分には、掴み取るための手がなかったのだ。

今まで選んできたものは、掴み取ってきたわけではなくて、片方を捨ててきただけなのだ。それを選んだと勘違いしていたのだ。

髪の毛を切った時、何かを選んだと思っていた。

しかしそれはきっと違ったのだ。

あの時、偽物になることを選んだのではなくて。


「私は、本物を捨ててきたのね」


「………」


自分が何であるかを、知っている人なんていないだろう。

世界がどこからやってきたのかを知っている人がいないように、きっと身近な存在である自分のことさえも、わからないままなのだ。

過去の先輩が本物かどうかはわからない。長い髪は綺麗だったし、この部屋で最初に見た時はその踊る姿に見惚れていたほどなのだから。

しかし、それが本物であるとは言えない。過去が本物で、今が偽物なんてわからないのだ。

何かを一度変えてしまったら偽物になるなんて、そんな酷いことはないはずなのだ。

偽物とはコピーのことだ。

本物と同じ見た目をして、同じ声をして、同じ仕草で同じ考えを持つ。


「先輩は、偽物なんかじゃないです」


「…そうかしら。私はいつでも偽物だった気がするけれど」


「先輩が憧れている人がどんな人なのか…私にはわかりません。でも、その人と先輩は何一つ似ていないと断言できます」


目の前に置かれた白いもの。それに手を伸ばすことが、他の何よりも大切だなんて決められているわけではない。歩いてきた道から外れることが間違っているわけではない。

その全てが間違いで、偽物だと決めるのは、本人では無いのだ。


「だって、先輩は私に応えてくれるんですから。挨拶をすれば返事をしてくれます。私は先輩のことを初めて見た時に、こんな綺麗な人がいるんだって、嬉しくなったんです。それは先輩の髪の毛だけの話では無いんです」


例えそうだったとしても、それは今必要では無いことだった。


「先輩が見た目だけ昔のままで、カツラを被って髪の毛を長くしているなら、それこそ偽物なんです。私は貴女の、見た目についてきたわけではないんですよ」


きっと、そういうことだった。

その人は、先輩の心の中にいる憧れの人は、自分には応えてくれない。その人と自分には何一つ接点がないからだ。

自分が挨拶をして、話しかけている時、応えてくれるのは常に先輩だけなのだ。

変わらない。

何一つ変わらない。


「優しいのね」


「優しい人を見て育ちましたから」


「…私と、踊ってくれるかしら」


顔を少しだけ上げて、ズレていたカツラが地面に落ちる。見慣れない、短い髪の毛の先輩がこちらを見ていた。膝を抱えている時に泣いていたのか、瞳が赤くなっている。


「いいですけど、下手ですよ」


何せ自分は、演劇部に入ってから何もしていないから。上手くなったことと言えば、紅茶の淹れ方くらいなものだ。


「『ガラスの靴をもう一度』。地元のファンがそう言っていたと」


「…高くつくって、地元のファンに言っておいて下さいね」


苦笑して、立ち上がって手を伸ばす。

目の前にあるのは白いものなんかじゃない。その正反対の、真っ黒な髪と瞳をした、一人の人間だ。

連れ立って、部屋の真ん中に走る。さながら教会の紅いカーペットの上を行く新婚の夫婦のように。

舞台の上で、一つの光に照らされた人。

真っ黒な服に、キラキラとした飾りをつけて、綺麗に磨かれた革靴を履いて、誰かは踊っていた。

短く揃えた黒髪に、女の人にしてはやけに高い身長が、どうしてもその人をそのまま見せてはくれない。

なんて酷いのだろう。表面的なものしか知らない人に、ここまで魅せられてしまうなんて。


「それは君の本物なのかい?」


誰かが言った。

今はきっとわかる。何も知らないけれど、全てわからないわけではないから。


「えぇ、本物です」


二人の体が近づく。手と手を取り合って、器用に回って踊る。


「近づくって何だろう。私、あの人になりたかったけれど、あの人に近づいてはいなかったのね」


「好きな人には近づきたいものです。憧れの人は、遠くから見ているのが一番いいと思いますよ」


距離が縮まって、近づいて。

それでも一緒にはならない。肉体という壁に阻まれて、全く同じにはなれない。それがなんだかもどかしい。皆そうやってもどかしさを喧嘩して消化しているのかもしれない。


「私は、先輩のこと好きですよ」


「ありがとう。でもそれは恋じゃないでしょう」


優しい声だった。

先輩の顔を見るのは勇気がいる。テストを受けるよりも、先生の前に立つよりもずっと大きな勇気が。


「はい。これは恋じゃないです」


先輩はきっと憧れの星に手を伸ばしてきた人なのだ。だからこんなにも美しい。

でも、きっと少しだけ間違えた。

細い背中に、支えきれない重荷を背負ってきたから。


「私は先輩が偽物だとか本物だとか、そんなことはわかりません。ずっとわからないと思います。でも、分かっていることがあるんです、きっと最初から」


「教えて。それを知らない私に」


きっと先輩の知らないことはたくさんある。

それは自分のとびきりの笑顔と、そしてこの気持ち。


「はい、私は愛です…!」


そう。

私は愛。きっと愛なのだ。

陽の光の当たる場所で貴女と踊る。

時間を忘れて、一緒に踊る。

上手くできなくて、リズムに乗れなくても。相手の足を踏んでしまって、こけそうになっても。

ずっと二人で。

星を見上げて、またガラスの靴をもう一度、貴女に履かせて見せましょう。

近々変身ものの小説を載せるかもしれません。

あと肩痛い。

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