第二十九話 黄金ではない輝き
その場にいた全員が、恐る恐る秀吉をうかがっている。
いつ風丸の首が飛ぶか。
考えているのはそれだけである。
しかし、秀吉はそれをしなかった。
いや、出来なかった。
体が、動かない。
この時秀吉は、自分が小さな羽虫であり、それでいて森羅万象のはるか上に君臨するとてつもなく大きい何かと対峙しているかのような錯覚にとらわれていた。
背筋を冷たいものが伝う。
自分の顔から表情が消えるのが分かる。
秀吉はとてつもない衝撃を受けながら思った。
(わしは、この秀吉は、今目の前にいるこの若者を、恐れているのか……!?)
風丸の手に武器はない。
また、彼には殺気すらなかった。
彼が抜き身の刀のような殺気を放ったのは先刻の一瞬だけ。
今はただ、見ているだけである。
それだけで、秀吉は飲み込まれそうになっている。
(しかし、この感じどこかで……)
瞬間、秀吉はそれを思い出した。
同時にもともと引いていた血の気が、さらに猛然と後ろに下がるのを感じた。
「……お主、名は?」
やっと搾り出した声は、囁きにしかならなかった。
風丸はわずかに頭を下げた。
「松平風康にございます」
「松平……風、康……?」
秀吉は愕然としながら繰り返した。
そしてふらふらと立ち上がると、よろめきながら自分の肘掛に向かい、体を投げ出すように腰を下ろした。
(噂は聞いていた……)
「あの時」、「あそこ」から、二人の少年が逃げ延びた、という噂だ。
(……もしそれが本当ならば……)
確かめなければならない。
秀吉は右手で目を覆い、絶望的な調子で尋ねた。
「その名は誰にもらった?」
風丸は静かに口を開いた。
「徳川様に」
間髪いれず秀吉が言った。
「「風」の字もか?」
風丸はわずかに微笑し、首を振った。
「いえ、それは違います」
「……だろうな」
しかし、彼はそれ以上追及しなかった。
また、風丸にも話す気はない。
秀吉は肘掛に寄りかかり、顎をなでながら最も遠くにいる風丸をじっと観察している。
もう、十分すぎるほど分かっていた。
「風」が前に出てきている今、「雷」がこの場にいない、ということも。
「……一つ、聞きたいことがある」
「その前に一つ、言わせていただきたい」
風丸はまた少し頭を下げた。
「私は今、於義丸様に仕える身。なればすなわち、御屋方様に使えていると同じこと」
そしてわずかに顔を上げ、秀吉と視線を合わせた。
「私に、反逆の意思は微塵もございません。それだけは覚えていていただきたい」
その瞬間、秀吉は信じた。
疑う必要すら感じなかった。
しかし、同時に興味も生まれた。
「……それでありながら、わしがお前の妻を奪うなら、斬ると言うのか?」
風丸はあっさり頷いた。
「はい」
それもまた真実である。
そうなれば、風丸は間違いなく秀吉の命を絶つ。
秀吉はわずかに非難するような響きを持たせて言った。
「矛盾ではないか」
「いえ」
風丸は今度はあっさり否定する。
「私は守りたいものを守る、というだけのことです」
その驚くべき単純さに、秀吉は一瞬唖然としてしまい、思考が止まった。
しかしその後すぐ、別の感情が沸き起こってきた。
(フン)
秀吉は内心笑った。
この乱世において、天下を狙う志のない者など、秀吉にとってはもうどうでも良かった。
(確かに、「血」は受け継いでいる)
眼光や威圧感、「気」は確かに只者ではない。
ただ、あるものが決定的に足りない。
秀吉はそう思った。
(恐れるべきは、やはり「雷」の字……!!)
秀吉は風丸を侮った。
その一事で彼の人生が表せるわけではない。
ただしかし、彼に理解できなかった何かを確かに示している。
それは言うなれば、黄金ではない輝きであり、殺すことのない強さであり、空し手の「勝利」であった。
風丸が持ち、また目指しているのは、まさにそれである。
秀吉には、分からなかった。