第二十八話 守るべきもの
「して、お前達」
秀吉は於義丸の従者たちのうなじを見ている。
「於義丸のために、慣れ親しんだ土地を捨てた、忠実な者たちの顔を見てみたい。面を上げよ」
(……糞)
風丸は内心毒づいた。
キツネや正就が「はっ!」と声を上げ、皆で揃って顔を上げたその瞬間。
秀吉の目が、そのうちの一人に向けられた。
舐めるような、欲望の視線を浴び、その肩がビクッと動いた。
胡蝶である。
「ほう!」
秀吉はにんまり笑った。そして四つんばいでばたばたと彼女の前まで行くと(胡蝶は男装している)、その顔や体を間近で観察した。
胡蝶は視線を落とし、じっとそれに耐えている。
「……お主、名前は?」
「あ……」
思わず高い声が出た。胡蝶は慌てて咳払いをして、低い声を取り繕った。
「……ま、松平元継と、申します」
秀吉は相変わらず嫌らしい笑みを浮かべている。
「松平元継……。お主、姉か妹はおらんか?」
胡蝶は「訳が分からない」と言うような顔をした。
「いえ……兄が一人いるだけで……姉も妹も……」
「そうか、それは残念だ。もしいれば召抱えるつもりだったのだが」
そして秀吉は豪快に笑った。しかし、風丸と胡蝶、そして於義丸は冷や汗をかいて黙りこくっている。
「まぁ仕方がない」
秀吉は薄い唇をなでた。皆が只ならぬ気配を感じた。
「……?」
「ならばお主を召抱えることにしよう」
秀吉は言葉と同時に手を伸ばし、胡蝶の顎をぐいと上に持ち上げた。
「!?」
胡蝶は危うく声を上げそうになったところを堪えた。目の前の男はまだ、「知っている」わけではない。
「……な、何を……?」
「ほう、このわしを前にして、まだとぼける気か?」
手に力がこもった。
(……痛い……!)
しかし、胡蝶は耐えた。
そうしないと自分を守れないと思った。
秀吉が「手当たりしだい」ということはよく知っている。
女だとばれたら何をされるか……
と、その時、胡蝶が恐怖を覚えるほど冷たい声がした。
「手を放してやっていただけませんか?」
秀吉は笑みを浮かべたまま、ゆっくりとそちらに向き直った。
もちろん、胡蝶を放そうとはしない。
「わしに言ったのか?」
風丸だ。
彼は表情のない目で、ただ、前を見ている。
「はい。そのような行為は止めていただきたい」
秀吉は手を下ろした。
胡蝶はようやく息をつく。
秀吉の小柄な体から怒りの気があふれるように発揮されていたが、相変わらず風丸はそちらを見ようともしない。
彼は言った。
「……お察しの通り、それは女子です」
胡蝶と於義丸は息を呑んだ。
それを隠すために、いろいろと策を講じてきたのではないか。
案の定、秀吉は危険な笑みを浮かべている。
於義丸はそれを感じ、すかさず手を床につけた。
「お言葉ですが……!!」
「待て」
秀吉が於義丸を黙らせる。
彼はゆっくりと風丸の横に行き、そこにドカリと腰を下ろした。
風丸はまだ前を見ている。
「……それで?女子なればわしは召抱えるつもりだ。問題あるのか?」
言葉の裏に、「この秀吉に楯突こうと言うのか?」という強烈な脅しが込められている。
しかし。
「あります」
風丸は動じない。
「なんだと……!?」
怒る秀吉に、風丸が初めて目を合わせた。
「その者は私の妻です」
風丸は見ただけだ。
ただそれだけで、天下人が気圧された。
圧倒的に。
秀吉はのけぞりそうになるのを堪えながら、似たような感覚を昔感じたことがあるのを思い出した。
しかし、それがいつ、どこであるかを思案する余裕さえ、彼にはなかった。
秀吉に出来たのは「我は天下人なり!」という彼自身の作り上げた仮面、 あ る 人 々 にとって大した意味を持たない、ただの虚勢を保つことだけだった。
「……だから、なんだと言うのだ?」
彼は「自分は 奪 う こ と も 出 来 る 」ことを言いたかった。
実際にそうするかどうかは別として、とにかく そ う で な く て は な ら な か っ た 。
彼は天下を勝ち取った「勝者」なのだから。
「もし―――」
風丸は静かに秀吉を見つめている。
「お屋形様がまだ胡蝶を―――この者の名ですが―――奪うおつもりなら、私は……」
「……?」
この時、風丸は初めて、目に力を込め、秀吉をねめつけた。
「お屋形様を斬ります」
一瞬、その場が凍りついた。