第二十四話 胡蝶の舞
さて、秀康こと於義丸は、秀吉の元へと出発した。先に書いたとおり、風丸もそれについていった。馬で駆けていく一行に、いるべきでないものが一人、紛れ込んでいた。その者は、笠を深くかぶり、ピタリと風丸の後ろを駆けている。於義丸はその見事な馬術を横目で見ると、ぷっと吹き出した。
「流石、城下一のじゃじゃ馬といわれるだけあるな!」
と、その者が馬をぱっと跳ねさせ、一歩で於義丸の横についた。
「……於義丸様?」
於義丸は母親に怒られたようにびくっと身を引いた。それで手綱が引かれ、馬は急に止まった。於義丸は振り落とされそうになるのを馬上で必死にこらえた。
一向は同じように急停止し、ほとんどが体を大きく揺らした。優雅に止まったのは、風丸と、その「怪しいもの」だけだった。
何とか体勢を整えた例の従者が、馬上で刀を抜いて怒鳴った。
「無礼者!!」
「無礼者ぉ!?」
彼は笠を放り投げるように取った―――「彼」ではなかった―――。彼女は怒りもあらわに従者をにらみつけた。
「私は何にもしちゃいないでしょ!この狐!」
「き、キツネぇ……!?お主、誰じゃ!?名を名乗れぇ!!」
彼女はすっと背筋を伸ばした。少女は、怒り狂っていた従者でさえ、はっとするような美しさを持っていた。彼女はむっとしたように答えた。
「胡蝶」
それは胡蝶だった。於義丸が言った“城下一のじゃじゃ馬”である。加えて、その美貌も城下一との噂があった。
胡蝶が名乗ってから、間抜けな間があった。それはキツネが胡蝶に見とれていた時間である。彼は頭を振って邪念を追い払おうとした。
「……胡蝶とやら!何故そなたがこの一行に加わっておる!?正直に申せ!」
と、彼の足元から声がした。
「胡蝶は我が妻にございます」
風丸だった。彼は馬を止めた後すぐ、飛び降りて於義丸の馬を落ち着かせに行ったのだった。従者は憤怒の表情で彼を見下げた。
「そちの妻は無礼だ!何故連れてきた!?」
風丸はにこりと笑った。
「傍にいないと何をしでかすか分かりませんので。失礼仕りました、キツネ殿」
於義丸はまたしても吹き出した。また、他の者も何とか笑いをこらえている雰囲気が伝わってきた。ただ一人、キツネだけが、抜き身の刀を握り締め、ぶるぶる震えている。
「貴様……!!」
「胡蝶姉さん」
於義丸はキツネを無視して胡蝶に話しかけた(実は於義丸と胡蝶は仲が良い。風丸と於義丸がはじめて会った前回より、さらに前、幼年の於義丸の遊び相手として胡蝶が選ばれたのだ。於義丸も胡蝶も、お互いを実の姉弟のように思っていた)。
「どうして“キツネ”なんですか?」
胡蝶はニヤッと笑った。
「虎の威を借る狐」
これにはキツネ以外が全員吹き出した。一方キツネは、本気で怒っていた。
「この無礼者……!!」
「刀をしまった方がいいぞ」
於義丸は涙を拭きながら言った。
「命を無駄にするもんじゃない」
キツネは怒りと戸惑いでピタリと動きを止めた。於義丸は笑いながらも、冷たく言った。
「刀をしまえ」
主の命令には逆らえず、彼は悔しそうに刀を納めた。
於義丸はひょいと正面にいる風丸を見た。風丸は苦笑いを浮かべて彼を見上げていた。
「……もう少しで斬りかかっていましたね、キツネは」
風丸が彼だけに聞こえるように囁くと、彼はにやりと笑った。
「……そしてキツネの首が飛んでいた、そうだろう?」
風丸は肩をすくめ、脇にどいた。於義丸はクスクス笑いながら馬を進め始めた。
「胡蝶!」
言いながら風丸は馬にひらりとまたがった。胡蝶はすぐにその横に馬を寄せる。
「何でしょうか、ご主人様?」
風丸は胡蝶の冗談めいた言葉には取り合わず、たしなめるように言った。
「あんまり、無茶しないでくれよ。もう少しで斬られていたぞ」
「あら。風丸はそれを待ってるんじゃないの?」
「はぁ?」
「ほら、そうすれば、あの人を切る理由が出来るから……」
風丸は胡蝶が放り投げた笠でその頭を叩いた。
「イタ!!」
「阿呆」
風丸は笠を胡蝶に押し付けると、さっさと馬を進めてしまった。
胡蝶はしばらく、ぷっと頬を膨らませていたが、すぐにニコッと笑顔になり、それを追いかけ始めた。