第二十三話 神を名乗るもの
本能寺の変から、二年が経った。雷助も、家康(むしろ風丸と言った方がいいかもしれない)も、秀吉と天下を争って、徹底的に戦おうとはしなかった。
家康は着々と自分の足元を固め、雷助は確実に息を潜めていた。
家康と秀吉の戦いも、風丸がにらんだとおりの結末を迎えた。つまり、彼の兄、織田信雄が秀吉に早々と屈し、家康が大義名分をなくす、というものだ。家康は心底驚いて風丸と話していた。彼はすらりと背が伸びており、もうすでに元服も終わっていた。
「・・・・・・・・・驚きましたな、流石は風様」
「・・・・・・・・・残念です」
風丸は心底悔しそうだった。まるで、雷助が乗り移ったかのような苦々しさがそこにはあった。しかし、彼はすぐにいつもの表情に戻った。
「それより、よろしいですか?」
「風様こそ、よろしいのですか?」
家康は風丸の顔をうかがったが、彼は静かに微笑んでいるだけだった。
「ご心配なく。於義丸様は私がお守りいたします」
「あんなやつのことはどうでもいい!」
家康は口調を荒げた。
「問題はあなたですぞ!猿が風様だと気付いたら・・・・・・・・」
「どうでもいいことです。於義丸様の安否に比べれば、ですがね」
風丸は冷たくさえぎると、頭も下げずに、立ち上がった。そして、家康を残し、茶室から出て行った。家康は不機嫌に鼻を鳴らした。
於義丸とは、家康の次男だ。嫡男信康が十年前に切腹させられており、家康の跡継ぎとなるはずの人物である。しかし、家康は彼を毛嫌いしており、今回の秀吉との講和で彼を、人質として養子に出してしまったのだ。風丸はこの際、彼の従者として秀吉の元に上ることになった。於義丸は元服した後、「羽柴秀康」を名乗り、非常に有能な人物として知られる。しかし、このときは数えで弱冠十一歳。
さて、風丸はその於義丸と対面していた。
「面を上げよ」
流石にまだ子供であったが、将来頭角を現すだけの才は感じさせる少年だった。
「は!」
於義丸は風丸を上から下までじっくりと見た。
「そうか、貴様が父上の“お気に入り”か」
「・・・・・・・・・」
風丸が黙っていると、彼は寂しげにつぶやいた。
「・・・・・・・・・多少、ねたましく思っていたのじゃが。しかし、お主を見てなんとなく分かった気がする」
於義丸はそう言いつつも、大きなため息をついた。珍しく、風丸は感心したような表情になる。
「・・・・・・・・流石、親方様のご子息であられますな。私を恨んでもおかしくないでしょうに・・・・・・・・・・」
「おだてるな。その父から捨てられた、ただの人質だ。それについてくるとは、おぬしも変わり者じゃのう?」
風丸は頭を下げたが、余計なことは何も言わなかった。於義丸は何も疑わず、部屋を出て行った。残ったのは、その昔からの従者だった。当然、風丸の素性は知らない。そもそも、彼ら双子は本当に一握りの人間しか知らない、隠し子であった。
「お主は一体、何者なのじゃ?」
従者は不機嫌な顔で尋ねた。
「どうやら、親方様がどこか拾ってきたらしいが、それにしても異例な待遇。不審極まりない」
「申し訳ございませぬ。ただ、素性については親方様より、決して明かしてはならぬと命じられております。なにとぞご勘弁を・・・・・・・・」
風丸はまたしても深々と平伏した。従者は鼻を鳴らした。彼は風丸を、家康がどこかの娘―――彼は“下賎な者”という表現を使った―――に生ませた隠し子だと思っていた。
(一応世話はするが、抜擢することはないだろう)
そう考えていた。それで非常に尊大に言った。
「・・・・・・・・・まぁいいだろう。くれぐれも、粗相がないようにな!」
直後、従者は得体の知れない恐怖を感じた。それは命を危険にさらしたものが必ず感じる、死への直感だった。しかし、それは融けるように消えた。
「相分かりました」
風丸は静かに言った。従者はその恐怖の大本が、彼だとはまったく気付かなかった。
ところで、風丸は元服して、“織田風伯”という名を持っていたが、これを知っているのは家康だけであった。公となっている名が“松平風康”だった。この松平姓を受けていることは、家康との親戚となっていることの現われであったから、真相を知らぬものにとっては、確かに破格の扱いに見えた。
とはいえ、この時期に秀吉側に送られるとなっては、これはまるで手のひらをひっくり返したような冷遇である。それで従者は風丸を侮ったのだろう。
雷助は当然のことながら、風丸もまた、父、信長の血を受け継いでいた。
静かな口調や立ち振る舞いの下、皮一枚奥には、激しい怒りが燃え盛っていたのだ。
それは“あの日”の炎のように、彼の内側を焦がした。