四
城下町のなかでも一際賑わう繁華街へ立ち入ったヌワを待ち受けていたのは、空や緑や光とは違い、刺激的な光景だった。人が溢れるように行き交い、雑踏がせせらぎのように流れている。ホタテの貝柱ひとつひとつに頭を突っ込めば、物売りだ。髪飾りや着物があれば食材だったり、その場で食べられるような屋台もあった。
「美味しそうな匂い」
「腹が減ったのか」
ホウギが売り台をこんこん、と二度叩けば二つ、なにやら美味そうな白いかたまりがあちらから差し出される。道着がはだけた、半裸の少年相手に何をへつらっているのか、店主はホウギを笑顔で見送った。
「おかねは?」
海にだって、貝がらを使った貨幣がある。ヌワが欲しい髪飾りはお父様の肩叩きを一年続けても買えないのに、ただでおやつを貰おうだなんて。
ヌワが怒るとホウギは困った顔をした。
「言われてみれば、そうだな」
「あと、知らない人から食べ物もらっちゃだめって言われてる。おやつは一日一個までって決まってるし」
「まあ食え」
ホウギは熱々の饅頭をヌワのよく喋る口に詰め込んだ。
ヌワは温かい食べ物を知らない。ましてやふかふかした饅頭だなんて。
口に広がる熱とほのかな甘みにヌワのほっぺたが緩んだ。
悔しいけれど、美味しい。
「すっごく美味しい!」
「怒りながら食べるなよ」
「もいっこ、食べたい」
「一日一個までと言わなかったか」
「ホウギのちょうだい」
「ならば代価になるものを貰うぞ」
ホウギは頭ひとつぶん低いヌワの目線に合わせると、鼻の頭が重なるほどの距離まで、顔を近づけた。
「何する気よ、助平」
「髪が乾いてきたな……髪飾りか」
「ふがっ」
ホウギは自分のぶんの饅頭をヌワの口に突っ込むと、今度は向かいの売り台を拳で叩いた。
ヌワはむぐむぐ頬を饅頭で膨らませながら、じっと見守った。
自分が食べている隙に、ホウギはまた何か店主から巻き上げてきたようだ。
「今度は何を強奪したの」
「強奪はしていない。銭の代価は与えた」
ホウギが自分の横髪を耳にかけると、片耳だけ耳飾りがなくなっている。ホウギは同じようにヌワの横髪を耳にかけた。
「なあに?」
ヌワの片耳になにか鋭く冷たい感触が走る。
「ヌワの髪色に合いそうだと、先ほど目に入ったものだ」
そう言ってホウギは店の手鏡を持ち出すと、ヌワの顔が映るように丁寧に傾けた。
「わぁ……っ」
ヌワの黒い瞳がより色濃く輝く。
ヌワが欲しい髪飾りは海底に沈む鉱石や真珠を使ったものだ。しかし耳に飾られたそれは、繊細な花びらが何枚も折り重なった花簪。紫色をした、大きな大きな花簪だった。
宝石のように輝きはしないけれど艶やかで、華々しい。
花を知らないヌワには、胸が震えるほど魅力的に映った。
「きれい……」
「気に入ったか」
「代価は? こんなに高そうなもの、貰えない」
ホウギはこの髪飾りを得るために自分の耳飾りを片方失っている。
でもヌワは代価になるものを持っていない。着ている着物すら自分のものではない。
「後で、考える」
ヌワが落ち込んだ表情をみせると、ホウギは笑ってそう返し、自慢げに手のなかの物を見せた。
「それより、釣り銭というものを貰ったぞ。これでいくらでも饅頭のおかわりができる」
「ほんと? やったあ!」
それからふたりは繁華街を行ったりきたり、店先の子供をからかったり、軒下でつまみぐいをしたりして過ごした。
花売りの娘から本物の花を買ったり。
赤子を背負い忙しなく水を運ぶ婦人に一輪握らせたり。ホウギの肩越しにみえる、高い高い城を望んだり。
「青の国と全然違う……」
「城のなかが気になるか? それこそ退屈なだけだが。……ああ、でもひとつだけいい場所がある」
ホウギはそう言うと城の端にそびえる尖塔を指差した。衛兵の目から逃れ、塔を登るのは簡単なことだった。ホウギが鼻高々に城壁に隠された扉を開き、人一人分の抜け道を抜ければ塔のなか。現れたのは長い長い吹き抜けにくっついた、長い長い階段。
「ほら」
ホウギはヌワを背中におぶると一気に階段を駆け上がった。尖塔のてっぺんには衛兵が在中している。ホウギはその死角となる中腹の小さな見晴らし台でヌワをそっと下ろした。
「ヌワ、いつまで引っ付いてるんだよ」
ヌワはホウギの首を抱いたまま、離れない。
「きれい……」
ヌワはホウギの肩越しに見える景色に、見惚れたまま動けなかった。
「まったく、お前は」
ホウギは小さくため息を吐くと、よりよく見えるようにとヌワをおぶり直し、軽々と柵の上へ飛び上がった。
「きゃあああああ!」 両手両足でしがみつくヌワ。
「なんだ、ヌワは生意気なこと言うばかりで、高いところが苦手なのか?」
「だって海には――」
「うみ?」
「ううん、なんでもない」
「見ろ、沼がある森はあっち。森の向こうにみえるあの川までが、この国のすべてだ」
ヌワはホウギの背中にぴったりとくっついたまま、説明を胸で噛み砕き、ゆっくりと景色を目になじませていった。
ヌワは驚いた。
中腹から望む城下町は笑い声で城を囲うように賑わっていて、その先にある森を抜ければ、色とりどりの住居が隙間なく建ち並んでいる。
「とても、きれいな国……」
ヌワには不思議だった。
街並みだけじゃない、様々な土地から人が集まるこの街には、様々な瞳の色をした人間が行き交っている。まるで宝石を散りばめたように、みんなみんな輝いてみえた。
「夜だったら、気づけなかった」
「ヌワ、見てみろよ」
ホウギがまた指を差す。
先ほど花をあげた婦人が見違えるように着飾り、城下町の広場に立っている。花を髪飾りにして楽しそうに、夫と手を取り合って。
「日暮れには広場に音楽隊がやってくる。みんな音にあわせて踊るんだ」
「きゃあああああ!」
ヌワを強引に柵から下ろし両手をとると、ホウギはゆらゆらと腕を揺らし踊る真似ごとをした。間も無く音楽隊の笛が鳴り出し、広場の人間も踊り出す。
「これ、なんていう舞いなの?」
「舞い? そんな決まりはこの国にはない。好きなように、踊ればいいんだ」
ホウギが戯けた足踏みで誘うので、ヌワは水のなかのように、腰をくねらせ踊ってみせた。
「いいぞ、ヌワ!」
広がる笑い声。
空を仰げば青が薄く、紫色へ色を濁している。
ヌワは退屈しなかった。
けれど、楽しい時間は長く続かなかった。
一曲が終わり広場から歓声が上がると、ホウギは美しい顔に影を落とし、こう言った。
「もうすぐ、夜がくる」
*
男に話しかけられたのは塔を降りてすぐ、城壁に影が伸びる頃だった。
「ホウギ様、今宵は満月だというのに、かのような場所で何をなさっているのですか」
ヌワが橙色の日差しを浴びながら自分の影を追いかけ走り回っていると、突然目の前に現れた。男はヌワの二倍はあるかのような巨躯の持ち主で、彼を恐れてか進む隙間がみつけられないのか、周りに人垣ができている。
それから壁際に建つ油屋の店主が男にぺこぺこ頭を下げ、何かを告げた。男は店主に話を聞きながら、ホウギの隣にヌワの姿をみつけると、焦った様子でにじり寄ってきた。
「ホウギ様、その娘はまさか、青の」
「違う。別人だ。まだ日は沈んでいない」
「しかし」
「ヌワ、行くぞ」
ホウギは男に背を向けゆっくりと歩き出したが、他方から迫る視線に気付くとヌワを抱き上げ、森の方角を目指し駆け出した。それを合図にあちこちから剣を抜く鋭い音が響く。
ホウギは走った。
森へ入り沼を通り過ぎ、追っ手が消えても、辺りが暗くなってきても尚、走り続けた。
深い洞穴をみつけ、やっと足をとめる。
「ここで、夜を待とう」
ホウギは洞穴の奥でヌワを降ろすと髪を、頬を首筋を、肩を、ヌワの存在を確かめるように触れた。
ヌワは思った。
ホウギに髪を触られるのは、嫌いじゃない。
「なぁ、ヌワ……お前は」
ヌワの目尻を指でなぞり、自身を納得させるように深く頷く。
「瞳は碧くない。違う。ただの、世間知らずな流民の娘だ」
「ホウギ、どうしたの?」
「なあ、ヌワ――」
ヌワを支えるホウギの手が、腰に回る。
「俺、明日の戴冠式が終わったら、結婚するんだ。それがこの国の掟だ」
「あらそう、おめでとう」
「お前には……関係ないか」
「どうかしら」
ヌワの胸はずきずきと痛む。
「少し、寂しいかな」
言った後で、ヌワはひどく後悔した。
ホウギの目が一瞬でぎらついたからだ。
悪い予感は当たる。ホウギはヌワの髪飾りに触れながら、こう言った。
「この髪飾りの代価に、ヌワが欲しい」
ヌワは弱々しい抵抗に、嘲けて笑うことしかできなかった。
「婚姻前に他の女を抱くなんて、私を練習台にでもしようってわけ?」
「違う……! 俺はヌワがいいんだ、ヌワを花嫁に欲しい」
「世間知らずな流民の娘を? ホウギが王族なら、周りが許すわけないじゃない」
「だから今、ここでお前を奪うんだ。でなければ俺は、明日には知りもしない女を貰い受けることになる」
「あらそう、それはかわいそう」
「ヌワは嫌じゃないのか」
「せめて綺麗な人だといいね」
「お前より美しい女、見たことがない」
「じゃあ、優しい人だといいね」
「ほんと生意気な女……」
ヌワの腰に回していたホウギの手が動く。
はらりと、帯がヌワの赤い沓に落ちた。
「でも、お前じゃなくちゃ、いやだ」
洞穴の外でそぼふる雨のように。
ホウギのぎこちない口づけがヌワの身体を汚していった。