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「それで、ホウギはここで何をしてるの?」


 ヌワが石を、いやそこそこ大きな岩をぶつけても、木の枝の雨を降らせても泥だんごを浴びせても、ホウギは腰を上げない。


「聞いてるの、ホッキ貝」

「俺はホウギだ!」

「だってあなた、ちっとも傷つかないじゃない」


 傷がつかないどころか泥だんごの泥一滴、つきやしない。羽織をヌワへ貸したホウギは質素な道着姿だが、その白妙の衣にシミひとつつかないのだ。


「元の色がわからなくなるくらいにその肌を汚し、その美しい顔から流れる血をみてみたいのに」

「お前はまたなんてことを言うんだ」

「わりと本気よ」


 ヌワの鋭い殺気に、ホウギの横顔が締まる。


「脅しても無駄だ。俺は夜までここを離れられない」

「どうして」

「見ればわかるだろう。魚釣りだ」


 そう言ってホウギは持っていた網を、さらに獲物がかかりそうもない貧相な竿に替え、沼に潜らせた。

 ヌワは鼻で笑った。

 餌もつけずにどうやって誘い出すつもりなのか、魚はみんな岩陰に隠れているのに。


「獲物は夜にかかる。……夜を待てば、わかる」

「じゃあ、夜にまた来れば?」

「素っ裸の娘を、こんな物騒な場所へ置いていけない」

「あら、ホウギが着物をくれたじゃない」

「やった覚えはない」

「うんん? お着物はお持ち帰りですか」

「そう何枚もあるものではないからな」

「私がおうちへ帰りたいっていったら」

「素っ裸で帰れ」


 困ったことになった。

 ヌワはまたパクパクと乾いた唇の音を鳴らせた。

 ホウギは夜まで帰らないというし、こんなに明るいと無闇に動くこともできない。やっぱり自分の着物を取りにいこうかと水面を覗き込むが、後ろに映るホウギの美しい顔をみて思い直した。

 通り池には百年の時の歪みがある。ヌワが通り池を行き来すればそのわずかな間に、陸では百年の時が過ぎてしまう。

 心配したホウギが沼を探し回ったまま干からびてしまったらかわいそうだ。


 ――かわいそう……どうして?


 ヌワはまた自分に首を傾げ、水面に揺れるホウギを見詰めた。

 違う。通り池まで引き返せないのは、ホウギに自分の姿を見られたからだ。人間に姿を見られたからには試練を終えず、この時代の陸から離れられない。

 ホウギから目をそらし、自分を見詰める。

 

「私の目……こんな色だったっけ」


 暗い海の底で見る瞳の色はいつも碧色だった。青い空の下、ヌワの瞳はそこはかとなく黒い。まるで己の正体を隠すように。

 それに、体が重い。

 こんなに動きが鈍くては、石ひとつ得ることができない。


 ――夜を、待とう。

 お父様との約束通りに動けば、何も問題はない。


 ヌワは深いため息をひとつ吐くと、ホウギと肩を並べて座った。

 訪れた静寂。

 ヌワはすぐさま立ち上がった。


「その代わり、魚釣りはやめ」

「あっ、おい!」


 竿を取り上げ、遠くの草むらへとほうり投げる。

 ホウギの視線がそれたその隙にヌワは着物脱ぎ捨て沼に飛び込み、


「これでぜんぶよ」


 沼中の魚を網上げした。


「夜まで付き合ってあげるから、私を退屈させないでよね」




 *




 木々の下生えでぴちぴち跳ねる魚たちをすべて沼へ帰すと、ホウギは自分の道着の帯をヌワへ与え着物を締めさせ、唐突に森を出ることを提案した。


「どこ行くのよ」

「退屈させるなと、ヌワが言ったんだろう」


 ホウギはヌワの手首を掴むと強引に歩かせた。

 森は狭かった。

 でも森を出たヌワは顔をしかめた。現れたのは退屈しそうな無機質な壁や塀。それは海の底に沈む人間の船に似ていた。

 それに土埃の舞う道でヌワの足がもつれても、ホウギは荷物を引きずるようにしてずんずん進む。人通りが多くなると、やがて道も整備された石畳へと感触を変え、ヌワの足を傷ませた。

 ヌワがぼそりと呟く。


「いたい」

「流民ならば沓など履かずとも平気だろう」

「……沓ってなあに」 


 取り合わなかったホウギもこれには驚いた。


「お前、沓を知らぬのか」


 そこでヌワを道端に座らせ、おもむろに足裏を覗いた。おかげで着物がはだけ、白い生脚があらわになった。


「ちょっとなにすんのよ!」

「暴れるな。血が出ている」

「だから、痛いっていったじゃない」


 ヌワの足の裏は、たとえば手のひらの柔らかい腹で歩き続けたようなものだった。草に切れ、尖った小石が刺さり、その隙間に土が埋まっている。かかとは硬い石畳に耐え切れず水ぶくれになっていた。


「こんなにも弱々しく小さな足、城民でもなかなかいない。まるで、纏足(てんそく)でもしていたかのような」


 纏足とは幼少期の娘の足に布をまき、足の成長をとめる風習だ。ホウギの国の城民、なかでも上流階級の家に流行っている。政略結婚に必要な評価の一部となっており、その理由が美しさや儚さを競うものではなく、局部の筋肉を発達させるためであることから、ホウギはそのような歩き方をする娘や、その家を毛嫌いしていた。

 

「でも、美しすぎる」


 纏足をすると足本来の形を失い、醜く変わる。城の水場で戯れる少女の足元など、見れたものではない。

 しかしヌワの足は小さくも小指の爪先まで綺麗に整い、痛々しいほどに薄い白肌だ。じっとりと見詰めるホウギの頭をヌワが小突い、改め、ごついた。

 

「いつまで触ってんのよ、この助平!」

「……少し待っていろ」

「えっ、ちょっと!」 


 ホウギは道端を離れると少し先にみえる人垣を縫い、姿を消してしまった。人垣のある方角にはホタテの貝柱のような小さな屋根がずらりと奥長く建ち並び、その中は複雑そうだ。

 ヌワはこの隙に逃げようかと考えたが、一度休んだ足がじんじんと悲鳴をあげている。


「陸って、難儀だね」


 歩くだけで足を傷めるなんて。

 同意を求められたスバルは不思議そうにヌワを見上げた。


「驚いた。ヌワは陸のこと、何にも知らないんだね」

「そうよ。だめかしら」

「駄目だよ」


 スバルはきっぱりと言い切った。


「この国では海は不吉とされているんだ。海辺の住民は入れないし、魚や海藻なんかの産物は売ることも食べることも禁止されてる。ヌワが海の住人と知られたら、捕まっちゃうよ」

「ふぅん」


 だからスバルは自分を庇ってくれたのか。

 それなら魚に馴染みのない国でどうして、ホウギは沼で魚釣りをしてたんだろう。

 ヌワはちいさな疑念を抱いた。

 それなら試練の土地にどうして、海を忌み嫌うこの国が選ばれたのだろう。

 

「それにスバルは捕まらないの」

「ぼくは陸亀だってば!」

「そうでした」

「とにかく、ホウギの前では流民のふりをしていること。わかった?」

「うん。わかった」


 スバルは会ったばかりの自分を庇ってくれた。スバルが優しくていい子なことはよくわかった。

 ヌワはにっこりと笑いスバルの甲羅を撫でた。


「おい」

「うん?」


 ヌワが首を上げると、ホウギが手にぷらぷらと一足の沓を掲げていた。

 鮮やかな赤で彩られた沓には履き口いっぱいにきらきらとしたガラス石が嵌めこまれ、ツンと上向く爪先が鳥のくちばしのようで可愛らしい。ホウギはヌワの足裏に菌が入らぬよう柔らかな布をあてがうと、その沓をゆっくりと履かせた。


「きれい……」

「どうだ、痛くないか。足に合うか」


 沓を見ることも初めてだったヌワには、その輝く赤い靴は首や耳に飾る装飾品のように、特別なものに思えた。

 ホウギも悪い奴じゃない。どちらかというと、良い奴だ。

 それに綺麗だ。

 ヌワはスバルに向けた笑みをホウギにも与えた。


「ぴったり! ありがとう!」


 ホウギもまた満足げに笑い、ヌワの手を引いた。今度は優しく、


「城下町を案内してやる。きっと退屈しないから」


 腰に手を添え、ゆっくりと。

 城下町はきっとこの赤い沓のように美しい物で溢れている。ヌワは嬉しくなって、胸を膨らませた。


「スバル、行こう」

「ぼくはいいよ、待ってる」


 そう言うとスバルは草陰に隠れてしまった。


「やっぱり海亀に間違われるのね?」

「間違われない! ……まったく、亀の気遣いを無駄にしないでよ」

「亀の気遣いってなぁに」

「いいから。よく見ておいで、ヌワ。この国を」

「わかったわ、スバル」


 ヌワは沓で地を踏み、その履き心地の良さに満足すると、今度は自らホウギの手を引き、城下町へと飛び出していった。


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