弐
「おはよう、ヌワ」
声の主は沼のほとりに枝がかかる大木、その太い枝に足をかけ、立っていた。
ヌワと同年ほどの少年。
墨のように黒い前髪から赤い瞳を覗かせ、ヌワを見下ろすその顔はほんのりと赤く、
「きれい……」
うっとりするほど艶やかな顔立ちをしていた。髪が長ければ、女と見紛うほどに。
少年はその顔を粗末に歪ませると、ヌワに背を向け、こう言った。
「礼ひとつ言えぬとは、無礼な娘だ」
「無礼? どこが、どうして?」
末娘のヌワは誰よりも愛され、蝶よ花よと育てられてきた。無礼などと卑下を示す言葉をかけられるなんて初めての経験だ。驚いたヌワは自分の来し方を振り返り、ついでに沼へとやって来た時のことを思い起こした。
少年の手のなかにある網を見るなり、きっと敵意を向ける。
なんせヌワは蝶も花も知らないし、蟹を相手にチャンバラするほどお転婆で、負けん気が強い娘だ。
「いきなり釣っといて、なによ! 無礼なのはそっちじゃない!」
「は、はぁ? お前が勝手に絡まったんだろうが!」
少年は声を荒げたが、チラッと綺麗な横顔を見せただけで、我慢して沼を見詰めたまま横柄な態度でこう言った。
「俺は沼に落っこちたスバルを助けただけだ」
「スバル? ああ、この亀のこと」
ヌワがほいほい、スバルを手のなかで遊ばせると、少年は面白いくらいにいきり立った。
「俺の友達をぞんざいに扱うなっ、まだ甲羅がやわらかいんだ!」
「へえ、お友達」
泳げないお友達が沼に落ちて、さぞかし心配したのだろう。少年の肩は遠目からでも、息で上がっているように見える。ヌワは少年を憐れんだ。
「亀が、お友達」
蟹とチャンバラしている自分を棚に上げて、憐れんだ。
「スバルをそのへんの亀といっしょにするな」
「何が凄いの」
「寿命」
ヌワの憐れみは憐れみを通り越し、可哀想になった。
「よかったね! お友達を助けたら、いい女も釣れたね! よかったね!」
「は、はぁ? お前の、どこが!」
「すべてよ!」
「笑わせるな、網が重いだけだった」
「そりゃあ、つくべきとこにはついてるもの」
「え?」
どこのおはなし?
思わず振り返った少年は目を見開くと、二の足踏もうと三の足、踏み外して枝から落っこちた。
どすん、と鈍い音が鳥たちを驚かせ、ピチチチと一斉に羽ばたいていく。どすん、も鳥の鳴き声も、ヌワには初めて聞く音だ。どすんは置いといて、鳥の鳴き声は海老のヒゲが弾く琴より澄んでいて、耳に心地よく響いた。
「きれい……」
少年は空を見上げるヌワにしばらく魅入っていたが、ハッと我に返るとまた背を向け、その場に座り込んだ。歩幅にして五歩程度の距離に、ヌワはむず痒さを感じる。
「ねぇ」
ヌワは足裏をくすぐる草の感触を楽しみながら少年に歩み寄り、その肩を叩いた。
「うわああ!」
少年はまるで貝が開いたように飛び上がった。
「そんなに驚かなくったって、いいでしょう」
「俺に触るな、無礼者」
「なによ、偉そうに」
「お前な……」
「ヌワよ。私の名前は、ヌーワ!」
「ヌワ、お前が今羽織っている着物の模様をよく見てみよ。その紋章に見覚えはないか」
「もんしょー?」
ヌワは自分の髪をかきわけ、模様を探した。どうやら陸では海より自分の髪が邪魔だ。髪を全て肩にかけ終わると、元々少年が羽織っていた着物だろうか、うすものの単衣が一枚、現れた。蛇のようにぐにゃぐにゃ波打つ赤い模様が全身に施されている。
ヌワは改めて少年に訊ねた。
「紋章って、この赤いの?」
「ヌワは王家の紋章も知らぬのか」
「知らない」
知らないし、少年が王族だろうが平民だろうがヌワには関係のないことだ。
「では流浪の民か……? それならこの髪の色も納得がいく」
「それ、どういう意味」
ヌワは良くも悪くも髪のことを言われることが好きじゃない。
少年は魅せられたようにヌワの髪をひとすくいすくうと、もう片方の手で撫でた。
「なにをするの」
「珍しい色だ」
「やめてよ」
触られるのはもっと好きじゃない。
少年の手を振り払う。
「お前、無礼にもほどが――」
その拍子にヌワの着物の前衣が開き、水の中にはない、涼やかな風が通った。
少年の顔がかっと赤くなる。
「それに素っ裸で沼で泳ぐなんて、とんだ愚か者だ!」
「すっぱだか?」
再び風がヌワの肌を撫でる。その心許なさに自分の体を改める。
「きゃあああああああ!」
甲高い悲鳴に今度は腰の重い野鳩もバサバサ飛び立っていった。
「なんてこと! わたし、なにも着てないじゃないの!」
ヌワは通り池の入り口に着物をすべて脱ぎ捨ててきたことを思い出した。
裸でいることに抵抗がないわけではない。
城では裸になる機会の方が少なかった。だが泳ぐとなると、水中で着物は重すぎる。
もちろん道道では人目、魚目を気にして着物を着たまま泳いでいた。せめて通り池まではと。
通り池に生物はいない。陸へ上がっても沼に人気はないと考えていた。もしも人間と出くわしても暗闇の中、ヌワを記憶に残す者はいないだろうと。
それがどうだろう。
こんなに明るい日の光の下で、同年の少年に自分の裸体を見られるなんて思いもしなかった。
少年はヌワ以上に顔を赤らめながらぶつぶつと呟く。
「何を今更。街には浴場があるのに沼で水浴びをしていたヌワが悪い」
浴場ってなんだろう。水浴びとは。
海からやってきたヌワにはさっぱりわからない。
「おおかた男に覗かれていて、スバルを助けようと沼に潜った隙に、着物を盗まれたのだろう」
スバルを助けようと?
ヌワは右袖にくっつく子亀のスバルを見た。スバルは飛び出し気味の目をぱちぱちとまたたき、なにかを訴えてくる。
「ヌワが気を失っている間にスバルから聞いた。岩場で足を滑らせ沼へ落ちたスバルをみて、潜って探してくれたのだろう。それは、その――感謝している」
少年は申し訳程度に頭を垂れた。
でもヌワは腑に落ちない。
溺れたスバルを目撃したことには相違ないが、沼の中でばったり出くわしただけだし、溺れた原因は脅かした自分にある気がする。
再びスバルを見詰める。目ん玉が飛び出そうなほど、またたきを続けている。どうやら目配せのつもりらしい。
スバルにとって、自分は命の恩人でなければならないのか。沼から海の住人が現れることに、何か不都合でもあるのか。
――まさかこの少年は、青の国の試練を知っている?
ヌワの背筋に冷たい汗が伝う。
いや、それならスバルは自分を庇わない。理由はきっと別にある。
ヌワは嘘がつけない娘だが、幸い今は恥ずかしさが勝っていて言葉が声にならず、魚のように唇をぱくぱくと動かすだけだった。
その動作を少年は「どういたしまして」と解釈し、満足した様子で口を閉じた。
訪れた静寂。
なんだか面倒くさいことになった。
ヌワは今すぐにでも沼に飛び込みたいのを我慢して、これからどうすべきかを考えた。
自分の着物を取りに行きたいのはやまやまだが、もう遅い。
通り池は海と陸の隔たりであり、百年の時の歪みが存在する。同じ時の流れのようで、二つの世界は百年もの時差があるのだ。
海の一日は陸の百年。
今日の明日は百年後。
試練を全うするまで海には帰れない。
――少年に姿を見られたからには。
まあ着物はまかなえたからよしとしよう。
ヌワは少年の着物をこれでもかってほど体にぐいぐい巻きつけると、息を整え周りを見渡した。
変わらず壮観な景色。人影はひとつも見えない。
少年と、たった二人。
ヌワは沼を眺めていたはずが、いつの間にか少年を見詰めていた。
姿を見られたのは、この少年だけ。
この少年だけなら――。
「あなた、名前は」
「ホウギ」
「ほっけ?」
「ホウギだ!」
あれ、どうして名前を聞いたんだろう。
自分には関係のないことで、これから必要なものだとは思えない。
「ホウギ、変な名前」
「無礼者!」
「ヌワよ。わたしは、ヌワ」
ヌワは自分の行いに首を傾げながら、ホウギの赤い瞳を見詰め続けた。