壱
青の王は言った。
「陸へとつながる通り池を抜けるとちいさな沼がある。そのほとりにある赤い石をすべて、拾ってきなさい」
赤の王は言った。
「次の満月に沼から娘が現れるだろう。その娘を、殺しなさい」
ふたりの御子は百年の時を挟み、それぞれの王を見上げながらあどけない笑みで、こくりと頷いた。
*
ああ、なんて美しいんだろ。
紫色の髪の少女、ヌワは水面の下で、光射す自分の髪に見惚れていた。
細いくるぶしに届くその髪は白く輝く泡粒をまとい、真珠で飾り立てたよう。ひと撫ですれば真珠はらはらと解け、水面へ吸い上げられていく。まるで天へと幸せを振りまくみたいに。
ふと周りを見渡す。
お日様は平等だ。八畳もないこの狭い沼の隅々、岩苔や水草にもみんなみんな、暖かな光を降り注いでいる。
ヌワはほう、と短く嘆声をあげると、また髪に泡を集めようと狭い沼をくるくる泳ぎ回った。
ヌワの住む青の国は深い深い海の底。暗闇で生まれ、暗闇で育ったヌワは鏡を見るたびに呼ぶ、くらげやあんこうの光しか知らない。それがどうだろう、暗く長い通り池を抜ければ清らかな水流と共に光の柱が現れた。どこまでも透き通った青色に小石ひと粒ひと粒輝く宝石のたまり場。ヌワにとってこの水面下のひとつひとつが、新しい世界だった。
水の中ですらこんなに輝かしいのに、この水面の向こうの、陸と呼ばれる世界には、どんな景色が広がっているんだろう。
ヌワは胸をときめかせながらお日様が沈むのを待った。石を探しに陸へ上がるのは、お日様が沈んだあとの、夜という時間を迎えてから。お父様との約束だ。
「まだかな、まだかなぁ」
約束は破れない。それに水の中でも生暖かいこの光に、直接当たってしまったら肌が焼け焦げてしまわないか、少し怖い。ヌワは泡粒と戯れながら大好きな歌を歌い、時間を潰した。
やがて集まってきた沼の魚たちに踊りを誘うが、ヌワを人間だと恐れているのか、岩陰から出てこない。
ヌワはそれを残念に思ったが、お父様には住人と深くかかわらないように言われているので、自分からは話しかけなかった。
明るい水のなか。
モリも釣竿も持たない、紫色の髪をした少女が歌を歌い、腰を振って楽しそうに踊るだけ。
しばらくすると好奇心に負けたのか、ヌワに近づくものが現れた。
「お嬢さん、お嬢さん、どうして水の中なのに、歌えるの?」
可愛らしい子供の声に、ヌワの黒い瞳が輝く。
声のする方へ首を向ければ小石に混じり、ちいさなちいさな甲羅をみつけた。
「あら、沼にも亀さんが住んでいるのね」
「どうして、どうして、水の中なのにお話ができるの?」
「あなた、お名前は?」
「ぼくはスバル。甲羅にお星様がついてんだ!」
「おほしさま?」
海の底にいたヌワは星を知らない。
甲羅を真上から覗き込むと、てっぺんには確かに模様が刻まれていた。でもその模様はどっからどう見たってヒトデだ。ふりふり自慢するその甲羅はまだ柔らかそうで、ヌワはへにゃりと笑う。
「とっても素敵な模様ね」
「ありがとう! ねぇどうしてお嬢さんは水の中なのに苦しそうじゃないの」
「海に暮らしているから、苦しくないの。それと、私はお嬢さんていう名前じゃないわ。私の名前はヌワっていうの」
「ヌワ、変な名前! 海に住んでる人間なんて初めて聞いたよ。ヌワは人間じゃないの?」
「そうよ、失礼なスバル。私は人間じゃないわ」
私はね――、なんて、ヌワがふざけて脅かすように両手をあげると、スバルは面白いくらいにたまげ、大きな口を開けた。
「がぼぉっ」
口から真珠の首飾りのような、ひとつなぎの泡が吹き出る。スバルは同時に四肢をくねり出した。
「きれい……」
「がぼがぼぉっ」
「スバルすごい! 泡を吹きながら踊れる亀なんて、海にいないわ!」
「ヌワのお馬鹿さん! 踊ってるんじゃないよ! 溺れてるんだがぼぉ!」
「溺れてるの?」
「そうだよヌワ、こう見えてもぼくはね」
スバルは泡を吹きながら凛々しく言い放ち、
「陸亀なんだ」
がぼぉ。
光の集まる水面へと吸い込まれていった。
「のぼっていく……? どうして」
スバルはがぼがぼ大量の水を飲んでいる、溺れたら沈むはずだ。水面に目をこらしたヌワは息をひき、慌てて追いかけた。
スバルを引き上げるもの、それは網だ。ヌワの目には透き通った細かい網目が見えた。海にも網で魚を狩る人間がいるのを、ヌワは知っている。捕まった魚たちは二度と海に戻ってこないこともヌワは知っている。
陸亀が食べて美味しいのかはわからないけれど、ヌワは反射的に手を伸ばしていた。
「スバル! ――ぁあ!?」
でも、ヌワは網が指で破れないほど頑丈だなんて知らなかった。一度網に指を絡めてしまえば解けなくなり、自分も道連れになってしまうことも。網を引き契ろうとした指は手首を巻き込み、ヌワの総身ごとずるずると水面へ引き上げていく。
──いけない! 沼の外にでちゃう!
お父様との約束を破ってしまう。陸の光を浴びてしまう。そんなヌワの意志や恐怖は、この沼の中の誰も知らない。ヌワとスバルは岩陰の魚たちに見上げられながら、光の渦へと飛び出していった。
「ヌワ、──ヌワ」
なめし革のような物体がヌワのほっぺたをぺちぺちと叩く。うっすらと目を開けると、子亀のスバルが大粒の涙を落としながらヌワを見下ろしていた。というよりは、ヌワの顔面にのっぺりと貼り付いている。
「重くはないけど、イラっとするから降りて」
「なんだい、心配してやったのに」
「ぬめぬめするの!」
スバルを振り落とそうと、肘を立てて上半身を起こした。なんて体が重いの。それが、陸の最初の印象だった。しかしそれは時経たずして忘れてしまう。
「わぁ……」
むせるような草いきれに目をぱちぱちさせながら辺りを見渡した。
「頭によおく刻んでおかなくちゃ」
ヌワは歓喜で胸を膨らませながら、土や草の感触や匂い、小石の手触りからひとつひとつ、言葉にして覚えていった。使命ではないが、いずれ海の貴重な財産となる。ヌワは母や姉たちの背中を追い、大人の階段を上ろうとしていた。
深い深い海の底、青の国の皇女は十五歳の誕生日に戴冠式が開かれる。戴冠式を明日に控えたヌワは、父である王からひとつ試練が与えられていた。
それは戴冠式の際に頭へ乗せる冠を作るため、自ら陸に上がり、ほとりの赤い石を持ち帰るというものだ。今、王間に置かれているヌワの冠は石を嵌める穴ぼこだらけ。穴をすべて埋めてこそ、真の皇女となれる。王の娘ならば一度はみんな、通る道だ。外の世界に触れ、次の世代へ語り継いでいくことは、国を護る王族にとってとても大切なことだった。
ヌワは五人いる皇女のなかでも一際好奇心が強く、母や姉たちに陸のお話をせがんではよく聞いていた。でも陸は、水の上の世界は想像していたよりもずっと、ヌワの目に美しく映った。
「なんて美しいんだろ」
水底に強く射していた光は大地を優しく包み込み、やわらかに肌にまとう。辺り一面に見たこともない緑が広がり、その隙間からは海よりも青い天井が見えた。青の面積が広いほうを追って見上げれば、波も、澱みもない、青一色。
「あれが、ほんとうの空……」
ヌワが家族から学んだ空は、真っ黒な蓋を被せられたような恐ろしい天井。でも賢いヌワはほんとうの空がそれだけじゃないって信じていた。だってみんな夜に石を集めたから、夜の空しか見ていない。
「お姉さまは、見たのかしら」
ヌワは大好きだったひとつ上の姉を思い出し、胸が苦しくなった。
ヌワの一番仲が良かった姉、第四皇女はこの試練のために陸へ上がったまま、海へ帰っていない。掟を破り夜を待たなかったのか。旅路で事故に遭ったのか。家族だけでなく国中を巻き込み嘆き悲しんだ皇女の失踪は、幼いヌワの心にも深い傷をつけている。
ヌワは「お姉様の分も」と頭に刻み込むように、じっと空の青を双眸に染めた。
「お前、名前は?」
「ヌワだってば」
「ふぅん、見かけない顔だ。城のものではないな」
「おしろ?」
城のものだけど。ほんとうの空に会えたんだから、今は話しかけないで。スバルのヒトデ模様をふにふに指でつっつく。
「ぼくが喋ったんじゃないよ!」
「じゃあ誰よ」
「俺だよ」
その声は地に這いつくばるスバルの、もっとずっと上から聞こえた。