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四章

四章


 美悠に説教をされたあと、悠斗は一睡もせずに学校へ向かった。

 体育も含めて授業はすべて受けたが、体がつらいとは思わなかった。長年のバイト生活のたまものか、これがASHの体というものなのか。

 無事に学校を終えて帰宅し、例のスーツに着替える。美悠の夕食を作ったら出勤だ。

 美悠が、この服の値段と着る理由を知ったら、どんな反応をするだろうかと考えてみる。

(その服を売って、仕事をやめなさい)

 きっとそう言うだろうし、できるなら俺だってそうしたいよと、心の中で愚痴りながら着替え終わると、美悠が帰ってきた。

 悠斗の格好を、いぶかしげな視線で見つめる。

「昨日も思ったんだけどさ……お兄ちゃん……それ、本当に警察のお仕事?」

「本当だよ。ネクタイはしなくていいけど、とりあえずスーツは着ろって」

「ふーん……ま、お兄ちゃんが水商売するとは思ってないけどさ」

「もし、俺のスーツから煙草と香水の匂いがしたら、危ないと思ってくれ」

「そうなったら美悠は悲しいんだからね? 覚えておいてよ」

「わかってるよ。そういう仕事はしない」

「変なお姉さんに引っかかっちゃ駄目だよ? お兄ちゃん、年上にモテそうだし」

「俺みたいな貧乏学生、相手にもされないよ」

「……むう。なんか、やだ」

「な、何がだよ。どうした? 美悠?」

「なんか……返事が全部適当っていうか……なんか、やだ。ちょっとこっち来て」

 美悠がちょいちょいと手招きするので、悠斗は美悠の側まで行って身をかがめた。

「もう!」

 ペしっ、と。悠斗は頭を叩かれた。別に痛くはない。悠斗はどうしていいかわからず、苦笑いするしかなかった。

 それから、次に美悠は悠斗に抱きついてきた。

「もう……やだぁ……」

「美悠……どうしたんだよ。昨日、朝帰りしたのがそんなに嫌だったか?」

「そういうんじゃなくてぇ……なんかもう、いろいろやだよ……お兄ちゃんにばっかり迷惑かけて……本当は、朝帰りぐらいしても美悠は何も言えるわけないのに……普段、ぜんぜん遊んだりもしないからさ……それでも、やっぱりお兄ちゃんが帰ってこないと変なことばっかり考えちゃってさ……実は彼女とかいて、美悠が邪魔なのかなあとか……美悠がちゃんと家のお手伝いとかアルバイトとかできれば、お兄ちゃんも楽できるのかなあとか……」

「美悠」

悠斗は美悠の言葉をさえぎって、強く抱きしめ返した。美悠がネガティブなことばかり言い出すと怒ることもあるが、今はできるだけ優しく声をかけた。

「お兄ちゃんはぜんぜんつらくないよ。家のこともアルバイトも、ぜんぜんつらくない。お兄ちゃんは美悠と一緒に暮らせれば、それでいいんだ」

「うん……ごめんね……おにいちゃんありがとう……大好き……」

 ぐしぐしと顔をうずめて泣きじゃくる妹の頭を撫でてあやす。

「お兄ちゃんは美悠に大好きって言ってもらえるのが一番嬉しいかな。シスコンだから」

「美悠の方が……美優の方がすごいブラコンだもん……お兄ちゃん大好きだもん……」

「そりゃ、二人とも問題だな」

「仲良し兄妹だからいいんだもん……ねえ、おでこにチューしてって言ったら嫌?」

「子供じゃないんだから。嫌じゃないけど……恥ずかしいからしたくない」

「へへえ……あたしも、して欲しいけど恥ずかしいからいいや。でも、今度してあげる」

そういうと、美悠は悠斗をひときわ強く抱きしめた。


 二人でじゃれあった後、夕食を作り終わった悠斗は出かけようとしていた。

「じゃ、行ってくる。夕飯は冷蔵庫入れておいたから、温めて食べろよ」

「うん、ありがとう。いってらっしゃい――朝帰りにならないといいね」

 美悠は、にこりと笑って悠斗を送り出す。

 悠斗は愛情という釘を背中に打たれながら、「ビハイブス」へ向かった。

 電車に乗って嘉神町へ向かい、「ビハイブス」に到着したのは、午後六時。

 入口をノックすると、監視カメラが動き、少ししてから扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 リノスがカウンターの中から、笑顔で悠斗を迎える。

「オフィスで「いらっしゃいませ」は、おかしくない?」

「雰囲気の問題なので。コーヒーでいいですか?」

「うん、お願い」

「かしこまりました――ところで悠斗様。昨日は朝までお嬢様と一緒だったようで」

 リノスは背を向けてコーヒーの用意をしながら、しれっとたずねた。

 それを聞いた瞬間、悠斗の全身から、さーっと血の気が引いた。

 やましいことはしてないのだが、リノスがお嬢様と呼ぶレジナと、朝まで一緒だったのは事実だ。リノスは怒っているのだろうか。だとしたら、まずい。

「いや、あの。食事して、嘉神町をぶらぶらしてただけで、変なことは……」

「そうでしたか。何か、お嬢様から良いお話は聞けましたか?」

 リノスは相変わらず背を向けながら、淡々とした口調で続ける。怒ってはいないようだ。

「良いお話?」

「ええ。お嬢様の個人的なお話、とか」

 少しだけ、リノスの言葉に緊張がこもる。悠斗はそれに気付いて、わざと明るく言った。

「そういう話はしてないよ。世間話だけ。リノスの話もしてたな。ずいぶんと褒めてた」

 それを聞いたリノスの背中から緊張が抜けた。

「そうでしたか。別に、聞くなと言っているわけではないんです。ただ、お嬢様がそういう話をされたというのなら知っておきたくて」

「わかるよ。気にしてないから」

 リノスはわざわざ振り返って、「恐縮です」と頭を下げた。そして再び背を向ける。

「私が言うのも何ですが、お嬢様には気になることが多いでしょう?」

「そりゃ、何もかもが気になるけど……もっと仲良くなってから聞くよ」

「悠斗様は女性の扱いがわかっていらっしゃる」

 リノスは嬉しそうに言うと、煎れたばかりのコーヒーを悠斗の前に置いた

 悠斗は礼を言って、甘く香ばしい匂いを放つコーヒーに口をつける。「美味しい」と言われて安心したリノスは、腕を組んで考えごとを始めた。

「しかし、女性の胸に口を付ける関係よりも深い仲となると、これはもう、やましいことをするしかないのでは。やはり、そういう話はベッドの中で聞くのが一番ですし」

 悠斗は気付かないうちにカップを傾けてしまい、カウンターにコーヒーをこぼす。

「――リノス、あの、どういうことかな。っていうか、何で知ってるのかな」

 悠斗がレジナの胸から血をもらっていたことを、どうしてリノスが知っているのか。あのとき、ここには悠斗とレジナの二人しかいなかったはずだ。

「課長と一緒に見てました。この部屋にはカメラがついてるんです」

 リノスが何でもないことのように言いながら、悠斗のこぼしたコーヒーを拭く。

「血を与えることは決まってましたし、何かあってはいけないので監視していました。課長は途中で「馬鹿馬鹿しくて見てられん」と言って退席しましたが」

「そ、そうなんだ」

 確かに、血を与えることを事前に知っているのはおかしくない。監視も必要だろう。

 しかし、それならば先に言って欲しかった。そうすれば、もっと別の方法を選んだのに。

「私は最後まで見ていましたよ。情熱的にお嬢様に甘える悠斗様と、それを優しく受け止めるお嬢様……素敵でした。やはり、胸から与えるよう助言したのは正解だったようですね」

「またあんたか! そうか、やっぱりか! レジナに変なことばっか教えて!」

 ジュースを指で混ぜれば悠斗は食い付くとか、胸から血を与えれば悠斗は喜ぶとか、余計なことは全部リノスの入れ知恵らしい。どちらにも見事に食い付いた悠斗がバカなのだが。

「教えたのは私ですが、実行すると決めたのはお嬢様です。それを許すぐらいは、悠斗様のことを可愛いと思っているのでしょう」

「そ、そう?」

「ええ。拾ってきた子犬のように」

「ああ……なるほど……なんか、納得いった……」

 レジナの悠斗に対する接し方の違和感について、よくわかった気がする。

 悠斗はうなだれていたが、リノスはそんな悠斗をじっと見つめていた。

「……何?」

 悠斗は、また変なことを言われるのかと思っていたが、リノスは表情は真面目だった。

「悠斗様、お嬢様は知らないことが多いのです。特に、人間関係にはうとい。これまで悠斗様のように、友人となり得る人間と出会ったことがないのです」

「そういえば、同年代の知り合いは俺が初めてとか言ってたな」

「ええ。なので、ときに思い切り可愛がったり、思い切り残酷になったりするかもしれません。それこそ、少女が拾った子犬に接するように」

 少女は拾った子犬を可愛がるが、飽きたら捨ててしまうかもしれない。悪意なく、傷つけてしまうことがあるかもしれない。

「ですから、嫌な思いをしても、どうか許してあげてください。お願いします」

 リノスは綺麗に体を二つに折り、悠斗に頭を下げた。

 頭を下げたまま悠斗の返事を待つリノスを見て、本当に大事にしているのだと思った。

「ねえ、リノス。子犬はレジナの方かもしれないよ」

「と、申しますと?」

 予想もしていなかった悠斗の言葉に、リノスは思わず顔を上げる。

「レジナはきっと、噛み付く加減と甘える加減がわからない子犬だ」

「――なるほど。それはそうかもしれません」

「お互い子犬なら、じゃれあっていろいろなことを覚えればいいんだよ」

 その言葉を聞くと、リノスは改めて頭を下げ、礼を述べた。

「ありがとうございます――お嬢様の初めての子供が、悠斗様でよかった。どうか、お嬢様のことをよろしくお願いします」

「お、大袈裟だよ」

「そんなことはありません。もし、悠斗様がお嬢様に愛情をもって接していただけるのなら、お礼にこのリノスが、悠斗様におかけする気苦労を癒して差し上げても――」

 リノスは真面目な表情から一転、怪しい視線で悠斗を見つめ、頬を撫でてきた。

「――」

 悠斗は何も言えず、背筋を走る悪寒に耐えていた。彼は何を言っているのだろう。うん、きっと変なことだ。癒すっていうのはあれかな? 性的な意味があるのかな? 同性なのに? うん、きっとそうなんだろうな。頬撫でてるし、視線がねっとりしてるし。

「ああ――悠斗様は私に愛情など注がなくていいのですよ。愛情は、お嬢様に。私はお二人に尽くすことができれば、それが何よりの――」

「待て待て待て待て。ストップ! ストップ! ホモストップ!」

 悠斗が迫ってくるリノスから、逃げるように席を立つ。

 背筋は寒いし、心臓の鼓動は激しいし、もうどうしたらいいかわからない。

 悠斗がパニックになっていると、リノスは不思議そうな表情をしていたが、すぐに何かに気付き、「ああ、なるほど」と手を叩いた。

「悠斗様、大丈夫です。私はホモでは――いや、そうなんですが」

「認めた! いや、悪いとは言わないよ!? 俺も嘉神町で何人も見てきたし、というか前のバイト先の店長がそっちだったし。でも、そういうのは趣味が合う人同士で!」

「落ち着いてください。ええと、何から言えば――ああ、もしかして」

「こ、今度は何?」

「悠斗様――一応、口に出して伝えておきます。私は女です」

「――え?」

「顔もスタイルも格好も、こんな風ですけれど。私は女です」

「おん……な?」

 悠斗は出会ったときから今まで、リノスのことを、ずっとバーテンの格好が似合うイケメンだとばかり思っていた。悠斗より背は高いし、顔も格好良い――いや、顔は整っているから、男と言われれば男に見えるし、女と言われれば女に見える。美男子は女装しても美女。美女は男装しても美男子になるものだ。

「はい。よかったら、どこでも触って確認してください」

 リノスはぐいっと、悠斗の手を掴んで、自分の身体を触らせようとした。手はすべすべしてるんだか、ごつごつしてるんだか、よくわからなかったが、とりあえず手は引いておいた。

「い、いや……触らなくても信じるから……でも、女性なのに、なんでホモ?」

 女性で男が好きなら、それはホモとは言わない。女性で同性愛者なら、それはレズだ。

「身体は女ですが心は男なんです。別に男として認めろとか、そこまで言うつもりはありませんが。男だと思い、そうやって生活するほうが楽なんです」

「は、はあ……そうなんですか……」

 それ以外、悠斗には答えるべき言葉がない。

「その上で、同性として男が好きなんです。異性のころに男性を想った気持ちとは、やはり何かが違うものです。両方経験していますから、わかるんですよ」

 わかると言われても、悠斗には何が何だかわからない。まったくわからない。

「えっと――でも、身体は女性で男が好きなんだから――一周して普通?」

「そうですね。結果的には異性愛者に見えますね」

「じゃあ……リノスに迫られても問題はない……?」

「はい。試してみますか?」

 リノスは素早い動きでカウンターを飛び越える。

「え! いきなり何をっ?」

 意表を突かれて動けない悠斗を、リノスは後ろから抱きしめ、頬に手を這わせた。

「どうですか――女だと、わかりますか――?」

 胸らしきものは当たっているが、悠斗の背中は嫌な気配を察して警告を出している。

「ああっ! やっぱり何か違うっ! 男に触られてるみたいでっ!」

「そうですか? それなら両方楽しめて得だと、お考えくだされば――」

 リノスが耳元でささやく。悠斗は失神しそうだった。嬉しくてではない。

「は、離してっ! 何か柔らかいけど、何かゴツゴツしてるっ!」

 リノスの全身からは、柔らかさと同時に筋肉を感じる。それがまた、アレだった。

「筋肉――嫌いですか?」

「女性が誘惑に使う言葉じゃないよ! あ、男だっけ? いや、どっちでも駄目だ!」

 悠斗は抵抗するが、リノスは長い手足を蛇のように絡ませて離さない。

 そのとき、地下からの扉が開いて久慈とレジナが入ってきた。

「玖藤、ブリーフィングだ。あとにしろ」

「なんだ、悠斗はそっちもいけるのか。よかったな、リノス」

「え、ええっ! もうちょっと何かないわけ?」

 結局、リノスはすぐに離れ、「冗談ですよ」と笑ったが、悠斗の身体には「女なのに男に抱きしめられたみたい」という、妙な感触が残っていた。

 ただ、悠斗は途中から「そんなに嫌じゃないかも……」と思い始めており、それが何よりも怖かった――嘉神町二丁目には近づくまい。



「昨日、レジナと玖藤が集めてきた情報を、僕と木島で固めてみた。」

 久慈は手帳を開いて報告をはじめる。部屋に緊張感が出た。

「蔵鷹組と中華マフィアが争って得する人物――平田興業も該当するが、あいつらの規模で、そんな戦争を仕掛けるとは考えられん。そうなると、やはり台湾人勢力が――というか、台湾人のボスである、ウェイという男があやしい」

「ウェイ……ですか? あの、ウェイ・ドゥンカイ?」

 ウェイという言葉を聞き、リノスの表情が厳しいものに変わった。

「そうだ。平田興業に殺し屋の紹介をしたアジア人――台湾人としよう。それを手配したのはウェイだろうと考えている。まずは本当にウェイなのかを固めたい」

「なら、私は待機していましょう。ウェイに気付かれたら、何をしてくることか」

 リノスが厳しい表情を変えずに提案すると、久慈はそれを素直に受け入れた。

「そうだな。奴が「ビハイブス」を知っているとも思えんが、念のためだ」

 久慈とリノスは、ウェイという男をずいぶんと警戒しているようだった。

 裏社会では有名なのだろうか。嘉神町に詳しいつもりの悠斗でも聞いたことがない。

「課長、そのウェイっていう人はそんなに危険なんですか? その、すごく強いとか」

 悠斗は暴力という意味で脅威なのかと考えたが、久慈は首を横に振った。

「もう老人だ。権謀術数で嘉神町を生き抜き、決して尻尾を掴ませない、狡猾な老人だがな。ウェイが得をする事件は数多く起きているが、捜査が奴に辿り着いたことは、一度もない」

「そんな人……本当にいるんですね。俺、聞いたこともありませんよ」

「嘉神町のバイトに知られてるようじゃ、ウェイは長生きしてない」

 本当の大物は、表に名前すら出さないということだろうか。

 久慈は敵でありながら、ずいぶんとウェイを評価しているようだった。

「で、ウェイが黒幕だとして紹介者の男は見つかるのか? というか生きてるのか?」

 これまで黙って話を聞いていたレジナが久慈にたずねる。それだけ狡猾だという男が、自分に繋がるラインを放っておくだろうか。すでに逃がすか、殺すかをしている可能性が高い。

 久慈にも、それはわかっているようだった。焦っているのか、右手の爪をいじり始める。

「正直――厳しい。平田からも似顔絵を取ってみたが、たいした特徴もない。そういう男を選んだのだろう。一応、警官や顔の利く店に情報は流しておいたから――」

 久慈がそこまで言ったところで、「ビハイブス」の電話が鳴った。

 ここに、八課は全員揃っているというのにだ。斑鳩というのも考えにくい。

 お互いが顔を見合わせ、場の空気が一瞬で凍り付く。

「でます」

 リノスが落ち着いた態度で受話器を取り、相手が口を開くのを待った。

「――はい、そうです。こちらは「ビハイブス」ですが」

 リノスの言った、「こちらはビハイブスですが」という言葉で、間違い電話でもないことが証明された。相手は、ここが「ビハイブス」だとわかって連絡してきているのだ。

「はい――それは――いえ、わかりました。かわります」

 リノスは保留ボタンを押すと、一つ呼吸をしてから久慈に受話器を差し出した。

「課長、お電話です――ウェイと名乗る男から」

「――ちっ」

 久慈は舌打ちをし、とうとう爪を噛み始めた。ここの番号を知っているのは、八課と斑鳩ぐらいのはずだが、ウェイと名乗る男が電話してきたのだ。「ビハイブス」だと知っていて。

「――ふざけた真似を」

 久慈は爪を噛んだまま三秒ほど思案してから受話器を受け取り、保留を解除した。

「僕が久慈だが、ウェイか?」

(そうだ。初めましてだな、八課の課長。私がウェイだと、信じてもらえるだろうか)

 受話器の向こうからは、感情の薄い声。特に相手を威圧するでもない話し方が不気味さを増している。また、ウェイは八課も久慈も知っているのだとアピールしてきた。

 久慈は動揺を悟られぬよう、注意して話した。こういうことには慣れている。

「本物かどうかはそのうちわかる。用件は?」

(つまらん奴だな。まあ、話が早くて助かる。用件というのは、君達が私を疑っているという話を聞いてな。誤解を解くために、こうして連絡をさせてもらった)

「――続けてくれ。誤解かどうかは僕が決める」

(若いのに生意気なのだな。嫌いじゃないぞ。ならば簡潔に言おう、取り引きだ。私は誤解を解くために、八課が必要としている情報を提供しよう。それで八課は私への誤解を解き、今回の件について――ASHによる襲撃事件について、私への捜査を一切行わないことになる。細かいことについて話すために、そちらへ伺おうと思うのだが)

 完全に先手を打たれている――久慈は改めてウェイの恐ろしさを痛感した。

 どこから情報が漏れたのだろう。どんな手を打っているのだろう。

 しかし、ウェイの発言は、自分が事件の裏にいると認めるに等しい。久慈にはウェイの意図がわからなかったが、最低限の正義感と有り余るプライドに動かされて反抗した。

「ウェイ、こちらへ来る必要はない。八課は自らの捜査で事件を解決してみせる。もし、その先におまえがいるとしたら、そのときは容赦しない」

(捜査か――それは、平田興業と接触した男を捜そうというのかね?)

「――何が言いたい」

 何もかもお見通しだと言いたげなウェイに、久慈は声を荒げそうになるが、何とか押えた。

(では、これはサービスだ。その男について調べてやろう。どれどれ――おや、これは残念なことだ。その男は今朝、死んだようだ――捜査は振り出し、というやつかな?)

「ふざけた……ことを……おまえがっ……!」

(それでは、そちらへ向かおう。いいな?)

「くっ……」

(返事はどうした? 取り引きをするために、そちらへ行ってもいいかと聞いている)

「……わかった。待っている」

(よろしい)

 久慈は静かに電話を切ると、怒りで震えながら、悠斗達へ事情を伝えた。

「今から、ここにウェイが来る――誰も口を出すな。僕が話す」

 久慈は不機嫌さを隠そうともせず、どかりとカウンター席に腰を下ろした。

 リノスはイライラと爪をいじくる久慈の隣りに、小さな札を置く。

「リノス、何だそれは?」

「リザーブの札です。八課以外では初めてのお客様ですから、緊張しますね」

 久慈は「馬鹿が」と言うと、小さく笑った。

 それから十分もせずに、「ビハイブス」の扉が叩かれた。



「ウェイ様、お待ちしておりました」

 リノスがウェイを席へと案内する。

「なかなか、良い店じゃないか」

「恐れ入ります」

 案内された席に悠然と腰を下ろすウェイ。

 真っ白な髪を短く整えた、小柄で痩せた老人。スーツもネクタイも黒系で揃えている。

 リノスとのやり取りを見ているかぎりではバーに来た金持ちの客だが、ウェイがただの裕福な老人ではないことは、彼の目の鋭さを見れば、すぐにわかった。

「酒は――ビジネスが終わってからにしようか。なあ、久慈くん」

 ウェイは向かいに座る久慈に、馴れ馴れしく話しかける。それで久慈は、ようやくウェイと目を合わせた。

「そうだな。早く飲めるよう、さっさと終わらせよう」

「焦ると足下をすくわれるぞ」

「お互いにな。それで、提供するという情報はなんだ?」

「情報が確かなら、私への誤解を解くと約束するんだな」

「――情報による」

「そうか。なら、君達が探しているASHの居場所――ではどうだ?」

「ASHの居場所だと!? ASHを手放すつもりか!?」

 思いも寄らぬ提案を聞き、大声を上げる久慈を、ウェイは冷ややかな目で見た。

「手放す、か。まるでASHが私のものみたいな言い方だな。やはり大きな誤解がある」

「とぼけるな。平田興業へASHを紹介した男。おまえが彼は死んだと言った時点で、ASHを握っているのはおまえしかいない。紹介者もASHも、おまえの手駒だろう」

 誰がASHに言うことを聞かせていたのか。平田興業にASHを紹介した男か? 違う。紹介者を操っていた人物こそが、ASH自身をも操っているはずだ。ウェイに捨て駒にされるような男がASHに命令できるとは思えない。

 久慈は自分で言ったように、男が死んだと聞いた時点で、ASHに命令しているのはウェイだろうと、ほぼ確信していた。だが、ウェイが自分からそれをばらすような真似をするとは、ASH自体を取り引き材料にするとは、さすがに予想もしていなかった。

「答えろ、ウェイ。ASHに言うことを聞かせていたのは、おまえだな?」

 久慈はなおも問い詰めるが、ウェイは表情一つ変えることはなかった。

「久慈よ、何か勘違いしているようだな。私は取り引きをしたいだけだ。ASHの居場所を知りたいなら、私の捜査をするなという条件でな。この取り引きに応じるのか応じないのか、それ以外の話をする気はない」

 情報は出すが、その情報を知っている理由を語る気はないということだ。

 久慈は悩んだ。八課が取るべき行動は、ウェイから情報を聞いて、一秒でも早くASHを押えることだろう。取り引きについて、斑鳩にとがめられることもないだろうし、ASHによる被害者も減る。良い取り引きに思えた。

 だが、事件の真相は何もわからないままに終わるということでもある。

 そして、事件の首謀者であるウェイを無傷で見逃すことになるのだ。

 ASHの情報、事件の真相、そしてウェイ。この場ですべてを手に入れる方法があればいいのだが、久慈には思いつかなかった。苦い表情でウェイに提案に歩み寄る。

「――ウェイ、本当にASHの居場所を言うのか? 実際にASHが見つからなければ、おまえが何を言おうが取り引きなど成立しないぞ」

「取り引きの成立は、君達がASHを見つけた瞬間だ。そんな安っぽいペテンのために、私がわざわざ出向くと思うかね? さあ、どうする。私を放っておくのと、ASHを放っておくのでは、どちらが危険だろうな」

「おまえかASHか、選べと」

「違うな。選ぶのは、建前の正義か、市民の安全かだ。それから一応言っておくが、私を捕えたとしても証拠は一切出ないぞ。何せ、誤解なのだからな」

 証拠は完全に消したという、ウェイの宣言だった。

「――自信あり、か」

 ウェイは八課がASHを選ぶとわかっていて、自分を賭けている。

 確かにそちらの方が被害は少ないだろうし、八課の行動としても正しい。

 怪しいというだけで、一切の証拠が無いウェイを捕えても仕方がないだろう。

 久慈は、もちろんそれらを理解している。あとは返事をするだけ――の、はずだった。

「久慈さん! そいつと取り引きしていいんですか! そいつは間違いなく、今回の事件に深く関わってる! そんな奴を見逃すんですか!」

 たまらずに悠斗が叫んだ。

「玖藤、黙っていろ」

 間髪入れずに久慈が悠斗をたしなめる。ウェイは悠斗のほうを見もしなかった。

「黙っていられるわけないでしょう! 犯罪を見逃せと言ってるんですよ!」

 そう、久慈もわかっていることだった。ウェイと取り引きをすれば、確かにASHの被害者は減らせる。だが、悪人を一人、確実に見逃すことになるのだ。

「玖藤、最初に言ったな。僕達は正義の味方じゃない。悪の敵だ。悪の敵が正義であるとは限らない。我々は別の悪でかまわない」

「だとしても! だとしてもですよ!」

「そこから先が言えないなら、口を開くな!」

「うっ……くっ……」

 久慈が悠斗を黙らせると、ウェイが拍手をした。

「素晴らしい。建前の正義より、市民を守る悪のほうを選ぶか。取り引きは成立かな?」

 ウェイが満足げな顔をして手を差し出すが、久慈はその手を取らなかった。

 眼鏡を直すと、ウェイにも負けぬ冷たい視線で、彼を睨み付けて言った。

「こちらから条件が二つある。それを呑めば、取り引きをしてやろう」

「条件だと? そちらは条件を出せる立場だったかな?」

「おまえが条件を呑んで、ようやく取り引きに値する商品になる。今は無価値だ」

「そうか――ならば、話は終わりだ。失礼させて――」

「レジナ」

 ウェイは席を立とうとしたが、できなかった。久慈の一声でレジナがウェイの肩を押えていたからだ。レジナは離れた壁際のソファーに座っていたが、一瞬でやってきた。

「そう急ぐな、じいさま。ゆっくり座って考えるといい」

 レジナに肩を押えられたウェイは、身動き一つ取ることができない。

「きさま……そうか、斑鳩の娘か……これが、おまえ達の切り札か……」

 さすがのウェイも、ASHに直接おどされては動揺を隠せなかった。

 しかし、久慈はウェイに向かって笑いながら首を振った。

「切り札は、一枚だけじゃないんだ――玖藤、「新製品」を見せてやれ」

 久慈の命令が出た瞬間、悠斗は腰から「ニコラ」を抜き、ウェイへと刃を向けた。

「まさか、この小僧もASHだと言うのか? ……二人も、ASHがいるのか?」

 完全にペースを掴んだ久慈は、ようやくいつもの「楽しそうな」笑いを浮かべた。

「そうだよ。八課は兵士としてASHを二人、大将に斑鳩大佐をそなえている。別におまえを正式に逮捕する必要はないんだ。帰って戦争の準備をするぐらいは待ってやろう」

 久慈は心の底から楽しそうな表情でウェイに語りかけた。

 これまで、先手を打たれていた分のお返しをしているのだろう。

「切り札が二枚か――馬鹿げたことだ、ゲームにもならん」

 ウェイはとうとう敗北を認め、がっくりと下を向いた。

「では条件を言う。一つは事件の真相を話すこと。もう一つは、一ヶ月の執行猶予だ」

 久慈はウェイが了承の返事をする前に、二つの条件を突きつけた。

 ウェイは少し思案してから、あきらめたように、ゆっくりと口を開いた。

「真相か――信じるかどうかは自由だが、話そう。公表はするな。外にも中にも」

「いいだろう。もう一つの執行猶予はどうだ? その間に少しでも悪戯したら、その瞬間に八課はおまえと戦争だ――こうでもしないと、若いのが納得しないんでな」

 久慈はナイフをかまえたまま、微動だにしない悠斗を指差した。

「短くても、建前の鎖を付けたいか……いいだろう」

 ウェイは、嫌々ながらも久慈の出した二つの条件を呑んだ。

 久慈は満足そうに頷くと、悠斗とレジナにウェイから離れるよう指示を出した。

「安い買い物だったな、じいさま」

 レジナはそう言って、ウェイの肩をポンと叩くと、悠々と壁際のソファーへと戻った。

 悠斗もニコラを収め、ウェイから離れる。

 プレッシャーから解放されたウェイは、心底疲れたというように一つ息を吐いた。

 だが、久慈にウェイを休憩させるつもりがあるわけもなかった。

「では、事件の真相について話してもらおうか。まず、どうやってASHを手に入れた?」

「簡単な話だ。嘉神町にまぎれ込んできたASHに、金と寝る場所をやった。誰にでも出来ることだが、最初に見つけた時点で勝ちだ。情報網だけは自信があるからな」

 聞いてみれば、ひどくシンプルな理由。ASH本人が、どうやって嘉神町に来たのかは、ウェイも知らないようだった。そこまで深い付き合いをする気もなかったのだろう

 久慈は、その話を信じるか迷ったが、これ以上何も出てこないだろうと、次の質問をした。

「なら、どうして平田興業に殺し屋としてASHを紹介した? 邪魔な人間がいるなら、直接ASHに殺させた方が早いだろうに」

 ウェイは久慈を、それから悠斗とレジナを見てから話はじめた。

「――久慈よ、台湾人が嘉神町で、どれだけの勢力を持っているか知ってるか?」

「この話は、僕の問いに対する答えに関係あるんだな?」

 ウェイは黙って頷いた。久慈は、とりあえず付き合うことにする。

「台湾人か……今は、そうだな……5%というところか」

 久慈の答えに、ウェイは「そうだ」と頷く。正解だったようだ。

「5%――それが、今の嘉神町での台湾人の勢力だ。これを守るのが、同胞達の生活を守るのが、どれだけ大変なことか、わかるか? 勢力争いというのは最後の1%まで戦えるというものではない。あるラインを下回ると、一気に滅ぶものだ」

「そのラインが5%なのか?」

「そうだ。今は非常に危険なラインだ。守るので精一杯、こちらから戦争を仕掛けるほどの体力もこちらには無い。そんなとき、嘉神町にASHが紛れ込んだという情報が入ってきた。それが、例のASH――彼は、自らを「バレット」と名乗った」

「バレット――弾丸のことか? そう名乗ったのか? それが、そいつのASH能力か?」

「細かいことは知らん。私には、彼こそがようやく配られたジョーカーだと思った。この一枚があれば、ワンペアがスリーカードに、ツーペアがフルハウスになる――私達が自力でやっていたら、決して作ることの出来ない手だ」

 そこまで話すとウェイはリノスに酒を注文した。ウイスキーなら、何でもいいと。

 リノスはすぐに二杯分のグラスを用意して、ウェイと久慈の前に置いた。

 ウェイがグラスに口を付け、ゆっくりと飲み干す。酒は話し合いの後のはずだったが、久慈は黙って待ってやった。

 グラスを空にして、アルコールの熱いため息を吐いてから、ウェイは再び語り出した。

「バレットをどう使うか。忠誠心も無い男を中心に戦争はできん。そこで、私は敵対勢力同士で争うようにしたのだ。例えASHが失敗しても、こちらに害はないからな。だが、バレットは思っていた以上に上手くやってくれた。作戦は成功だ」

「そうみたいだな。今は日本人も中国人もピリピリしてる。しばらくは台湾人にかまう暇もなさそうだ。なら、どうしてそんなにも強いカードを自ら捨てる?」

 カードを捨てる――ASHの情報を八課に流すということ。久慈の質問を聞くと、ウェイはぼそりと、「若いな」と呟いた。

「どんなに良い手が出来ても、次のゲームには使えない。そして、バレットはたまたま私の手元に入ってきたジョーカーに過ぎない。私はゲームに勝った。ここが引き際だろう。そして引くのなら、次に相手が使うかもしれないジョーカーを残しておくのは危険だ」

「だから、ジョーカーを八課に処分させようとしている……か」

「そういうことだ。私はジョーカーも八課も敵にまわすことなくゲームを終える」

 それきり、ウェイは黙り込んだ。これですべて話したと言わんばかりに。

 久慈は大体において納得したが、一つだけ気になっていることをたずねた。

「ウェイ、おまえは同胞を守るために戦っていると言ったな?」

「そうだ。ただ、それだけのためだ」

「しかし、おまえは僕達が探そうとしている男を消した――あれは台湾人だな?」

「そうだ。もう隠す必要もないだろう。あれは台湾人で、私の部下だ」

「同胞を守るために、同胞である部下を犠牲にするのは、かまわないのか」

 彼はウェイが八課と取り引きをするために。八課の進路を断つために殺された。殺したとすれば、やったのは間違いなくウェイだろう。

 同胞殺しの疑惑を向けられたウェイは、腕時計を見て薄く笑みを浮かべた。

「ゲームにはイカサマが付きものだ。イカサマは相手がカッとしているときに、さりげなく混ぜるのがコツだ――あの男は少し前に台湾へ向けて出発したよ。生きたままな」

「おまえは……そいつを逃がすために、自分で囮になったのか……」

 久慈が唖然としてたずねる。手下を逃がすために、ウェイは自らが囮となって時間稼ぎをしたというのだろうか。 

 だが、ウェイは静かに首を横に振って、久慈の考えを否定した。

「取り引きのついでだ。他に手がなければ殺していた」

「おまえの手札、まだまだ調べてみる必要がありそうだな」

「私を気にしている暇はないだろう。私のゲームは終わったが、君達はまだ途中だ。いらないカードを捨てて、必要なカードを引いた――それだけのことだ」

 そういうと、ウェイは机の上に一万円札を置いて席を立った。

 リノスは断ったが、ウェイの「ただ酒は趣味じゃない」という言葉に引き下がった。

 ウェイが店を出ようとすると、レジナが歩いてきてドアを開けた。

「気が利くな。美人が送り出してくれるとは」

「少しぐらい優しくもするさ。どうせすぐ、誰かに殺されるじいさまだ」

 睨みながら言うレジナだったが、ウェイは怯むどころか、にこりと笑ってみせた。

「それなら、地獄でも君に会えるな――君も私も、天国へなど行けるわけがない」

「残り時間は少なそうだが、今から頑張れば天国に行けるかもしれんぞ?」

 レジナの嫌味を聞くと、ウェイの笑みが冷たいものに変わった。

「斑鳩の娘、教えてやろう。地獄へは誰でも行けるが、天国への行き方は誰も知らん」



 ウェイと「ビハイブス」で取り引きをしてから、五日が経った。

 今は、「呼び出しの場所と日時が決まったら連絡する」という、ウェイの言葉を信じて待つしかなかった。狡猾な男だが、利害が一致してる限りは信用していいと、久慈は判断した。

 少なくとも、その間にASHによる事件は起きていない。おかげで、悠斗は久しぶりに何事も無い生活を満喫していた。朝は学校に通い、夕方からは「ビハイブス」で過ごす。

 電車が動いているうちに帰宅し、美悠と同じ時間に眠れるのは幸せなことだった。

 また、「ビハイブス」では待機命令しか出ていないため、悠斗はその時間でリノスから格闘術(ナイフ格闘を含む)を教わっていた。地下の空き部屋を貸してもらったのだ。

 レジナに格闘を教えたのもリノスだったようで、その教え方は上手かった。悠斗はASH特有の身体能力の高さも手伝ってか、五日でそれなりの形を身につけることが出来た。

 なぜ、リノスがそんなにも格闘術に詳しいのかをたずねると、「お嬢様の護衛でもありますから」という答えだった。レジナに護衛が必要なのか、悠斗には疑問だったが。

 悠斗に小さな事件が起きたのは、取り引きから六日目の夕方。放課後のことだった。

 授業を終えて帰ろうとすると、悠斗はクラスメイトの女子に声をかけられた。

「ねえ、玖藤君。教室の前に妹さん来てるよ」

「美悠が?」

「うん。兄がいたら呼んでいただけませんか? って」

「そっか、ありがと」

「うん。それじゃ、早く行ってあげて」

 女子は教室の入口で、そこにいるであろう美悠と少し話してから、玄関へと向かった。

 女子がいなくなってから教室を出ると、廊下にはふてくされた表情の美悠がいた。

「美悠、待たせたな……って、どうした?」

「今、お兄ちゃんもうすぐ来るからね、って頭撫でられた」

「え? ああ、さっきの……で、頭撫でられるのがそんなに嫌だったのか?」

「そうじゃなくて……馴れ馴れしいっていうか……お兄ちゃん、あの人と仲良いの?」

「あの子? いや、普通のクラスメイトだけど」

「ふーん……ずいぶんにこにこしてたけどなあ……妹にまで優しくしちゃってさー」

 美悠がじとっとした目で悠斗を睨む。

 悠斗には、美悠が不機嫌になっている理由がよくわからなかった。

「何が言いたいんだ……んで、何か用があったんだろ?」

「あ、そうそう。お兄ちゃん、セセリ姉が学校休んでるって、知ってた?」

「セセリさんが?」

「うん。最近、学校で見なかったから、どうしたんだろうと思ってたんだけどさ。先生に聞いたら、体調崩して学校休んでるって。お兄ちゃん、何か聞いてる?」

「休んでるって、何日ぐらいだ?」

「えっと、今日で四日目だって」

「四日……? それはちょっと長いかもな……」

 悠斗は、自分がセセリの誘いを断ったことが原因なのではないかと考えた。しかし、それにしては時期がおかしい。悠斗が断った直後ならともかく、あれから何日も経っている。

 それにセセリの性格からして、そんなことで学校を休むとは思えなかった。

「――いや、休んでる理由は聞いてないな」

「そっかあ……セセリ姉、手術してからは落ち着いてたけど、やっぱり心配だね」

「うん、そうだな」

「お見舞いは……ちょっと気まずいか。電話ならいいかな?」

「携帯なら大丈夫だろ」

「じゃあ、ちょっとかけてみる」

 そういうと、美悠は携帯を取りだしてセセリに電話をかけた。校内ではあるが、放課後ならば携帯の使用はそんなにうるさくない。

 美悠はしばらくコールしていたが、セセリはなかなか電話に出ないようだ。

 十コールほどで、美悠はあきらめて電話を切った。

「駄目みたい。まさか、入院とかじゃ……ないよね?」

「どうだろうな……こんな言い方もなんだけど、もし大事なら、こっちにも連絡は来るんじゃないか? そうじゃなければ、何か別の理由があるのかもしれない」

「東儀の家はお金持ちだからね。いろいろあるのかなあ」

「しばらくは様子をみるしかないだろ。それでも欠席が続くようなら、また考えよう」

「そう……だね。うん、わかった。美悠、セセリ姉が大丈夫なようにお祈りしておくよ」

 美悠は真面目な顔をして、手を胸の前で組んだ。

 彼女なりに、セセリのことを真面目に心配しているようだ。

「祈るって、何に祈るんだ?」

 悠斗が冗談半分でたずねると、美悠は「うーん」と考えてから、笑顔で答えた。

「やっぱ、神様かな。セセリ姉が無事でありますようにって、神様に祈るよ」



四章


 美悠に説教をされたあと、悠斗は一睡もせずに学校へ向かった。

 体育も含めて授業はすべて受けたが、体がつらいとは思わなかった。長年のバイト生活のたまものか、これがASHの体というものなのか。

 無事に学校を終えて帰宅し、例のスーツに着替える。美悠の夕食を作ったら出勤だ。

 美悠が、この服の値段と着る理由を知ったら、どんな反応をするだろうかと考えてみる。

(その服を売って、仕事をやめなさい)

 きっとそう言うだろうし、できるなら俺だってそうしたいよと、心の中で愚痴りながら着替え終わると、美悠が帰ってきた。

 悠斗の格好を、いぶかしげな視線で見つめる。

「昨日も思ったんだけどさ……お兄ちゃん……それ、本当に警察のお仕事?」

「本当だよ。ネクタイはしなくていいけど、とりあえずスーツは着ろって」

「ふーん……ま、お兄ちゃんが水商売するとは思ってないけどさ」

「もし、俺のスーツから煙草と香水の匂いがしたら、危ないと思ってくれ」

「そうなったら美悠は悲しいんだからね? 覚えておいてよ」

「わかってるよ。そういう仕事はしない」

「変なお姉さんに引っかかっちゃ駄目だよ? お兄ちゃん、年上にモテそうだし」

「俺みたいな貧乏学生、相手にもされないよ」

「……むう。なんか、やだ」

「な、何がだよ。どうした? 美悠?」

「なんか……返事が全部適当っていうか……なんか、やだ。ちょっとこっち来て」

 美悠がちょいちょいと手招きするので、悠斗は美悠の側まで行って身をかがめた。

「もう!」

 ペしっ、と。悠斗は頭を叩かれた。別に痛くはない。悠斗はどうしていいかわからず、苦笑いするしかなかった。

 それから、次に美悠は悠斗に抱きついてきた。

「もう……やだぁ……」

「美悠……どうしたんだよ。昨日、朝帰りしたのがそんなに嫌だったか?」

「そういうんじゃなくてぇ……なんかもう、いろいろやだよ……お兄ちゃんにばっかり迷惑かけて……本当は、朝帰りぐらいしても美悠は何も言えるわけないのに……普段、ぜんぜん遊んだりもしないからさ……それでも、やっぱりお兄ちゃんが帰ってこないと変なことばっかり考えちゃってさ……実は彼女とかいて、美悠が邪魔なのかなあとか……美悠がちゃんと家のお手伝いとかアルバイトとかできれば、お兄ちゃんも楽できるのかなあとか……」

「美悠」

悠斗は美悠の言葉をさえぎって、強く抱きしめ返した。美悠がネガティブなことばかり言い出すと怒ることもあるが、今はできるだけ優しく声をかけた。

「お兄ちゃんはぜんぜんつらくないよ。家のこともアルバイトも、ぜんぜんつらくない。お兄ちゃんは美悠と一緒に暮らせれば、それでいいんだ」

「うん……ごめんね……おにいちゃんありがとう……大好き……」

 ぐしぐしと顔をうずめて泣きじゃくる妹の頭を撫でてあやす。

「お兄ちゃんは美悠に大好きって言ってもらえるのが一番嬉しいかな。シスコンだから」

「美悠の方が……美優の方がすごいブラコンだもん……お兄ちゃん大好きだもん……」

「そりゃ、二人とも問題だな」

「仲良し兄妹だからいいんだもん……ねえ、おでこにチューしてって言ったら嫌?」

「子供じゃないんだから。嫌じゃないけど……恥ずかしいからしたくない」

「へへえ……あたしも、して欲しいけど恥ずかしいからいいや。でも、今度してあげる」

そういうと、美悠は悠斗をひときわ強く抱きしめた。


 二人でじゃれあった後、夕食を作り終わった悠斗は出かけようとしていた。

「じゃ、行ってくる。夕飯は冷蔵庫入れておいたから、温めて食べろよ」

「うん、ありがとう。いってらっしゃい――朝帰りにならないといいね」

 美悠は、にこりと笑って悠斗を送り出す。

 悠斗は愛情という釘を背中に打たれながら、「ビハイブス」へ向かった。

 電車に乗って嘉神町へ向かい、「ビハイブス」に到着したのは、午後六時。

 入口をノックすると、監視カメラが動き、少ししてから扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 リノスがカウンターの中から、笑顔で悠斗を迎える。

「オフィスで「いらっしゃいませ」は、おかしくない?」

「雰囲気の問題なので。コーヒーでいいですか?」

「うん、お願い」

「かしこまりました――ところで悠斗様。昨日は朝までお嬢様と一緒だったようで」

 リノスは背を向けてコーヒーの用意をしながら、しれっとたずねた。

 それを聞いた瞬間、悠斗の全身から、さーっと血の気が引いた。

 やましいことはしてないのだが、リノスがお嬢様と呼ぶレジナと、朝まで一緒だったのは事実だ。リノスは怒っているのだろうか。だとしたら、まずい。

「いや、あの。食事して、嘉神町をぶらぶらしてただけで、変なことは……」

「そうでしたか。何か、お嬢様から良いお話は聞けましたか?」

 リノスは相変わらず背を向けながら、淡々とした口調で続ける。怒ってはいないようだ。

「良いお話?」

「ええ。お嬢様の個人的なお話、とか」

 少しだけ、リノスの言葉に緊張がこもる。悠斗はそれに気付いて、わざと明るく言った。

「そういう話はしてないよ。世間話だけ。リノスの話もしてたな。ずいぶんと褒めてた」

 それを聞いたリノスの背中から緊張が抜けた。

「そうでしたか。別に、聞くなと言っているわけではないんです。ただ、お嬢様がそういう話をされたというのなら知っておきたくて」

「わかるよ。気にしてないから」

 リノスはわざわざ振り返って、「恐縮です」と頭を下げた。そして再び背を向ける。

「私が言うのも何ですが、お嬢様には気になることが多いでしょう?」

「そりゃ、何もかもが気になるけど……もっと仲良くなってから聞くよ」

「悠斗様は女性の扱いがわかっていらっしゃる」

 リノスは嬉しそうに言うと、煎れたばかりのコーヒーを悠斗の前に置いた

 悠斗は礼を言って、甘く香ばしい匂いを放つコーヒーに口をつける。「美味しい」と言われて安心したリノスは、腕を組んで考えごとを始めた。

「しかし、女性の胸に口を付ける関係よりも深い仲となると、これはもう、やましいことをするしかないのでは。やはり、そういう話はベッドの中で聞くのが一番ですし」

 悠斗は気付かないうちにカップを傾けてしまい、カウンターにコーヒーをこぼす。

「――リノス、あの、どういうことかな。っていうか、何で知ってるのかな」

 悠斗がレジナの胸から血をもらっていたことを、どうしてリノスが知っているのか。あのとき、ここには悠斗とレジナの二人しかいなかったはずだ。

「課長と一緒に見てました。この部屋にはカメラがついてるんです」

 リノスが何でもないことのように言いながら、悠斗のこぼしたコーヒーを拭く。

「血を与えることは決まってましたし、何かあってはいけないので監視していました。課長は途中で「馬鹿馬鹿しくて見てられん」と言って退席しましたが」

「そ、そうなんだ」

 確かに、血を与えることを事前に知っているのはおかしくない。監視も必要だろう。

 しかし、それならば先に言って欲しかった。そうすれば、もっと別の方法を選んだのに。

「私は最後まで見ていましたよ。情熱的にお嬢様に甘える悠斗様と、それを優しく受け止めるお嬢様……素敵でした。やはり、胸から与えるよう助言したのは正解だったようですね」

「またあんたか! そうか、やっぱりか! レジナに変なことばっか教えて!」

 ジュースを指で混ぜれば悠斗は食い付くとか、胸から血を与えれば悠斗は喜ぶとか、余計なことは全部リノスの入れ知恵らしい。どちらにも見事に食い付いた悠斗がバカなのだが。

「教えたのは私ですが、実行すると決めたのはお嬢様です。それを許すぐらいは、悠斗様のことを可愛いと思っているのでしょう」

「そ、そう?」

「ええ。拾ってきた子犬のように」

「ああ……なるほど……なんか、納得いった……」

 レジナの悠斗に対する接し方の違和感について、よくわかった気がする。

 悠斗はうなだれていたが、リノスはそんな悠斗をじっと見つめていた。

「……何?」

 悠斗は、また変なことを言われるのかと思っていたが、リノスは表情は真面目だった。

「悠斗様、お嬢様は知らないことが多いのです。特に、人間関係にはうとい。これまで悠斗様のように、友人となり得る人間と出会ったことがないのです」

「そういえば、同年代の知り合いは俺が初めてとか言ってたな」

「ええ。なので、ときに思い切り可愛がったり、思い切り残酷になったりするかもしれません。それこそ、少女が拾った子犬に接するように」

 少女は拾った子犬を可愛がるが、飽きたら捨ててしまうかもしれない。悪意なく、傷つけてしまうことがあるかもしれない。

「ですから、嫌な思いをしても、どうか許してあげてください。お願いします」

 リノスは綺麗に体を二つに折り、悠斗に頭を下げた。

 頭を下げたまま悠斗の返事を待つリノスを見て、本当に大事にしているのだと思った。

「ねえ、リノス。子犬はレジナの方かもしれないよ」

「と、申しますと?」

 予想もしていなかった悠斗の言葉に、リノスは思わず顔を上げる。

「レジナはきっと、噛み付く加減と甘える加減がわからない子犬だ」

「――なるほど。それはそうかもしれません」

「お互い子犬なら、じゃれあっていろいろなことを覚えればいいんだよ」

 その言葉を聞くと、リノスは改めて頭を下げ、礼を述べた。

「ありがとうございます――お嬢様の初めての子供が、悠斗様でよかった。どうか、お嬢様のことをよろしくお願いします」

「お、大袈裟だよ」

「そんなことはありません。もし、悠斗様がお嬢様に愛情をもって接していただけるのなら、お礼にこのリノスが、悠斗様におかけする気苦労を癒して差し上げても――」

 リノスは真面目な表情から一転、怪しい視線で悠斗を見つめ、頬を撫でてきた。

「――」

 悠斗は何も言えず、背筋を走る悪寒に耐えていた。彼は何を言っているのだろう。うん、きっと変なことだ。癒すっていうのはあれかな? 性的な意味があるのかな? 同性なのに? うん、きっとそうなんだろうな。頬撫でてるし、視線がねっとりしてるし。

「ああ――悠斗様は私に愛情など注がなくていいのですよ。愛情は、お嬢様に。私はお二人に尽くすことができれば、それが何よりの――」

「待て待て待て待て。ストップ! ストップ! ホモストップ!」

 悠斗が迫ってくるリノスから、逃げるように席を立つ。

 背筋は寒いし、心臓の鼓動は激しいし、もうどうしたらいいかわからない。

 悠斗がパニックになっていると、リノスは不思議そうな表情をしていたが、すぐに何かに気付き、「ああ、なるほど」と手を叩いた。

「悠斗様、大丈夫です。私はホモでは――いや、そうなんですが」

「認めた! いや、悪いとは言わないよ!? 俺も嘉神町で何人も見てきたし、というか前のバイト先の店長がそっちだったし。でも、そういうのは趣味が合う人同士で!」

「落ち着いてください。ええと、何から言えば――ああ、もしかして」

「こ、今度は何?」

「悠斗様――一応、口に出して伝えておきます。私は女です」

「――え?」

「顔もスタイルも格好も、こんな風ですけれど。私は女です」

「おん……な?」

 悠斗は出会ったときから今まで、リノスのことを、ずっとバーテンの格好が似合うイケメンだとばかり思っていた。悠斗より背は高いし、顔も格好良い――いや、顔は整っているから、男と言われれば男に見えるし、女と言われれば女に見える。美男子は女装しても美女。美女は男装しても美男子になるものだ。

「はい。よかったら、どこでも触って確認してください」

 リノスはぐいっと、悠斗の手を掴んで、自分の身体を触らせようとした。手はすべすべしてるんだか、ごつごつしてるんだか、よくわからなかったが、とりあえず手は引いておいた。

「い、いや……触らなくても信じるから……でも、女性なのに、なんでホモ?」

 女性で男が好きなら、それはホモとは言わない。女性で同性愛者なら、それはレズだ。

「身体は女ですが心は男なんです。別に男として認めろとか、そこまで言うつもりはありませんが。男だと思い、そうやって生活するほうが楽なんです」

「は、はあ……そうなんですか……」

 それ以外、悠斗には答えるべき言葉がない。

「その上で、同性として男が好きなんです。異性のころに男性を想った気持ちとは、やはり何かが違うものです。両方経験していますから、わかるんですよ」

 わかると言われても、悠斗には何が何だかわからない。まったくわからない。

「えっと――でも、身体は女性で男が好きなんだから――一周して普通?」

「そうですね。結果的には異性愛者に見えますね」

「じゃあ……リノスに迫られても問題はない……?」

「はい。試してみますか?」

 リノスは素早い動きでカウンターを飛び越える。

「え! いきなり何をっ?」

 意表を突かれて動けない悠斗を、リノスは後ろから抱きしめ、頬に手を這わせた。

「どうですか――女だと、わかりますか――?」

 胸らしきものは当たっているが、悠斗の背中は嫌な気配を察して警告を出している。

「ああっ! やっぱり何か違うっ! 男に触られてるみたいでっ!」

「そうですか? それなら両方楽しめて得だと、お考えくだされば――」

 リノスが耳元でささやく。悠斗は失神しそうだった。嬉しくてではない。

「は、離してっ! 何か柔らかいけど、何かゴツゴツしてるっ!」

 リノスの全身からは、柔らかさと同時に筋肉を感じる。それがまた、アレだった。

「筋肉――嫌いですか?」

「女性が誘惑に使う言葉じゃないよ! あ、男だっけ? いや、どっちでも駄目だ!」

 悠斗は抵抗するが、リノスは長い手足を蛇のように絡ませて離さない。

 そのとき、地下からの扉が開いて久慈とレジナが入ってきた。

「玖藤、ブリーフィングだ。あとにしろ」

「なんだ、悠斗はそっちもいけるのか。よかったな、リノス」

「え、ええっ! もうちょっと何かないわけ?」

 結局、リノスはすぐに離れ、「冗談ですよ」と笑ったが、悠斗の身体には「女なのに男に抱きしめられたみたい」という、妙な感触が残っていた。

 ただ、悠斗は途中から「そんなに嫌じゃないかも……」と思い始めており、それが何よりも怖かった――嘉神町二丁目には近づくまい。



「昨日、レジナと玖藤が集めてきた情報を、僕と木島で固めてみた。」

 久慈は手帳を開いて報告をはじめる。部屋に緊張感が出た。

「蔵鷹組と中華マフィアが争って得する人物――平田興業も該当するが、あいつらの規模で、そんな戦争を仕掛けるとは考えられん。そうなると、やはり台湾人勢力が――というか、台湾人のボスである、ウェイという男があやしい」

「ウェイ……ですか? あの、ウェイ・ドゥンカイ?」

 ウェイという言葉を聞き、リノスの表情が厳しいものに変わった。

「そうだ。平田興業に殺し屋の紹介をしたアジア人――台湾人としよう。それを手配したのはウェイだろうと考えている。まずは本当にウェイなのかを固めたい」

「なら、私は待機していましょう。ウェイに気付かれたら、何をしてくることか」

 リノスが厳しい表情を変えずに提案すると、久慈はそれを素直に受け入れた。

「そうだな。奴が「ビハイブス」を知っているとも思えんが、念のためだ」

 久慈とリノスは、ウェイという男をずいぶんと警戒しているようだった。

 裏社会では有名なのだろうか。嘉神町に詳しいつもりの悠斗でも聞いたことがない。

「課長、そのウェイっていう人はそんなに危険なんですか? その、すごく強いとか」

 悠斗は暴力という意味で脅威なのかと考えたが、久慈は首を横に振った。

「もう老人だ。権謀術数で嘉神町を生き抜き、決して尻尾を掴ませない、狡猾な老人だがな。ウェイが得をする事件は数多く起きているが、捜査が奴に辿り着いたことは、一度もない」

「そんな人……本当にいるんですね。俺、聞いたこともありませんよ」

「嘉神町のバイトに知られてるようじゃ、ウェイは長生きしてない」

 本当の大物は、表に名前すら出さないということだろうか。

 久慈は敵でありながら、ずいぶんとウェイを評価しているようだった。

「で、ウェイが黒幕だとして紹介者の男は見つかるのか? というか生きてるのか?」

 これまで黙って話を聞いていたレジナが久慈にたずねる。それだけ狡猾だという男が、自分に繋がるラインを放っておくだろうか。すでに逃がすか、殺すかをしている可能性が高い。

 久慈にも、それはわかっているようだった。焦っているのか、右手の爪をいじり始める。

「正直――厳しい。平田からも似顔絵を取ってみたが、たいした特徴もない。そういう男を選んだのだろう。一応、警官や顔の利く店に情報は流しておいたから――」

 久慈がそこまで言ったところで、「ビハイブス」の電話が鳴った。

 ここに、八課は全員揃っているというのにだ。斑鳩というのも考えにくい。

 お互いが顔を見合わせ、場の空気が一瞬で凍り付く。

「でます」

 リノスが落ち着いた態度で受話器を取り、相手が口を開くのを待った。

「――はい、そうです。こちらは「ビハイブス」ですが」

 リノスの言った、「こちらはビハイブスですが」という言葉で、間違い電話でもないことが証明された。相手は、ここが「ビハイブス」だとわかって連絡してきているのだ。

「はい――それは――いえ、わかりました。かわります」

 リノスは保留ボタンを押すと、一つ呼吸をしてから久慈に受話器を差し出した。

「課長、お電話です――ウェイと名乗る男から」

「――ちっ」

 久慈は舌打ちをし、とうとう爪を噛み始めた。ここの番号を知っているのは、八課と斑鳩ぐらいのはずだが、ウェイと名乗る男が電話してきたのだ。「ビハイブス」だと知っていて。

「――ふざけた真似を」

 久慈は爪を噛んだまま三秒ほど思案してから受話器を受け取り、保留を解除した。

「僕が久慈だが、ウェイか?」

(そうだ。初めましてだな、八課の課長。私がウェイだと、信じてもらえるだろうか)

 受話器の向こうからは、感情の薄い声。特に相手を威圧するでもない話し方が不気味さを増している。また、ウェイは八課も久慈も知っているのだとアピールしてきた。

 久慈は動揺を悟られぬよう、注意して話した。こういうことには慣れている。

「本物かどうかはそのうちわかる。用件は?」

(つまらん奴だな。まあ、話が早くて助かる。用件というのは、君達が私を疑っているという話を聞いてな。誤解を解くために、こうして連絡をさせてもらった)

「――続けてくれ。誤解かどうかは僕が決める」

(若いのに生意気なのだな。嫌いじゃないぞ。ならば簡潔に言おう、取り引きだ。私は誤解を解くために、八課が必要としている情報を提供しよう。それで八課は私への誤解を解き、今回の件について――ASHによる襲撃事件について、私への捜査を一切行わないことになる。細かいことについて話すために、そちらへ伺おうと思うのだが)

 完全に先手を打たれている――久慈は改めてウェイの恐ろしさを痛感した。

 どこから情報が漏れたのだろう。どんな手を打っているのだろう。

 しかし、ウェイの発言は、自分が事件の裏にいると認めるに等しい。久慈にはウェイの意図がわからなかったが、最低限の正義感と有り余るプライドに動かされて反抗した。

「ウェイ、こちらへ来る必要はない。八課は自らの捜査で事件を解決してみせる。もし、その先におまえがいるとしたら、そのときは容赦しない」

(捜査か――それは、平田興業と接触した男を捜そうというのかね?)

「――何が言いたい」

 何もかもお見通しだと言いたげなウェイに、久慈は声を荒げそうになるが、何とか押えた。

(では、これはサービスだ。その男について調べてやろう。どれどれ――おや、これは残念なことだ。その男は今朝、死んだようだ――捜査は振り出し、というやつかな?)

「ふざけた……ことを……おまえがっ……!」

(それでは、そちらへ向かおう。いいな?)

「くっ……」

(返事はどうした? 取り引きをするために、そちらへ行ってもいいかと聞いている)

「……わかった。待っている」

(よろしい)

 久慈は静かに電話を切ると、怒りで震えながら、悠斗達へ事情を伝えた。

「今から、ここにウェイが来る――誰も口を出すな。僕が話す」

 久慈は不機嫌さを隠そうともせず、どかりとカウンター席に腰を下ろした。

 リノスはイライラと爪をいじくる久慈の隣りに、小さな札を置く。

「リノス、何だそれは?」

「リザーブの札です。八課以外では初めてのお客様ですから、緊張しますね」

 久慈は「馬鹿が」と言うと、小さく笑った。

 それから十分もせずに、「ビハイブス」の扉が叩かれた。



「ウェイ様、お待ちしておりました」

 リノスがウェイを席へと案内する。

「なかなか、良い店じゃないか」

「恐れ入ります」

 案内された席に悠然と腰を下ろすウェイ。

 真っ白な髪を短く整えた、小柄で痩せた老人。スーツもネクタイも黒系で揃えている。

 リノスとのやり取りを見ているかぎりではバーに来た金持ちの客だが、ウェイがただの裕福な老人ではないことは、彼の目の鋭さを見れば、すぐにわかった。

「酒は――ビジネスが終わってからにしようか。なあ、久慈くん」

 ウェイは向かいに座る久慈に、馴れ馴れしく話しかける。それで久慈は、ようやくウェイと目を合わせた。

「そうだな。早く飲めるよう、さっさと終わらせよう」

「焦ると足下をすくわれるぞ」

「お互いにな。それで、提供するという情報はなんだ?」

「情報が確かなら、私への誤解を解くと約束するんだな」

「――情報による」

「そうか。なら、君達が探しているASHの居場所――ではどうだ?」

「ASHの居場所だと!? ASHを手放すつもりか!?」

 思いも寄らぬ提案を聞き、大声を上げる久慈を、ウェイは冷ややかな目で見た。

「手放す、か。まるでASHが私のものみたいな言い方だな。やはり大きな誤解がある」

「とぼけるな。平田興業へASHを紹介した男。おまえが彼は死んだと言った時点で、ASHを握っているのはおまえしかいない。紹介者もASHも、おまえの手駒だろう」

 誰がASHに言うことを聞かせていたのか。平田興業にASHを紹介した男か? 違う。紹介者を操っていた人物こそが、ASH自身をも操っているはずだ。ウェイに捨て駒にされるような男がASHに命令できるとは思えない。

 久慈は自分で言ったように、男が死んだと聞いた時点で、ASHに命令しているのはウェイだろうと、ほぼ確信していた。だが、ウェイが自分からそれをばらすような真似をするとは、ASH自体を取り引き材料にするとは、さすがに予想もしていなかった。

「答えろ、ウェイ。ASHに言うことを聞かせていたのは、おまえだな?」

 久慈はなおも問い詰めるが、ウェイは表情一つ変えることはなかった。

「久慈よ、何か勘違いしているようだな。私は取り引きをしたいだけだ。ASHの居場所を知りたいなら、私の捜査をするなという条件でな。この取り引きに応じるのか応じないのか、それ以外の話をする気はない」

 情報は出すが、その情報を知っている理由を語る気はないということだ。

 久慈は悩んだ。八課が取るべき行動は、ウェイから情報を聞いて、一秒でも早くASHを押えることだろう。取り引きについて、斑鳩にとがめられることもないだろうし、ASHによる被害者も減る。良い取り引きに思えた。

 だが、事件の真相は何もわからないままに終わるということでもある。

 そして、事件の首謀者であるウェイを無傷で見逃すことになるのだ。

 ASHの情報、事件の真相、そしてウェイ。この場ですべてを手に入れる方法があればいいのだが、久慈には思いつかなかった。苦い表情でウェイに提案に歩み寄る。

「――ウェイ、本当にASHの居場所を言うのか? 実際にASHが見つからなければ、おまえが何を言おうが取り引きなど成立しないぞ」

「取り引きの成立は、君達がASHを見つけた瞬間だ。そんな安っぽいペテンのために、私がわざわざ出向くと思うかね? さあ、どうする。私を放っておくのと、ASHを放っておくのでは、どちらが危険だろうな」

「おまえかASHか、選べと」

「違うな。選ぶのは、建前の正義か、市民の安全かだ。それから一応言っておくが、私を捕えたとしても証拠は一切出ないぞ。何せ、誤解なのだからな」

 証拠は完全に消したという、ウェイの宣言だった。

「――自信あり、か」

 ウェイは八課がASHを選ぶとわかっていて、自分を賭けている。

 確かにそちらの方が被害は少ないだろうし、八課の行動としても正しい。

 怪しいというだけで、一切の証拠が無いウェイを捕えても仕方がないだろう。

 久慈は、もちろんそれらを理解している。あとは返事をするだけ――の、はずだった。

「久慈さん! そいつと取り引きしていいんですか! そいつは間違いなく、今回の事件に深く関わってる! そんな奴を見逃すんですか!」

 たまらずに悠斗が叫んだ。

「玖藤、黙っていろ」

 間髪入れずに久慈が悠斗をたしなめる。ウェイは悠斗のほうを見もしなかった。

「黙っていられるわけないでしょう! 犯罪を見逃せと言ってるんですよ!」

 そう、久慈もわかっていることだった。ウェイと取り引きをすれば、確かにASHの被害者は減らせる。だが、悪人を一人、確実に見逃すことになるのだ。

「玖藤、最初に言ったな。僕達は正義の味方じゃない。悪の敵だ。悪の敵が正義であるとは限らない。我々は別の悪でかまわない」

「だとしても! だとしてもですよ!」

「そこから先が言えないなら、口を開くな!」

「うっ……くっ……」

 久慈が悠斗を黙らせると、ウェイが拍手をした。

「素晴らしい。建前の正義より、市民を守る悪のほうを選ぶか。取り引きは成立かな?」

 ウェイが満足げな顔をして手を差し出すが、久慈はその手を取らなかった。

 眼鏡を直すと、ウェイにも負けぬ冷たい視線で、彼を睨み付けて言った。

「こちらから条件が二つある。それを呑めば、取り引きをしてやろう」

「条件だと? そちらは条件を出せる立場だったかな?」

「おまえが条件を呑んで、ようやく取り引きに値する商品になる。今は無価値だ」

「そうか――ならば、話は終わりだ。失礼させて――」

「レジナ」

 ウェイは席を立とうとしたが、できなかった。久慈の一声でレジナがウェイの肩を押えていたからだ。レジナは離れた壁際のソファーに座っていたが、一瞬でやってきた。

「そう急ぐな、じいさま。ゆっくり座って考えるといい」

 レジナに肩を押えられたウェイは、身動き一つ取ることができない。

「きさま……そうか、斑鳩の娘か……これが、おまえ達の切り札か……」

 さすがのウェイも、ASHに直接おどされては動揺を隠せなかった。

 しかし、久慈はウェイに向かって笑いながら首を振った。

「切り札は、一枚だけじゃないんだ――玖藤、「新製品」を見せてやれ」

 久慈の命令が出た瞬間、悠斗は腰から「ニコラ」を抜き、ウェイへと刃を向けた。

「まさか、この小僧もASHだと言うのか? ……二人も、ASHがいるのか?」

 完全にペースを掴んだ久慈は、ようやくいつもの「楽しそうな」笑いを浮かべた。

「そうだよ。八課は兵士としてASHを二人、大将に斑鳩大佐をそなえている。別におまえを正式に逮捕する必要はないんだ。帰って戦争の準備をするぐらいは待ってやろう」

 久慈は心の底から楽しそうな表情でウェイに語りかけた。

 これまで、先手を打たれていた分のお返しをしているのだろう。

「切り札が二枚か――馬鹿げたことだ、ゲームにもならん」

 ウェイはとうとう敗北を認め、がっくりと下を向いた。

「では条件を言う。一つは事件の真相を話すこと。もう一つは、一ヶ月の執行猶予だ」

 久慈はウェイが了承の返事をする前に、二つの条件を突きつけた。

 ウェイは少し思案してから、あきらめたように、ゆっくりと口を開いた。

「真相か――信じるかどうかは自由だが、話そう。公表はするな。外にも中にも」

「いいだろう。もう一つの執行猶予はどうだ? その間に少しでも悪戯したら、その瞬間に八課はおまえと戦争だ――こうでもしないと、若いのが納得しないんでな」

 久慈はナイフをかまえたまま、微動だにしない悠斗を指差した。

「短くても、建前の鎖を付けたいか……いいだろう」

 ウェイは、嫌々ながらも久慈の出した二つの条件を呑んだ。

 久慈は満足そうに頷くと、悠斗とレジナにウェイから離れるよう指示を出した。

「安い買い物だったな、じいさま」

 レジナはそう言って、ウェイの肩をポンと叩くと、悠々と壁際のソファーへと戻った。

 悠斗もニコラを収め、ウェイから離れる。

 プレッシャーから解放されたウェイは、心底疲れたというように一つ息を吐いた。

 だが、久慈にウェイを休憩させるつもりがあるわけもなかった。

「では、事件の真相について話してもらおうか。まず、どうやってASHを手に入れた?」

「簡単な話だ。嘉神町にまぎれ込んできたASHに、金と寝る場所をやった。誰にでも出来ることだが、最初に見つけた時点で勝ちだ。情報網だけは自信があるからな」

 聞いてみれば、ひどくシンプルな理由。ASH本人が、どうやって嘉神町に来たのかは、ウェイも知らないようだった。そこまで深い付き合いをする気もなかったのだろう

 久慈は、その話を信じるか迷ったが、これ以上何も出てこないだろうと、次の質問をした。

「なら、どうして平田興業に殺し屋としてASHを紹介した? 邪魔な人間がいるなら、直接ASHに殺させた方が早いだろうに」

 ウェイは久慈を、それから悠斗とレジナを見てから話はじめた。

「――久慈よ、台湾人が嘉神町で、どれだけの勢力を持っているか知ってるか?」

「この話は、僕の問いに対する答えに関係あるんだな?」

 ウェイは黙って頷いた。久慈は、とりあえず付き合うことにする。

「台湾人か……今は、そうだな……5%というところか」

 久慈の答えに、ウェイは「そうだ」と頷く。正解だったようだ。

「5%――それが、今の嘉神町での台湾人の勢力だ。これを守るのが、同胞達の生活を守るのが、どれだけ大変なことか、わかるか? 勢力争いというのは最後の1%まで戦えるというものではない。あるラインを下回ると、一気に滅ぶものだ」

「そのラインが5%なのか?」

「そうだ。今は非常に危険なラインだ。守るので精一杯、こちらから戦争を仕掛けるほどの体力もこちらには無い。そんなとき、嘉神町にASHが紛れ込んだという情報が入ってきた。それが、例のASH――彼は、自らを「バレット」と名乗った」

「バレット――弾丸のことか? そう名乗ったのか? それが、そいつのASH能力か?」

「細かいことは知らん。私には、彼こそがようやく配られたジョーカーだと思った。この一枚があれば、ワンペアがスリーカードに、ツーペアがフルハウスになる――私達が自力でやっていたら、決して作ることの出来ない手だ」

 そこまで話すとウェイはリノスに酒を注文した。ウイスキーなら、何でもいいと。

 リノスはすぐに二杯分のグラスを用意して、ウェイと久慈の前に置いた。

 ウェイがグラスに口を付け、ゆっくりと飲み干す。酒は話し合いの後のはずだったが、久慈は黙って待ってやった。

 グラスを空にして、アルコールの熱いため息を吐いてから、ウェイは再び語り出した。

「バレットをどう使うか。忠誠心も無い男を中心に戦争はできん。そこで、私は敵対勢力同士で争うようにしたのだ。例えASHが失敗しても、こちらに害はないからな。だが、バレットは思っていた以上に上手くやってくれた。作戦は成功だ」

「そうみたいだな。今は日本人も中国人もピリピリしてる。しばらくは台湾人にかまう暇もなさそうだ。なら、どうしてそんなにも強いカードを自ら捨てる?」

 カードを捨てる――ASHの情報を八課に流すということ。久慈の質問を聞くと、ウェイはぼそりと、「若いな」と呟いた。

「どんなに良い手が出来ても、次のゲームには使えない。そして、バレットはたまたま私の手元に入ってきたジョーカーに過ぎない。私はゲームに勝った。ここが引き際だろう。そして引くのなら、次に相手が使うかもしれないジョーカーを残しておくのは危険だ」

「だから、ジョーカーを八課に処分させようとしている……か」

「そういうことだ。私はジョーカーも八課も敵にまわすことなくゲームを終える」

 それきり、ウェイは黙り込んだ。これですべて話したと言わんばかりに。

 久慈は大体において納得したが、一つだけ気になっていることをたずねた。

「ウェイ、おまえは同胞を守るために戦っていると言ったな?」

「そうだ。ただ、それだけのためだ」

「しかし、おまえは僕達が探そうとしている男を消した――あれは台湾人だな?」

「そうだ。もう隠す必要もないだろう。あれは台湾人で、私の部下だ」

「同胞を守るために、同胞である部下を犠牲にするのは、かまわないのか」

 彼はウェイが八課と取り引きをするために。八課の進路を断つために殺された。殺したとすれば、やったのは間違いなくウェイだろう。

 同胞殺しの疑惑を向けられたウェイは、腕時計を見て薄く笑みを浮かべた。

「ゲームにはイカサマが付きものだ。イカサマは相手がカッとしているときに、さりげなく混ぜるのがコツだ――あの男は少し前に台湾へ向けて出発したよ。生きたままな」

「おまえは……そいつを逃がすために、自分で囮になったのか……」

 久慈が唖然としてたずねる。手下を逃がすために、ウェイは自らが囮となって時間稼ぎをしたというのだろうか。 

 だが、ウェイは静かに首を横に振って、久慈の考えを否定した。

「取り引きのついでだ。他に手がなければ殺していた」

「おまえの手札、まだまだ調べてみる必要がありそうだな」

「私を気にしている暇はないだろう。私のゲームは終わったが、君達はまだ途中だ。いらないカードを捨てて、必要なカードを引いた――それだけのことだ」

 そういうと、ウェイは机の上に一万円札を置いて席を立った。

 リノスは断ったが、ウェイの「ただ酒は趣味じゃない」という言葉に引き下がった。

 ウェイが店を出ようとすると、レジナが歩いてきてドアを開けた。

「気が利くな。美人が送り出してくれるとは」

「少しぐらい優しくもするさ。どうせすぐ、誰かに殺されるじいさまだ」

 睨みながら言うレジナだったが、ウェイは怯むどころか、にこりと笑ってみせた。

「それなら、地獄でも君に会えるな――君も私も、天国へなど行けるわけがない」

「残り時間は少なそうだが、今から頑張れば天国に行けるかもしれんぞ?」

 レジナの嫌味を聞くと、ウェイの笑みが冷たいものに変わった。

「斑鳩の娘、教えてやろう。地獄へは誰でも行けるが、天国への行き方は誰も知らん」



 ウェイと「ビハイブス」で取り引きをしてから、五日が経った。

 今は、「呼び出しの場所と日時が決まったら連絡する」という、ウェイの言葉を信じて待つしかなかった。狡猾な男だが、利害が一致してる限りは信用していいと、久慈は判断した。

 少なくとも、その間にASHによる事件は起きていない。おかげで、悠斗は久しぶりに何事も無い生活を満喫していた。朝は学校に通い、夕方からは「ビハイブス」で過ごす。

 電車が動いているうちに帰宅し、美悠と同じ時間に眠れるのは幸せなことだった。

 また、「ビハイブス」では待機命令しか出ていないため、悠斗はその時間でリノスから格闘術(ナイフ格闘を含む)を教わっていた。地下の空き部屋を貸してもらったのだ。

 レジナに格闘を教えたのもリノスだったようで、その教え方は上手かった。悠斗はASH特有の身体能力の高さも手伝ってか、五日でそれなりの形を身につけることが出来た。

 なぜ、リノスがそんなにも格闘術に詳しいのかをたずねると、「お嬢様の護衛でもありますから」という答えだった。レジナに護衛が必要なのか、悠斗には疑問だったが。

 悠斗に小さな事件が起きたのは、取り引きから六日目の夕方。放課後のことだった。

 授業を終えて帰ろうとすると、悠斗はクラスメイトの女子に声をかけられた。

「ねえ、玖藤君。教室の前に妹さん来てるよ」

「美悠が?」

「うん。兄がいたら呼んでいただけませんか? って」

「そっか、ありがと」

「うん。それじゃ、早く行ってあげて」

 女子は教室の入口で、そこにいるであろう美悠と少し話してから、玄関へと向かった。

 女子がいなくなってから教室を出ると、廊下にはふてくされた表情の美悠がいた。

「美悠、待たせたな……って、どうした?」

「今、お兄ちゃんもうすぐ来るからね、って頭撫でられた」

「え? ああ、さっきの……で、頭撫でられるのがそんなに嫌だったのか?」

「そうじゃなくて……馴れ馴れしいっていうか……お兄ちゃん、あの人と仲良いの?」

「あの子? いや、普通のクラスメイトだけど」

「ふーん……ずいぶんにこにこしてたけどなあ……妹にまで優しくしちゃってさー」

 美悠がじとっとした目で悠斗を睨む。

 悠斗には、美悠が不機嫌になっている理由がよくわからなかった。

「何が言いたいんだ……んで、何か用があったんだろ?」

「あ、そうそう。お兄ちゃん、セセリ姉が学校休んでるって、知ってた?」

「セセリさんが?」

「うん。最近、学校で見なかったから、どうしたんだろうと思ってたんだけどさ。先生に聞いたら、体調崩して学校休んでるって。お兄ちゃん、何か聞いてる?」

「休んでるって、何日ぐらいだ?」

「えっと、今日で四日目だって」

「四日……? それはちょっと長いかもな……」

 悠斗は、自分がセセリの誘いを断ったことが原因なのではないかと考えた。しかし、それにしては時期がおかしい。悠斗が断った直後ならともかく、あれから何日も経っている。

 それにセセリの性格からして、そんなことで学校を休むとは思えなかった。

「――いや、休んでる理由は聞いてないな」

「そっかあ……セセリ姉、手術してからは落ち着いてたけど、やっぱり心配だね」

「うん、そうだな」

「お見舞いは……ちょっと気まずいか。電話ならいいかな?」

「携帯なら大丈夫だろ」

「じゃあ、ちょっとかけてみる」

 そういうと、美悠は携帯を取りだしてセセリに電話をかけた。校内ではあるが、放課後ならば携帯の使用はそんなにうるさくない。

 美悠はしばらくコールしていたが、セセリはなかなか電話に出ないようだ。

 十コールほどで、美悠はあきらめて電話を切った。

「駄目みたい。まさか、入院とかじゃ……ないよね?」

「どうだろうな……こんな言い方もなんだけど、もし大事なら、こっちにも連絡は来るんじゃないか? そうじゃなければ、何か別の理由があるのかもしれない」

「東儀の家はお金持ちだからね。いろいろあるのかなあ」

「しばらくは様子をみるしかないだろ。それでも欠席が続くようなら、また考えよう」

「そう……だね。うん、わかった。美悠、セセリ姉が大丈夫なようにお祈りしておくよ」

 美悠は真面目な顔をして、手を胸の前で組んだ。

 彼女なりに、セセリのことを真面目に心配しているようだ。

「祈るって、何に祈るんだ?」

 悠斗が冗談半分でたずねると、美悠は「うーん」と考えてから、笑顔で答えた。

「やっぱ、神様かな。セセリ姉が無事でありますようにって、神様に祈るよ」

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