三章
三章
翌朝、悠斗はいつもの時間に眼を覚ました。
昨夜はバイトが無かったので、美悠と同じ時間に眠った。久しぶりのことだ。
「お兄ちゃん、顔色いいね」
「そうか?」
「うん。やっぱり、ちゃんと寝たからかな。これからは、そういう生活できるの?」
「どうだろうな。新しい仕事がどうなるか、まだわからないから」
「ふーん……これからはさ、一緒に寝られるといいね」
悠斗は、飲んでいた賞味期限切れのインスタントコーヒーを吹き出した。
「一緒にって……子供じゃないんだから……」
「ちーがーいーまーすぅー。同じ時間に寝られるといいねってことですぅー」
「ああ、そういうことか……そうだな、それはいいな」
「でも、お兄ちゃんがいいって言うなら、一緒に寝たいな」
悠斗は食べていた賞味期限切れのコンビーフを床に落とした。ちなみに賞味期限切れの食材は、美悠には食べさせていない。
「だって、お兄ちゃんは美悠に甘えてもらえるのが嬉しいんでしょ?」
「美悠は俺に甘えすぎなんじゃなかったのか」
さすがに、いつまでも妹にからかわれるはシャクだったので、ピシっと突っ込んでおく。
「照れちゃってぇ。ま、いいや。仕事は遅くなるものだと思っておくね」
「そうしてくれ。もしかしたら、また朝方の生活になるかもしれないから」
「りょーかい。無理しないでね。美悠もできるだけお手伝いするからね」
二人は朝食を食べ終え、準備をして学校へ向かう。
そのまま学校へ行き、何事もなく授業を終えた。
授業中、眠っていない悠斗を見て、教師もクラスメイトも驚いていた。
「じゃあ、この問題は……めずらしく起きてる玖藤、できるか?」
「すいません。これまで寝てたからできません」
「……ま、そうだな。わからないことがあったら、聞きに来いよ」
と、こんな具合にいつもとは違った切り口で、しかし内容は変わらずに授業を終えた。
帰りのHRが終わり、さっさと校門を出たところで、ふと思う。
(セセリさん……今日は会わなかったけど、元気にしてるかな)
しかし、自分から彼女の様子を見に行くこともできず、悠斗は学校を出た。
学校内には、いつもどおり、様々な部活の音が重なって鳴り響いている。
背中越しにその音を聞いた悠斗は、自分にはまだ遠い風景だなと改めて思った。
「悠斗、学校帰りか」
「そうだよ」
「そうか。おまえは制服が似合うな」
「ありがとう」
「でも、ここに学生服で来るのはどうかと思うぞ」
学校から、直接「ビハイブス」へ向かった悠斗は、レジナに小言を言われていた。
家に帰るのも面倒だし、どんな格好をすればいいかわからなかったので、そのまま嘉神町へ向かったのだ。だが、やはり学生服ではまずかったらしい。
「悠斗様。ここは一応、バーでもありますから、学生服での出入りはちょっと」
リノスも、やんわりと悠斗の服装についてたしなめる。
悠斗は注意されても腹はたたない。ただ、気まずそうに制服をつまんでいた。
「どんな格好ならいいか、わかんなくて。それに俺、服なんてほとんど持ってないし」
「おまえ、ずっと嘉神町で仕事をしていたんだろ? どんな格好をしてたんだ?」
「仕事用のジーパンとTシャツ。あと、店のエプロン」
「冬は?」
「それにナイロンのジャンパー着てた。店長がくれたピンクのやつ」
悠斗には、オシャレという感覚がすっぽりと抜けている。
着られれば良い。冬には暖かければ、なお良い。それぐらいのものだ。
「それは困ったな。おまえの私服には期待できない――というか、見たくもない」
「そうですね。トレーナーにスウェットで来られても困ります」
「いや、さすがにそれはないけど……」
三人で言い合いをしていると、地下に続く扉から久慈が出てきた。
寝起きなのだろうか、髪と服は乱れたままで、ジャケットを肩にかけている。
「課長、おはようございます。何か飲まれますか?」
「コーヒーを頼む――玖藤、来てたか」
「おはようございます……って、今起きたんですか?」
「少し仮眠を取っていただけだ。で? おまえは学校の制服で何をするつもりだ?」
久慈がカウンターの端に座り、煙草に火をつける。
寝起きのせいで格好はぼろぼろだが、元がいいので、それはそれで絵になっていた。
「レジナ達にも言われたんですけど、八課って、どんな格好すればいいんですか?」
「スーツでいいだろう。僕のを貸してやる」
「待て、青秀」
席を立とうとした久慈を、レジナが呼び止めた。
「青秀、そのスーツやシャツに防刃、防弾機能は?」
「あるわけないだろ。僕のだぞ?」
「なら、駄目だ。衣服は防刃、防弾機能付きのものを用意しろ。それまで悠斗は使うな。おまえと違って、悠斗はフォワードなんだ」
「――そうだな、わかった。装備が来るまで玖藤は待機だ。それでいいか?」
「いいだろう」
レジナの物言いは偉そうだったが、当然の要求だったので久慈は反論しなかった。
「えっと……ありがとう、レジナ」
悠斗は、自分のために装備の改善要求をしてくれたレジナに礼を言う。
だが、レジナが装備を改善要求した理由は、悠斗の想像とは違うものだった。
「壊れたら困るものはケースに入れておく。それだけのことだ」
「……そうですか」
どうやら、悠斗はレジナにとって備品と同じ扱いらしい。
(やっぱり、俺は駒扱いなのか……?)
少なくとも、悠斗はレジナを意識しており、それを表に出さないように頑張っていた。
だが、それは悠斗の一方的な感情だったようだ。胸をなめさせておいて特に関係に進展無しとは。これが女性というものなのだろうか。レジナが特別なのだろうか。とにかく、この前血を与えたことはレジナにとって、本当に必要なものを与えるだけの作業だったらしい。
そんな悠斗の様子を見て、久慈がちょっかいを出してくる。
「玖藤、見るだけでも度を超すとセクハラだからな」
「そ、そんなことしてませんよ! 本人の前で変なこと言わないでください!」
そんな風にしてふざけていると、少しして木島が店に入ってきた。入ってくるなりジャケットを脱ぎ、どっかりとカウンターに腰を下ろす。
「あー、疲れた。リノス、ビール……はやめとくか。アイスコーヒーくれ」
リノスは「はい」といい、木島のためにアイスコーヒーを用意しはじめた。
「木島、休む前に報告を」
「はいよ……課長さんは厳しいね。これが、今日の収穫」
木島が久慈に何やら書き込みのしてある用紙を渡した。久慈はしばらくそれに目を通し終わると、席を立って全員に声をかけた。
「よし、今日から八課は本格的な捜査に入る。捜査対象は、玖藤を殺そうとしたASHだ」
「っ……」
悠斗は体が震えるのを感じた。
美悠の名を知っており、自分を殺そうとした少年――恐らくはASH。
顔も見ていないが、その存在を思い返すと、悠斗は抵抗できない恐怖を感じた。
そんな悠斗の様子を察したのか、レジナが悠斗の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。お前はもうASHで、私もついている。簡単にはやられん」
そう言って悠斗を励ますと、また久慈の方へと向き直る。
レジナは目も合わさずに言ったが、その素っ気なさが逆に頼もしかった。
悠斗は一つ息を吐くと、姿勢を正して久慈の話を聞く体勢に戻った。
「――続けるぞ。玖藤を襲った少年……ASHと仮定しようか。ASHは玖藤を襲う少し前から嘉神町に現れて、殺人や暴行事件に関わっていたと見られている。また、現在もその手を緩めることなく、犯行を繰り返して逃亡中ということだ」
「課長。そのASHは何件ぐらいの犯罪を?」
「玖藤のを含めると、殺人が十二件に強盗傷害が二十件。また、犯人不明の窃盗事件がいくつか起きているが、これらにも関係があるかもしれん。木島、どうだ?」
「まー、わかってる限りの件数ってことです。発覚してない、または被害者に負い目があって隠してる事件も含めりゃ、件数は跳ね上がるでしょうな」
「絵に描いたような凶悪犯罪者ですね……」
法律や刑罰にうとい悠斗でも絶句する。罪の重さを計算する必要もないほどの悪人だ。
「そうだな、こいつは凶悪犯罪者だ。これまでのケダモノみたいなASHとは違う」
そう言った久慈の口調からは、なぜだか喜びすら感じられた。
「これまでのASHは、逃げることも考えずに暴れ回るケダモノだった。だから見つけるのは簡単だし、人を襲う以外の被害はなかった。しかし、今回のやつは、れっきとした犯罪者なんだよ。目的を持って人を殺し、傷つけ、奪い、逃げる。これは厄介だぞ」
「意志があるのなら、戦うにしても手強いだろうな」
レジナが言うと、久慈は「そうだ」と力強く頷いた。
「これまでに無い、難しい任務になるかもしれんが、頼むぞ。玖藤もな」
「自信はありませんが……頑張ります」
「前半はいらん。さて――」
久慈は自分の腕時計に目をやった。時刻は七時を過ぎたところだった。
「よし――そろそろだな。八課の定例会議だ。全員、すぐに地下の通信室へ」
「定例会議?」
何もわからない悠斗に向かって、久慈はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「秘密組織が通信をすると言ったら、相手はボスだと相場が決まっている」
「斑鳩大佐。八課、全員集合しました」
久慈が50インチほどもあるモニターに語りかける。少しするとモニターに初老の男性が映った。
初老の男性はダブルのスーツを着て、豊かな白髪を肩まで伸ばしている。
笑顔が想像できないような威厳のある表情が、尋常ではない威圧感を発していた。
「ご苦労」
モニターのスピーカーからから、斑鳩大佐の声が聞こえた。
低く、はっきりとした。決して大きくはないが、身体に響くような声だった。
(これが――斑鳩大佐――)
ブリーフィングのために、わざわざ通信室に集まった理由はこれだった。
この場にいない、八課のトップである斑鳩大佐から直接の指示を受けるためだ。
そのうち会うのかな、などと考えていた悠斗にとって、これは早すぎる機会だった。
斑鳩大佐はモニターの向こうから、こちらを眺めている。
どこかにカメラとマイクがついており、リアルタイムでやり取りしているのだろう。
斑鳩大佐の目が悠斗に止まると、彼は静かな口調で語りかけてきた。
「おまえが新しいASHか――玖藤と言ったな。私は御津姫 斑鳩。八課の最高責任者であり、オグマ式の研究を指揮するものだ。事情は久慈から聞いている。良く励めよ」
斑鳩大佐からの言葉に悠斗は焦ったが、すぐに「はい」とだけ返事をした。
斑鳩大佐は静かに目をつむるだけでそれに応えると、本題を話しはじめた。
「すでに知ってのとおり、嘉神町に新たなASHが出現し、治安を乱している。殺人の被害者はすで十を超えた。被害者のほとんどは暴力団と、中華マフィアばかりだ」
「そちらで掴んでいる情報ををいただけますか?」
「いつもどおり、暗号データで送っておこう。暗号の鍵は、すぐに届けさせる」
「了解しました」
「それでは、八課は全力にてASHを追い詰め、殲滅せよ。質問は?」
まるで軍隊に命令を出すような物言いは、まさに大佐と呼ぶにふさわしいものだった。
質問が許されたので、久慈が姿勢を正して、いくつかのことを訊いた。
「大佐、ASHを確保する必要はないのですか」
「無い。殺してかまわん。そのためのレジナと新入りだ。方法については問わない。多少の騒ぎであれば、こちらで何とかしよう」
「了解しました。最後に陳情があります。玖藤の戦闘用装備を支給していただけますか」
「いいだろう。すぐに届けさせる」
「ありがとうございます」
「他に質問がなければ、以上だ。八課の使命を果たせ――それから、レジナ」
「はい! お父様!」
名前を呼ばれたレジナは、待っていたとばかりに元気良く返事をする。このようなレジナを見るのは、悠斗にとって初めてのことだった。
まるで飼い主に名前を呼ばれた犬ように、レジナの顔は喜びにあふれていた。
「期待しているぞ。父の期待に応えてみせろ。励めよ」
「はい!」
レジナは背筋を伸ばし、先程よりも元気の良い返事をした。
斑鳩大佐は、悠斗の時と同じように、目をつむるだけでそれに応えた。
「――以上だ。通信を終了する」
そしてモニターは暗転し、スピーカーは沈黙した。
場の空気が緩み、悠斗は思わずため息を吐くと、久慈はそれを見て小さく笑った。
「玖藤、緊張したか」
「ええ、想像していたよりも威圧感があったというか」
「だろうな。普通はお目にかかる機会も無い人物だ。声を掛けられたのは自慢してもいいぞ。斑鳩大佐の信奉者に話せば、それだけ一目置かれる」
「そんなにですか……やっぱり、すごい人なんだなあ……」
悠斗の言葉を聞くと、レジナが自慢げな表情で話に入ってきた。
「すごい人だろう。私のお父様なのだから、当然だがな。しかし、悠斗も気に入られたようで何よりだ。たいしたものだぞ」
はしゃぐレジナを見た久慈が、馬鹿にするような口調で指を差す。
「ほら、な」
「なるほど……」
悠斗が苦笑いしながら納得すると、レジナは顔に「?」を浮かべていた。
全員で上に戻ると、久慈は待機命令を出した。捜査には斑鳩大佐からの暗号データが必要であり、それを読み取るための鍵が届くのを待っていたからだ。
一時間ほど待機を続けたところで、「ビハイブス」の扉が叩かれた。リノスは監視カメラで客人を確認すると、扉を開けて応対する。
外にいたのは真っ黒なスーツを着た大男で、大きな木箱を乗せた台車を押していた。
「遅くなりました。大佐からです」
男は懐から封筒を取りだして久慈に渡した。久慈は受け取ると、木箱を指差してたずねる。
「鍵は封筒の中だな? なら、その箱は?」
「八課への支給装備です。これの準備で手間取りました」
「なるほど……本当に、すぐ届いたな」
スーツの男は台車ごと木箱を置いて去っていった。
「リノス、開けてくれ。僕はデータを持ってくる」
久慈は封筒を開けながらリノスに指示を出すと、そのまま地下へと降りていった。
リノスはカウンターの下からバールを取り出し、破壊するように木箱をこじ開けると、中に入っている物資を一つずつ慎重に外に出して分け始めた。
「これが、お嬢様の替えの服――それから、こちらが悠斗様の装備です」
リノスが悠斗に差し出したものは、二着の黒いスーツと、同じく黒のインナーが数着。
インターは厚手のカットソーのように見えたが、ところどころがパットを入れたように盛り上がっており、凝ったデザインのように見えた。
リノスがスーツとインナーを手に取り、全体を触って確認する。それだけで大体は理解できたようで、説明をしてくれた。
「スーツ、インナーともに防刃、防弾仕様になっていますね。インナーの盛り上がっている箇所には、急所を守るように追加で装甲が入っています。軽いので気にならないかと」
「へえ……なんか、デザインも格好いいね。オシャレなヒーローみたいだ」
それを聞いたリノスは笑って答えた。
「機能性を追求すると、美しく見えるものですよ。それから、これも悠斗様に」
次にリノスが渡したものは、光沢のある青い刀身が特徴的な、二本のナイフだった。
一本はスタンダードな形のナイフ。もう一本はカーブがかかっており、引っかかりやすい形状で、刃は内側に付いている。例えるなら、猛獣の爪を長くしたような形をしていた。
リノスは箱に入っていた簡素な受け渡し書類に目を通す。そこには手書きで、各装備についての備考が記載されていた。
「そちらのナイフは、特殊チタン合金とカーボン素材で出来ているようですね」
「チタン? 本気か? チタンは折れず、砕けないが……その分、簡単に曲がるぞ?」
リノスの説明を聞いたレジナが、驚いた口調でリノスの持つ書類を覗き込む。
チタンはレアメタルとして珍重されており、軽く錆びない、丈夫ということで、身に付ける金属としては珍重されているが、何にせよ曲がりやすい。
ナイフとしてもいくつか存在はするが、やはりどれも曲がりやすかった。
リノスは書類に目を通し、その内容をレジナに伝えた。
「それを解決する合金ができたので作ったそうですが、宇宙船の部品レベルだそうです」
「また、「アメツラボ」が、どこかの研究所から技術を吸い上げたか?」
そういうレジナの着ている服も「アメツラボ」からの支給品であり、見た目からは想像もできないほどの防弾、防刃能力を備えていた。
リノスは、まあまあとレジナをなだめて書類の続きを読んだ。
「開発したのか持ってきたのかはわかりませんが、今回は自信作みたいですよ」
「自信作?」
「ええ、名前まで付いてますから――このナイフは「ニコラ」というセットだそうです。それぞれにも名前があり、ストレートなものが「フラメル」で、カーブの強いものが「ヴェロワ」というそうです……名前の由来は何でしょうか?」
リノスからナイフの名前を聞いたレジナは、鼻で笑った。
「リノス、それは錬金術師の名前だ。錬金術に成功したといわれる、錬金術師のな」
「錬金術師ですか?」
「そうだ。「ニコラ・フラメル」と「ニコラ・ヴェロワ」という、二人の錬金術師がいる」
「なるほど……だから、一組で「ニコラ」と呼ぶんですね。しかし、新素材の合金で作ったナイフに、希代の錬金術師の名前とは、シャレたことを」
リノスは感心していたが、レジナは呆れた顔でナイフを見て、こんなことを言い出した。
「君があるべき人間であろうと努力するならば、すなわち敬虔で温和で、寛大で、慈悲深く、神を恐れる人間であろうと努めるならば――君も私のように為すことができよう」
「お嬢様……それは何ですか?」
「これは錬金に成功した後に「ニコラ・ヴェロワ」が残した言葉だ。新合金や「オグマ式」を開発している「アメツラボ」の連中にふさわしい、謙虚な言葉だろう?」
レジナは「アメツラボ」の悪趣味さを馬鹿にするように、ヴェロワの言葉を語った。
「レジナ……よく、そんなことを知ってるな」
ずっと隣りでやり取りを聞いていた悠斗が、レジナの博識さに感心して拍手をする。
レジナは「やめろ」というように手を振り、悠斗の拍手を止めた。
「本で見ただけだ。それより悠斗、「ニコラ」とやらを持ってみろ」
「ああ、そうだな」
悠斗はリノスから「ニコラ」を受け取り、何度か振ってみた。
確かに軽い。同じサイズのナイフと比べたら、半分の重さしかないだろう。
「ちょっと軽すぎる気もするけど……大丈夫、使えそう。でも……なんでナイフ? 銃とかの方が強いんじゃないの?」
ナイフより銃の方が強いのでは? という当然の疑問に、リノスが答えてくれた。
「いいえ。強いASHなら、身体能力が生かせるナイフのほうが役に立ちます。銃はかわされますし、拳銃程度の威力ではASHに致命傷を与えられません」
悠斗は自分が銃弾を撃ち込まれたときのことを思い出した。
確かに痛みはすさまじかったが、すぐに回復した。至近距離で命中させても、あの程度だったのだ。動き回る相手に使うのは難しいかもしれない。
「拳銃じゃ倒せない相手……それと戦うのか……」
「悠斗様もお嬢様も、拳銃では倒せませんよ」
「そうなんだろうけど、現実感がなくて」
リノスは「現実感ですか」と笑った。
「そういう存在なんです、ASHというのは。従来のパワーバランスをくつがえす存在。戦う方法が確立されていない。だから、八課には常軌を逸した装備が与えられるのです。ASHにしか扱えない、試験的な装備がね」
「――実験台ですか、俺達は」
「試作品のテストはエースの仕事ですよ」
「なら、あっちのエースは何を使ってるの?」
悠斗がレジナを見る。彼女は、どんな武器を使っているのだろうか。
悠斗の視線に気付いたレジナは、得意そうな顔で答えた。
「私はおまえと違って格闘術を身につけているからな。この身体だけで十分だ」
「へえ……すごいんだな……」
悠斗が感心していると、リノスがそっと耳打ちしてきた。
「お嬢様の力と戦い方に耐えられる小型の武器がないんです。全部、壊してしまいました」
「あっそ……そりゃ、いらないな……ちなみに、このナイフも駄目なのかな」
「そんなちまちましたものは面倒だと言って捨てます、多分」
「あっそ……」
二人からの何ともいえない視線を浴びながらも、レジナは得意そうな表情をしていた。
悠斗が新しい装備をいじくっていると、久慈が数枚の紙を手に戻ってきた。
「よし、データが来たから説明を――玖藤、なかなか似合うな」
久慈が、黒いスーツの中に変わった形のインナーを着た悠斗を見て感想を言う。
「そ、そうですか? スーツなんて着たことないから、心配だったんですけど」
「そのいかれたデザインのインナーは、僕には似合わない」
「いかれたデザイン……」
悠斗は格好いいと思い込んでいた自分の装甲服をつまみながら、複雑な顔をした。
「学校の制服よりは何倍もマシだ。それでは、捜査の指示を出すから全員聞け」
全員が何となく久慈の側により、話を聞く体勢を取る。
リノスが、そっと悠斗の肩を叩き、「格好いいですよ」と慰めてくれた。
全員が自分の方を見ていることを確認してから、久慈は説明を始めた。
「対象のASHが、暴力団や中華マフィアばかりを襲っていると説明したな。その襲われた暴力団が、蔵鷹組の関係者ばかりであることがわかった。そこで、蔵鷹組傘下の組織である、平田興業に聞き込みを行う。ここは中国人とも仕事をしていたようだが、ASHの襲撃は受けていない。無傷だ。怪しい。フォワードは今から平田興業に聞き込みに行け」
フォワードというのは悠斗とレジナのことで、平田興業というのは恐らくも何も、確実に暴力団の名前だろう。
暴力団の事務所に行って話を聞いてこいと簡単に言う久慈に、悠斗は必死で抵抗した。
「ちょ、ちょっと待ってください。俺、そんな警察の捜査なんてできませんよ!」
慌てる悠斗を見て、久慈は「予想通りだな」という表情をした。
「玖藤、警察の捜査方法を使う必要はないだろう。手段は問わない。我々の特権や能力のすべてを考慮して、最善の方法を考えろ」
「い、いや……そんなことを言われても、わかりませんって……」
「わかった」
「レ、レジナ?」
レジナは悠斗とは逆に、即座に了解の返事をした。
悠斗がとまどっていると、リノスが助け船を出してくれた。
「人から話を聞いて、情報を集めるだけですよ」
「嘉神町の人間が、そんな簡単にしゃべってくれますか?」
悠斗の問いには木島が答えてくれた。
「そういうときにはよ、取引すんだよ。取引内容は金とか、ちょっとした見逃しとかな。金は二百万ぐらいまでにしとけ。あんまりやると調子に乗るから」
情報の見返りにお金を渡すのはわかる。しかし、その金額は悠斗の想像の二桁上だった。
「で、でも、犯罪絡みの重要な情報って、お金渡しても話してくれないでしょう?」
「そういうときは、こうやるんです」
リノスはポケットから何かを取りだすと、ゴトリと音を立ててカウンターに置いた。
それは、古くなった血がこびりついているカイザーナックルだった。
八課――やめたいなあ。
時刻は夜の九時。悠斗はレジナと共に、嘉神町のとある雑居ビルの前に立っていた。
郵便受けを見ると、目的の場所が確かに書いてある。
これからレジナと共に向かう場所――平田興業。
どうポジティブに考えたとしても、間違いなく暴力団の事務所だ。
「これ、一発目の仕事にしては、ちょっとなんかさ……」
悠斗は弱音を吐きながら、久慈の命令を思い出していた。
手段を選ばず、とにかく情報を集めてこい――
久慈もずいぶんと思い切った命令を出したが、すぐに了承したレジナも相当なものだ。
悠斗達は、すぐに「ビハイブス」を出ると、一直線に平田興業のビルに向かった。
「レジナってさ……こういうの、慣れてるの?」
平田興業の事務所がある三階に向かって、ためらいなく階段を上がっていくレジナに、悠斗は問いかけた。
「こういうのとは?」
「暴力団の事務所に押しかけて、ASHについて知ってること言えっていうようなの」
レジナは何も言わずに階段を上がっていき、平田興業のドアの前に着いた。
そして、ドアノブに手を掛けてから、ようやく悠斗の問いに答えた。
「初めてだな。これまでは青秀やリノスが見つけたASHを処理するだけだった」
「え? マジ?」
「マジ、だ。失礼する――む?」
レジナはドアを開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
「ま、そうだろな。とりあえずノックでもして、中の人と友好的に話を――」
誰でもすぐに入れるようになっている暴力団事務所など、聞いたことがない。
悠斗の提案を聞いたレジナは、頷くと一歩下がった。
「そうだな――失礼する!」
レジナがドアを蹴飛ばすと、派手な音を立ててコントのようにドアが奥に倒れた。
「え――?」
悠斗は突然の事態に、驚くことしかできなかった。
これがASHの力なのか。レジナって本当にASHだったんだ。俺もASHってことは、これぐらいできるのか。でもレジナ、ノックするって言ったじゃん、これノックじゃないし。
悠斗がそんなことを考えていると、中から雄叫びのような声が聞こえてきた。
「なんだオラァァァァ!」
「どこのもんじゃああぁぁ! こるぁぁ!」
レジナの中では、これがノックをしたあとの友好的な会話なのだろうか。
「レ、レジナ! どうするんだよ!」
部屋の奥から、いかにも強そうというか、怖そうな若者が数人出て来た。
それぞれ、手には武器を持っている――拳銃だ。
だが、レジナは拳銃に怯むことなく、そのまま奥へと歩いていった。
「待てや女こらぁ!」
チンピラの一人がレジナの肩に手をかける。
「おい、ここで一番偉いのは誰だ?」
「ああ? てめえ、ふざけて――」
言い終わる前に、レジナはチンピラを片手で投げ飛ばした。
チンピラは壁にぶつかり、そのまま気絶した。
「聞け! 私は殴り込みにのではない! 話を聞きたいだけだ!」
レジナが大声で、敵意は無いことを宣言する――すでに散々暴れている気もするが。
「う、嘘つくんじゃねえ! ぶっ殺してやる!」
レジナと平田興業のみなさんの間には、大きなみぞがあるようだった。
「ま、待ってください!」
「ああ? なんだ小僧! てめえも鉄砲玉か?」
「ち、違います! やめてください、っていうかやめた方がいいですって!」
「殴り込んできて命乞いかぁ!」
「いや、そうじゃなくて、今見たでしょう!? ドア吹っ飛ばしたの! 死にますよ!?」 「何言ってんんだクソガキコラ馬鹿言ってんじゃねえぞ! 死ねやコラァ!」
とうとう、切れたチンピラが発砲した――かに見えたが、レジナが銃を奪っていた。
相手からしてみたら、レジナがいつ動いたのかも、よくわからなかっただろう。
別に瞬間移動をしたわけではないが、そんなに速く動ける人間がいるとはチンピラ達も想像していなかっただろう。
「銃は無駄だ。私は、ちょっと話を――」
「な、なんだよ! こいつ! ふ、ふざけんな!」
それでもチンピラ達はあきらめずに、レジナに銃を向ける。
彼等の中では、何よりも銃が有利という考えがあるのだろう――普通は、そうだ。
数人に銃を向けられているレジナは溜息を吐くと、持っている銃を見つめた。
「いいか、しっかりと見ておけよ」
何をする気だとチンピラ達が注目する。
レジナは見せつけるように、銃口を自分の腹に向けると――発砲した。
タン、と。短い破裂音が響く。
次に、誰もが倒れるレジナを予想していたが、それは起こらなかった。
それどころか、レジナは続けて、自分の腹にオートマティックの拳銃を連射した。
五発ほど撃ったところで、レジナは拳銃をチンピラ達の足下に投げて返した。
「銃は無駄だ。私達は話を聞きたいだけだ。誰か、答えろ」
自分にに発砲をしたにも関わらず、平然としているレジナを見て、チンピラ達は例の雄叫びをあげることすらできずに、ただ立ち尽くしていた。
「偉いのは誰だ? 久慈ぐらい偉いのでいい。悠斗、どいつだ?」
「え、えっと! 暴力団に課長はいない……かな?」
悠斗もレジナの行動を見て呆気に取られていたが、ASHであることを知っているので、すぐに落ち着くことができた。
「あのー……そういうことなんで、どなたかお話を……」
悠斗が恐る恐る周囲を見渡すと、その中の一人が何かを呟いた。
「ア……アッシュだ……」
その一言を、レジナも悠斗も聞き逃さなかった。
アッシュだ、と言った男に向かって、レジナはつかつかと歩み寄る。
「おまえ、ASHのことを知っているな」
レジナが男に顔を寄せてたずねる。
顔を寄せて話すのは、レジナの癖のようだった。
「し、知らない!」
「知らない? 知らないのなら、おまえ達に用はないので――こうする」
レジナは、壁に手の平を付けたまま、握りしめた。
まるでカステラを握りつぶすように、壁がぼろぼろと崩れていく。
「本当に知らないか? 忘れているだけじゃないか? 思い出してもいいんだぞ?」
「お……思い出し……た……」
レジナのわかりやすい、しかし逆らいがたい脅迫に男は屈した。
「は、話す……だけど、俺から聞いたってことは言わないでくれ……」
「わかった」
「そ、それから……うちの連中は外にやってくれ……て、てめえら! 俺が何かしゃべったとか、上には絶対言うんじゃねえぞ! 言ったら、この姉さんに、おまえ、アレだかんな!」
「そうだな、アレだな。というわけで、全員出ていってもらえるか」
レジナが平田の「アレ」に賛同すると、平田興業の人間は逃げるように外へ出ていった。
「さて、何から聞くべきかな……悠斗、任せるぞ」
「お、俺?」
「おまえ、何もしてないじゃないか。これぐらいやれ」
それは何かしようとする前にレジナが無茶を。と、悠斗は言いたかったが、ここまできてしまったものはしょうがない。悠斗は反論をせず、尋問を始めた。
「あー……わかった。それじゃあ、まずお兄さんの名前と立場を教えてもらえます?」
「お、俺は平田興業の社長をやってる、平田だ」
「社長……ね。じゃあ、ASHに関して知ってること、全部話してもらえます?」
「う、上が襲われるなんて……思ってなかったんだ……俺達は裏切られたんだ……」
「裏切られた……? どういうことですか?」
「そ、それは……話せるようなことじゃない……」
「あの、簡潔に話してもらえます? じゃないと」
悠斗がレジナをちらりと見ると、レジナは察して平田に手を伸ばした。
「どうした? 話しにくい理由でも? ああ、ベルトがきつそうだな。楽にしてやろう」
レジナは平田のベルトを掴むと、革の部分を簡単に引きちぎった。
「ひいぃぃ! ち、違う! 話したくないわけじゃなくて、いろいろあってぇぇ!」
平田は泣きそうな声を上げながら、目で悠斗に助けを求めた。
「大丈夫ですよ。すっきりと話してくれれば、これ以上何もしませんから」
悠斗は笑顔で言いながら、ああ、これが映画や小説に出てくる、良い刑事と悪い刑事かと納得していた。レジナとは打ち合わせもしていないし、レジナもそんなことは考えていなかっただろう。レジナの天然を上手く利用した形だが、効果は抜群のようだった。
完全に怯えた平田は、とにかく知っていることを話そうと必死になっていた。
「お、俺はASHに仕事を依頼しただけだ!」
「仕事を依頼……?」
「ああ……二週間ぐらい前、アジア人が、成功報酬でいいから殺し屋を雇わないかと言ってきて……安かったし、成功報酬だというから駄目元で頼んだら、本当に成功したんだ……あとは報酬を受け取りにきたアジア人に金を払って、それきりだ……」
「待ってくれ。ASHを殺し屋として使ったのか?」
「そ、そうだ……だが、直接は会ってない。俺が会ったのは紹介者のアジア人だけだ」
悠斗はレジナと顔を見合わせた。
ASHが目的を持って犯罪を起こすどころの騒ぎではない。殺し屋として働いたのだ。
「前例がないな……」
レジナがぼそりと呟いたのを、悠斗は聞き逃さなかった。
大変な事件なのだろうが、とにかく今は平田から情報を引き出すしかない。
悠斗は、変わらぬ落ち着いた口調で尋問を続けた。
「今、嘉神町で暴れているASHが襲っているのは、あなた達の上にある蔵鷹組と中華マフィアなんだけど、平田さんが殺しを依頼したのって、どっちですか?」
「き、決まってるだろ! ちゅ、中国人だけだ!」
「理由を教えてもらえますか?」
平田は話したくなさそうだったが、ごねられないように悠斗は強い口調で問い詰めた。
すると、平田は観念したのか、小声ではあるが答え始めた。
「ま、前から……中国人と組んで密輸の仕事をしてたんだ……武器、薬、盗難車……何でも運んでて、俺達も噛んでたんだが……中国人が旨いところを全部持っていきやがるから……」
「その恨みで――違うな。その仕事を奪いたかったのか」
レジナが露骨に不愉快そうな表情で平田にたずねた。
「そうだ……やり方もルートもわかってる……だから、あいつらさえいなくなれば、俺が人を集めて同じことをやれる……そうすれば、俺の評価も上がって……」
「――クズが」
「ひ、ひぃっ! やめろ! 俺を殺してもしょうがないだろっ!」
レジナが汚いものを見る目で睨み付けると、平田は可哀想なほどに怯えた。
「おまえはクズの中のクズだ――裏社会でルールがどうのと言いたくはないが――」
「レジナ、やめなよ」
今にも殴りかかりそうなレジナを悠斗が制した。
レジナが怒りに任せて殴れば、情報が聞けなくなる。死んでしまうからだ。悠斗が心配しているのは、そのことだけであり、平田の身ではない。
「それで、殺し屋が仕事を成功して、それまではよかった。けれど、そのあとに上の組織である蔵鷹組が、ASHに襲われたんですよね?」
「あ、ああ……そこがわかんねえ……報酬もちゃんと払ったし、何が理由なのか……」
「その後、殺し屋を紹介してくれた仲介人には会いましたか?」
「いや、報酬を払ってからは一切会ってねえ……連絡先も繋がらなくなっちまった……」
平田はASHを直接見たことはなく、仲介人とも連絡は取れないらしい。だが、手がかりはその仲介人だけだ。何としても、そいつを見つけないといけない。
悠斗は平田の話で気になる箇所を、細かくたずねてみることにした。
「ASHの仲介人ですけど、アジア人って言いましたよね?」
「あ、ああ……多分、中国人だと思う」
「どうして中国人だと?」
「日本語が下手でよ……話し方の感じが中国人みたいだった……」
「中国人みたいっていうと……わたし、おまえ、殺し屋、紹介する……みたいな?」
「そ、そう。そんな感じだ。中国人は見慣れてるしな……間違いないとは思うんだが……」
中国語には接続詞がないため、日本語に慣れてない中国人は、単語をつなぎ合わせたようなしゃべりかたになる。
「じゃあ、帽子とかはかぶってました? 顔は見せていましたか?」
「帽子はかぶってねえ。顔もちゃんと見た。たいした特徴のない、痩せた短髪の男だ」
顔を見せて殺し屋の紹介をし、そのあとに裏切ったということになる。
「――わかりました。一応、連絡先を教えてください。また何か聞くかもしれません」
「か、勘弁してくれ! ただでさえ、うちには蔵鷹組を裏切った疑いが出てるんだ! これ以上、面倒なことは――わ、わかったっ!」
断りたかったのだろうが、それもレジナの一睨みで簡単に崩れた。
悠斗は平田の連絡先を聞くと、それが嘘でないことを確かめてから部屋を出た。
部屋から出るとき、外で待っていた蔵鷹興業の人間達に、「お疲れさまでした!」と、頭を下げられたのが印象的だった。
悠斗達は雑居ビルから離れると、「ビハイブス」へ向かって歩き始める。
レジナは平然としているが、悠斗はどうしても、レジナの腹部に目がいってしまう。
平然としているが、自ら拳銃で腹を撃ったのだ。気にならないわけがない。
「レジナ、お腹大丈夫?」
「お腹? ああ、撃ったところか。この服は丈夫でな。お前の服と同じ、「アメツラボ」製の防護服だ。見ろ、多少汚れてはいるが、穴は空いていないだろう?」
レジナが自分の腹部を指差す。確かに、穴は空いていなかった。
服も黒が基調となっているため、ほころびも遠目からは目立たない。
「少し衝撃はあったがな。問題はない」
普通、弾丸が皮膚を切り裂かなくても、余程しっかりした防弾装備をしていなければ、強い衝撃が体内を襲う。場所が場所なら、骨や内臓にダメージがいってしまうだろう。だが、その点についてはまったく心配する必要はないらしい。
「大丈夫ならいいけど……すごいね、「アメツラボ」の作った装備は」
「最新技術のかたまりだからな。一着で二千万円はするらしい」
「に、にせんまん……」
金と技術に糸目を付けなければ、厚手の服にしか見えない防弾装備が可能なのか。
「開発費も乗ってるから怪しい金額だがな。悠斗の服も、それぐらい丈夫なはずだぞ」
「じゃあ、これも……二千万か……」
悠斗はこれまで、一万円の服すら着たことがなかった。
この先、悠斗が一生の間に使う洋服代すべてを合わせても、二千万には届かないだろう。
「大丈夫だ。お父様は八課を大事にしてくださる。それぐらいの金は、何ともないさ」
レジナが自慢げに斑鳩大佐のことを語る。
それは、少女が大好きな父の話をする表情と、なんら代わりがなかった。
(レジナでも、こんな表情を見せるんだ)
悠斗がいろいろな気持ちを込めてレジナを見ていると、レジナは気付いて苦笑した。
「なんだ? 変な顔をして」
「レジナはお父さんのこと、大好きなんだなーって」
悠斗が皮肉っぽくいうと、レジナはおかしそうに笑った。
「何か、おかしいか?」
「おかしくはないよ。家族思いなのはいいことだ」
本当は少し悔しかった。誰にもなつかないような美しく、強い少女。その少女が素直に好意を寄せる御津姫斑鳩。普通の少女でも、子供でなければこんな素直に好意は表さないだろう。
「悠斗、もしかして妬いているのか?」
「そんなことないよ」
レジナに気持ちを見透かされたようでばつが悪かった。相手の父親に嫉妬するなんて、自分でもバカなことだと思っている。
「拗ねるな。悠斗も大切だ。これからの心がけ次第で、もっと大切になるかもな」
「はいはい、俺も同じだよ。そのうち、レジナが大切になるかもな」
変に格好つけてしか言い返せない自分を、悠斗は恥ずかしく思った。
「ははっ! 悠斗は話すのが上手いのかと思ってたが、案外下手だな」
悠斗はこの前から薄々は感じていたが、レジナは悠斗をからかうのが楽しいようだ。
レジナは悠斗のような少年とまともに接したことがない。だから、からかうようなコミュニケーションしか取り方を知らないのだ。周りの大人がやっているようなやり方しか。
ただ、それでも悠斗と会話して感じるものは八課のメンバーとは違うことにレジナも気づいていた。自分でもあまり理解していないだろうが、レジナは楽しかった。
「そうだな――少し、寄り道して帰ろうか。今日は外で食事をしたい」
「はぁ? 突然、どうしたんだよ」
悠斗は、レジナが気まぐれを起こしたかと警戒していた。誘われたことは内心嬉しかったが、表には出さなかった。ヤクザの事務所に乗り込んで平然と暴れるエキセントリックな女性のお誘いは素直に喜べない。
だが、レジナに他意はなかった。ただ思いついたことを、そのまま悠斗に伝えていく。
「考えてみたら、私は同年代の知人は悠斗が初めてだ。顔見知りなら嘉神町にたくさんいるが、年上ばかりなんだよ。リノスも青秀もそうだ。同年代の人間とこうして出歩いたり食事をした経験がないからな。ふと、それをしてみたいと思っただけだ」
「同年代って、レジナはいくつなの?」
「私か? 十七歳だ。おまえと同じ年だぞ」
「へえ……そうは見えないというか……何歳にも見えないな」
「なんだそれは。よくわからないが失礼だな」
「いや、見た目は年上っぽいんだけど、中身は年下みたいなところもあるし」
「ふうん……それは褒めてるのか? けなしてるのか?」
「どっちでもないよ。それで、同い年の知り合いができたから遊びに行きたいと」
悠斗がそう言うと、レジナは意外そうな顔した後、少し考えてから言った。
「遊ぶ――うん、きっとそういうことだ。それに、嘉神町の案内もしてやらないと」
「俺、嘉神町で働いてたんだから、土地勘はあるよ」
「おまえの地図と、八課で必要な地図は違うということだ」
「まあ……そうかも、な」
「よし、それじゃあ――」
「何が、よし、だ。給料泥棒め」
悠斗達の背後から、聞いたことのある声。久慈だった。
「か、課長? どうしてここに?」
「不安だから様子を見にきたんだ。飯ぐらい食っても構わんが先に報告をしろ、ガキども」
久慈は怒っているというよりも呆れた顔をしていた。
ガキども、という言葉どおり、子供の使い程度にしか考えていないのかもしれない。
「じゃ、じゃあ報告をします……ここで、いいんですか?」
「歩きながらだ。僕についてこい。大声を出すな、使う言葉にも気をつけろ。これも練習だ」
「ええと……はい、わかりました」
悠斗は平田から得た情報を久慈に伝えた。そして、「紹介者のアジア人」について、悠斗は自分なりの推理を伝えてみた。
「紹介者の男なんですが、日本語に中国語の訛りがあって、中国人を襲わせるとなると、台湾人じゃないかと思うんです。中国人が同胞を襲わせるよりは可能性が高いかと」
悠斗の推理を聞くと、久慈は「なるほど」と納得し、賛同してくれた。
気を良くした悠斗は、続けてもう一つの推理を伝える。
「それから、紹介者の男は顔を見せていました。すでに国外へ逃げているかもしれません。顔を見せて、それだけ危ないことをして、そのまま日本にいるとは思えません」
悠斗は自信ありげに語ったが、久慈はなぜだか爪を噛み始めた。
「玖藤……それも悪くない推理だが、大事なことを忘れているな」
「大事なこと、ですか?」
「その男が単独犯なら、危機を回避するために国外脱出しているだろう。だが、何かしらの組織に属しているなら、組織が危機を回避するための手は、他にもある」
「殺してしまえばいい、ということだな?」
レジナの言葉に久慈は頷いた。個人ならば、守るべきは自分の安全。だが、組織が守るべきは組織の安全。つまり、どんな方法でも男が捕まらなければいい。死人に口無しだ。
「殺す……か……そうか……」
悠斗は、その発想ができなかった自分を恥じ、その発想に恐怖した。例え悪人だとしても、仲間は守るものだと、甘い考えをしていた。
「そこまで大胆なことをする台湾人の組織――あいつしか、いないな」
何か思い当たる節でもあるのか、久慈は爪を噛みながら憎々しげに言った。
爪を噛む仕草は神経質そうな久慈に良く似合っていた。悪い方でだが。
「青秀、爪はやめろ――それで、誰か思い当たるのがいるみたいだな」
レジナに癖を注意されると、久慈は舌打ちをして、手を口から離した。
「日本人と中国人が争うと得をする台湾人――思いっきり怪しいのがいる」
「ほう? 誰だ? 今から行くか?」
犯人に近づくのが楽しいのか、レジナが急かす。だが、久慈は首を横に振った。
「いや、こちらで少し調べてみる。今日はもう解散でいい。ご苦労だった――玖藤」
「はい、なんでしょう?」
悠斗は駄目出しでもされるのかと身を固くしていた。
しかし、久慈の口から出てきた言葉は、それとは逆のものだった。
「今日の任務は、おまえとレジナがまともにお使いをできるか、試すだけのつもりだった。しかし、おまえは予想以上に使えるようだ。そこのお姫様と違ってな」
わざわざ引き合いに出されたレジナだったが、完全に久慈をシカトしていた。久慈の嫌味に慣れているのか、聞こえないようになっているらしい。
「紹介者の特徴を聞いてきたのは収穫だった。今後の捜査でも期待しよう」
「あ、ありがとうございます!」
まさか自分が捜査で役に立てるとは思っておらず、返事にも気合いが入る。
悠斗は簡単に喜んでしまう自分が少し嫌だったが、やはり誇らしい気持ちにはなる。
「ご褒美だ。小遣いでもやろう。これでレジナと飯でも食ってこい」
「え、いいんですか?」
久慈は財布から札を二枚抜き出し、悠斗に渡した。
申し訳なさそうに、しかし迷わずに受け取った悠斗は、札を見て驚く。
「これ、千円札じゃなくて一万円札ですよ?」
悠斗は真面目な顔で札を返そうとするが、久慈はため息をついて、それを押し返した。
「ガキめ。間違ってないから取っておけ。それじゃあな。また明日の夕方、オフィスで」
久慈は財布をしまいながら、「ビハイブス」の方向へと戻っていった。
「太っ腹だなあ……それじゃ、俺はこれで」
悠斗はさっさとポケットに二万円を入れて帰ろうとしたが、二枚の札は、あっという間にレジナに取られてしまった。レジナは、ひらひらと札をあおいでいる。
「夕食は、少し豪華にしようか」
「ま、待てレジナ! 返してくれ! 俺はそれで生活を!」
「食事に行く約束だっただろう。青秀のせいで少し遅くなってしまったが」
そういえば食事に行こうとしたところを久慈に捕まったのだと、悠斗は思い出した。
「わかった。食事には行こう。だけど、全部使うのはちょっと勘弁してくれ」
「けちる男は嫌われるとリノスも木島も言ってたぞ?」
レジナは札を一枚だけ、悠斗に返した。
「そして、私の取り分で今日の食事代を出してやろう。わたしは優しいだろ?」
レジナのおかげで情報を聞き出せたのは確かだし、ここでレジナと親交を深めておくのは決して悪いことではない。悠斗は観念して、レジナの食事に付き合うことを決めた。
「そうだな。じゃあ、先輩のごちそうになろうかな」
「うん、そうしろ。何が食べたいか言ってみろ」
「なんでもいいよ。俺、好き嫌いないし」
「なんでもいいは一番面倒くさいと木島が言っていたぞ」
「じゃあラーメン」
「もっと良いものにしろ」
「じゃあお寿司」
「良い店を知らん」
「じゃあ……レジナのおすすめは?」
「肉だな。焼いた肉。ステーキでも焼き肉でも、焼いた肉が一番良い」
「それ、レジナが肉食いたいだけだろ」
「ははっ、そうだな」
レジナは笑いながら、悠斗の先を歩き始めた。
悠斗は機嫌の良いレジナの背中を見つめる。
黒い服に身を包み、人間を超えた力を持つ、銀髪の美女。
彼女が昼間、普通の街を歩いていれば、目を引きすぎてしまう。
しかし、夜の嘉神町ならば、どんな人間がいても、「まあ、いいか」で済ませてくれる。
それは、この危険な街が持つ数少ない長所だった。
陽の下に、人の中に、そして生活の中にレジナの居場所はないだろう。
だから、こんな深い森にも似た街を、夜中にこっそり歩くのだ。
溢れ出した現実が、幻想に変わってしまったこの街を。
(まるで魔女だな)
ならば、魔女に命をもらい、付き従う自分は?
「どうした? 怖いのか? 手でも繋いでやろうか?」
数メートル先から、レジナが悠斗に手を差し出す。
「やめとくよ。握りつぶされそうで、そっちの方が怖い」
「ふふ、すぐ治るさ」
悠斗が小走りでレジナに追い付くと、二人は並んで歩き始めた。
「で、どんなお店に連れてってくれるの?」
「さて、どこにしようかな。まあ、ゆっくり決めればいいさ。夜は長いんだ」
悠斗はわざとらしく、やれやれという表情をしてから、レジナに付いていった。
悠斗は月が沈むまで、レジナと一緒に嘉神町で過ごした。
レジナのおすすめだというステーキ屋で食事をし、深夜まで開いている喫茶店でお茶を飲んで、悠斗の顔見知りの客引きと話し込み、夜のお仕事向けの派手な洋服屋をのぞき込み――とにかく、普通に遊んだ。気づけばレジナよりはこういうことに慣れている悠斗がエスコートしていた。レジナは何をしても楽しそうに付き合ってくれた。話の内容は嘉神町の店の話や噂話。それから八課の人達のこと。レジナは特にリノスを話しをした。リノスは厳しいだとか、料理は何でも作れて全部美味しいだとか、すごく強いだとか。ほとんどが自慢話だった。
本当に遊んでいるだけ。聞きたいことはいろいろあったし、レジナが悠斗のことをどう思っているのかも知りたかった。でも、それは聞かなかった。今はこうして二人で遊ぶ方が大事なことだと思ったから。
でも、だからこそ。それは二人にとって――大切な時間だった。
悠斗もこうして遊ぶのは久しぶりで、レジナは初めてだった。
始発も動こうかというころ、二人は帰ることにした。
「悠斗、楽しかったぞ。また来ような」
レジナはそういって悠斗の頭をガシガシと撫でてビハイブスへ帰っていった。
子供だと言ってみたり、胸をなめさせてみたり、命を軽んじてみたり。レジナが何を考えているのかわからなかったが、今日、レジナと長い時間一緒にいて悠斗なりに理解した。
レジナに悪気はない。一人が好きなわけでもない。色々な経験が少なく、不器用なだけだ。
そう考えると、レジナと付き合うことに前ほどの抵抗がなくなっていた。
「で、いきなり朝帰りですか。スーツなんか着て。中に変な服なんか着て」
「いや、仕事が。スーツも変な服も仕事で必要なものでして」
「ふーん……なら、せめて連絡すれば良かったじゃん」
「しようとは思ったんですが、ちょっと忙しくてですね」
「電話する時間もないぐらい忙しい仕事って、どんな仕事なのか教えてくれる?」
「警察の仕事だから、内容を話してはいけないと言われていまして」
「ねえ、どうしてさっきから敬語なの? 本当に仕事なら自信持って言えば?」
「いや、それは美悠が怒ってるから、流れで」
「怒ってる? 怒ってないでしょ? 聞いてるだけ。なに? 怒られるようなことしたの?」
「いや、してないです。それはもう本当に」
結局、朝方に帰宅した悠斗は、正座で妹に説教をされていた。
まるで、「妻に浮気を追求されている夫」のようだったが、浮気をしたわけじゃないし、そもそも相手は恋人でも妻でもなく、妹だ。
八課が関わっているため、悠斗は具体的な言い訳も出来ずに、ただ説教を受け続けた。
この説教が終わったら学校に行かなくてはならない。
ああ。これが現実なのだ、素敵じゃないかと、悠斗は大切な時間を噛みしめていた。