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二章

二章


 悠斗は夢を見た。幼い頃の夢。一番つらい記憶。十年前のこと。

 家族で遊園地に行った帰り。とても楽しい一日になると、疑いもしなかった日のこと。

 駅のホームで電車を待つ玖藤一家の前に、刃物を持った男が――厚い筋肉に身を包んだ大男が現れて、わけのわからないことを叫びながら悠斗を斬りつけようとした。両親は悠斗に覆いかぶさるようにして盾となり、二人とも斬られて殺された。

 これが世界初のASH犯罪発生の瞬間だった。玖藤家を襲った男は麻薬中毒のボディビルダーでも、ヤケになったプロレスラーでもなく、暴走したASHだったのだ。

 次に男は美悠の足を掴んで投げ飛ばす。悠斗は動かなくなった両親の下から這い出して、泣きじゃくる美悠をかばうように、男の前に立ちふさがった。両親がしてくれたことを、自分が美悠にしてやる。それは当然のことだった。

 男はめんどくさそうに悠斗を見ると、そのまま殺そうとした。

 その瞬間、男の体が弾け飛び、男の体内が悠斗に降りかかった。

 男がうめき声を上げながら、ゆっくりと崩れ落ちる。男の背後には、ショットガンを構えた若い刑事の姿があった。彼は男が倒れても、弾を込めてはショットガンを放ち続けた。

 男の原型と弾がなくなったところで、若い刑事は到着した警官隊に指示を出し始める。

 返り血で全身を真っ赤にした若い刑事は、同じく男の血をかぶった悠斗の頭を撫でた。

「よくやった。君は妹を守った、立派なお兄ちゃんだ」

 そして、悠斗は若い刑事に抱きかかえられ、美悠と一緒に病院へと運ばれた。

 両親が死んだこと、美悠が歩けなくなったことを知るのは、それからすぐのことだった。

 この先、自分達はどうしたらいいのだろう。美悠の病室、彼女が眠るベッドの側で、悠斗はそれだけを考えていた。両親の死は悲しいが、美悠のために泣くわけにはいかない。

 だが、意外にもその問題はすぐに解決した。病室に一人の中年男性が入ってきて、悠斗達を引き取らせて欲しいと言ってくれたからだ。

 その裕福そうな中年男性は東儀と名乗った。彼こそが日本有数の製薬会社、「東儀製薬」の会長であり、悠斗より一つ年上の女の子、東儀セセリの父親だった。

 それから八年が経って、ASHが東儀製であることと、情報が漏れないように自分達は引き取られたのだということを知り、悠斗は東儀の家を出た。

 それからまた時間が経ち――時間が経って――悠斗は――



(あれ? 今って、一体いつで、俺は何をしてるんだ?)

 過去の夢が今の記憶に到達して、悠斗は目を覚ました。

 目に入ったものは、知らない部屋に知らないベッド、

(今って、いつなんだ? ここはどこで、どうして俺は眠っていた?)

 寒々しい灰色の壁に、ベッドと薬品棚。それから悠斗にはわからない設備の数々。

 悠斗が現状を把握するのにとまどっていると、部屋のドアが開いて人が入ってきた。

「お目覚めですか、玖藤悠人さん」

「え……ああ……」

「そうですか。それは良かった」

 それはどこかで見たような気のする、美形のバーテンだった。

「ずいぶんと長く眠っていたので心配しました。目覚めて、本当に良かった」

 バーテンが悠斗に水の入ったコップを持ってきてくれる。悠斗はそれを受け取ると、一気に飲み干した。ずいぶんと喉が渇いていたのだろう。爪の先にまで染みこむようだった。

 それを見たバーテンは、おかわりをたずねてきたが、悠斗は断った。

「あの、俺はどうしてここで寝てたんですかね? それに長い間眠っていたって、どれくらい寝てたんですか? 今って、いつなんですか?」

「……とりあえず、あなたの持っていた鴨ハムの賞味期限は切れてしまいました」

 鴨ハム。そういえば、店長にもらったはずだ。鴨ハムをもらって、店を出て――

「あ……俺、フードをかぶった男とすれ違って……何かされたような……」

 記憶が混濁しているのか、良く思い出せない。事故にでもあったのだろうか。

「ええ、相当なことをされましたね。そのせいで眠っていたんです。一週間ほど」

「一週間――え! 一週間!」

「ええ、一週間です。食用の鴨ハムが観賞用になりました」

 バーテンがポケットから鴨ハムを取りだし、ベッドの上に置いた。

「後で美味しいハムを切って差し上げます。まずは悠斗様に何があったかお話しましょう」



「簡単に言うと、悠斗様は殺されましたが、生き返りました。良かったですね」

 バーテンがにっこりと笑いながらすごいことを簡単に言ってくれた。

「そうですね。本当に良かったですね。あの、バーテンさん、説明する気あります?」

「バーテン……そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はリノスと言います。呼び捨てで結構です。以後、お見知りおきを」

 リノスと名乗った男は、うやうやしくお辞儀をした。

「リノスさん……じゃなくて、リノスね。どうもご丁寧に」

 変わった名前だが、恐らくは「夜のお名前」だろうと、悠斗は気にしなかった。

「で、リノス。話の内容がまったく理解できないんだけど」

「ええと、悠斗様はバイトが終ったあと、嘉神町の裏路地で通り魔にあったんです。お腹を見事に切られて、出血多量と内臓損傷で死を待つばかりでした」

「ああ……そうか、そういえば……」

 フードをかぶった男の横を通り過ぎたとき、何かをされて倒れた。

 腹部への熱い感覚。流れ出す血の感覚。倒れたときの地面の衝撃。

「そうか……俺は通り魔にやられたのか……」

「ええ、しかもASHの」

「ASH――俺を襲ったのは、ASHだったのか?」

「恐らく、ですけどね。ASHにしてはおかしな点があるんです。ASHは悠斗様を殺そうとしていた。しかし、とどめは差さずにその場を去った。頭のおかしなASHに捕まったらそのままミンチにされて終わりっていうのが普通ですから――聞いてますか?」

 悠斗は頭を抱えながら、片手をあげて話を聞いていることをアピールした。

「ああ……聞いてる……そうか……また、ASHか……」

「また? 前にもASHに出会ったことが?」

「俺の両親は世界初のASH犯罪による被害者なんだ。俺もその場にいたけど、助かった」

「そうでしたか。それはつらいことを聞いてしまいました」

「いいよ。どうも俺はASHに狙われやすいらしい」

 悠斗は、短い人生の中で、二回もASHに襲われるという自分の運の無さに呆れた。

 だが、リノスの考えは違うようだった。

「ASHに二回襲われて生き延びた人間は、悠斗様だけでしょうね。非常に運がいい」

「ま、そういう考え方もあるか……いやいや。襲われた時点で最悪なんじゃ」

 悠斗や自問自答していたが、リノスはパンと手を叩いて、それを中断させた。

「さて、ここまでは悠斗様が殺された話です。これから、生き返った話をします」

「生き返った話? それは、リノスが手当をしてくれたからじゃないのか?」

「違います。「あと三分で死体」を蘇生できる医療機関は、世界中のどこにもありません」

「えっと……よくわからないんだけど……とりあえず、ここは病院じゃないの?」

「違います。それについても説明する人間を呼んでおいたのですが……ああ、来ました」

 リノスが部屋の入口に視線をやると、三人の人間が入ってきた。

 スーツに眼鏡のインテリ風な若い男に、体格のいい中年の男――それから、銀髪の美女。

「あ――」

 彼らには見覚えがある。通り魔に襲われて、地面に倒れたあとに見たはずだ。

 倒れたときの記憶はぼんやりとしているが、銀髪の美女の顔は、はっきりと覚えている。

(彼女の顔は、ずいぶん間近で見たような気がする――それにしても、綺麗な女性だ)

 これまで悠斗が見たこともないような美女だった。彫刻のように美しい――というよりは彫刻に命を与えたと言ったほうが早い。小さな頭に高い等身は骨格レベルで普通の女性とは違うのだとすぐにわかる。長い銀髪、整いすぎた顔に切れ長の目、真っ白な肌に金色の瞳。背は高く、スタイルの良い体を軍服のような黒い服で包んでいる。硬そうな衣服の押さえつけにも負けず、胸は大きく自己主張していた。

 悠斗が銀髪美女の胸や顔に忙しく視線を走らせていると、彼女の方から声をかけてきた。

「玖藤悠人、ちゃんと生きているか。良かった」

「え、ええ……おかげさまで……あの、あなたは……?」

 悠斗がたずねると、彼女は、その大きな胸を張って答えてくれた。

「私は、御津姫(みつひめ)レジナ。レジナと呼べ。で、この眼鏡が――久慈――名前は忘れた」

 眼鏡と呼ばれたスーツの男は、レジナに舌打ちをしてから自己紹介をした。

「僕は久慈青秀(くじせいしゅう)という。わりとめずらしい名前だろ? バカじゃなければ一度で覚える」

「んで、俺は木島真澄(きじまますみ)だ。よろしくな、玖藤君」

 最後に木島と名乗った中年の男が手を差し出してきたので、悠斗はそれを握り返した。

「ど、どうも」

 御津姫レジナ、久慈青秀、木島真澄。それにリノスを加えて四人。彼らは全員顔見知りのようだが、一体どういう集まりなのか、悠斗には皆目見当が付かない。

「リノス、どこまで話した」

 レジナがリノスに対して、命令するようにたずねると、リノスもうやうやしく答えた。

「はい。悠斗様が襲われた前後の状況について。本題はまだです」

 高圧的な物言いをするレジナと、それに従うリノス。まるで、姫と従者のようだ。

 レジナは「さて」と言いながら、悠斗の寝ているベッドに座った。

「悠斗、死にかけたおまえを助けたのは私だ。私の血を飲んで、おまえは助かった」

「はあ……そうですか……」

 突然そんなことを言われても、さっぱり理解できない。とりあえず返事をしておく。

「悠斗は私の血を飲んで――ASHになったんだ」

「――は?」

「悠斗はASHになって、超再生能力を得たから、こうして生きているんだ」

「いや、ちょっと待って――」

「私の血を飲ませた人間はASHになるんだ。適性があれば、だけどな。私はおまえに口移しで血を飲ませてASHにしたんだ。覚えているか?」

「あ――」

 意識が途切れる寸前。レジナに膝枕をされて、そのまま彼女の顔が近づいてきて――

「キス、された」

「した」

「何か、飲んだけど――あれが、レジナの血?」

「そうだ。それで悠斗はASHになった。ちなみに、私もASHだ」

「レジナがASHで――俺もASHに? いや、そんなの嘘だろ? 全部作り話だろ?」

「む――あれを嘘だ、作り話だと言われると、女としては少し悲しいな」

 レジナは悠斗の唇をつまんだ。

「一応、あれが私のファーストキス、だったのだが」



「レジナは特別なASHでな。こいつの血を飲めば、適性のある人間はASHに変わる。寝ている間に君の遺伝子を調べさせてもらったが、人並み外れた肉体再生能力と身体能力は間違いなく身についている。再生能力は、君の傷が治ったことで証明――おい、聞いているのか?」

 久慈は地べたに転がっている悠斗が、真面目に話を聞いていないのが気に入らないようだ。

 ASHになったのだと伝えられて取り乱した悠斗は、リノスに押さえつけられていた。

「ふざけんな! そんな話、信じられるか!」

「致命傷が完治したのだけどな。当人は眠っていたから、実感はないか――レジナ」

 久慈は腰からオートマチックの拳銃を抜いて、レジナに渡した。

 突然、拳銃を渡されたレジナは不機嫌そうな顔をする。

「私か? 私がやるのか?」

「僕は荒っぽいことが苦手なんでね」

「ふん、こんなものに何の力がいる」

 レジナはそういうと、弾を装填し、悠斗のふとももに銃口を当てて――撃った。

「ぐあっ!」

 ふとももに焼けるような衝撃が走る。初めて経験する銃弾の痛みに、悠斗は声を上げた。

 肩を叩くような気軽さで、レジナは悠斗の足を撃ったのだ。

「あーあ、痛そ」

 うずくまる悠斗を見ながら木島が呑気に言う。彼もどこかおかしいのだろう。

「貫通力が高い弾だから安心しろ。骨も狙っていないし、弾は抜けているはずだ」

 レジナは久慈に拳銃を返しながら、悠斗の顔も見ずに平然と言ってのけた。

「お、おまえ正気かっ! いきなり、人を撃つなんて!」

 悠斗は間接が外れても構わないとばかりにリノスを振りほどいて立ち上がると、レジナの胸倉を掴んで締め上げた。

 しかし、レジナは落ち着いて悠斗のふとももを指差す。

「見てみろ」

「ああっ!? 足は穴が空いてるよ! おまえが撃ったから――って……あれ?」

 悠斗は撃たれた場所を触るが、傷も痛みもない。血と焦げで汚れたズボンに穴が空いているだけだ。

「あれ……いや、銃で撃たれたよな……?」

「普通、銃でふとももを撃たれたら立てない。そんな傷がすぐに治ったんだ。これでわかっただろう? おまえが普通の人間ではなく、ASHになったということを」

 レジナは悠斗の手を振り払い、実験結果を伝えた。

 人の足に穴を空けるのも、胸倉を掴まれて怒鳴られるのも、レジナには些細なことだった。

「なんなら、もう一度撃とうか? 青秀、貸せ」

 レジナが久慈に手を差し出すが、久慈は「もういい」と、それを止めた。

「撃たせたことは謝る。ただ、事実を認めさせるためにやった。許せ」

 真面目な表情で謝る久慈を見て、悠斗もようやく頭の整理がついた。

「俺、本当に……いや、認めるよ……今の俺は……本当にASHなんだな……」

「おまえには、死ぬか、ASHとなる以外に選択肢はなかった。そうだな? レジナ」

 レジナは久慈の問いかけに頷くと、言葉を付け加えた。

「私は、おまえに生きたいか、と聞いた。おまえは生きたいと答えたから、血を与えた」

 生きたいか――今、もう一度問われても答えはイエスだ。

「助けてもらって感謝してるけど……俺はASHになったのか……妹に何て言えば……」

「そのことだがな、おまえは遺伝子違法改造で逮捕だ」

「――は?」

 カチャッと、悠斗に手錠がはめられた。

「はい、確保」

 手錠をはめたのは木島だった。

「いや、ちょっと。え? 俺、被害者ですよね? 襲われた方ですよね?

 状況が理解できない悠斗に向かって、久慈は衝撃的な言葉を投げかけた。

「遺伝子の違法改造はASH犯罪を引き起こす可能性が高いので、警察が保護する」

 久慈と木島は懐から手帳を取りだし、開いて悠斗に見せた。

「僕は警視庁公安八課の課長、久慈青秀だ。君を遺伝子違法改造の容疑で逮捕する」

「同じく警視庁公安八課、木島真澄だ」

 二人はそれ以上、何も言わない。レジナとリノスは黙って見ているだけだ。

 悠斗は状況を理解していなかったが、ただ手錠に重さと冷たさに怯えて必死の言い訳をした。

「お、俺は気がついたらASHになってただけで……あ、それなら普通の人間に戻れば!」

 ASHになったのならば、元に戻ることも出来るのではないか。いや、悠斗は元に戻るしかなかった。元に戻りたかった。

 だが、そんな悠斗の希望を、久慈はあっさりと打ち砕いた。

「無理だ。君のASH化を解除するキャンセラーなど、現時点で存在しない」

「そ、それじゃ! 俺が逮捕されても、出て来られないんじゃないのか!?」

 ASHであることが罪なら、ASHである限り解放されることはない。そして、ASHから人間に戻れる方法は無いというのだ。

「察しがいいな。君は秘密裏に裁かれたあと、研究所で一生を過ごすことになる。この後、妹には一生会えないかもしれんな。ああ、家の事情は調べさせてもらった。足の悪い妹一人を置いていくのは辛いだろうが、これが現状の法律だ」

 妹の話をされた途端、悠斗の表情が、みるみると絶望に満ちていく。久慈は薄く笑いすら浮かべながら悠斗を眺めていた。

「そんな……じゃあ、何のためにASHになってまで生き延びたんだよ……ただ、モルモットが欲しかっただけかよ……なら、あのまま見殺しにしてくれれば良かったんだ……」

「ふ――」

 今にも泣き出しそうな悠斗を見てレジナが笑う。

「私は、おまえが生きたいと言ったから助けたんだぞ?」

「研究所から出られない人間が、生きてると言えるのか!」

 悠斗はレジナを睨み付けて叫ぶと、レジナは初めて動揺した顔を見せた。

「――そうだな。生きているとは、言えないかも、な」

 何かを噛みしめるかのように、言葉を吐き出すレジナ。

 これまでの不遜な態度からは想像もできない姿だった。

「あ、いや――ごめん。変なこと言った」

 レジナはASHだ。悠斗の言葉に、何か思い当たることあったのだろう。

 悠斗はレジナの事情を知らないが、気持ちの良い言葉ではなかっただろう。

「謝る必要はない。とにかく、研究所送りはおまえの望んだことではない。そうだな?」

「あ、ああ……もちろん」

 当たり前だ。悠斗の望む、「生きる」というのは、これまで通りの生活をすることだ。

「悠斗、おまえは死ぬか、ASHになるかを選択してASHになった。ここで、新たにもう一つの選択をしてもらおう」

「もう一つの……選択?」

「そうだ。選択しろ悠斗。私と八課に力を貸し、ASHと戦うか――研究所へ行くか」

「ASHと……戦うって……俺が?」

「そうだ。我々八課はASHと戦う組織だ。ASHである、おまえの力が欲しい」

「そ、そんな……ASHと戦うだなんて……」

 考えもしないことだった。恐れ、憎むだけだったASHと、自分が戦うだなんて。

「素質はあるはずだ――リノス、悠斗の遺伝子データは、戦闘向きだったな?」

「はい。水準以上の超身体能力、超再生能力があります。十分、戦えます」

 リノスは何を見るでもなく、レジナの質問に答えた。

「戦うための素質はある。方法は教える。まずは覚悟をみせろ」

「ASHと……戦う……」

 悠斗は自分の手を何度か握りしめてみた。そして、撃たれたふとももを撫でてみる。

(俺は、本当にASHと戦えるのか)

 ASHと戦うというのは、これまで考えもしないことだった。

 ただ、増えていくASH犯罪に巻き込まれないよう注意し、祈るだけだと思っていた。

 それが、自分の手で、ASH犯罪を止められるかもしれないのだ。

 自分の両親と妹の足を奪った、憎いASH犯罪を。

「悠斗、おまえは生きたいんだろう? 妹のために。自由が必要なのだろう?」

「――ああ、そうだった」

 レジナの言葉で、悠斗は簡単なことに気がつく。そうだ、悩むことなどなかった。

 ASHと戦うとか、それはあとで考えるべきこと。

 生きるためにASHとなり、生きる目的を果たすために――

「わかった。研究所送りが避けられるなら、八課に入ろう」

「ああ――よろしくな」

 悠斗が了承したのが嬉しかったのが、レジナは笑顔で手を差し出した。

「なんだかな……」

 冷たく見えるレジナが握手を求めてくるなんて、可愛いところがあるなと悠斗は照れた。

 そして、悠斗がレジナの手を取ると――そのまま、力任せに引き寄せられた。

「おわっ!」

 反動で転びそうになったところをレジナに受け止められ――というか、抱きしめられた。

「な、なんだ! 御津姫さん! 何するんですか!」

「御津姫さん、なんて呼び方は気に入らないな。レジナと呼べ――ほら、呼んでみろ」

「レ、レジナ?」

 それを聞くとレジナは悠斗の頭を自分の胸に埋めるように、頭から抱きしめられた。

「それでいい。よろしくな、悠斗――私の子供」

「はあぁーー? 子供ぉーー?」

 思いも寄らぬ発言に、悠斗は叫んだ。

 しかし、悠斗の顔はレジナの胸に押しつけられているため、声がひびくことはなかった。

 そして悲しいかな。男の悠斗にはレジナの胸から顔を放すという考えもなかった。

久慈はその様子を見ながら、「ま、予定通りだな」と呟いた。



「レジナ、俺はおまえに生んでもらった覚えはないぞ」

 悠斗は、親ではないレジナに向かって、大変に親不孝な発言をしていた。

 レジナの胸からは、さすがに顔を放している。

 そして、レジナの謎の発言。「私の子供」の真意を確かめようとしているところだ。

「私は、死ぬことが決まっていたおまえに、新しい命を与えたんだ」

「……そうだな」

「なら、命を与えた私が親で、命をもらったおまえが子供じゃないか」

「……そう、なのか?」

 わかるような、わからないような理屈だが、さも当然のような口調で言うので、悠斗は強く反論できなかった。意見を求めようと久慈やリノスのほうを見てみたが、二人とも、「さあ?」という感じで首をかしげるだけだった。

「他にも親子だという理由はあるんだが……すぐにわかるだろう」

「待てレジナ。それ、大事なことなんじゃないのか? 今、言った方がよくないか??」

「言っても理解しにくいだろうからな。何事も知るには適したときがあるということだ」

 さっさと話を切り上げようとするレジナに悠斗は食い下がった。

「それは……俺にとって悪い話か? 良い話か?」

 また、とんでもない選択を迫られたりしてはたまらないと、悠斗は警戒していた。

 レジナは少し考えると、何かを思いついたような表情をして悠斗に質問をする。

「――悠斗、おまえは私を見て欲情するか?」

「ばっっ! おまっ! 何をごほっっ!」

 悠斗は動揺してむせた。これでは、「欲情します」と答えているようなものだ。

「そりゃするだろ。姫さん、美人だしおっぱいでかいしなあ。若い奴にはたまらんだろう」

「いやっ、ちがっ! そんなことは!」

 木島の軽口を否定する。態度でばれているとしても、口に出して認めるのは避けたかった。

 プライドとか、そういうことではない。ただ、恥ずかしいだけだ。

「お嬢様。悠斗様はお嬢様を魅力的だと感じていますが、恥ずかしがっています」

 悠斗の気持ちは、リノスが正確に代弁してくれた。頼んでもいないのに。

「ん、そうか。それならよかった。なら、もう一つ聞いておこう」

「な、なんだよ……」

「悠斗は私のどこに一番欲情する?」

「俺は尻かな」

「私は足ですね」

「僕はレジナみたいに派手なのは好みじゃない。ま、普通は胸じゃないのか?」

「若いうちはな。年食ってくると目線が下になってくるんだこれが」

「胸の大きな美女の足、というところがたまらないのです。足の魅力は複合的要因なのです」

「お前らには聞いてない。静かにしていろ。で? 悠斗は」

 好き勝手レジナを論評する三人を黙らせて、レジナは再度悠斗に尋ねる。

「なんだ? 俺の何を知って、何をするつもりなんだ?」

 そう言って必死にかわそうとするが、悠斗はちらりとレジナの胸元を見てしまった。

 あれだけ自己主張しているのだ。若い悠斗に気にするなと言うほうが無理だ。

 しかし、その迂闊な視線の動きをリノスが見逃すはずもなかった。

「お嬢様。悠斗様は、お嬢様の胸が気に入っておられるようです」

 またもリノスが、しなくていい代弁をしてくれた。

「リノス! 俺はそんなこと一言も!」

 悠斗の抗議などは素知らぬ顔で、レジナは自分の胸を持ち上げていた。

「そうか、やはり男は胸が好きなのだな。私のは大きいから目立つし、良く見られるが」

「お嬢様、お耳を――」

 リノスがレジナに耳打ちをする。どうせろくでもないことだろうと、悠斗は警戒した。

「なるほど……それで喜ぶのか……わかった。リノスは物知りだな」

「恐縮です」

 レジナはリノスとの内緒話を終え、満足そうに頷いている。

「そういうことだ。悠斗、楽しみに待て」

「ああ、楽しいことなんだ……不安しか残ってないんだけど……」

 本当はちょっと期待もあるのだが、それを言えるわけはない。

「あー、レジナ。終ったか? 僕も話をしたいんだが」

 付き合ってられないとばかりに、久慈が冷ややかな声でレジナに声をかける。

「いいぞ。私の話は終った。上にいるから、あとで来い」

 そういうと、レジナは部屋を出ていってしまった。

 リノスも久慈と悠斗に軽く頭を下げて、レジナのあとを追って出ていく。

「まったく……態度だけは、立派に女王様だな」

 久慈が悪態を吐きながら、細いメタルフレームの眼鏡をなおす。

 浮世離れしていて高圧的なレジナに女王様とはお似合いだと、悠斗は思った。

 しかし、久慈も高圧的ではないだろうか。浮世離れはしていないが。

(ようするに、同族嫌悪か?)

「何を見ている。言いたいことでもあるのか、玖藤」

「いえ、何でもないです。どうぞ話を、久慈さん」

「久慈さんではない。これからは課長と呼べ」

「わかりました、課長」

 まさか、この年齢で人のことを課長と呼ぶことになるとは、悠斗は思ってもいなかった。

「よろしい。では、まず君の契約内容を確認しておこう。次に八課の説明をする」

 久慈は、悠斗に八課での活動時間や報酬の話をした。

 普段は学校が終ってから夜中まで。ただし、事件が起これば八課を最優先するため、家にも学校にも行けないことを覚悟しておけ、ということだった。とにかく八課以外の時間は普通に過ごしてよいというので、悠斗はそれを了承した。

 また、八課の報酬も悠斗と美悠が生活するに十分な額を払ってくれるということだ。

「あの、具体的にいくらぐらいで?」

「危険手当や活躍による加算。逆に被害を出したり、職務態度によっての減算はあるが、とりあえず基本給として八十は出そう」

「はちじゅう?」

「とりあえずな。試用期間というやつだ。おまえが有用だと判断できたら、更に増やそう」

「ご、八十万……毎月……」

 酒屋のバイトでは、どう頑張っても五十万を超えることはない。それが、八十万だ。

「不足か?」

「いえ! 十分です! 俺が有用だということをお見せします!」

 八十万という金額を聞いて興奮する悠斗を、久慈は冷ややかな目で見た。

「ふっ……命とプライベートを賭けて八十万では、わりに合わんがな」

 しかし、悠斗はその冷たい言葉に動揺することはなかった。

「それでも、俺は稼がないといけないですから」

「妹――玖藤美悠か。悪いが、寝ている間に調べさせてもらったよ」

「それは別に……すぐわかることですから」

「ま、そちらも出来る限り便宜を図ってやろう。おまえが生きていれば、適当な大学か公務員にねじ込んでやることもできる」

「それは……何というか……」

「不正は嫌いか?」

「いえ、必要ならお願いすると思います。美悠には内緒で」

「ふふっ――その姿勢、嫌いじゃないぞ。なあ、木島?」

「潔癖すぎるよりはやりやすくていい。若造が何を知った風に、とは思いますがね」

「俺は妹のためなら手段を選びませんよ。自慢できることじゃないのはわかってます」

 悠斗が反論すると、木島は肩をすくめた。

「それがわかってりゃいいさ。後はお前に墓まで持ってける度量があるかだけだ」

「犯罪者は告白を抑えられないってやつですか」

「また、ずいぶんと知ったような口を聞くな」

 悠斗が意を得た返事をしたので、久慈は少し驚いた表情をした。

「嘉神町で働いてると、酔っ払いが懺悔してくるんですよ」

 自分の犯した罪を一人で抱えているのには耐えられない。良心の呵責というやつだ。

 しかし、身内に話すわけにはいかないので、飲み屋や、見知らぬ人間にからむ。

 悠斗は酒屋で、何度かそのような経験をしていた。

「なるほどな。職場が嘉神町というだけはある。とりあえず、契約内容に問題はないな?」

「はい。お願いします」

 大体のことはわかった。ASHと戦うのだろうから、危険なことは承知だ。

 悠斗は何が起きても驚くまいと決意を込めて、返事をした。

 久慈はそれを見て内心ほくそ笑んだが、悠斗は気付かなかった。

「次に八課の設備について。本部はこのビル。ここは地下の救護室で、オフィスは一階だ」

「え……? ここって、警察署……とか、ですよね?」

「違う。警察と公安は違うんだ。ま、八課は公安からも半分独立した組織だけどな」

「へえ……じゃ、ここってどんな場所なんですか?」

「あとでわかる。まず、地下の設備から簡単に説明しよう」

 このビルは地下二階まであるが、普段は地下一階までしか使わないということだった。

 地下一階には悠斗が寝ていた救護室や通信室、それに各人の部屋があるらしい。悠斗の部屋があるかはわからないが、特に欲しいとは思わない。

 それよりも、次に久慈が説明した部屋の方がよほど気になった。

「一番奥にある部屋が武器庫だ。スポンサーのおかげで、いろいろとそろっているぞ」

「武器庫って、銃とかあるんですよね? まあ、ASHと戦うには必要か……」

「普通の人間が銃を持っても、そう簡単にASHには勝てん。八課の武器は、銃よりも強いASH。つまりは、レジナとおまえだ」

「俺とレジナが、銃よりも強力な武器ですか……」

「頼むぜフォワード。俺みたいなオッサンを前に出さないでくれよ」

 自分が銃よりも強力な武器だと言われたら、どう思えばいいのだろうか。

 悠斗は、まだ知らぬ自分の能力を恐ろしく感じた。

「余計なことは考えるな。考えれば不安が増えるだけだ」

「そう……ですね。そうします」

「それが出来れば、たいしたものだけどな」

「出来ますよ。これでも、そこそこ苦労してるんです」

「ふっ……やっぱり生意気だな。地下の説明は終りだ。オフィスに行くぞ、付いて来い」

 久慈に続いて、悠斗も部屋を出る。廊下には、説明どおりにいくつかの部屋があった。そのまま廊下を歩き、突き当たりにある階段を登ると一階へのドアが見えた。

 ただ、そのドアだけは他のドアと様子が違う。

 悠斗が寝ていた救護室や、途中に見かけたドアは鉄製の無骨な作りで、いかにも丈夫そうだったのに、このドアだけは鉄製ではあるものの、美しい花の彫刻がされていた。

 久慈はドアに手をかけると、開ける前に一度動きを止めて悠斗に忠告をした。

「それじゃ、オフィスに行くぞ――何が見えたとしても、ここがオフィスだからな」

「え? それってどういう――」

 久慈は悠斗の疑問に答えることなく、ドアを開けてオフィスへ入っていった。

 そして、部屋の中程にあるスツールに腰をかける。

「――なんだ、これ」

 八課のオフィスだという部屋を見て、悠斗は唖然とした。

「どうした? 早く入ってこい」

 久慈がスーツの内ポケットから煙草を取り出しながら悠斗を呼ぶ。

「いや、だって――」

 悠斗は更にオフィスと言われる場所を見回した。

「これ――バー、じゃん」

 カウンター、酒瓶の並ぶ棚。落ち着いた色合いの壁紙とフロア。

 普通のバーと違うのは、照明がやたら明るいことか。それこそ普通のオフィスのように。

「いらっしゃいませ、「ビハイブス」へようこそ」

 カウンターの中から美形のバーテンが声をかける。

「リノス――本当に、バーテンだったのか」

 これまで浮いていたリノスの服装だったが、元々はここがあるべき場所だったのだ。

 悠斗の問いに、リノスは営業用の微笑みで「はい」と返事をした。

「えっと、リノスは……八課のメンバー……なの?」

「そうですよ。ここにいるのは、八課のメンバーだけです。もちろん、お嬢様も」

 リノスが示す壁際のボックス席をレジナは一人で占領し、くつろいでいる。

 悠斗の姿を見ると、けだるそうに軽く手を挙げて挨拶した。

「課長……あの、これってどういう」

「木を隠すなら森の中――森に溶け込むなら、木になるのが一番いい」

「木? この、洒落たバーが?」

「いいから、外に出てみろ」

「外……」

 そういえば、このビルがどこにあるのかは聞いていなかった。これだけの設備があり、秘密組織の本部なのだ。恐らくはどこか郊外――最悪、山の中だろうか。

(どうやって通勤するんだよ……引っ越せって?)

 悠斗は不安になりながらも、久慈に言われたとおりに入口のドアを開けた。

 外の空気が流れ込んでくる。景色が目に飛び込んでくる。音が耳に入ってくる。

 どれもこれも、悠斗が知っているものだった。

「ここ……嘉神町……じゃん」

「森に溶け込むには、木が一番」

 久慈は煙草に火を付け、リノスにコーヒーを二杯注文した。

「驚き終わったら、こっちへ来い。派手なオフィスだが飲み物には困らん。酒以外もな」



「職場が近くて助かるだろう?」

「近すぎて驚きましたよ」

「ASH犯罪が起きるのは嘉神町ばかりだからな。ここが一番良い」

「他の地域……例えば県外とかで発生したらどうするんですか?」

「出張、というのはあるかもしれないが、今のところはない」

 悠斗と久慈は、リノスの入れたコーヒーを飲みながら話をする。大変に美味しい。ちなみ

 久慈のいうとおり飲み物には困らないだろう。ずらりと並ぶ酒は飲めないけども。

「それで、このビルは買ったんですか? もしかして」

「そのとおりだ。元々、バーが入っていたビルを買い取って改装した」

「バーは残したんですね……」

「一階を派手に改装工事して閉め切ってたら逆に怪しいからな。地下が使えればいいのだから一階は表向きは会員制のバー。実際には休憩室兼食堂みたいなものだと思ってくれれば良い」

「休憩室って……木島さん、酒飲んでますよ」

 木島はカウンターの隅で一人ビールをあおっている。勤務時間はどうなっているのだろう。

「仕事をきちんとすれば何をしてても構わん」

「そうですか……でもカモフラージュなら、なんでリノスはわざわざバーテンの格好を?」

 カウンターの中で、おかわりのコーヒーを入れているリノスが答えた。

「バーテンまで込みでカモフラージュなんですよ。私だけは近隣と付き合いもあります。あとは好きなんです。こういうのが」

「好きと言われても……本当に警察組織ですか、ここは。何か金持ってるし」

「金ね……それじゃ、その辺を説明しようか。煙草、吸うぞ」

 吸ってもいいか? ではなく、吸うぞ、というのが久慈らしい。

 久慈が煙草に火をつけると、リノスが音も立てずに灰皿を置く。

 飲酒可、喫煙可、バーテン付きの職場に勤める公務員がいるとは、悠斗は考えもしなかった。

 ゆっくりと一口、煙草を吹かしてから久慈は話をはじめた。

「まず、公安八課は表面上、存在しない。公表されているのは七課までだ。その七課がASH犯罪を担当している」

「え? もうASH担当の人達がいるんですか? じゃあ、八課は?」

「七課は予防と解決を目的としている。普通の公安の仕事だ。だが、八課はASH犯罪の積極的、超法規的解決を目的としている。手段は選ばず先手を打つ。武力あり。資金は組織の規模にしては多すぎるほどもらってる」

「なるほど。そりゃ、黙ってたほうがいいですね」

 まだ犯罪を起こしていない人間を、方法を問わずに捕えようというのだ。場合によっては捕えるどころでは済まないだろう。武力あり、なのだから。

「権力の横暴だと騒がれるからな。普通は許されない」

「でも、被害が出てからじゃ遅いですもんね。ASHは殺人事件ばかりですし」

「そういうことだ」

「その理屈はわかります。存在を秘密にするのも仕方ないし、大事な役割です」

「そうだろう」

「で、その大事な八課が、ここの五人だけってことはないですよね」

 ここが本部だというなら、他に職員がいても良さそうなものだが。

「五人だぞ」

 本当に五人だけだった。

「――五人で、何をしようっていうんですか」

 五人で、しかも本職っぽいのは久慈だけ。残りはバーテンと、ASHのお嬢様だ。

「ついさっきまでは四人だったが、それでも成果は挙げてきた」

「そんな少人数で、ちゃんとした活動が出来るんですか?」

「ASH犯罪は、ほとんど嘉神町で発生する。僕達の担当は現時点で嘉神町と周辺だけだからな、何とかなるものさ。それに要請すれば使える人間もいるし、メンバー以外にも協力してくれる人間はいる。主要メンバーが四人というだけだ」

「まあ、それなら……でも、それって警察っていうより、セキュリティみたいですね」

 セキュリティというのは、探偵とボディーガードを合わせたような職業で、嘉神町では重宝されている。自身や店を守るため、揉め事や荒事の解決、人の捜索などのために雇われるが、有名で実績のあるセキュリティは料金も高いので、「依頼料が被害額より大きかった」なんていう冗談みたいなこともある。

 セキュリティに似ていると言われた久慈は、自信ありげな顔をみせた。

「セキュリティとは違うさ。セキュリティの連中が街中でドンパチしたら、理由や結果がどうあれ逮捕だが、僕達はもみ消せる。理由や結果がどうあれ、な」

 理由や結果とは、どんなことだろうか。例えば、例えばの話ではあるが――

「例えば、民間人を――」

「理由や結果はどうあれ、だ。先に言っておく。八課は正義の味方じゃない――悪の敵だ」

 悪の敵――久慈の開き直った言葉に、悠斗はそれ以上の追求をやめた。

 正義の味方は、正義でなくてはならない。だが、悪の敵は悪でもかまわない。

「悪の敵……ですか。でも、たった四人のチームに、どうしてそこまでの力が?」

「八課はな。書類上は警察組織だが、実際は私設部隊に近い」

「――私設部隊? 誰の?」

 まさか、日本にお上公認の私設部隊があるとは考えもしなかった。

 悠斗は素人ながらも八課にきな臭い気配を感じていたが、それは当たりだった。

「八課の創設者であり責任者は、元陸上自衛隊一左、「御津姫(みつひめ) 斑鳩(いかるが)」という」

「元自衛隊……こう言うと何だけど……それって軍関係者ってことじゃ……」

 日本に軍隊は存在しない――しないが、それは言い方と考え方だ。

「そうだよ。おかげで八課は警察や他の公安連中にはずいぶんと嫌われている。ま、知っている人間が少ないから大したことではないさ」

 久慈は、やれやれとわざとらしい仕草をしてみせたが、悠斗はまったく笑えなかった。

「彼は斑鳩大佐と呼ばれている。最初は皮肉のつもりだったが、本人も嫌がってはいないし他の呼び方もないのでな。大佐は現役の隊員ではないが、今も各方面に強い影響力を持っている――特に、オグマ式に関してはな」

「オグマ式……遺伝子改良治療の?」

「そう。斑鳩大佐はオグマ式の開発メンバー……というか、オグマ式の中枢研究機関「アメツラボ」の局長。ようするに最高責任者だ。ちなみに、これは極秘事項だからな? おまえは聞いてしまったんだからな? これでもう、逃げられんぞ」

 人間を変えられる遺伝子治療法に、元一左の御津姫斑鳩。

 そして、その男が作った、対ASHの秘密組織――公安八課。

(これは――想像していたよりやばいかもな――)

 悠斗は内心焦ったが、今更、どうこう言っても仕方がないと腹を決めた。

「ようするにだ。ASH犯罪はオグマ式があるから発生している。だから、その解決と原因追及のために、責任者である斑鳩大佐は自ら対抗策をとった。それが八課だ」

「だから、私設部隊なわけですか――あの、聞いたらまずい……かもしれないけど」

「オグマ式とASH犯罪の関係か?」

「ええ……世間では、研究成果が漏れてて悪用されてるとか、他国のスパイがやってるとかっていう説が強いですけど……実際はどうなんですか?」

 核心に迫る問題だ。回答の内容によっては、悠斗は国家機密を知ることになる。

「わからない。推測以上のことは掴めていない」

「え……」

「これまで、処分されたASH事件の犯人調査を何度か行った。能力などがわかることはあったが、出所がはっきりわかったものは一つもない――俺のレベルではな」

「その言い方だと……」

「もっと上で情報が止められているのかもな。斑鳩大佐は知っているのかもな」

「そんなに……すごい人なんですね。斑鳩大佐って」

「軍にも警察にも政界にも顔が利く。権力も資金もあり、更にオグマ式開発のトップ」

「本当に……そんな人がいるんですね……マンガの話みたいで、実感が……」

「面白いだろう? ついでに、もう一つ面白い話があるんだ」

「まだ……何かあるんですか……?」

 久慈は壁際のソファーに座ってくつろいでいるレジナを指差す。

「あそこにいる女王様はな――斑鳩大佐の娘だ」

「えっ?」

 思わず大きな声を出してしまった悠斗に、レジナがちらりと視線を送る。

 そして、面倒臭そうにため息をつくと、レジナは悠斗達のほうへ歩いてきた。

「本当だ。私は間違いなく、斑鳩の娘だ」

 そう言って、悠斗の隣りへ腰を下ろした。

 彼女は自己紹介のときに「御津姫 レジナ」と名乗った。斑鳩大佐と同じ名字を。

「どうした? そんなに私を見つめて。お父様が怖いか? 娘である私が怖いか?」

 レジナが挑発するように悠斗に語りかける。

 彼女は謎の多いASHであり、父親は軍と警察を動かせるほどの実力者。

 怖いに決まっている――決まっているが――悠斗は平静を装った。

 それが男としての意地なのか、レジナへの気づかいなのかは、悠斗にもわからなかった。

 ただ、どちらだとしても、自分は怖がっていないのだと伝えたかった。

「いや――怖くはないよ。美人だなと思って見てた」

「ほう、そういうことを言うタイプか、悠斗は」

「本当の美人にしか言わないよ」

「なかなか可愛いことを言うじゃないか」

 悠斗の軽口が気に入ったのか、レジナは上機嫌で座っていたソファーへと戻っていった。

「世辞でしかないな。口説くならもっと上手くやれ」

 横で見ていた久慈が、馬鹿にしたような口調で悠斗をからかう。

 悠斗は苦笑いを浮かべ、ソファーにもたれかかるレジナを見た。

(権力者の父を持つASH――レジナは何者なんだろうか)

 悠斗は、あの美しいASHのことを何も知らない。いや、知らないのはレジナのことだけではなかった。八課、久慈、リノス、木島、斑鳩大佐――それから、自分自身のことも。

(できる限り、話を聞いておかないと――)

 悠斗は強い決意をもって、久慈やレジナに食い下がろうと決意した。

「課長、まだ聞きたいことが――」

「今日はここまでだ。初日から何もかもは教えられん」

 悠斗の考えを先読みしていたかのように、久慈がぴしゃりと質問をさえぎった。

「でも! 俺は、自分のことだって!」

「明日の十八時、ここに来い。今日はこれ以上、おまえに言うべきことは――」

「俺は納得していません!」

 悠斗の決意は固かった――が、次の言葉で、悠斗の決意はもろくも崩れ去った。

「――言うべきこと、あったな。おまえが空けていた一週間について、妹への言い訳」

「あ……そういえば……」

 悠斗は妹に何の連絡もせず一週間寝ていたことに、ようやく気付いた。

「やばい。やばいやばい! どうしよう、何て言おう!」

 真っ青な顔で慌てる悠斗に、久慈が勝ち誇った表情で言った。

「玖藤、実は君の妹へのアリバイ工作と今後の設定は考えてある。僕が言うことを覚えて、それを妹に伝えればいい。必要なら電話での協力もしよう」

「ほ、本当ですか! 助かったー……」

 ほっとした表情を見せる悠斗を見て、久慈がにやりと笑った。

「助かった? 助ける手段はあるが、それをおまえに教えるとは、まだ言ってない」

「――え?」

 久慈がとても嬉しそうな顔をして眼鏡を光らせている。

 人をなぶるのが楽しくて嬉しくて、しょうがないらしい。最低だ。

「そうだな――教えてもいいが、条件がある。黙って飲め」

「聞けじゃなくて……いきなり飲めなのか……」

 久慈――改め、眼鏡サドの表情が、今日一番の輝きを見せている。最低だ。

「まず、しつこく物をたずねるな。必要なことは言う。それ以外は知らなくていいことだ」

「で、でも……それは……」

「嫌なら一週間の空白と、これからの仕事についての言い訳を頑張って考えるんだな。ちなみにその場合、警察は口裏を合わせない。ゆっくりと家庭崩壊を楽しむといい」

 眼鏡サドの口からは、すらすらと悠斗を追い詰める言葉が出て来た。最低だ。

「くっ……わかりました……しつこくたずねたりしません……」

 悠斗はいろいろな悔しさを飲み込みながら、渋々と久慈に従うしかなかった。

 背に腹は代えられないとは、正にこのことだ。

「次に――」

「え! 一個じゃないの?」

「それは僕が決めることじゃないか? 玖藤だってそう思うだろう?」

 当たり前のことをどうして確認したがるの? 変なの――という口調。むかつく。

「そ、そうですよね。課長が決めることですよね」

 口を挟めばそれだけ惨めな思いをするのだと、悠斗はようやく理解した。

「よし。明日以降も十八時に、ここへ来ること。集合時間の変更などがあれば都度連絡するので、携帯は常に肌身離さず所持しているように。わかったか?」

「それはまあ……問題ないです。わかりました」

 これは、ただの連絡事項だろう。

 八課の仕事をすると決めたのだから、反発する理由はない。

「それじゃあ、君の設定を説明しよう。安心しろ――君が馬鹿じゃなければ通用する」

 悠斗は引きつった笑顔を浮かべながら、リノスに紙とペンを要求した。



 久慈が美悠に行ったアリバイ工作は、以下のようなものだった。

 悠斗は交通事故に巻き込まれ、警察病院にいる。

 その事故は要人の関わる事件であり、悠斗は目撃者として捜査に協力している。

 その間、機密を守るために連絡は取れないが、間違いなく無事である。

 信用できないようであれば、どこからでも警察に連絡をし、確認してもらってかまわない。

「……本当に、これで通用しますかね」

 一応、筋は通っているが、少し無茶ではないかと悠斗は不安になっていた。

「大丈夫だ。この話を君の妹にしたら、すぐ警察に確認の連絡をしてきた。そこできちんと答えておいたから、信用性は高くなっているはずだ」

「美悠からの電話……誰が答えたんですか?」

「あ、私が偽名で。山本と言いました。これも覚えておいてください」

 リノスはさらりと言ったが、その適当な感じに悠斗の不安は増すばかりだった。

「あとは玖藤の話術次第だ。怪しいところは迷わずにわからないと言え」

「なんとか……やってみます」

 事実を話して理解してもらうよりはマシだと、悠斗は自分に言い聞かせた。

「では、次にこれからの仕事についての設定だ。こちらからは何も話していないから、玖藤が一から説明するんだぞ。きちんと覚えておけ」

「が、頑張ります」

「警察関係の雑用のバイト。掃除や倉庫整理など、誰にでも出来て、警察情報を扱わない作業なら何でもする。捜査の手伝いをすると言っては駄目だ。基準、わかるか?」

「わかります。警察の捜査とは関係ない仕事ならいいんですよね?」

 久慈は頷き、悠斗がメモを取り終わるのを待ってから話を続けた。

「雇った理由は、事件解決に協力する君の正義感を見込んでスカウトした――いうのが建前で、本当は事件の秘密を話さぬよう、口止め料と監視のために高給で雇った、という筋書きだ」

「なるほど。何か、政治家絡みの事件とか、そういう秘密があるってことですね」

「ああ、そこが鍵だ。上手くやれよ。本当に困ったら、手遅れになる前に警察に確認するよう誘導しろ。僕が対応できるように手配しておく。僕に直接でもいい――これが番号だ」

 悠斗は久慈の名前と連絡先だけが書いてある名刺を受け取った。

「わかりました。俺の番号は――」

「大丈夫だ。玖藤の個人情報はすべて調べてある」

「……ちょっと嫌な気持ちですが、わかりました」

八課がその気になれば、悠斗の個人情報ぐらいは簡単にわかるのだろう。

「以上だ、健闘を祈る――解散」

「お、お疲れさまでした」

 久慈は伝えるべきことだけ伝えると、いきなり解散と言って地下へと向かってしまった。木島も悠斗に軽く挨拶すると久慈に続いて退室した。

「本当、マイペースというか、勝手な人だな……」

 悠斗は聞こえないように愚痴りながら、教えてもらった設定を書いたメモを見る。

 内容はすべて覚えて、このメモは処分したほうがいいだろう。

 悠斗がメモをにらみ付けていると、目の前にグラスが差し出された。

「これを飲んで、少し休むがいい」

「ありがとう、リノス――じゃなくて、レジナ?」

 グラスを差し出したのは、リノスではなくレジナだった。

 いつの間にか、レジナはカウンターのど真ん中、悠斗の目の前にいる。

 リノスはカウンターの隅でグラスを磨いていた。

「どうした? リノスの出したものでないと口には出来ないか?」

「そんなことは……じゃあ、いただきます」

 差し出されたグラスには、赤に近いオレンジ色の液体が半分ほど入っていた。

 妙に少ない気もするが、とにかく悠斗は口をつけることにした。

 一口飲むと、口の中に甘みと酸味、それから少しの苦味が広がる。

「うん……美味しいね、これ」

 グラスの中身はブラッドオレンジジュースだった。

 喉が渇いていたからか、量が少なかったからか、一息で飲み干してしまう。

「気に入ったか。もう一杯、どうだ?」

 悠斗の物足りなさを察したのか、レジナがおかわりを勧める。

「じゃあ、もらおうかな」

「ああ、好きなだけ飲むといい」

 レジナは悠斗からグラスを受け取ると、またもやジュースをグラスに半分だけ注いだ。

「氷も入れるか」

 レジナはリノスに氷を持ってこさせると、小さな氷を一つだけグラスに入れた。

 そして左手の人差し指を直接グラスに差し込み、軽く混ぜてから悠斗の前においた。

「待たせたな」

「ちょっ……と」

 レジナの大胆な行動に悠斗は思わず声を上げてしまう。

「ん? 嫌だったか?」

「いや……まあ、いいけど……」

 そこら辺にいる愛想の悪い店員の指ではない――レジナの指なのだ。

 美人の指なら汚くない。むしろ、ちょっと親密な恋人同士みたいでいいじゃないかと、バカな男の勝手な結論に辿り着いた。

「気になるのなら、代えるが」

「いや、気にしてないから」

 レジナがグラスを代えようと手を伸ばしたが、悠斗はそれをさえぎるようにグラスを手に取ると、またしても一息で飲み干した。

「ごちそうさま――って、どうしたの?」

 悠斗がジュースを飲む様子を、レジナがまじまじと眺めていた。

「……いや、何でもない。ところで、一杯目と二杯目、どちらが美味しかった?」

「え、と……両方とも、同じジュースだろ?」

「そうだ。同じジュースだ」

 これはまさか、レジナが指で混ぜたほうが美味しいよ、と言わせたいのだろうか。

 だとしたら、まるで恋人同士がいちゃついているみたいだと――

「悠斗様、気持ちの面ではなく、実際の味わいについて答えてください」

 リノスは悠斗の浮ついた考えを先読みして、笑いながら釘を刺した。

「そ、そんなこと言われても同じジュースだから――」

 悠斗は、そう言おうとしたところで違和感に気付いた。

 口の中に、何かの香りが残っている。

 一杯目を飲んだあとには感じなかった、何かの香りが。

「どうした悠斗。早く答えろ」

「二杯目って――お酒とか、入れた?」

 レジナは満足そうな顔をしながら、首を横に振った。

「酒は入れてない。二杯目のほうが、美味かったのだな?」

「美味しかった……でも、美味しい、なのかな……何て言うか……」

 悠斗の体には、かすかな満足感と共に、焦りや苛立ちが生まれはじめていた。

 目線や口調、そして体がそわそわと動くが、悠斗に自覚はなかった。

 レジナはリノスに目配せすると、リノスは無言で頭を下げてカウンターを出る。

 悠斗はリノスが去ったことにも気付かずにグラスをもてあそんでいたが、レジナに取り上げられてしまった。

「悠斗、二杯目のジュースに入っていたのは――これだ」

 レジナが、悠斗の目の前に指を差しだした。

 さきほど、二杯目のジュースを混ぜた、左手の人差し指。

「舐めてみるか? まだ、味がするかもしれん」

 魅力的な提案だったが、さすがに抵抗のある悠斗は作り笑いをしてごまかした。

「もう、ジュースの味はしないだろう」

「違う――血の味だ。指先を切ってから、ジュースを混ぜた。もう傷は治っているけどもな。二杯目は本物のブラッドオレンジジュースだったんだよ」

 レジナが自分の指をぺろりと舐めて見せた。

 魅惑的な仕草ではあったが、悠斗はそれどころではない。

「……俺は、レジナの血を酒と間違えるぐらい、気に入ったってことか?」

「おまえは、私の子供だからな」

 レジナがカウンターから出て、悠斗の隣りに座った。

「悠斗は私の子供だと言ったな。私の血を飲み、新しい命を手にした――でもな、それで終わりじゃないんだよ。子供は生まれたあとも、母がいないと生きていけないだろう?」

「……レジナが、俺のおしめでも取り替えてくれるのか?」

「お望みならな――動揺する気持ちはわかるが、落ち着いて聞け」

 そうだ、レジナの言うとおりだ。きちんと聞かなくてはいけない。

 レジナは何か大変なことを言っているのだから。

 悠斗は焦る気持ちを抑えてレジナの言葉に耳を傾けた。

「おまえが命を保ち、力を使うためには私の血が必要なんだ。再生能力、超身体能力、その他ASHになってから身についた能力を使うたびにそれは失われていく。車がガソリンを必要とするようにな。悠斗は一週間、傷を治して体をASHに作り替えていた。一週間のフル稼働、ガソリンが足りなくなって当たり前――私の血を欲しくなって当たり前だ」

「血を使って……ASHは、みんなそうなのか?」

「いや、違う。普通の食事でいい奴もいるし――人間の血が欲しくなる奴もいる」

「まさか、それが――」

 悠斗の頭を、様々な事件がよぎった。これまでに発生していた、目的不明の猟奇殺人。

 逮捕もされず、淡々と処分されては闇に消えていく。

 そして――悠斗の両親と、妹の足を奪った存在。

「ASHによる猟奇殺人の動機の一つ、だろうな」

 レジナは、その衝撃的な事実をさらりと言った。

 だが、続いて出て来た言葉は悠斗にとって更に衝撃的だった。

「悠斗のガソリンは私の血だ。正確には、私だけが作れる「レジナ・セル」という血中細胞。それが悠斗の体内から完全に消えると――理性を失い、人間の血を欲するようになる。私の血と勘違いしてな。だが、普通の血には必要としている「レジナ・セル」がないので、いくら飲んでも渇きは満たされない。人を襲い続け、やがて息絶える」

「嘘……だろ……」

 自分が、あのケダモノになる。すべてを傷つけ、望まれるのは死ぬことだけ。

「嘘ではない。ASHは身体を強化されている分、身体が覚える欲求も強い。そして、強い欲求に心が耐えられずに暴走することが多いのだ。その欲求が血なのか、性欲や殺人欲求なのかは様々だが――落ち着け。だから、私の血を切らさぬようにしようと言っている」

「それは……普通に暮らしていても切れるものなのか?」

「恐らくな。ま、禁断症状が出るから注意しておけ。どうしても私と会えないときのために血液は保存しておく。試験管から飲むのは良い気持ちではないだろうから、できるだけ直接な」

 そういうと、レジナは上着のボタンを外しはじめた。

「レ、レジナ? 何してるんだ?」

 倒れそうなほどにショックを受けていた悠斗だったが、レジナの行動にそれも吹き飛んだ。

 レジナは上着のボタンを半分以上外すと、そのまま上着をずらして肩をはだけた。

 下着に支えられた大きな胸の谷間が、嫌でも悠斗の目に入る。

「なんで突然脱ぐんだ!」

「全部は脱がん。おまえに血を与えるためだ」

「血を与えるため? なんで! それなら腕でもどこでもいいだろ!」

「おまえは胸が好きだと、さっき言っていただろう。私なりの気づかいだ」

「ま、待て待て! じゃあ、なんだ! 今から、レジナの胸に、その――」

「ああ、胸から血を吸っていいぞ。ただ、見せている部分だけだ。全部、特に先端を見せてはいけないと、リノスに言われたからな」

 レジナが露出している胸の上部を指でなぞる。ここなら触れてもいい、ということだ。

「む、無理。そこに歯を立てて血を吸うのは、無理」

「おまえは、私の血を美味いと思った。それは体が欲している――つまり、足りていないということだ。飲まないと危ないぞ」

「危ないのはわかったけど! さっきみたいに、その、指からでいいから!」

「――そうか。確かに飲みにくいだろうな」

「そうだよ!」

「人の身体を傷つけるのは抵抗があるか。なら、これでどうだ」

 そういうと、レジナは露出した乳房の上部を自らの爪でスッとなぞり、傷をつけた。

 真っ白な胸に、赤い筋が浮き出してくる。

「ほら、早くしろ。でないと傷がふさがってしまう」

「そ、そうじゃなくて! そういうこと言ってるんじゃなくてだな!」

「――手間のかかるやつだ」

 レジナはため息を吐くと、悠斗の首を掴んで抱き寄せた。

「ちょっ――レジナ――」

 悠斗の顔がレジナの胸に埋まり、頬に血がつく。悠斗は自らの頬についたレジナの血が、香ったことに気付いた。嫌な匂いだとはまったく思わなかった――確かに香ったのだ。

「いいから早くしろ。私もちょっと興味がある。それとも、他の場所に新しい傷を作れと?」

 レジナが悠斗の頭を抱きかかえ、自分の胸に押しつける。

「わ、わかった……よ……」

 嫌々ながらの態度を取りながらも、悠斗はすでに逆らう気はなかった。

 抑えるのをやめた胸への興味と、抑えられない血への欲求のせいで。

「ん――」

 レジナの胸に付いた傷口を悠斗は軽く舐めた。

 舌がレジナの血液を感じたが、味はほとんどしなかった。。

 水――それは水と同じで、「ただ欲するから取り入れる」という感覚。

 悠斗は更にそれを取り入れようと、無意識に吸う力を強めた。

「くっ……ん……」

 レジナが、くすぐったがるような、痛がるような声をあげる。

 悠斗はレジナの声に一瞬だけ動きを止めたが、またすぐにレジナの血を求めていた。

「ふふっ……レジナの子には血を与えるものだと教えられていた……早く、経験してみたかったが……なかなか、良いものじゃないか、これは」

 レジナはそっと、悠斗の頭を撫で始めた。悠斗はそれを黙って受け入れる。気がついていないのかもしれない。

 しばらくすると、突然に悠斗がレジナの胸から口を離した。

「くぁっ……う……あぁ……」

 悠斗はうめき声をあげる。だが、それは苦しみの悲痛な声ではなかった。

 これに似た感覚を知っているような、知らないような――甘い疼きだった。

「悠斗? どうした? どこか痛むのか?」

 レジナが心配して声をかけると、悠斗は黙って首を横に振る。

「ちが……う……けど……ちょっと……一人にさせてくれ……」

 悠斗はレジナから離れようとした。

 今の悠斗にとって、レジナが近くにいるのは、いろいろな意味で辛すぎたからだ。

「――血が、まわったか」

 レジナは離れようとする悠斗に手を掛け、再び抱きしめた。

 悠斗は慌てたが、レジナを振り払うような気力はなかった。

「レジナ……離せって……」

「大丈夫――大丈夫だ、悠斗」

 レジナは片手で悠斗を抱きかかえ、もう片方の手で頭を撫でた。

 まるで、泣きわめく赤子をあやすように。

「私の血が入って、身体が驚いているんだ。満足するまで飲むがいい」

「だけ……ど……」

「おまえの命に関わることだ。いいから続けろ。何かあっても私がいる」

「わ……わかった……」

 悠斗は体内をくすぐられるような感覚を抑えながら、レジナの血を飲み続けた。

 その間、レジナは悠斗の震えを抑えるように、強く体を抱きしめていた。

 そのまましばらく血を飲み続けていると、突然、口の中に血の味を感じた。

(嫌な――鉄の味がする)

 そう思った瞬間、悠斗は正気に返り、レジナから離れた。悠斗の体を襲っていた感覚も、いつの間にか止んでいる。

「もう、満足か?」

 レジナが悠斗から手を離してたずねる。

「ああ……突然、飲みたくなくなったから……多分、大丈夫だと思う……」

「そうか。体が欲している分は飲んだ、ということなのだろうな」

 そう言いながら、レジナは平然と乱れた服を直し始めた。

 悠斗はそれを見ながら、自分がしたことの重大さを思い知らされていた。

 必要なこととはいえ、ほぼ初対面の女性の胸に口をつけていたのだ。

「あ、あの……レジナ……ありがとう、な……それと……ごめん」

「謝ることはない。これが私の能力だからな」

「レジナの……能力?」

「血を与えた相手をASHにし、その後も血で支配し続ける。それが私の能力《女王(レジナ)》だ」

「……ASHには、みんなそれぞれ別の能力があるのか?」

「程度にもよるが、それぞれ特徴はあるだろうな。悠斗にもきっとある」

「俺の能力……一体、どんな?」

「超再生能力は実証済み。超身体能力も間違いなくあるはずだ。それ以外はわからん。上手く戦闘に使えるような能力だといいが」

「死にかけて、運良く助かったら超能力者か……なんだかな」

 今日は現実離れした話をたくさん聞いたが、その中でもこれは格別だった。何せ自分自身に特別な能力があるかもしれないと言われたのだ。やはり、もう普通の人間ではない。

 悠斗が自分の境遇について考えていると、レジナに頬をつままれた。

「そんな表情をするな。こちらもASHになって良かったと思えるように配慮している」

「……配慮?」

 レジナは上着の最後のボタンを留めると、にやりと笑ってみせた。

「血を人質にはしているが、それだけでは気持ちよく働けないだろう?」

 レジナの血が切れれば悠斗は暴走する。そういう意味での人質、ということだろう。それだけでは不愉快だろうから、せめて胸から飲ませてやろうということか。

「ま、これぐらいで喜んでもらえるなら安いものさ。あまり恨まれて死なれるのも嫌だしな」

 レジナは席を立ち、悠斗へ背中を向けて言った。

「え、おい。ちょっと、それって――」

「命の恩人、女王に尽くせということさ」

 レジナはそういうと、扉を開けて地下へと降りてしまった。

 悠斗が席を立ったところで、リノスが笑顔で言ってきた。

「閉店です」

 悠斗は追い出された。


「――騙されてるのか?」

 わざわざ、女々しい独り言を口にしてから、「ビハイブス」を出た。

 聞き慣れた街の喧騒が、今日は身に刺さるようだった。

(よう。おまえ、女に騙されたんだって?)

 うるさい。まだ騙されてる最中だ。



 悠斗は「ビハイブス」を出ると、帰宅する前に「ヤマイデ」に顔を出すことにした。

 一週間、無断で休んだことへの謝罪と、バイトをやめることを伝えるためだ。

 悠斗は店長になんといって説明をするか迷った。

 これからは八課として嘉神町で仕事をする。店長とも顔を合わせるだろう。久慈の設定も使えないし、適当な嘘もつけない。だから、悠斗はどうしたいかだけ伝えた。

「すいません。別の仕事をすることになりました」

 店長はそれを聞くと悲しそうな顔をした。

「……いろいろ、あるのよね。嘉神町では」

「――はい」

「ルール違反かもしれないけど。義理を果たすと思って、一つだけ聞かせて?」

「――はい」

「それ、成年がやっても犯罪になる仕事?」

「違います。絶対に違います。これだけは誓えます」

「……なら、いいわ。嘉神町に呑まれないように――それだけ。顔見たら挨拶しなさい」

 店長は悠斗の頭を、軽くコンと叩き、店の奥へと消えていった。

 悠斗は後ろ姿に頭を下げ、店を出た。

 店長に叩かれた頭が、痛くもないのにジンジンとしびれるようだった。



「ビハイブス」を出てからバイト先に寄り、悠斗はようやく家に着いた。

 一週間ぶりに自宅のドアを開ける。

「ただいま……」

 恐る恐る声をかけてみるが、返事はない。

 部屋の電気も付いていて――美悠もいるのに。

(そりゃ、怒るよな……)

 美悠は帰ってきた悠斗を、わざと無視するようにテレビを見ていた。

 悠斗はすでに疲れ切っていたが、最後の仕事だと自分に渇を入れた。

「なあ、美悠――」

「座って。ここに」

 美悠がテレビを消し、自分の目の前を指差した。

 悠斗は黙ってそれに従い、美悠の目の前に正座する。

「お兄ちゃんさ。納得いかないかもしれないけどさ――」

 パァン、と。小気味の良い音が、狭い部屋にひびく。

「文句があるなら、殴り返していいから」

 美悠は、まだ悠斗の顔を見ていない。

 悠斗はしびれる頬を押えることもせず、「ごめん」と言った。

「――わかってくれて、ありがとう。痛かったら、ごめんなさい」

 美悠はようやく、悠斗の顔を見た――涙の溜まった目で。

「美悠……」

「その、さ。お兄ちゃんも大変だったんだろうしさ。私も一人で生きていけないと駄目なんだろうからさ……殴ったりさ、泣いたりするのは違うんだろうけどさ……でも……さ……」

 そこまで言うと、美悠の目からぼろぼろと涙がこぼれはじめた。

だが、美悠は泣きじゃくりもせず、悠斗の目を睨むように見つめていた。

 涙は流れているが、泣いてはいないのだと言い張るように。

「俺が悪かった。一人にしてごめん」

 悠斗は美悠を抱きしめたが、美悠は微動だにしなかった。

「美悠。殴っていいし、泣いていい。頼むから、そうしてくれ」

「だ……だって……そんなの……だって……美悠、甘えすぎだもん……」

「おまえに甘えてもらえるのが嬉しくて、お兄ちゃんやってるんだよ」

「う……うぁ……うわぁぁぁぁん!」

 美悠は、悠斗にしがみついて泣いた。体全体から、涙と泣き声を絞り出すように。

 悠斗は、黙ってそれを受け止め続けた――このために、帰ってきたのだから。



 美悠が泣き止んだあと、悠斗は久慈の考えた「設定」を美悠に話した。

「お兄ちゃんが一週間も音信不通になったんだから、何か理由があるんだよね」

 細かいところまで追求されると思っていたが、意外にも美悠は素直に受け入れた。

 これまでの悠斗の行動が信頼に足るものだったからだろう。

 だが、美悠の何気ない一言が、悠斗の心に強く残った。

「お兄ちゃん、体は大丈夫なんだよね? 後遺症とかはないんだよね?」

 悠斗は、「大丈夫」とだけ答えたが、内心は複雑だった。



 美悠、お兄ちゃんは死にかけたけど、生き返ったんだ。

 それだけじゃなくて、これからはどんな怪我をしても治ってしまうんだ。

 お兄ちゃんは――ASHになったからね。


 八課の存在よりも何よりも、自分がASHであることを隠し続けることが、悠斗にとって何よりもつらいことのように思えた。


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