一章
プロローグ
平日の朝六時。繁華街の裏路地にはカラスすらもいなかった。ビルとビルの隙間は、いつも原因不明の汚さと怪しさに満ち溢れている。だが、今日はまた格別だった。
血塗れで倒れている若者と、それを見下ろしている黒ずくめの女性。
女性の長い髪――それも美しい銀髪を朝日がつらぬくように通り抜けていく。
銀髪の女性が血塗れの少年を見下ろしている間、もう一人、他の誰かが少年の衣服から財布を抜き出し、中にあった学生証を確認した。
「玖藤悠斗」
それが、倒れている若者の名前だった。
銀髪の女性は差し出された学生証を覗き込み、いくつかの言葉をかわした。
それが終わると、銀髪の女性が悠斗の顔近くにしゃがみ込み、語りかけた。
「おまえは生きたいか。人でなくなっても、生きる理由があるか」
悠斗は、喉から声を絞り出して答えた。
――生きたい
銀髪の女性は頷き、ナイフで自分の腕を切った。切り口から、すっと血が溢れ出す。
「せめて君が迷わずに夜を歩けるよう、祈ろう――飲み込めよ」
銀髪の女性は、腕から流れる血を自らの口に含み、悠斗に顔を近づける。
悠斗は彼女にキスをされ、口内にぬるい液体が流れ込んでくるのを感じた。
呼吸すら困難な体が抵抗したが、むせる喉をねじ伏せて飲み込む。
血が燃えて、自分の体が作り替えられる。
細胞が動き、血に乗って肉や骨を食い尽くしていくような感覚。
それはまるで、生まれてから今までの成長をやり直しているかのようだった。
(生まれ変わる――俺は、何になるというんだ)
玖藤悠斗は、意識を失った。
最後に見たのは、朝の光を反射する、長い長い銀髪だった。
一章
「美悠、ご飯できたぞ」
「待って! すぐ終るから待ってて!」
悠斗は慌ただしく着替える妹、玖藤美悠に向かってため息をつくと、エプロンをとってキッチンから出た。二人分の目玉焼きとトーストを食卓に置き、テレビのワイドショーに目を向ける。レポーターは神妙な顔をして、猟奇殺人事件の現場、嘉神町(かがみちょう)の説明をしていた。
嘉神町は有名な繁華街で、飲み屋と風俗と犯罪にはこと欠かないことで世界にもその名を知られている。悪名は昔からだが、あるときから発生しだしたASH犯罪が、さらにその悪名と魅力を高めていた。悠斗は嘉神町でバイトをしているため、どうしても気になってしまう。
「またASH犯罪か……ひどいよね」
着替えを終えて食卓に腰を下ろした美悠が不機嫌そうに言う。
ASH――ここ数年で広まった新しい言葉。ストーカーやニートのように時代が生んだ現象に付けられる名称。ASHもその一つだった。
「ALTERD SPIRAL HUMAN」の頭文字をとって、ASH。
日本語にすると、「異なる螺旋を持った人間」とでもいおうか。
螺旋とは遺伝子のことだ。ASHは遺伝子をいじられ――つまり、肉体を強化されたり、特定の能力を特化されたりしている。そのASHが、なぜだか凶悪な犯罪を犯すことがある。そして犯罪が起きる場所は、ほとんどが嘉神町だった。おかげで嘉神町の治安は、ここ十年で急激に悪化している。
「……テレビ、消そうか?」
「ううん、そのままでいい。見ておかないと怖いしね」
悠斗はテレビのリモコンに伸ばしかけた手を引っ込めた。テレビの中では、どこかの学者が無軌道に進化する遺伝子改良治療を、ここぞとばかりに批判していた。遺伝子治療を中止しなければ、人間がみんな狂ったASHになってしまうとわめきたて、司会や他のゲスト、そしてテレビの前にいる悠斗や美悠を閉口させていた。
「ねえ、お兄ちゃん。なんでこういう人達って、言い過ぎて自爆するんだろうね」
「んー……反対意見っていうか、嫌いなものに悪口が言いたいだけじゃない?」
「なるほど。お兄ちゃん、ひねくれてるから冷静な意見を言うね」
「頭がいいから冷静な意見を言うんだよ」
「はいはい、そうだね。お兄ちゃん頭いいもんね。顔もいいしね。人生楽しいでしょ?」
悠斗と美悠がふざけていると、テレビでは激昂した学者を黙らせるように、司会が遺伝子改良治療について振り返る段取りに入っていた。
悠斗達も黙ってその説明映像を見ることにした。ちなみに玖藤兄妹は、他の人よりは遺伝子改良治療とASHに詳しい。
遺伝子改良治療。少し前までは夢物語だったその治療法。治らない病気が治る。失った体の一部を取り戻す――この技術が完成し、世間に知れ渡ってから数年が経とうとしている。
ここ十年で、「日本の遺伝子治療だけ」が、二つの理由により革命的な進化を遂げた。
一つ目は、ヒトゲノム――人間の設計図の完全な解明。
ヒトゲノムの解明には、まだ時間がかかると言われていたが、ある日突然、まったく知られていなかった日本の民間研究機関、「アメツラボ」が解明を終えたという発表をした。
この発表は大きな称賛と、更に大きな批難をもって迎えられた。このように大切な研究を独自に進めていたことと、解明した「人間の設計図」を発表しないという方針が原因だった。
二つ目は、遺伝子の細かい書き換えを可能にした「オグマ酵素」の完成。
遺伝子を書き換えるためには、遺伝子の特定の箇所を切り取り、新たな情報を与えてやらなければならないが、これまでの技術では思い通りに細かく書き換えることが出来なかった。
だが、日本人の小隈博士が作り出した「オグマ酵素」がそれを可能にした。ほとんど自由自在と言っていいほどの遺伝子書き換えを実現したのである。
これにより、日本は人間の設計図と、設計図を自由に書き換える道具を手に入れたのだ。
これらの技術を使った遺伝子治療法は、「オグマ式遺伝子改良治療法」と名付けられた。
世間はオグマ式を奇跡の治療法だと期待したが、実際はそうもいかなかった。
一つは、その不安定さ。設計図どおりに作ったとしても、どのような問題が出るかは、機械と同じで動かしてみないとわからない、ということらしい。
そして、もう一つの問題がASH犯罪だった。
オグマ式が世に知られる前後から、今まで続いているASHによる凶悪犯罪の増加。しかも犯人のASHは正気を失っており、遺伝子をいじられて猛獣のような力を持っている。
ただの都市伝説と言ってしまえばそれまでだが、ある記者が射殺された犯人の血液を入手して検査にかけたところ、遺伝子改良が認められたという記事を発表した。
「アメツラボ」はASH犯罪との関与を否定したが噂は止まらず、拍車をかけるように次々と凶悪犯罪が発生しては犯人が射殺されていった。逮捕されることはないのだ。
いつしか、ASH犯罪という言葉は定着し、オグマ式の評判を落とすようになった。
警察も公式にASH犯罪を認めていないが、それが事実ならば、オグマ式は救った人間よりも傷つけた人間の方が多くなっていた。
例えば、そんなこと語るテレビを見ている玖藤美悠がそうだ。
「美悠、そろそろ行こう」
「うん」
悠斗はテレビを消すと、妹の美悠を抱きかかえて玄関に連れていく。
「お兄ちゃん、重くない? あたし、太ったかも」
「うちは貧乏だから太らないんだよ」
悠斗は玄関に置いてある車椅子に美悠を座らせた。
「ありがとう。いつもありがとうね」
「気にするな」
ごめんね、というと悠斗は怒る。だから美悠は、ありがとうを二回言っていた。
「よし、行くか」
悠斗は車椅子を押して学校へと向かった。
十年前、ASHに襲われて傷付いた彼女の足は、まったく動かなくなっていた。
それでも、彼女は運がよかったと言える。
彼女の両親は、彼女の目の前でASHに殺されてしまったのだから。
「お兄ちゃん、今日もバイトだよね」
「そうだよ。夕飯は作ってから行くから」
悠斗が美悠の車椅子を押しながら校門をくぐる。悠斗は高校二年生、美悠は同じ高校の一年生だった。授業中も近くにいるので、何かあればすぐに様子を見に行けるのはいいのだが、自分が卒業したあとのことを考えると少し不安になる。
「美悠さ。俺が卒業したら、どうする?」
「そんな「俺がおまえのこと好きって言ったらどうする?」みたいな聞かれ方しても」
「俺が卒業したら、学校で美悠の面倒を見てやれないけど大丈夫か? ってことだよ」
「大丈夫だけど、そんなに心配なら留年すれば? そうすれば一緒に卒業できるよ」
「そうか、その手があったか」
「駄目に決まってるでしょう。お馬鹿兄妹」
悠斗が美悠と後ろ向きな進路について話し合ってると、悠斗は後ろから頭を小突かれた。
「あ、セセリさん」
「セセリ姉、おはよう」
「美悠さん、おはよう。悠斗さんは挨拶をしてくれなかったから、私もしません」
悠斗の頭を小突き、今、ぷいっと横を向いて拗ねている彼女は、東儀セセリ。大手製薬会社、「東儀製薬」のご令嬢で、悠斗より一つ年上。同じ学校に通う上級生だ。
どうして、そんなお嬢様が玖藤兄妹の知り合いなのかというと、幼い頃に両親をなくした玖藤兄妹は、悠斗が中学を卒業するまで、東儀家で世話になっていたからだった。
セセリは幼いころから身体が弱く、大きな手術をして一命を取り留めた。今でも、たまに体調を崩して学校を休むことは珍しくない。
「セセリさん、最近、体調はどう?」
「おかげさまで健康です。それで? どうして、悠斗さんが留年するんですか?」
「俺が卒業したら、美悠の送り迎えとか困るじゃないですか」
セセリは、ふぅとため息を吐くと、じっとりとした視線で悠斗を睨みつけた。
「言ってくだされば、私が力になれますのに」
「いや、その話はもう……」
「駄目です。まだします。というわけで放課後、美術室に来てください。大事なお話です」
「……バイトあるから、手短にお願いします」
「そうですよ! お兄ちゃん、忙しいんですから!」
「お、そうだそうだ。言ってやれ美悠」
「六時までには帰宅させてね。それならチャーハン作ってからでもバイトに間に合いますし」
「待て、お兄ちゃんはご飯作り機か。全自動チャーハンマシンか」
「違うよ! 掃除だって洗濯してくれる、便利……じゃなくて自慢のお兄ちゃんだよ!」
「ご飯作り機どころか、総合白物家電か。一人暮らし応援フェアで安く売られちゃうのか」
「美悠、お兄ちゃん大好き! おっきくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになる!」
「まったく……美悠はいつまでも甘えんぼだな!」
「お馬鹿兄妹。いいから、馬鹿兄は放課後すぐに美術室に来るんですよ」
セセリはため息を吐きながら、三年生の下駄箱へ向かっていった。
授業中、つつがなく寝まくった悠斗は、セセリに言われたとおり美術室へ向かった。
夕陽が差し込むにはまだ早いが、学校の音が少しずつ放課後のそれへと変わっていく。
吹奏楽部の楽器の音、野球部の金属バットの音、体育館でバスケットボールがはねる音。軽音楽部のやかましいギターの音――そのどれもが、悠斗は少し苦手だった。
悠斗は毎日、夕方から朝までバイトをしている。両親がいないので生活費や学費をまかなうためであり、美悠の未来のために、少しでも貯金をしておきたかったからだ。
だから、学校にいる間は授業中だろうが休み時間だろうが常に眠っている。教師もクラスメイトも事情をわかっているため、特に口出しはしない。一応、最低限の補修や追試で進級はさせてくれるようなので、悠斗は周囲の理解に感謝していた。
だが、睡眠時間以外に得られるものはない――部活も、友達も、恋人も。それでいいと割り切っているはずの悠斗でも、放課後の雰囲気を感じていると、さすがに思うところはあった。
悠斗は少しだけ憂鬱になった気持ちを抱えたまま、美術室の前に到着した。
専門教室ばかりが集まった西校舎の最上階である四階、その一番奥に美術室はある。廊下側の窓には暗幕がかかっており、中から人の気配もしない。本当に、ここにセセリがいるのだろうかと不安になりながら教室の扉をノックした。
「どうぞ」
中からセセリの返事が聞こえたので、悠斗は扉を開けて美術室に入る。
セセリは窓を背にして座り、大きなキャンバスに絵を描いていた。
「ごめんなさいね。すぐに片付けるから」
「気にしないでください。何を描いているんですか?」
キャンバスの裏側しか見えない悠斗は、回り込んで絵を見ようとしたが、セセリがキャンバスに布を掛けてしまった。
「冷たいな」
「描きかけの絵を見られるのは恥ずかしいんですよ。完成したら見てくださいね」
「そんなもんですか。じゃあ、楽しみに待ってます」
「ええ、楽しみにしていてね――さて、お待たせしました」
片付けを終えたセセリが、悠斗の元に歩み寄る。
「今日はこれから、アルバイトなのよね。その、まだ嘉神町の酒屋で?」
「ええ、前と同じです」
悠斗はASH犯罪で荒れているため、規制が行き届かない歓楽街となっている嘉神町の酒屋で、朝までバイトをしていた。物騒な街だが、住人のは金が稼ぎたいのであって、破壊活動がしたいわけではない。気をつけて行動していれば、たいていのトラブルからは身を守れる。
そういうわけで、危険な街の普通の仕事は、大変良い時給で悠斗を使ってくれていた。
「本当に、危ないことや、いかがわしいことはしてないのね?」
危ないことはしていない。いかがわしいことは……夜の仕事をするお姉様達が、たまに冗談で下着を見せてくれたりはするが、あれは不可抗力だろう。
また、本来は男性の綺麗な女性に手を掴まれて、胸を触らされたりするが、あれはクラスの男子達がやっている、「お、胸筋ついてきたじゃん」と同じだろうから健全なはずだ。
「危ないこととか、いかがわしいことはしていません!」
「そ、そう? それなら良かったわ」
悠斗の力強い返答に、セセリは少し怯んだ。
「それでも生活は大変でしょう? 毎日、朝まで仕事をしているのですから」
「朝まで仕事はしてるけど、それでも大丈夫な生活サイクルなんです」
「学校でずっと寝ているのは、大丈夫な生活サイクルとは言わないわ。悠斗さん、この前の数学のテスト、二点だったそうね」
「何故、二点取れたのかが不思議です」
頑張って書いた計算式に対して、教師が△をつけてくれた。ちなみに答えは未記入だ。
「他のテストもすごい点数ね……あら、英語だけ四三点? 勉強したのかしら?」
「いや、店に来る外国人と話してたら覚えました。北京語と広東語でも同じぐらいの点数が取れますよ。福建語はちょっと難しいですけど。ロシア語も酒屋で接客するぐらいなら――」
嘉神町には様々な外国人が来る。彼等に接客や道案内をしている内に身についたものだ。
「確かに素晴らしいですが、残念ながら学校の成績は上がりません」
「まあ、そうですね……」
「卒業したあとも、嘉神町から離れられなくなりますよ」
「で、それは好ましくないから――東儀の人間になれと、そういうんでしょう?」
以前から、何度も言われている話。何度も断り、聞き飽きた話。
悠斗と美悠に、東儀の人間になって欲しいという誘い。
東儀の人間になり、次期当主であるセセリを支えて欲しいという誘い。
「そうです――そうですが、これが最後です。今日断られたら、もう二度と誘いません」
「……どうしたんですか? あれだけ熱心に誘っていたのに」
「もう、悠斗さんも正常な判断が出来る大人だと思ってのことです。あなたのこと、美悠さんのこと、過去のこと、未来のこと。全部含めて結論が出せる、大人だと」
「全部含めて――ですか」
「あなたと美悠さんのこと。それから、私のこと――全部です」
セセリは、間違いなく悠斗に気がある。鈍い悠斗でも、さすがに気付いていた。
ただ、それとは別に東儀の一員として力を貸して欲しいというのも嘘ではないだろう。
手術をしたとはいえ、セセリは体が弱い。それを知っていて支えてくれる存在は必要だ。
それでも――それでも悠斗の答えは決まっていた。
「お気持ちはありがたいのですが、お断りします」
悠斗は迷うことなく、頭を下げて断った。
「――そうですか。わかりました」
セセリは、意外と冷静に悠斗の拒絶を受け止めた。
「なら、せめて理由を聞かせてもらえますか?」
「自分達のことは、自分達で何とかしようと――」
「嘘です」
セセリは、悠斗がいつも使う定型の返事を途中でさえぎった。
「これまではそんな適当な理由で引き下がっていましたが、これで最後なんです。本当の理由を聞かせてもらえませんか? 私の気持ちまで、納得できるように」
セセリの声が、目が冷たい。もしかしたら、最初からこれが、悠斗から東儀を拒絶する理由を聞き出すことが、彼女の目的だったのかもしれない。
悠斗は少し考えてから、その覚悟に応えることを決めた。
「多分――というか、絶対にセセリさんが不愉快になるけど、それでもいいのなら」
「断られるのです。気持ちのいい答えでないことぐらい、わかっています」
真剣なセセリの目。しかし、それを見る悠斗の目は、さらに真剣だった。
「昔、俺達を襲った――両親を殺して美悠の足を奪ったASHを作ったのは――」
「悠斗さん、何を……?」
セセリが焦り、口を挟んだが、悠斗はそれにかまわず言葉を続けた。
「あのASHを作ったのは、あなたの父が経営する会社、東儀製薬だからです」
ずっと隠していたこと。言ったら関係が変わってしまうこと。
「ど、どうしてそんなことを? 悠斗さん、あなた一体、何を言っているんですか?」
セセリはそんなことは知らないと言っているが、明らかに動揺していた。悠斗はそんなセセリを見てやりきれない気持ちになったが、もう、言うしかない。きっと、いずれ言う必要があったのだ。セセリと関わっている限りは。
「東儀製薬が遺伝子治療のためにアメツラボと協力していた。その際の臨床実験――秘密裏な人体実験と言った方がいいのかもしれません。それが失敗し、逃亡したASHが街で家族を襲い、二人を殺した――その二人が、僕の両親です」
「そ、そんなの嘘……何でそんなことを言うの……」
セセリが崩れ落ち、否定の言葉を力なく呟く。だが、悠斗は淡々と言葉を続けた。
「昔、東儀の家で見たんですよ。俺達や暴走したASHのことが書いてある書類をね。お手伝いさんがシュレッダーを詰まらせてしまったのを俺が直したんです。そのとき、ばらばらになった紙に俺と美悠の名前が書いてあるのを見つけた。それで気になってシュレッダーのゴミを全部持ち帰って繋げたんです。そこに、書いてあった」
「そ、そんなこと……出来るわけが……」
「できますよ。二千ピースの真っ白なジグソーパズルに比べたら簡単だ。ちなみに、書いてあったのは俺と美悠を襲ったASHの情報規制について。警察からマスコミに漏れないよう手配をしました、というだけの内容です。その後も子供なりに調べてみましたが、それ以上のことはわかりませんでした」
「そう……ですか」
セセリはうつむき、小さく答えるだけだった。
少しの沈黙が続いた後、セセリが何も言わないとわかった悠斗は、ついにそれを聞いた。
「セセリさん、教えてください。あなたはこのことを知っていましたか? 知っていて、それを隠していたんですか?」
「――知っていました」
セセリは、はっきりと答えた。知っていると。両親を殺したASHが東儀製薬の作ったもので、それが悠斗の両親を殺したことを知っているのだと。
「なぜ言わなかった、なんて言わないでくださいね。言えるわけないでしょう」
セセリは座り込んだまま、力無く言った。どんな表情をしているのかはわからない。
「それを知るまでは、東儀の人達を神様よりすごいと思ってました。親のいない、しかも足の動かない妹の面倒まで見てくれるなんて、神様だってこんなことしてくれないって。でも、その書類を見たときにわかったんです。ああ、俺たちは情報が漏れないように閉じ込められているんだって」
「償いの気持ちだってあります!」
「半分だけ泥水だからって、飲めますか?」
「そんな言い方っ!」
セセリの叫び声に悠斗は自己嫌悪した。自分でも嫌な奴だと思ったが、それでも言わずにはいられなかった。セセリさんは悪くない。優しくもしてくれた。だが事実を知っている東儀の人間でもある。彼女自身も「半分は泥水」なのだ。
「過去のことも未来のことも、全部含めて考えたら……無理ですよ」
悠斗の言葉を聞くと、セセリは立ち上がって言った。もう、目はしっかりとしている。東儀の人間としての目だ。
「わかりました。きっともう、無理なのでしょうね。ただ、あなた方への援助はこれからも続けさせてください。これは償いであり口止め料のお金です。私の気持ちは関係ありません」
「――わかりました。結局はコレまで通り、ということでいいですか? 僕もこのことについて騒ぎ立てたり、東儀を揺すったりすることはしません。恩義も……ありますから」
「そうしていただけると助かります」
悠斗はセセリの表情を見たが、そこに変化はなかった。これで露骨に安堵してくれたら、そっちの方がまだよかったかもしれない。素直に軽蔑して、心置きなくお別れできたのだから。
「でも」
セセリがそう言って、悠斗に寄り添ってきた。
「それでも、あなたが必要なんです。同情でも懺悔でもなく、私個人として」
セセリが悠斗の体をを強く抱きしめる。彼女の目は、ただの女の子だった。
「私はあなたが欲しい。あなたが――その、好きなんです。小さい頃から病弱で友達のいなかった私に話しかけて、遊んでくれて、虐めてくれて。大きくなってからもそう。東儀の家を出てからも、普通に接してくれたのはあなただけ」
一息に言い終わると、セセリは悠斗の胸に顔をうずめた。
放課後の美術室。遠くからは様々な部活の音。幼馴染みの先輩に呼び出され、抱き付かれて告白されている。その情景は、これ以上無いぐらいに充実した青春の一ページだった。
だけど、当人達の間にある現実は、あまりにも歪んでいた。
「セセリさん。もし、僕たちがただの幼なじみだったら、また違ったのかもしれません」
悠斗は自分に抱き付くセセリの体を、ゆっくりと引き離した。
「ごめんなさい。俺は、セセリさんの側にはいられません。その、セセリさん個人は嫌いではないですし、すごく美人だと思うし、今だって――」
「やめてください」
セセリが悠斗の胸をトンとたたいた。
「……私、悠斗さんにふられたのですね」
セセリは冗談ぽく笑顔を浮かべていた。とても痛々しかった。
「小さいころは……セセリお姉ちゃんと結婚するって言ってたのに」
また、悠斗の胸をトンと叩く。
「悠斗さんと手を繋いで公園に行くのが大好きだったんです。あれが私の初デートだったんですよね。悠斗さんもそうですよね?」
「そう、ですね」
悠斗も笑顔を浮かべた。ちゃんと笑えているだろうか。
「また、二人で行きたいなって思ってたんですよ。でも、なかなか誘えなくて。子供のころとは違って、ドキドキしてしまうから……あなたのことが、好きだとわかった……から……」
セセリは笑顔のまま、目からぽろりと涙をこぼした。
「こんなに……うっ……ひぐっ……こんなに好きなのに……あなたが大好きなのに……」
「……ごめんなさい」
嗚咽をあげて泣くセセリを抱きしめることも、慰めることもできなかった。本当は抱きしめて慰めてやりたかった。振ったのが悠斗でなければ、それもできたのだろう。
「どうしても……あなたが必要……なのにぃ……うっ……うぅっ……」
「……ごめんなさい」
それ以外に、何を言ったらいいかわからなかった。悠斗はしばらくの間、何もできずに泣きじゃくるセセリを、ただ見つめていた。
しばらくするとセセリは泣き止み、悠斗から離れた。少しは吹っ切れたのだろうか。今は恥ずかしそうに目をこすっている。
「引き留めちゃってごめんなさいね。これからアルバイトなのに」
「いえ、まだ間に合いますから」
「それならよかった。気をつけて行ってきてくださいね」
「はい。それじゃあ、行ってきます」
悠斗が背を向けて立ち去ろうとすると、袖を捕まれた。
「待って!」
悠斗は立ち止まり、振り返らずに答えた。
「なんですか?」
「その――東儀の人間にも恋人にもならず、これまでどおりなのですよね?」
「そう、ですね」
「なら、これからもお会いした時に挨拶ぐらいは――」
セセリは思いっきりふられた。理由はもう、子供達ではどうにもできないようなこと。
それでも、彼女はそれを飛び越えて、悠斗との関わりを保とうとしていた。
悠斗は振り向き、できるだけ優しい声で言った。
「挨拶はきちんとしなさいって、子供の頃に教わったんですよ――セセリお姉ちゃんにね」
「あっ――」
セセリお姉ちゃん――昔、悠斗はセセリをそう呼んでいた。何年かぶりに、その呼び方を聞いたセセリの表情は、一瞬で明るくなった。
「それに、絵が完成したら見せてくれるって約束でしょう?」
「ええ――もちろん――もちろんです。絶対、見てくださいね」
笑顔で答えるセセリを見て、悠斗はようやく彼女に心から笑いかけることができた。
色々とあったが、最後は笑顔をかわして終ることができた。
悠斗はそのことに感謝して、夕暮れに染まる学校をあとにした。
「玖藤ちゃーん、急ぎの配達が入ったんだけど、お願いしていいかしら?」
嘉神町の酒屋「ヤマイデ」の店内で商品の整理をしている悠斗に店長が声をかけた。
ちなみに店長は思いっきりオカマ。悠斗には手を出さないと約束してあるので安心だ。
「……はぁ」
悠斗は店長の言葉も耳に入らないようで、山積みのビールケースに顎を乗せてため息をついていた。考えているのは、もちろんセセリとのことだ。
「玖藤ちゃーん。配達行ってきてー。玖藤ちゃーん? ……えいっ」
「うおわぁっ! はい、なんでしょう!」
店長にお尻を激しく握られて、ようやく悠斗は返事をした。
「配達、行ってきて欲しいんだけど」
「もちろん、大丈夫ですよ」
「どうしたの? 珍しくぼーっとして。考え事?」
「ええ、まあ……」
「その深刻そうで深刻じゃない感じは女でしょ。いいわねー、青春してて」
「まあ……色々あるんです。さっ、仕事仕事! 配達の場所と品物はなんですか?」
「えーっとね。一丁目のホストクラブ、「熱愛」に、なんとドンペリを一ダース!」
「急ぎでドンペリ一ダースですか? ずいぶんと景気の良いお客が来たんですね」
「カモに出来るお馬鹿ちゃんが来てるみたいよ。値段も知らずに、酔って大はしゃぎしてるんじゃないかしら? でも、気にしちゃ駄目っ! 嘉神町は、お店もお客も自己責任っ!」
「調子に乗ったお客から注文取るのは、ただの商売ですからね。それじゃ、行ってきます」
悠斗は十七歳の少年とは思えないドライな感想を述べる。これも嘉神町で学んだことだ。
「はーい、気をつけてねー。ホストクラブで遊んできちゃ駄目よー」
「いや、店長じゃないんだから。俺にはキャバクラのときに注意してください。いやキャバクラでも遊びませんけど」
悠斗は台車に、木製ケース入りの高級シャンパン、一ダースを積んで出発した
ホストクラブ「熱愛」には十分ほどで到着した。店頭に立つ顔見知りの黒服に声をかける。
「どうもー、ヤマイデでーす」
「おー、玖藤ちゃんおつかれー。じゃ、これ代金ね」
黒服が用意していた封筒を悠斗に渡す。中身を数えると、きっかり十二万。足りていることを確認して伝票にサインをもらう。
「景気良さそうですね」
「今日はたまたま。ホストだって楽じゃないのよー……はい、サイン」
「どうも、ありがとうございましたー」
「おう、今度飯でも行こうなー」
「また朝から焼き肉ですか? あれきついんすよ」
「しょうがないじゃなーい。ホストの打ち上げは朝なんだよー」
そんな風に黒服と世間話をしてから、「熱愛」をあとにした。
帰り道、台車を押しながら嘉神町を眺めてみる。普通なら、ひっそりと営業しているような店が堂々と営業している。普通なら、すぐに警察に踏み込まれるような店が、ひっそりと営業している。
嘉神町は無法地帯ではない。犯罪による混乱を上手く使い、ギリギリのところで刺激的な繁華街に仕立て上げている。本当に無法地帯だと、お金を落とす客が来ないからだ。
昔から嘉神町は有名な繁華街だった。犯罪が起きる件数も日本一。暴力団や不良外国人達が入り乱れて抗争をする、危険な街。そのときに比べて、犯罪の発生件数は五倍以上。死亡、行方不明者は三倍にもなる。ただ、一晩で動く金は十倍を超えた。お金を落とすのは、ほとんどが遊びに来る一般人だ。
みんな、心のどこかでこういう街を求めていたのかもしれない。暗くて、危険で、お金が使えて、お金が稼げるような、汚れた街を。
そんな幻想の街が、ASH犯罪で生まれてしまった。
ASHは従来の勢力や警察に負けず、暴力で街をかき混ぜてしまった。
でもASHがやったのはそこまでだ。新たな街を作ったのも、そこに遊びにくるのも、ASHではない人々だ。ASHはきっかけにしか過ぎない。
悠斗はASHが憎い。だが、ASHのおかげで荒れた嘉神町があるからこそ、大金を稼いで美悠と暮らすことが出来るのだ。
(何を恨んでいいのか、何に感謝していいのか、だな)
悠斗は嘉神町のネオンを眺め、酷い空気を吸いながら、そんなことを考えていた。
結局、「ヤマイデ」に戻ってきたのは店を出てから三十分後のことだった。考え事をしながら、嘉神町をだらだらと歩いていたからだ。
店に戻ると、悠斗は店長に怒ったオカマの口調で怒られた。
「玖藤ちゃん! 遅いんじゃないのっ! 十五分以内で帰ってこられるはずよっ!」
「いや、ちょっと色々ありまして……」
「それでも三十分はかかりすぎよっ! あれでしょ! ホストクラブで遊んでたんでしょ! いつもおつかれさま……これ、俺からの気持ち……とか言われて、一杯飲んでたんでしょ!」
「いや、俺未成年ですし、男ですから……ホストに囲まれても……」
「嘉神町に未成年も男女もないのよっ!」
「いや、ありますよ。店長は男女がないかもしれませんけど」
「もうっ! ああいえばこういうっ! お尻触っちゃう! さぼりのおしおきよっ!」
店長のごつい手が、悠斗の尻をむにゅりと掴んだ。
「うわっ! セ、セクハラだっ!」
「嘉神町にセクハラという概念はないのよ!」
「くそっ! 嘉神町に上下関係という概念はないんだっ!」
「何? やる気なのっ! かかってきなさいよ、この口だけオカマ野郎!」
「オカマはあんただ! よーし、そこまで言われたら俺も触り返して――とはならない」
悠斗に男の尻を触って喜ぶ趣味はないし、店長は触られても喜ぶだけだ。
「何よっ! 期待しちゃったわよっ! きゅっ、て力入れちゃったわよっ! ばかっ!」
こんな風に、悠斗はいつもどおりバイトをこなしていった。すべて日常の風景だ。
今日、学校で悠斗はセセリとの関係という日常を一つ失ってしまった。ただの幼なじみという関係を――告白か懺悔か、何にしてもいずれは失われる仮初めの関係だったのかもしれない。 人との繋がりは変化していくものなのだろう。日常は変化してくもので、それは仕方ないがやはり寂しいものだ。だからこそ、バイト先で店長と過ごす日常や、家で過ごす美悠との日常を大事にしようと思った。
この先、日常のすべてが変わってしまうことを、悠斗は知らなかった。
時刻は朝の五時。夜の七時から始まった酒屋でのバイトが、ようやく終ろうとしていた。
悠斗は慣れた手付きで店先の看板や商品を片付けはじめた。諸々の作業を含めても、十分あれば閉店の作業を終えることができる。
「店長ー、シャッター下ろしましたー」
「はーい、おつかれー。じゃ、悠斗ちゃん。これ、今日のお給料ね。おつかれさま」
「ありがとうございます」
店長がレジから抜いた金を封筒に入れて悠斗に渡す。中には二万円入っていた。
夜中から十時間ぶっつづけ、しかも危険な嘉神町ということもあっての金額だ。悠斗は未成年なので本当は雇えないのだが、家の事情を知った店長は雇ってくれた。
週に六日、このバイトをさせてもらえるので、悠斗は美悠と生活をし、彼女のために学費を貯めることもできた。ふざけたオカマではあるが、悠斗は感謝してもしきれない。
まあ、たまに尻を触られるぐらいなら笑顔で返してみせよう。
「あ、悠斗ちゃん。今日で賞味期限切れちゃう食べ物、持っていっていいわよ」
「いつも助ります。今日は何が……鴨ハムがある! やった肉だ! 牛肉だ!」
悠斗は喜んで賞味期限ギリギリの鴨ハムをポケットに突っ込んだ。
「玖藤ちゃん。それは確かに肉だけど、牛肉ではないわよ。鴨肉よ」
肉でテンションの上がった悠斗には、店長の突っ込みも聞こえていなかった。厳しい生活のため、悠斗にとって肉はどんなものでもごちそうだった。
「それじゃ、俺は帰りますね」
「はい、気をつけて帰ってね。なんだか、最近またASHが出てるみたいだから」
「ニュースで見ました。あの殺人事件ですか?」
「ええ、犯人まだ捕まってないでしょう? 怖いわよねぇー」
「そうですね。もう朝だから大丈夫でしょうけど、気をつけます」
「気をつけてね? でも遺伝子いじるなんて怖いわぁ。取るのだって怖くて悩んじゃうのに」
「大事なことなので良く考えてください。それじゃあ、店長も気をつけて」
悠斗は自分の股ぐらを悩ましげに眺める店長を背に、店を出た。
店を出て、表通りに向かう裏路地に入ったときのことだった。
路地から表通りまでは二十メートルほど。途中、悠斗の行く手をさえぎる人影があった。
パーカーのフードを深くかぶっている。体格からして恐らくは少年。悠斗より少し下か、同じぐらいの年齢だろう。路地を塞ぐように仁王立ちしている。
からまれるかと思った悠斗は警戒しながら近づいていくが、動く気配はない。
(どうせ、薬かシンナーでおかしくなってるんだろう)
少し緊張しながらも、そのまま少年の真横を通り過ぎようとしたとき。
「――玖藤美悠」
「っ! おまえ、なんでっ!」
悠斗が驚き、彼のほうを向こうと体を捻るが――世界が反転した。
(あれ?)
悠斗が何かを考える間もなく、体は自由落下に任せたまま、地面に叩き付けられた。
(え? 何だこれ?)
悠斗は立ち上がることすらできなかった。濡れた地面が気持ち悪い。
(あれ? 雨なんか降ったかな? なんで倒れたんだろう。何かされたか?)
地面が濡れているのは、自分の腹が切り裂かれたから。それだけは、何とかわかった。
薄れゆく意識の中、誰かが悠斗の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
あれは一体、誰の声だっただろうか。
「課長、こちらです」
倒れている悠斗の側で声がした。いつ、近くに来たのだろうか。
「大丈夫ですか? 返事はできますか?」
声の主が悠斗の頬を叩く。綺麗に整った顔にバーテンの服装。どこの店の人だろうか。
「生きてるのか」
別の声が近づいてきた。若く、凛々しい声。話し方もしっかりとしている。今度はバーテンの格好ではなく、高級そうなスーツに身を包み、眼鏡をかけている。
「まだ生きてるというだけです。このままでは、もうすぐ死にます」
「んー……どれどれ」
今度はガッチリとした体格の中年男が悠斗を覗き込んできた。
「こりゃあ……時間の問題だなあ……よっ、と」
横向きになっていた悠斗の体が、中年男の手で乱暴に仰向けにされた。痛みも感想も特にはない。
「服から腹まで、まとめてスッパリだ。一瞬でここまで綺麗に切り裂けるとしたら――」
「頭のおかしくなった居合いの達人か、ASHですね」
スーツの男は悠斗の学生服から財布を取りだし、中にある学生証に目を通した。
「玖藤悠人、学生。玖藤? いや、まさか……しかし年齢も……こんな偶然が……」
「課長、どうしました?」
「いや、何でもない……」
「そうですか。それで、救急車はどうします?」
「間に合わないさ。二人とも、どけ」
また、新たな声。低く鳴る鐘のような、澄んだ女性の声。
悠斗はこちらへ歩いてくる、その女性を見た。
軍服のような作りの真っ黒い服に、正反対の真っ白な肌――そして、彫刻のような美貌。
彼女は学生証を覗き込み、名前などを確認すると、スーツの男に話しかけた。
「青秀、こいつはもう死んだ。いいな?」
「――そうだな、格好つけてもしかたない。彼は助からない」
(俺はまだ、生きている)
悠斗はそう叫びたかったが、口から漏れるのは小さな嗚咽だけだった。
「ならば、私の子供にしようと思うが、いいか?」
「ふん、気まぐれだな。ま、いいだろう。失敗してもそいつが死ぬだけだしな」
「よし、決まりだ――君、少し失礼するぞ」
女性は悠斗の頭を自分の膝に乗せた。膝枕というやつだ。
「君はもうすぐ死ぬ。今すぐ医者にかかっても、その傷では助からないだろう」
ゆっくりと悠斗の頭を撫でながら話す。まるで小さな子供に言い聞かせるように。
「おまえは生きたいか。人でなくなっても、生きる理由があるか」
悠斗は、喉から声を絞り出して答える。
――生きたい
彼女は頷き、ナイフで自分の腕を切った。切り口から、すっと血が溢れ出す。
「せめて君が迷わずに夜を歩けるよう、祈ろう――飲み込めよ」
そして、腕から流れる血を自らの口に含み、悠斗に顔を近づけた。
悠斗は彼女にキスをされ、口内にぬるい液体が流れ込んでくるのを感じた。
呼吸すら困難な体が抵抗したが、むせる喉をねじ伏せて飲み込む。
血が燃えて、自分の体が作り替えられる。
細胞が動き、血に乗って肉や骨を食い尽くしていくような感覚。
それはまるで、生まれてから今までの成長をやり直しているかのようだった。
(生まれ変わる――俺は、何になるというんだ)
玖藤悠斗は、意識を失った。
最後に見たのは、朝の光を反射する、長い長い銀髪だった。