表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ずれ

 昔から算数は得意でした。足し算も引き算もかけ算も割り算も、他の人より速く解くことが出来ました。他の人が三十分かかる算数のプリントも一五分で解き、先生から花丸をもらっていました。得意げにクラスメートを見渡すと、皆苦しそうな表情をして、悩んでいました。こんな簡単な問題なのに、皆は何に悩んでいるのだろうと、疑問を抱きました。

 皆は悩んでいる、なのに僕だけが簡単に解いていく。まるで僕がズルをしているような、間違っているような感覚になりました。けれど、プリントには花丸ばかり。頑張れば頑張るほど、皆の悩みが分からなくなっていきました。どうしてどうしてどうしてと気持ち悪い感覚がついて回ります。

 けれど一度交わった線が距離を伸ばすほどに離れていくように、頑張れば頑張るほどずれは大きくなりました。頑張って、ずれて、気持ち悪くて、悩んでいるクラスメートが分からなくて、笑っているクラスメートと離れていって。気づけば何をしても違和感は消えず、何もかも不愉快になっていきました。

 どこかで、絶対的な存在に「君は間違っている」と言ってもらえたらこんなことにはならなかったのでしょう。けれど、算数が数学に変わっても、簡単で丸ばかり貰っていました。

 まるでアルミホイルを奥歯で噛んでしまったような感覚です。何事も苦労せずに出来てしまう僕はどこまでもずれていて、孤独なんだと思っていました。

 そんな仲で音楽と出会いました。優美な旋律、過激な歌詞、刺激的な音符配列、記号的に作られた世界観、全てが音楽という名の下に受け入れられている世界でした。

 正解も間違いもない、自由な世界です。ずれを抱えた私は自然とその世界に惹かれていきました。数学の点数を引き替えに、音の海に飛び込んでいったのです。

 そんな僕が大学に入学し、音楽研究会というサークルに入るのは自然なことでした。



 パソコンからスピーカーを通して音楽が流れ始めます。メロディにアコースティックギターを刻み、歌詞を乗せました。回りに集まった人たちは笑顔を浮かべて僕の歌声に聞き入っています。

 僕が住んでいる街は音楽の街というスローガンを掲げて駅前の一部をアーティスト集団に開放しています。僕の所属する音楽研究会もその一集団で、週に一度路上ライブをすることが許されています。

 音楽研究会では三つのグループがライブを希望しているので、僕は三週間に一度のペースで路上ライブを行っています。サークルに入ってから二年半近く、ライブをしています。一人暮らしの借家で作り上げた曲をパソコンから流して、歌います。初めは誰も足を止めませんでしたが、今では小さな人だかりができるようになりました。この二年半で僕は確実にあこがれの世界に近づいているのです。

 かつてこの場所でスカウトされ、デビューを果たしたアーティストもいらっしゃいます。その方は河野さんと言い、僕の憧れの方です。河野さんの音楽は多彩で、自由です。僕もそんな風に自由な世界を作り上げていきたいと思っています。そうなればこの気持ち悪い違和感もきっとなくなると思うのです。

 一曲を歌い上げて、観客の拍手に僕は手を挙げました。パソコンを操作して、次に流す曲を決めます。感情を排した記号的な音符と技巧的に積み上げる世界観。僕の好みがつまった作品です。

 スピーカーから流れ出したメロディに観客の歓声が上がり、僕はアコースティックギターのネックを掴みました。コードを押さえて弦を弾きます。

 自分の好みの音楽、盛り上がる観客、けれどなぜか奥歯に違和感がありました。

 


 音楽研究会は週に一度の例会があります。その後サークル員は食事会と称して居酒屋に流れ込みます。

 普段は参加しない僕ですが、十二月に入り初めての会だったこと、月に一度は参加してくれと代表さんに言われていることから、この日はサークル員たちの流れに乗りました。居酒屋に着き、座敷に通されると、僕は部屋の隅にある座布団に向かいます。 騒ぐのは好きではありませんし、他のメンバーも僕がこういう人だっていうのは知っています。自然と騒ぐメンバーは部屋の中心で飲み、僕の回りにはあぶれてしまった人々が集まるような関係はできあがっているのです。

 飲み物が届き、乾杯の合図があると部屋の中心が騒がしくなります。いつもの光景を横目に僕はウーロン茶を静かに飲みました。談笑をする人、ジョッキを傾ける人、騒がしく楽しい空間で、僕は柱に寄りかかって奥歯の不愉快さを感じます。あの集団に入っていきたいとは思いませんが、この明るく軽く楽しげな空間に馴染めない自分は孤独で、やっぱりずれていると感じてしまうのです。

 正解がある世界での違和感と気持ち悪さ。ずれて浮いてしまった自分は何でも許される世界に憧れてしまうのです。

「やっぱり山田は今日も哲学ってるのか?」

 動詞化した言葉とともに金髪の青年が僕の正面に座りました。膝を立てて、片手でカクテルを飲んでいます。

「珍しいですね。金崎さんがここにくるなんて」

 金崎さんはいつもなら部屋の中心で飲み騒いでいます。コールしながらコップを傾けている姿が印象深いです。

 そんな彼は曖昧に笑ってカクテルを流し込みます。僕には真似も出来ない芸当に静かに驚きました。

「いや、今日はなんか乗れなくてな」

「そういう日もあると思いますよ。僕もどうしようもなくむなしくなって、一日中横になって天井を眺めている日もありますし」

 金崎さんは若干顎を引きながら引きつった笑みを浮かべます。奥歯で軋むような気持ち悪さが広がりました。

「ところで、山田さ、敬語やめてくれない?」

 彼はそう言ってカクテルを流し込みます。コップを机に置いてから言葉を続けました。

「なんか打ち解けにくいっつーか、もう三年の付き合いなんだしさ」

「僕はこの距離感が好きなんです」

 人に交ざれば自身のずれを自覚せざるを得ません。一歩引いて、丁度いい位置にいたいと思うのです。そこにいれば、ずれた発言をしてしまうことも少ないですし、奥歯でアルミホイルを噛んでしまうような気持ち悪さを感じることもありません。

「そうかもしれないけどさ、やっぱりサークル仲間なんだし」

 それでも彼は仲良くなるという道徳を振りかざして、僕の考えを否定します。頬が少しだけ熱くなりました。

「会話出来るので問題はないかと思います」

 僅かに鋭くなった口調で彼に言い放ちます。彼は「そうかもね」とコップを手に取り、席を立ちました。

 


 二時間の食事会が終わり、僕は部屋に帰ります。ベッドに倒れ込んで、テレビのリモコンに手を伸ばします。テレビを付けるとニュースが映りました。

『今日も、韓国では大規模なデモが行われています』。そんな文字とともに国旗を燃やす人々の映像が映りました。見慣れてしまった、物騒な光景です。

 映像はスタジオに戻り、コメンテーターが紹介を受けて口を開きます。『韓国では反日教育が盛んで、歴史も反日で習う。だから、彼らはそれを真実だと思って行動しているのだよ』。

 その言葉に僕は起き上がり、ベッドに座りました。

『だから彼らの間違った行動は仕方がないのだ』

 そう発言しているコメンテーターも自身が学んだ歴史、事実を元に話しているのでしょう。しかしそれが間違っていたら、気づかないまま間違ったことをしているのです。結局、自分自身が間違いだと評した人々とやっていることは同じなのです。

 吐き気に近い不快感に鳥肌が立ちます。ふと、居酒屋での光景がフラッシュバックしました。

 敬語をやめろと言ってくる金崎さんと、この距離が心地良いと考える僕。その二人の姿が、コメンテーター、韓国人と重なります。相手のことを間違いだと考えながらどちらも間違っています。

 急に寒気が襲ってきました。自身が正しいと思ったことをしても、それは間違っているかもしれないのです。正しいけど、間違っている、ずれている。

 冷えていく頭が思考を加速させていきます。バランスを失った飛行機のように傾いた考えは急降下します。歯の根が合わなくなり、感覚が遠のきました。

 何をしても皆間違っている、ずれている。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

 耐えきれなくなった僕は立てかけてあったギターに、震える手を伸ばしました。



「いつもありがとうございます。今日は新しい曲を作ってきました」

 僕の声に観客が歓声を上げます。僕はパソコンを操作して新曲を流し、息を吸いました

 機械的な旋律と情景描写だけの歌詞。どこまでも乾いた空気にむなしさを込めた曲です。

 一番のサビが終わり、口を閉じて弦を弾くと聞き覚えのある声が聞こえてきました。

「いやー懐かしいな、ここ。俺も昔は一人でやってたんだよな」

 どんなに盛り上がったライブでも会場に響き渡る声です。僕は驚き、観客の向こうに目を向けました。

 河野さんです。マネージャーらしき人と多くから僕を見つめています。

 二番に入り、僕は再び歌います。自然と声量は上がり、観客に笑顔が広がりました。

 技巧的に作り上げた世界と、ほとんど描かれることのない心情描写によって逆に輝きを増す感情、そんな曲です。この二年半の努力が詰まっており、無駄がない音楽です。

 もっと河野さんに聞いて欲しいと思いました。自由な音楽を作り出す人に訴えたいのです。僕が自由な音楽の世界に憧れていることを。自由で何でも許される世界、ずれている僕でも受け入れてもらえる世界に行こうとしていることを。

 曲が終わり、最後のコードを刻むと、今までにない拍手が僕を包みました。目元を拭いている人もいます。

 僕は感謝の意を告げ河野さんに目を向けました。気づいたファンをあしらっているマネージャーの横で、河野さんは凛と通る声で言います。

「こんなの音楽じゃない」

 自由な世界が音を立てずに崩壊しました。


 ライブを終え一人部屋に戻りベッドに倒れ込みます。河野さんの言葉がよみがえってきました。

 実力不足だったら頑張ろうと思えます。でも違うのです。僕がまたずれていると教えてくれただけなのです。

 自由だと思っていた、受け入れてもらえると思った世界は自由でもなく、僕を受け入れてくれる場所でもなったのです。

 体が芯まで冷えていきます。体から感覚が浮かび上がり、どこかへと消えてしまいました。何もかもが他人事のように感じ、腹部がむずかゆくなるような焦燥感が広がります。

 ゆっくりと顔を上げると、フィルターをかけられたように世界が色あせて、不快でした。壁に寄りかかったギターもスピーカーも、別の世界のものに感じます。

 体をゆっくりと起こして静かにギターに手を伸ばしました。ネックを掴みずりずりと引き寄せます。

 ボディを膝の上に乗せ、見下ろします。ブリッジから伸びた六本の弦、大きく空いたサウンドホール、フィンガーポッドにヘッド、弦を調節するペグ。僕が大事にしていたものです。

 震える手をペグにかけてゆっくりと回します。キィと悲鳴を上げるギターを見つめて指を動かします。弦がゆるみ、たわみ、びろんと伸びきりました。

 僕は次のペグに手を伸ばして、反対方向に回します。きしみを上げる弦、張り詰めているはずなのに不思議と力を必要としませんでした。バチンという大きな音とともに弦が切れ、跳ねます。抗議の意を上げるように僕の腕に当たりました。 

一つ一つのペグを回して弦を壊します。緩めて、張り詰めさせて。一本、また一本と壊れていくにつれて自分の中の大事なものが壊れていくようです。

六本目の弦を緩めると、ビックガードの上にぽたりぽたりと雫が落ちました。それが頬を伝った涙だと気づいた時、僕はネックを掴んで、ボディを床にたたきつけていました。

本当は気づいていました。自由に並べたコードも誰かが作り上げたルールでしかなく、本当の自由なんかないと。どこまで行っても自由なんかないと。

ネックを握りしめてボディを振り下ろします。何度も何度も何度も振り下ろします。何度も何度も何度も何度も。

ボディの半分が欠け、軽くなったギターを投げ捨てます。床に置かれたスピーカーに近づいて足を振り下ろします。弾き、軋み、凹み、踏み抜かれたスピーカーが出来上がりました。

そのまま僕は床にうずくまります。床に向かって叫び声をあげました。

もう自由な世界なんてないのです。どこに行ったって僕はずれているのです。

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

 僕はもう、どこにも行けないのです。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ