(6)
「バッターン!!」
殆ど大の字になって掛け布団の上に乗った幹夫は布団と共に畳の上に落ちた。結構大きな音がしたが、大の字になったことが幸いして音の割にはダメージは少なかった。
「痛ててててててっ!」
「だ、大丈夫?」
「ま、まあ何とかな。あれ? 布団が動かないぞ?」
「本当ね。どうしてかしら?」
二人は緊張した面持ちで暫く様子を伺ったが、掛け布団は全く動かなかった。
「……人が乗ってると動かないんじゃないのか?」
「そうかも知れないわね。ふーうっ、でも疲れたわ」
早苗はそう言うと、その場にぺたんと座り込んだ。
「ああ俺も疲れたな。どうやら布団の上に乗ってると動かないみたいだから、お前もここに来て寝ればいい」
「そうさせて貰うわね。ああーっ、こんな薄っぺらい布団でも、無いよりましなのね。あーっ、疲れたわ……」
結局二人ともそのまま寝てしまった。
数時間後、体が冷えて来て、幹夫は目を覚ました。
「うーっ、冷えるな。何かトイレに行きたくなってきたぞ。仕方が無い行くか」
幹夫は重い足取りで廊下へ出て右側にある自分のおまるで用を足した。部屋に帰ろうと思って振り向くと、防火扉らしい分厚い扉が少し開いている事に気が付いた。
『ええっ! 開いてる! 待てよ、露天風呂の方から逃げられないかな? そうだ早苗を起して一緒に逃げよう!』
幹夫は静かに襖を開けて
「おい! 早苗! 起きろ!」
声を潜めて、小さく叫んだ。
「だ、誰?」
早苗は少し寝惚けている。
「起きろ! 防火扉が少し開いているんだ。 露天風呂の方だけど」
「ええっ、開いてるっ!」
「シーッ!! 声が大きいよ。兎に角こっちへ来いよ」
「でも、私が動くと、この布団も動き出すんじゃないの?」
「走って来れば大丈夫だよ。直ぐ襖を閉めるから」
「わ、分かったわ。一、二の、三!!」
「ダダダダダダッ!」
早苗は掛け声を自分で掛けて、飛び起きてから一目散に廊下に出た。
「スーッ、バチン!!」
幹夫は勢い良く襖を閉めた。
「おまるを寄せて置いた方が良いな。下手をすると引っ掛けるぞ」
「うん。これで良いかしら?」
早苗は廊下の中央に置いていた自分用のおまるを左端に移動した。
「うん、そこなら大丈夫だろう」
「布団は別に暴れていないみたいだわね。全然音がしないもの」
「そういえば静かだな。……兎に角露天風呂の方へ行ってみよう」
「ええ、ああ、何だか喉が渇いて来たわ」
「本当だ、カラカラだ。それじゃええと、押してみるぞ」
「うん、一人で大丈夫?」
「やってみるよ。うーん!!」
幹夫が押すと防火扉はゆっくりと壁側に開いた。開け切ると壁にほぼピッタリ収まるようになっている。
「上手く出来ているわね。でもこれが独りでに動く筈はないわね。あの力のありそうな女将が怪しいわね」
「電話に出たあの男じゃ、力が無さそうだものな。何の為にこんな事をするのか分からないけど、とんだ食わせ物だったな」
二人は連れ立って露天風呂の方へ歩いて行った。
「さて、どっちに入る?」
「誰もいないみたいだから、混浴用の方に入りましょうか?」
「ああ、そうだな。結局俺たちしかいないようだし、風呂に入る訳じゃないしな」
「上手く脱出出来ると良いんだけど」
「何としてでも脱出しなければな」
「うん、じゃあ戸を開けるわよ」
「ああ」
二人が戸を開けても、予想通り誰もいなかった。つんつるてんの浴衣のまま二人は風呂場に入って行った。
「ああーっ!! 駄目だ!」
幹夫はがっかりした声を上げた。
「凄い崖になっているわね、さっき入った時には気が付かなかったけど」
露天風呂の向こう端は転落防止の為のフェンスがあるが、その下は高さが十五メートル以上の崖になっていた。二人の帯や浴衣を結び付けても、地上までは到底届きそうも無い。
「ひょっとしてあれかな、浴衣が小さいのも脱出防止の為なんじゃないのか?」
幹夫は閃いた様に言った。
「ああーっ! 成る程ね、どうりでつんつるてんでおかしいと思ったわ」
二人はすっかり落胆したが急に喉の渇きを思い出した。
「どうせ飲むんだったら、少しでもミネラル分の入った温泉水を飲もうかしら?」
「そうだな、その方が一日位は長生き出来るんじゃないのか?」
ここの温泉水は蛇口から出る様になっていて、沢山飲める様に温度も低めにしてある。側のコンクリート製の台の上に陶器製のマグカップが三個置いてあった。二人はそれを銘々手に持って、蛇口を捻って簡単に洗ってから、温泉水を代わる代わる注いだ。
「ああーっ、でも良いお月様ね。ごくっ、ごくっ、ごくっ!」
「そうだなあ、こんな良い中秋の名月を見るのは、何年振り、いや何十年振りかだろうね。ごくっ、ごくっ、ごくっ、ふーっ、喉が渇いていたから何とも美味い!」
「空腹をこれで紛らわすしかないわね。ごくっ、ごくっ、ごくっ!!」
「全くだ。ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ!」
中秋の名月を眺めつつ二人は何杯もお代わりをして温泉水を飲み続けた。