(5)
「廊下の方からじゃ出られないけど、窓があるわよね」
早苗は声を潜めて言った。何と無く誰かに聞かれている気がしたからである。
「そうだよな。直ぐ庭だし逃げれば逃げられそうだぞ」
幹夫も調子を合わせて声を潜めた。
「行こうか?」
「うん」
幹夫が先に立って、抜き足差し足で窓に向かった。
「スーッ」
出来るだけ静かに二重になっている窓を開けた。
「スーッ」
二つ目の窓も開けた。外は暗闇である。
「ゴンッ!」
幹夫の頭が何かにぶつかり、
「痛てえっ!」
頭を押さえた。
「壁になってる! こりゃあ写真が貼ってあるんだ!」
「ええっ!」
早苗も小さく叫びながら、景色に触ってみた。
「あらっ、本当だわ」
「そうか、分かったぞ」
「何が?」
「あの女将が、早く風呂に入れと言ったろう?」
「ええ」
「きっとこの窓のトリックが見破れない様にする為だったのさ!」
幹夫は悔しそうに叫んだ。
「ああ、そうねえ、馬鹿に急いでいたものね。そんな訳があったのね。まんまと一杯食わされたわ」
二人は諦めて部屋の真ん中辺りに戻って来た。
「もしここで火事になったら私達死んじゃうわよ」
「その前に餓死するさ。飲み水さえないんだぞ。三日と持たないよ」
「あーあ、短い一生だったわね。死ぬ前に世界三大珍味を思いっ切り食べてから死にたいわね」
「お前は食う事ばっかりだな」
「じゃあ、貴方は死ぬ前に何がしたいの?」
「最高級のステーキを腹一杯食べて、赤ワインを飲んで、中トロの寿司を食べて……」
「やっぱり食うことじゃないの!」
「あははは、そうだな」
しばし沈黙。
「あーっ、お腹が空いたわね。起きていると辛いから眠りましょうか?」
「そうだな、仕方が無い、掛け布団一枚でも、掛けて寝るか?」
「あら、私、トイレだわ。この部屋何だか寒くなって来たわよ」
「そう言えばそうだな。俺が布団を敷いておくからして来いよ」
「悪いわね、直ぐ済むから、この紙貰って行くわね」
早苗が部屋を出て直ぐ、幹夫は一枚きりの掛け布団を敷いた。余り大きくない掛け布団である。
「小さくて二人一緒に寝るんじゃ無理だな」
幹夫が思案していると早苗が戻って来た。
「お待たせ、あら、小さい布団ね。これじゃあ、一緒に寝るのは無理ね。いいわ、貴方が寝て。私はここで横になっているから」
「いや、お前が寝れば良いよ。あれっ、何か生暖かい風が吹いて来たみたいだぞ。何か変だな」
部屋の中の妙な風に幹夫が首を捻っていると、
「ズズズッ!」
何かを引き摺るような音がして、
「ああっ!」
二人一緒に小さく叫んだ。
「変だな、お前今布団の中で寝たか?」
「あんたこそ、何時布団から出て来たのよ?」
畳の上に敷いていた布団がまるで誰かが寝ていたかのように膨らんでいた。人がこっそり抜け出したかのような形のまま残っている。無論中は空洞である。
「変だな、俺はここにいたぞ」
「あたしだってここから動いていないわよ」
二人がちょっとした言い争いをしていると、
「ズシャッ!」
音がして、布団は平らになった。
「あれ?」
「どうなっているのかしら?」
二人とも首を傾げていると
「ズズズッ、ズシャッ!」
平らだった布団が人型に盛り上がりまた平らになった。
「ええっ!!」
二人とも叫び声を挙げた。
「ズズズッ、ズシャッ! ズズズッ、ズシャッ!」
今度は二度連続してその奇妙な現象が起こった。
「な、何だこりゃ?」
「や、止めてよ!」
二人とも顔が引き攣った。
「ズズシャ、ズズシャ、ズズシャ、ズズシャ」
布団は今度はすっかり平らになる前に後ろからウエーブが掛ったみたいに、膨らみが前に移動して、ジリジリと二人のいる方向に寄って来るではないか。
「キャーッ!!」
早苗は後ろに飛び退き様絶叫した。
「ウワアア―!!」
幹夫も大声で叫んで後退りした。布団の前の方が上下して、まるで怪物の口が開いたり閉じたりしている様だった。
「ズズシャ、ズズシャ、ズズシャ、ズズシャー!!」
布団の移動速度は段々速くなり、最後は飛ぶ様にして二人を襲った。
「ひーっ!!」
間一髪で二人は別々に横の方に逃れ布団の後ろに回りこんだ。
「ズズシャ、ズズシャ、ズズシャ、ズズシャ!!」
掛け布団は前も後ろも無いのか、そのまま後退して二人を追いかけて来た。
「ウワー!!」
二人は何とか逃れた。部屋の中をあっちへ逃げ、こっちへ逃げしているうちに段々疲れて来た。
『駄目だ、もう捕まる。ああ、短い人生だったな!』
幹夫は怪物に食われる覚悟を決めた。ゆとりがあれば廊下に逃げ出すのだが、掛け布団の怪物はまるで知能があるかの様に二人を廊下には逃さないのだ。
「ズズシャ、ズズシャ、ズズシャ、ズズシャー!!」
布団の怪物がまたもや飛び掛って来た。
「えーい!!」
幹夫は思いっきりジャンプして布団の上に飛び乗った。